- Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004314851
感想・レビュー・書評
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瞽女とよばれる盲目の門付け女芸人らの発祥や歴史、近現代における生き様の変化を体系的にまとめた書籍。入門書籍として非常に簡潔で読みやすく、参考文献にも興味が持てる。
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瞽女さんの歌自体聞いたことないので、どんなもんかわからない。
でも興味深い。
明治までの視覚障がい者がどんなもんであったのかも、なんとなく知ることができた。 -
・ 私には瞽女は越後の瞽女である。3人で雪の中を門付けして歩く盲目の女性芸人である。実際、私以外の人もまた瞽女と言へば越後の瞽女を思ひ浮かべるのではないだらうか。私は彼女達しか知らないし、私の時代には彼女達しか存在してゐなかつたのである。ところが、瞽女といふのはそれだけではなかつた。ジェラルド・グローマー「瞽女うた」(岩波新書)もまた確かに彼女達から始まる。「序章 門付け唄を聴く」はかう始まる、「それほど昔ではなかった。春先になると越後の農村に芸人がやってきた。」(2頁) さうして瞽女唄を歌つて門付けをして歩くといふのである。これは私達に強固に刷り込まれた瞽女のイメージである。「戦後に、『瞽女』といえば『越後』と受け取られるようになった。それはなぜであろう。」(6頁)といふ疑問が本書にある。やはりさうなのである。さういふことである。そこで本書はまづその実態を探らうとする。「日本の歌謡文化の発展に貢献した瞽女は、数百年にわたり各地で活躍した。瞽女文化の黄金時代は近世中期から明治である。」(10~11 頁)として、以下に盲女の音楽家、瞽女の実態を見てゆく。「近世~明治初期における日本各地の瞽女人口(抄)」(12~13頁)といふ表が載る。ここにあるだけでも瞽女の全国的な広がりが知れる。盲人は今と違つて多かつたのである。だから瞽女も多かつた。しかし、ほとんど調査されることもなく、いつの間にかあちこちで消えてゆき、越後の瞽女だけが残つた。しかも、例へば八橋検校のやうな男性の盲人音楽家もゐたのに、彼らが瞽女と関はるとは私は考へもしなかつた。私は言はば瞽女文化の残滓を瞽女文化そのものと思ひ込んできたのであつた。問題は、さうではあつても「実際の瞽女像を得るには、越後瞽女から学びつつ、その背後にある空白を絶えず念頭に置く必要がある。」(10頁)といふのが実状だといふことである。
・本書は越後瞽女のみを扱ふわけではない。第1章「瞽女の時代ー宿命から職業芸人へー」は盲人、視覚障害者の生活苦からの脱出を考へる。その一つの手段が 瞽女であつた。「三種の瞽女稼業」(42頁)とある。武家に仕へた瞽女、中流社会に音楽を提供した瞽女、町人・農民に唄を聴かせた瞽女の三種である。いづれも結局は、聴衆、対象の貴賤を問はず、音楽を業とする。ただし、「瞽女の大半は、都鄙の別なく民衆に唄を聴かせ、音曲の稽古場を営んでいた。」(46頁)といふから、そのほとんどは先の三番目に入る。私は越後瞽女に囚はれてゐたから、瞽女が武家に仕へるなどといふことを考へもしなかつた。だから三種の瞽女は意外であつた。女性の盲人音楽家は皆瞽女なのである。本書で知つた一番大きなこと、それはこの一事であつた。これが本書のすべてではないが、本書の基礎である。明治に入ると「瞽女・座頭の禁止令」(200頁)が出て「瞽女の仲間組織は解体され」(201頁)ていく。敢へて言へば、盲人の居場所を明治政府が奪つたのである。ただし、新潟県はいささか事情が違ひ、しばらく組織はそのままにされてをり、後に「越後瞽女の組織改革」(202頁)を瞽女自身で行つた。これにより一時の隆盛を見たものの、結局は衰退の道をたどる。これが私の瞽女のイメージにつながる。筆者はそれだけでなく、なぜ瞽女唄が廃れたかを音楽として音楽的に考へようとする。だから最後に「瞽女唄が問うもの」(225頁)なる節がある。ごく大雑把に言へば、音楽における商業主義批判らしい。こ の主張の是非は別にして、私は本書から瞽女なる存在に蒙を啓かれた思ひである。それだけでも読んだ価値はあつたといふものであらう。 -
採譜された曲が残っている。
とても素朴で、声が重なる曲。
聴いてみたかった。 -
なんと・・日本語を第二外国語にする人が著者。
学究とはすごいものだな。
とはいえ、決して、文化をおろそかにした日本人批判ではない。そうではなくて、鑑賞者の聴こうとする努力がなくなったことが、廃れさせた原因だという。聴くには努力がいるのだ。まさにその通りだと思う。
安易に聞き流し、飽きたら捨て、容易に新しいものに飛びつく、明治以降の日本人・・・そんな風に読めたんですが。