哲学の使い方 (岩波新書)

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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004315001

感想・レビュー・書評

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  •  今年度最後に取り上げるのは鷲田先生の「哲学の使い方」である。「使い方」である。「哲学入門」ではいけなかったのだろうか。そのヒントが「はじめに」にある。公立高校で講演会をされたあと(ちなみに堀川高校でも何度か講演されています)、女子生徒が書いた感想が紹介されている。「哲学は、人間の本質について深く疑問に思ったときや、そのことによって悩んだり傷ついたりしたときに、それを解決する手がかりをつかむための一つの手段なのではないか、と思いました。」そう「手がかり」である。哲学の本にはあらかじめ答えが準備されているわけではない。自分がいろいろな問題に直面し深く深く思い悩んでいるとき、哲学を学ぶことで、そこから解決の手がかりが見つかるのではないか。哲学や哲学の歴史を学ぶことが目的ではなく、哲学を使っていまかかえている問題の解決の糸口を見つけていく。しかし、気をつけなければいけない。問いを発して、学んでいく中で、その問いが解消するどころか、逆に増殖していくこともありうる。哲学はとりあえずの解答を得るためのマニュアルではありえないのだ。さあ、これから3ヶ月で読み返していく。どんな困難が待ち受けているのだろうか。
     鷲田先生は、若いころはファッションなどをテーマに考えていたこともあり、先輩諸氏から批判されることもあったようだ。その後、臨床哲学を打ち立てて「聴くこと」に注力されたり、哲学カフェにも積極的に関わってこられたりしている。そして、阪大総長から現在は京都市立芸大の学長を務められている。
     それでは本文に入ろう。第1章は「哲学の入り口」である。最初に興味深い例があがっているので紹介しよう。「フランスでは上級公務員を目指す学生が行政大学院で学び、終了するときに、哲学論文の執筆を義務づけられているという。・・・見識のない人に行政を任せることほど危ういことはない。だからそういう公務に就こうという人には哲学の学修を課す。・・・模擬試験の成績が良い者には、医師をめざせ、上級公務員をめざせと説得するこの国の受験教育との落差は、あまりに大きい。」我々もそこに加担している恐れがある。気をつけなければいけない。中等教育でもまた哲学は重要視されている。フランスのリセ(高校)では最終学年に文系では週8時間、理系でも週3時間の哲学の授業が課せられる。そして、バカロレア(大学入学資格試験)では、初日に4時間かけて哲学の試験がある。もちろん論述式である。2012年のテーマは「働くことで得られるものは何か」(京進二条駅前校のホームページにシミセンの「働くことの意味」を掲載しています。ご覧ください。)「信仰はことごとく理性と対立するのか」この2つのうち1つを選んで論じる。日本でも大学入試を大きく変えようとしている。簡単なことではないが、今後、上記のようなテーマが出題されることもありうるだろう。しかしである、ここで注意すべき点がある。「とはいえ、先に述べたリセにおける哲学教育にも問題がないわけではない。とくにバカロレアで重視されている科目であるからには、受験教育という趣が強く、解答のツボと引用すべき哲学者の著述の一部のアンソロジーと例題集とからなる参考書の類も多種刊行されている。そして何よりも採点にあたっては、『哲学という領域の枠組みの中で、哲学固有の問題の扱い方を遵守しつつ議論を展開すること』、そして『参照すべき著作を正確に引用すること』が決定的に重視され、したがって試験で評価される思考力は『独創性や創造性』ではなく、『型の習得と反復によって獲得されるもの』とみなされている。・・・ある意味、暗記科目になっている」というのである。入試というものの難しさであろう。
     また、今度はドイツのギムナジウムでの英語の期末試験の出題例をとりあげたあと次のように哲学を規定している。「哲学は、日常生活から離れ、時代の困難からも隔たった場所でなされる知のいとなみではない。むしろ時代の問題こそ、哲学的な相貌をとるようになっている。環境危機、生命操作、先進国における人口減少、介護・年金問題、食品の安全、グローバル経済、教育崩壊、家族とコミュニティの空洞化、性差別、マイノリティの権利、民族対立、宗教的狂信、公共性の再構築・・・。・・・これらの問題は小手先の制度改革で解決できるものではなく、環境、生命、病、老い、食、教育、家族、性、障碍、民族についてのわたしたちのこれまでの考え方そのもの(philosophy)をその根もとから洗いなおすことを迫るものである。いいかえると、わたしたちの社会と文化のもっとも基本的な形、それがいまあらためて問いただされているということである。」哲学を学ばなければいけいない。
     哲学を学びたいと思い、何度かその原著にあたろうとした経験は私にもある。しかし「その第一行目からしてそこに書いてあることがいったいじぶんの問いと何の関係があるのかさっぱりわからない・・・」「古典的な書物は一度読み通しても1,2割しか理解できないといったことが多い。が、それでもふとまた頁を開いてしまうのは読む者の胸をぐさっと刺す、“殺し文句”がいろんなところに挟まれているからである。」私にはまだそんな経験はないのだが、極めつけとしてあげられている一文を紹介しよう。

    自己とは何であるのか? 自己とは自己自身に関係するところの関係である、すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている。

    キェルケゴールの「死に至る病」の冒頭である。うちにも確か岩波文庫があるはずだ。最後まで読んだかどうかの記憶すらない。この一文、何を意味するのか。翻訳が悪いのか、何かの間違いではないのかとさえ思えてしまう。読んで理解できる人はどれくらいいるのだろう。しかし、10回くらい読んでいるとなんとなくわかったような気がしてくる・・・というのはウソです。ふと思ったのは学生時代、山本信先生の科学哲学の授業で聴いた次のようなたとえ話である。「黒板に黒板の絵を描く。すると、描かれた黒板の中にも黒板を描く必要が出てくる・・・以下同じ。」この問題はとりあえず棚上げして、次に進もう。
     「哲学は、どんなに幼稚に見える問い、どんなに不条理に見える問いも、そして答えがあるはずのない問いすらも、けっしてはじかれることのない、そういう談論の場を人びとのあいだに開いてゆくはずのものである。それなのにひとは哲学書を手にするやいなや、じぶんが拒まれているかのように感じる。・・・」
     「いったいどこから手をつけたらいいのか…」まだ1章の半ば。けれど紙面はつきそうだ。最後に、身体について深く考えるとどういうことになるのかを引用して、初回をとりあえず終えることにしよう。
     「じぶんの身体というものは、だれもがじぶんのもっとも近くにあるものだとおもっている。たとえば包丁で切った傷の痛みはわたしだけが感じるもので、他人は頭でわかっても、わたしの代わりに痛んでくれるわけではない。その意味で、わたしとはわたしの身体であるといいうるほどに、わたしはまちがいなくわたしの身体の近くにありそうである。ところが、よく考えると、わたしがじぶんの身体についてもっている情報は、ふつう想像しているよりもはるかに貧弱なものだ。身体の全表面のうちじぶんで見える部分というのは、ごく限られている。だれもじぶんの身体の内部はもちろん、背中や後頭部でさえじかに見たことがない。ましてや他人がこのわたしをわたしとして認知してくれるその顔は、終生見ることができない。そして、難儀なことにこの顔に、じぶんではコントロール不可能なじぶんの感情や気分が露出してしまう。いってみれば、ひとはじぶんの身体を、いわば目隠ししたまま経験するほかないのであって、危ういばかりに無防備なのである。」鏡で見る自分は、他人が見る自分とはちょっと違う。そういえば、トットちゃんは録音された自分の声を聴いて、これは自分ではないといいはっていた。自分は自分のことをよく分かっているのだろうか?(先日、はじめて胃カメラで自分の体の中を見た。涙をためて苦しみながらリアルタイムで。)
     次回もまだ入り口のままである。まず「いる」と「ある」の違いについて考える。ふだんの会話の中でどう使い分けているかを考えてみよう。

     哲学は何から始めるべきか。何の前提もなく始めるとするなら、とりあえずそこに始点があるとするしかない。始点は有る(有)。しかし、内容は何もない(無)。何もないものがある。あるけれどそこには何もない。真理はむしろ有から無へ、無から有へと移り変わる運動、すなわち成ることにある。「存在」(有)、「無」、「生成」(成)。英語でいうと、being,nothing,becomingというありふれたことばになる。日本語なら「あること」「ないこと」「なること」といえばわかりやすかった。しかし、明治に入って、日本語で哲学を考えるとき、「存在」と翻訳してしまった。ここで、このbeing、日本語でいうと「ある」「いる」「おる」などいくつかのいい方ができてしまう。それで、あいまいさをなくすために「存在」ということばがつかわれるようになったと思われる。さて、この「ある」と「いる」、どういうわけか、我々はそれを上手に使い分けている。少し考えてみよう。「今日はテストがある」「我が家には掃除機が3台ある」「実家には犬がいる」「家に帰ると妹がいる」などなど。無生物には「ある」、生物には「いる」を使う? 「私には妻子がある」「隣の家にはミカンの木がある」ともいう。生物・無生物の違いでもなさそうだ。駅に向かいながら「まだ終電あるかな?」と思う。駅に着くと「まだ終電いるかな?」と思う(いるって言う?)。「ある」は動かないでずっとそこにあるもの。「いる」には動いてきてそこにある、そしてまたどこかへ動いて行く、というイメージがある。何かが「いる」というとき、そこには時間の流れが関係していそうだ。ところで、その「時間の流れ」はどのようにして感じられるのか。私たちはつねにその「時間の流れ」の中に身を任せている。すべてのものが同時に動いていれば自分が動いていることには気が付かない。いま現在はここにある。しかし、過去はすでにない。そして、未来もまだない。ところが、あると思った現在は、次の瞬間にはもう過去に、つまりないものになってしまっている。さあ、我々は哲学の入り口に入り始めた。少しここでわかりやすい例に移っていこう。電話での会話。「いま何してる?」「ユーチューブ見てる」。もし、ここで「いま電話であなたと話している」と答えたら相手はどう思うだろう。「変なヤツ」「空気が読めない人」・・・。待ち合わせ場所に着いたとき相手が先に来ていたとする。「ごめん、待った?」「う~うん、僕もいま着いたところ」。いやいや、いまではないでしょ。あなたはもう少し前に来ていたはずでしょ。なんて突っ込んだらどう思われる? どうやら「いま」ということばはある特定の時間をさすのではなく、いくらかの幅を持った時間を表しているようだ。ここでは、日常使うことばをもとにいろいろと考えてみた。こんな中からも哲学へ入っていくことができる。
    さらに読み進めると「思考の肺活量」ということばに出会う(P.63)。この1節を読むだけでも本書を購入する値打ちがあると思える。少し長くなるが引用しよう。「ひとが哲学に焦(こ)がれるのは、いまのじぶんの道具立てではじぶんがいま直面している問題がうまく解けないときである。なにかこれまでとは違う問い方をしなければ、それももっと包括的(ほうかつてき)な問いのなかに座を移さないと、らちがあかないと感じるときである。そのためには、哲学の書き物を手引きに、レーヴィットもいうように『すべてのものを取って抑えて質問し、懐疑し、探究』しようとする。けれどもこのような思考には、いってみれば大きな肺活量が要(い)る。じぶんにとってあたりまえのことに疑いを向け、他者の意見によって自らのそれを揉(も)みながら、ああでもない、こうでもないと、あくまで論理的に問いを問いつづけるそのプロセスを歩み抜くには、ちょうど無呼吸のまま潜水をしつづけるときのような肺活量が要るのである。あるいは思考のためといってもいい。さらにそれは、すぐにはわからないことにわからないままつきあう思考の体力といいかえてもいいし、すぐには解消されない葛藤(かっとう)の前でその葛藤に晒(さら)され続ける耐性(たいせい)といってもいい。というのも、個人生活にあっても社会生活にあっても、大事なことほどすぐには答えが出ないからである。いやそもそも答えが出ないことだってある。だから、人生の、あるいは社会の複雑な現実を前にしてわたしたちが紡(つむ)ぐべき思考というのは、わからないけれどもこれは大事ということを見いだし、そしてそのことに、わからないまま正確に対処することだといってもいい。・・・」この後、具体例が挙げられて1章は終わる。
     2章でさらに哲学の中に入っていく。哲学は何もどうでもいいようなことば遊びをしているわけではない。環境問題や生命操作、介護や年金問題、食品の安全、民族紛争、教育崩壊、マイノリティの権利などなど、現実の問題にも向き合っていく。「もっとも基盤的な次元で、解決の道筋がすぐには見えないような難問を突きつけられているといってよい。<わたし>とはだれか。正義とは、倫理とは何か。国家とは、民族とは何か。貨幣とは何か。性とは、老いとは、死とは何か。これらの哲学的ともいえる問いに正面から向きあわずには済まされぬようなさまざまな困難が、社会の根に深く食い込んでいる。いま、哲学に久しぶりに出番が回ってきたかのような印象があるのも、時代の困難じたいが哲学的な相貌(そうぼう)を呈(てい)しだしたからであろう。ここで哲学はまさに時代を後追いしている。」このあと、教養について、専門家と非専門家との関係についてなどが語られる。ここでは、博士号について書かれた件を紹介しておこう。「博士号は、ふつうそう考えられているように、限られたある専門分野において精緻(せいち)な研究をなしとげたことに対して授与されるものではない。それはある仮説を一定の科学研究の方法に則(のっと)って推論・実証したことによって、以後いかなる主題においても同様の精緻な推論・実証ができるという、そのような技倆(ぎりょう)の認定として授与されるものである。だから専門分野以外の領域を「専門ではありませんので」と言って斥(しりぞ)けるのは博士として失格である。博士号というのは本来、この分野に限ってなら何でも知り尽(つ)くしているということに対してではなく、いかなる未知の分野においてもそれに相応しい科学の方法を用いて確かな探究ができるという一般的能力に対して賦与(ふよ)される称号なのである。」将来、大学院に行って研究しようという人には覚えておいてほしい文章だ。
     「哲学に専門領域がないのは、哲学がつねに『全体に気をくばる』ものだからであり、相互の分断がますます加速されてゆく科学の知を、≪客観性≫とか≪普遍性≫といった抽象的(無内容)な統一理念によってかろうじてまとめるためではなく、それらを真の意味で協働させようとはたらくものだからである。哲学的探究とは、その意味で、知の多様な視点のあいだの対話、ないしは摺(す)りあわせでもある。」「ある分野の専門研究者が真のプロフェッショナルでありうるためには、つねに同時に『教養人』でなければならないということであろう。『教養』とは、一つの問題に対して必要ないくつもの思考の補助線を立てることができるということである。いいかえると、問題を複眼で見ること、いくつもの異なる視点から問題を照射することができるということである。このことによって人の知性はより客観的なものになる。そのためには常日頃から、じぶんの関心とはさしあたって接点のない思考や表現にふれるよう心(こころ)懸(が)けていなければならない。じぶんの専門外のことがらに対してもいつも感度のいいアンテナを張っていること、そう、専門外のことがらに対して狩猟民族がもっているような感度の高いアンテナを、いつもじぶんのまわりに張りめぐらせていなければならない。」これらは大学教育のトップに立つ哲学者のことばである。私たちはそれをしっかりと受け止めておかなければいけないと思う。
    最終回では哲学の臨床、実際の「現場」に入っていきます。

     「哲学もまた時代のただなかにあって、その時代を視ること、診ること、看ることに従事する。しかしアカデミズム内部での『哲学探究』に身を縮めていったこの国の哲学は、文献を『読む』ことに傾注し、時代を「みる」(視・診・看)ことをなかば放棄してきた。哲学に≪臨床≫という名を冠した取り組みがいまもし意味をもつとすれば、この、時代を「みる」わざを磨きなおすということを措いてはありえないはずである。」ということで、哲学の「現場」における取り組み、臨床哲学について語られていく。
     哲学のセンスについてふれられていく中で、わかりやすいたとえが使われている。さらに日本の中等教育にまで話は及ぶ。「『現場』の、一点からは見通しえない動的な全体にたえずまなざしを漂わせていること、これは台所に立ったときの感覚に似ている。ありあわせの材料で献立を考えること、料理が冷めないようにどう工夫するか、片付けを調理のあいだにどううまく嵌(は)め込むか、洗い物はいつするか、食器をどう収納するか、それに要不要の判断、材料費のやりくり、そしてその間も家族の様子をそれとなく窺(うかが)うこと。そういうふうにまわりに眼をくばり、勘所を外すことなく、不定形にうごめく全体をケアしつづけること、そしてそこから考えるべきこと、直すべきことを取り出すこと。哲学でいえば、フィールドワークのさなかで問題を析出すること、そしてそれに応じうる概念を創造すること。じつに哲学は台所仕事に通じている。こうしたまなざしのくばり方を、≪哲学のセンス≫と呼んでみたい。『現場』に『哲学を発見する』こうしたセンス、なんなら視力ないし技法と呼んでもいいが、それをしかし、日本のこれまでの哲学教育は開発しようとはしてこなかった。いうまでもなく、こういうセンスを磨いておかなければ、中等教育、なかでも高等学校での公民科の『倫理』や『現代社会』の授業で、具体的な事例に当たって『考える練習をさせる』ことなど、できない相談であるのに、である。そしてこの背景には、日本の哲学研究が中等教育での哲学教育の必要を課題としてまともに受けとめてこなかったということがある。」さらに次のようなたとえもある。「哲学の思考においてこそ、そう、狩猟民族が数キロメートル離れた地点での自然環境の微細な変化に的確に感応するのとおなじような仕方で、同時代の社会の、微細だけれども根底的な変化を感知するセンスをもつということがきわめて重要である。」
     「哲学の臨床は『哲学を汲(く)みとる』ことであるから、『現場』をあらかじめ限定することはしない。医療や介護の現場、職人仕事の現場、アートやデザインの現場、ジャーナリズムや教育の現場など、予測不能なことが起こる現場での臨機応変の対応、あるいはそこでおのずと生起する『天然の是正』(檀一雄)を詳しく書きとめること、そしてそこで、長年痛い経験をくり返すなかで身についたメチエ(表現技法)というかたちでとくに意識もされずに駆動している生きられた知を探りあてること。それが≪哲学の臨床≫のなかで試みられることである。(どなたかこの「天然の是正」ということばの出典をご存じであればご教示ください。)
     次にエッセイについての説明がつづく。「随筆や試論から批評的断片までをも含むエッセイ(試み)の精神こそ、いま哲学がとり戻さなければならない視線であり、息づかいなのではないかとおもう。そのうえで、エッセイを書くということについては、それを紡(つむ)ぎだす文体というものについても鋭敏であることが重要になる。エッセイを書くにあたって重要なことは、見なれたものをまるではじめて見るかのように見ること、あの『ヴュジャデ』(『デジャヴュ』の逆)の眼を備えることだ。そしてその眼にはそれにふさわしい文体があるはずだろう。」
     さあ、いよいよ「哲学カフェ」の実践についての具体的な話となっていく。「よく見るためには多くの眼をもつことが必要だ。他の視線との摺(す)りあわせをするなかで、複数の眼でものを見られるようになること、そのことでまなざしを立体化し、押し拡げることが重要だ。ハンナ・アーレントが『人間の条件』(1958年)のなかで公共的なものの成立要件としたあの『立ち位置(ポジション)の多数性』、『視点(パースペクティヴ)の多様性』、つまりは『複数性』である。そういう複数性の場を市民のあいだに切り拓く試みの一つに、≪哲学カフェ≫がある。」この哲学カフェ、私も非常に興味があるが残念ながら参加する機会がいまのところない。岡田節人先生(生命科学)を囲んでのサイエンスカフェには一度参加したことがあるが、残念ながらここで語られるような、突き動かされるような印象は持てなかった。そもそもソクラテスは路上や集会で、論理のキャッチボールをくり返すばかりで、みずからは1冊も本を書いていない。ここで、「哲学の再生を対話というかたちで試みるのは、いってみれば哲学の先祖返りだともいえる。」より具体的に。「哲学カフェに定型はない。何について議論するかも、集まった顔ぶれでその場で決める。そしてテーマに即して、だれかがまずじぶんの経験を、そしてその解釈を語りだしたあとは、それを糸口に延々2時間から5時間くらい、あれこれ話し合う。ルールはいたってシンプルで、たがいに名を名乗るだけで所属も居住地も明らかにしない、人の話は最初から最後まできちんと聴く、他人の著書や意見を引き合いに出して長々と演説をしない、この三つだけである。」深夜の討論番組とは大きな違いだ。「哲学カフェは、ものごとについて同意や、問題の解決ではなく、問いの発見、問いの更新を試みるものである。じっさい、哲学カフェでは、それぞれの参加者はみずからが立てた問いを、対話のなかで少しずつ、ときには劇的に、書き換えてゆく。その問いの書き換えのプロセスをシェアするというところに、哲学カフェの意味の大半があるといってもよい。」「いきなり本題に入れるような、そしてそのことを怖れないでいいような、そういう場をつくることが、哲学カフェではめざされる。」「・・・人を苛(いら)つかせるどんな発言をしても、あるいはうまく表現できなくてぼそぼそつぶやくだけでもかならず応答があることが重要だ。議論の応酬よりもまずは他の声に耳を傾けること。小さい声、くぐもった声、いつどこで話に入ればいいのかわからないといった及び腰の人に、上手く発言のチャンスを与えること。」どこかの夜中の討論番組とは大違いだ。「言葉のテクスチュア(肌理(きめ))を外さない。言葉をテクスチュアごと受け取ったうえで、さらにテクスト(意味)へと揉(も)み上げてゆく。そうしてそれぞれがそれぞれに、じぶんをより俯瞰的(ふかんてき)に眺められるようになることをめざす。だから、議論の終盤にさしかかってある考えに収斂(しゅうれん)しかかったとき、『それ、だれが最初に言ったんだっけ』とふと誰彼なくつぶやくようなときには、セッションは成功したといえる。」うらやましい、私もそういう場に居合わせたい。先にあげたアーレントは公共的な世界の成立には、「ポジションの差異」から生じる「視点の多様性」が保証されており、なおかつ「対象の同一性」が成り立っている(問題のシェア)ことが不可欠であると書いている。「この二つをデモクラシーの基本とするならば、哲学カフェはデモクラシーのレッスンでもあることになる。」
    さあ、いよいよ最終章。問いは「哲学とは何か?」ではなく「思考はいつ哲学なのか?」である。「哲学の議論においては、どんな不条理な問いも、どんな子どもじみた問いも、どんな反人間的、反社会的な問いも、その入り口で跳ねつけられることはない。そこでは何を言っても圧力を加えられたり攻撃されたりすることもなく、安心してじぶんの疑問をそのまま口にできる。哲学はほんらいそういう、塀の低い、開かれたものなのである。」私は会議などで、そもそもの前提を覆(くつがえ)すような質問をする癖がある。これはけっこう嫌がられる。クラスにもいないだろうか。何かで盛り上がっているとき、そもそもなぜそんなことをする必要があるのかと問い、場をしらけさせる人。けれど、そこから哲学が始まる可能性がある。疑問に思ったことは口に出してよい。1つの耳の痛い例をあげよう。「なぜ学校では、知らない人ではなく知っている人(教師)が知らない人(生徒)に質問するのか。」いろいろと理屈をつけること(生徒に考えさせるためとか、眠そうな人の目を覚ますためとか)はできるだろうが、私は、授業中の質問を減らさざるを得ない。「現実の問題の多くは、重要なものにかぎって答えがすぐには出ない・・・問題は複雑になる・・・」「ああでもない、こうでもない」と考え続けるためには「思考の肺活量」が必要なのだ。「じゃあ、そうした肺活量を鍛えるにはどうしたらいいんですか?」とすぐに答えを求める人がいる。そこが問題なのだ。ぐずぐずと思い迷う時間が大切なのだ。(同じようなことを、森毅先生や、養老孟子先生の本で何度も読んだ。)そういう時間こそが人生そのものなのだ。(そう思えば、最近あることがらに思考が占領されており、その時間を無駄と考えていたが、実はそうでもないのかもしれない。ここは熟成期間と考えてぐずぐずしておこう。)「哲学の可能性を、ジョン・レノンの曲Power to the Peopleをもじって、Philosophy to the Peopleと呼んでみたい。」最高の曲が頭に流れたところで、本書を閉じることにしよう。
    さあ、みんなも哲学してみませんか? いっしょにカフェしてみませんか? テーマは何がいいかなあ・・・

  • 「文学部唯野教授」を読んだ直後だったからか洗練されてなさが目立つ本だった。そもそも、使い方というより使われ方や捉えられ方見られ方、一般的な印象というものが冒頭に来る。ここで作者は初学者はえてしてその難しい専門用語や膨大な語群に撥ねつけられる。と何度となく語る。が、その愚を著者自らやってしまっている感じ。哲学用語は仕方がないにしても、普段見ない漢字やカタカナ用語が散見された。文脈から言って平明に言い換えても伝わる箇所だと思うが、どういうわけかそういう書き方になっている。何を書いているのかハッキリしない。取捨選択が不徹底で、知ってる言葉を書けばいいってものではない。順序立てもあまりなく、トピックの立て方もタイトルと中身の印象が違うのと同様に適切ではない。が、第三章以降、哲学カフェを話題にしたあたりから話が具体的かつ平明になってくる。哲学を語る場所を持つことについて色々話ししていてそこのところは面白かったように思う。

  • うーん、まあ、「エンゲージド・ブッディズム」みたいなもんかなあと思いながら読んだ。
    世代を超えた人たちが、ある問題について真剣に話し合うことは素晴らしいことだと思うけれど、一方で、過去の議論の積み重ねを知らずに、単に自分(たち)の中だけでの思いつきを思考することと勘違いする危険性も感じる。
    いや基本的にはいいことだと思うんだよ。

  • 第1章は理解でき、第2章はよくわからず、第3章には共感できた。使えるものがあれば儲けもんくらいのスタンスで読む本の気がする。理論がそのままでは通用しない「現場」―それは世界の中にアメーバ状に存在するーにおいて「哲学する」場を作るファシリテーターになりたい。

  • 引用は面白いのだけれど、途中からなんだか説教されているみたいな気持ちになってきた。でも確かに、言っていることは正論だ。

  • 著者が「臨床哲学」を提唱していることは以前から聞き及んでいたのですが、本書を読んで、ようやくその概要を知ることができたような気がします。

    著者が主催する「哲学カフェ」の具体的なエピソードも紹介されており、〈現場〉から紡ぎ出される知恵に耳を傾けようとする繊細な知性の息吹を、ほんの少しですが、垣間見たように思いました。

  • あれほどじぶんを震撼させたものが時とともにあまりにも速やかに褪せゆくことに愕然としもする。時間はあらゆるものを洗い流してゆく。
    ほんとうに大事なことは、ある事態に直面して、これは絶対手放してはならないものなのか、なくてもよいものなのか、あるいは絶対にあってはいけないものなのか、そういうことをきちっと見極めるような視力である。
    長くて苦しい議論、譲れない主張の応酬の果てに、そんな苦しいなかで双方が最後まで議論の土俵から下りなかったことにふと思いがおよぶ瞬間に、はじめて相手に歩み寄り、相手の内なる疼きをほんとうに聴くことができるようになるのだろう。
    専門家が「特殊な素人」でしかありえなくなった時代
    どの価値を優先するのか
    ほんとうのプロというのは他のプロとうまく共同作業できる人のことであり、じぶんがやろうとしていることの大事さを、そしておもしろさを、きちんと伝えられる人であり、そのために他のプロの発言にもきちんと耳を傾けることのできる人
    これまでじぶんの視野になかった問いをじぶんの中に叩き込んでゆく
    理解しあえなくてあたりまえだという前提に立てば、「ともにいられる」場所はもうすこし開かれる。
    対話は、他人とおなじ考え、おなじ気持ちになるために試みられるのではない。語りあえば語りあうほど他人とじぶんとの違いがより微細にわかるようになること、それが対話だ。「わかりあえない」「伝わらない」という戸惑いや痛みから出発すること、それは、不可解なものに身を開くことである。対話のなかでみずからの思考をも鍛えてゆく。よくよく考えたうえで口にされる他人の異なる思いや考えにこれまたよく耳を澄ますことで、じぶんの考えを再点検しはじめるからだ。
    「どんな専門家がいい専門家だと思いますか?」返ってきた答えは、「いっしょに考えてくれる人」
    専門家への信頼の根はいつの時代も、学者がその知性をじぶんの利益のために使っていないというところにある。

  • この本さえ読めば素人でも哲学の使い方、仕方がわかると
    いうようなハウツー本、マニュアル本ではないので要注意。

    この現代という時において哲学とはどのような役割を果たす
    べきか、どのようにあるべきか、そもそも哲学は意味ある
    ものとして存在しうるのかどうか。哲学者が哲学者として
    哲学と向き合う上で発せざるを得ない「悲痛な叫び」として
    私はこの本を受け止めたのだが、さほど間違ってはいないと
    思っている。

    日本の教育には宗教教育(ある一つの宗教の教義を教え込む
    のではなく、人間として宗教というものとどう向き合うか
    を教える教育)が欠けているのが大問題であるのと同様、
    哲学教育も欠けているのは大問題である、と思う。

  • 難しい!

  • 哲学界のたこ八郎、鷲田先生による言葉の拾遺集が朝日新聞の連載で始まったのは、この春の喜びである。まだ一週間ほどだけど、八面六臂の参照先は、先生らしくもあり、意外にも感じられたり、とにかく行く末が楽しみです。

    確か東北震災後のことだったと思うが、あるシンポジウムで科学者が集まるなか、鷲田先生ひとり人文系として出席されていて、議論が科学者の専門家としてのありかたというようなあたりに及んださい、先生が発言されたことがいまでも強く印象にのこる。
    「何でも答えてくれる人というのはあまり信用がおけないわけです。自分の持ってる知識の範囲内で言ってるだけだろうと思うから。思考の限界まで考えに考えてる人は、あっさりと、わからないことはわからないと言う。こういう人は信用できる」

    この言葉はそのまま本書のエッセンスである。哲学者も全く同じである。先生が長く取り組まれている、一般市民による哲学カフェに至る道は、臨床というキーワードの周辺にいるあらゆる人びとに参照してもらいたいものだ。

    パスカルの系列は現代にこのように生きている。

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著者プロフィール

1949年生まれ。京都市立芸術大学学長。せんだいメディアテーク館長。哲学者。臨床哲学を探究する。著書に『現象学の視線』『モードの迷宮』『じぶん・この不思議な存在』『ぐずぐずの理由』『聴くことの力――臨床哲学試論』などがある。

「2018年 『大正=歴史の踊り場とは何か 現代の起点を探る』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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