哲学の使い方 (岩波新書)

著者 : 鷲田清一
  • 岩波書店 (2014年9月20日発売)
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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004315001

哲学の使い方 (岩波新書)の感想・レビュー・書評

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  • 鷲田先生の本は読みやすいという印象が強かったのですが、前半は手こずりました。「いる」と「ある」とか、「いま」とか。確かに電話で「いま何してる?」と聞かれて「えっ、電話してるで」という人はいない。たぶん。待ち合わせのときに遅れてきた方が「ごめん、待った?」と聞かれて「ううん、私もいま来たとこ」と言う。「いま」なわけないのに「いま」と言う。「我が家にもその本はある」という。「本がいる」とは言わない。「いま家に妻子がいる」という。「私には妻子がある」ともいう。なかなか難しい。後半に入って、哲学カフェの具体的な話になるとぐんと面白くなる。頭の回転の遅い私でも、そういう場なら、ゆっくり考えながら話すことができるかもしれない。たいがい、5、6人の飲み会などでは、なかなか話に入り込んでいけない。特によくしゃべる女子?の中では。口を出すタイミングが難しい。「遠慮してたらあかん」とは言われるが。本書でもっとも感じ入ったことばは「思考の肺活量」。少し引用する。「ひとが哲学に焦がれるのは、いまのじぶんの道具立てではじぶんがいま直面している問題がうまく解けないときである。・・・あくまで論理的に問いを問いつづけるそのプロセスを歩み抜くには、ちょうど無呼吸のまま潜水をしつづけるときのような肺活量が要るのである。あるいは思考のため・・・わからないままつきあう思考の体力・・・すぐには解消されない葛藤の前でその葛藤に晒されつづける耐性・・・。」そう、この耐性のない人間が多すぎる。自分はどうか?うーん、思考停止後、流してしまう。だめだなあ。

  • 「文学部唯野教授」を読んだ直後だったからか洗練されてなさが目立つ本だった。そもそも、使い方というより使われ方や捉えられ方見られ方、一般的な印象というものが冒頭に来る。ここで作者は初学者はえてしてその難しい専門用語や膨大な語群に撥ねつけられる。と何度となく語る。が、その愚を著者自らやってしまっている感じ。哲学用語は仕方がないにしても、普段見ない漢字やカタカナ用語が散見された。文脈から言って平明に言い換えても伝わる箇所だと思うが、どういうわけかそういう書き方になっている。何を書いているのかハッキリしない。取捨選択が不徹底で、知ってる言葉を書けばいいってものではない。順序立てもあまりなく、トピックの立て方もタイトルと中身の印象が違うのと同様に適切ではない。が、第三章以降、哲学カフェを話題にしたあたりから話が具体的かつ平明になってくる。哲学を語る場所を持つことについて色々話ししていてそこのところは面白かったように思う。

  • うーん、まあ、「エンゲージド・ブッディズム」みたいなもんかなあと思いながら読んだ。
    世代を超えた人たちが、ある問題について真剣に話し合うことは素晴らしいことだと思うけれど、一方で、過去の議論の積み重ねを知らずに、単に自分(たち)の中だけでの思いつきを思考することと勘違いする危険性も感じる。
    いや基本的にはいいことだと思うんだよ。

  • 第1章は理解でき、第2章はよくわからず、第3章には共感できた。使えるものがあれば儲けもんくらいのスタンスで読む本の気がする。理論がそのままでは通用しない「現場」―それは世界の中にアメーバ状に存在するーにおいて「哲学する」場を作るファシリテーターになりたい。

  • 引用は面白いのだけれど、途中からなんだか説教されているみたいな気持ちになってきた。でも確かに、言っていることは正論だ。

  • 著者が「臨床哲学」を提唱していることは以前から聞き及んでいたのですが、本書を読んで、ようやくその概要を知ることができたような気がします。

    著者が主催する「哲学カフェ」の具体的なエピソードも紹介されており、〈現場〉から紡ぎ出される知恵に耳を傾けようとする繊細な知性の息吹を、ほんの少しですが、垣間見たように思いました。

  • あれほどじぶんを震撼させたものが時とともにあまりにも速やかに褪せゆくことに愕然としもする。時間はあらゆるものを洗い流してゆく。
    ほんとうに大事なことは、ある事態に直面して、これは絶対手放してはならないものなのか、なくてもよいものなのか、あるいは絶対にあってはいけないものなのか、そういうことをきちっと見極めるような視力である。
    長くて苦しい議論、譲れない主張の応酬の果てに、そんな苦しいなかで双方が最後まで議論の土俵から下りなかったことにふと思いがおよぶ瞬間に、はじめて相手に歩み寄り、相手の内なる疼きをほんとうに聴くことができるようになるのだろう。
    専門家が「特殊な素人」でしかありえなくなった時代
    どの価値を優先するのか
    ほんとうのプロというのは他のプロとうまく共同作業できる人のことであり、じぶんがやろうとしていることの大事さを、そしておもしろさを、きちんと伝えられる人であり、そのために他のプロの発言にもきちんと耳を傾けることのできる人
    これまでじぶんの視野になかった問いをじぶんの中に叩き込んでゆく
    理解しあえなくてあたりまえだという前提に立てば、「ともにいられる」場所はもうすこし開かれる。
    対話は、他人とおなじ考え、おなじ気持ちになるために試みられるのではない。語りあえば語りあうほど他人とじぶんとの違いがより微細にわかるようになること、それが対話だ。「わかりあえない」「伝わらない」という戸惑いや痛みから出発すること、それは、不可解なものに身を開くことである。対話のなかでみずからの思考をも鍛えてゆく。よくよく考えたうえで口にされる他人の異なる思いや考えにこれまたよく耳を澄ますことで、じぶんの考えを再点検しはじめるからだ。
    「どんな専門家がいい専門家だと思いますか?」返ってきた答えは、「いっしょに考えてくれる人」
    専門家への信頼の根はいつの時代も、学者がその知性をじぶんの利益のために使っていないというところにある。

  • この本さえ読めば素人でも哲学の使い方、仕方がわかると
    いうようなハウツー本、マニュアル本ではないので要注意。

    この現代という時において哲学とはどのような役割を果たす
    べきか、どのようにあるべきか、そもそも哲学は意味ある
    ものとして存在しうるのかどうか。哲学者が哲学者として
    哲学と向き合う上で発せざるを得ない「悲痛な叫び」として
    私はこの本を受け止めたのだが、さほど間違ってはいないと
    思っている。

    日本の教育には宗教教育(ある一つの宗教の教義を教え込む
    のではなく、人間として宗教というものとどう向き合うか
    を教える教育)が欠けているのが大問題であるのと同様、
    哲学教育も欠けているのは大問題である、と思う。

  • 難しい!

  • 哲学界のたこ八郎、鷲田先生による言葉の拾遺集が朝日新聞の連載で始まったのは、この春の喜びである。まだ一週間ほどだけど、八面六臂の参照先は、先生らしくもあり、意外にも感じられたり、とにかく行く末が楽しみです。

    確か東北震災後のことだったと思うが、あるシンポジウムで科学者が集まるなか、鷲田先生ひとり人文系として出席されていて、議論が科学者の専門家としてのありかたというようなあたりに及んださい、先生が発言されたことがいまでも強く印象にのこる。
    「何でも答えてくれる人というのはあまり信用がおけないわけです。自分の持ってる知識の範囲内で言ってるだけだろうと思うから。思考の限界まで考えに考えてる人は、あっさりと、わからないことはわからないと言う。こういう人は信用できる」

    この言葉はそのまま本書のエッセンスである。哲学者も全く同じである。先生が長く取り組まれている、一般市民による哲学カフェに至る道は、臨床というキーワードの周辺にいるあらゆる人びとに参照してもらいたいものだ。

    パスカルの系列は現代にこのように生きている。

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