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Amazon.co.jp ・本 (256ページ) / ISBN・EAN: 9784004315568
みんなの感想まとめ
哲学の深淵に迫る本書は、プラトンの著作を解説しながら、著者が「プラトンさん」と対話する形式を採用しています。このアプローチにより、難解な内容も丁寧に説明されており、特に学生や哲学に興味を持つ読者にとっ...
感想・レビュー・書評
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2015年
プラトンの著書を解説し、学生とのやり取りや他の著作との兼ね合いを述べ、「プラトンさん」と話しかける形式を取っている
著書は以下
『ゴルギアス』『ソクラテスの弁明』
『パイドン』『第七書簡』
『饗宴』『ポリテイア』『ティマイオス』
『ソフィスト』
内容は信頼でき、簡単ではないが丁寧な説明だ
著書を知った上で、副読本として利用すると良いと思う
プラトン関係の勉強におすすめ
巻末に関係する著書の紹介
プラトンと言ったら納富氏だろう
東大のYouTubeでもお見かけする
そもそもニーチェを知りたくて、主な哲学者関係の著書を読んでいる
ちょうどカリクレスとニーチェの説明があり興味深く読んだ
カリクレスは『ゴルギアス』の3幕に出てくる
ソクラテスに対し「年をとってもまだ哲学をやっていて、それから離れようとしない人を見ると、略、ぶん殴ってやらなきゃならないと思うんです」と強気の姿勢が面白いp27
こんな調子でカリクレスは、プラトンの考えや問答に真っ向から否定し、強者の正義を宣言している
この考えにニーチェが影響されている
キリスト教は、弱者の道徳で、強者に対し恨みや嫉妬している
強者が自由に発揮する「貴族の道徳」を謳っていると説明していたp36
そういう流れだったのかと納得した詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
本書は数あるプラトン入門の中でも異色の本である。まず特筆すべきはその文体にあろう。著者は私たち読者とプラトンとの間に立って、私たちに、あるいはプラトンに語りかける。この本を手に取ってその語り口にある種の抵抗を感じる人もいるかもしれない。しかしこの語り口こそが本書を異色のプラトン入門にしているのである。
本書はプラトンの主要な対話篇の場面と取り組まれる問いを読者に提示することを通して、プラトン対話篇の世界へと読者を招く。語り口の柔らかさとは裏腹に学術的なプラトン入門にふさわしい内容が詳しく紹介され、本書を通読することでプラトン対話篇の全体像をつかめるようになっている。このことはR.S.ブラックやミヒャエル・エルラーの入門書を除いては日本語の著者の本では案外カバーされていなかった部分ではある。プラトンの書き残した対話篇の一つ一つがプラトン著作群の中で相互にどのような関係にあるのかが最新の研究に基づいて紹介されているのである。
プラトン研究の全体像を提示するかと思いきや、プラトンが一つ一つの対話篇で取り上げた問いはむしろ端的な仕方で読者に提示されているのが印象的である。対話篇の対話の道行きそのものではなく、対話篇と取り組むことで著者自身が抱いた当惑が読者に語られ、むしろ読者はプラトンが提示する数々のアポリアそのものへと案内される。その難問の数々を読者に突き付けることによって著者はプラトンの対話篇を読者が自ら読むことを促しているのであろう。
上記のこと以上に本書を特徴づけるのは著者のプラトン「への」語りかけである。中でも印象的なのは田中美知太郎が戦争に向かっていく状況下で如何にプラトン論を発表していったのかが語られていたことである。そしてその章の参考文献には井筒俊彦の『神秘哲学』が取り上げられている。著者のここでのプラトンへの語りかけは「語り」であるからこその律動を湛えており、読者にもまたプラトンを読むことの意味を問いかけている。著者の生き生きとした読解の痕跡として、著者がプラトンと四つに組んだ末に見いだされたであろう洞察の一つをパルメニデス読解に見出すことができる。随所にちりばめられたこうした洞察は単に現行の研究紹介にとどまらずに著者自身が到達したプラトン研究の最前線を垣間見させてくれるものとなっている。読者はプラトンとの対話のみならず、プラトン研究の深い森の中へとも案内されるのである。 -
プラトンに対して著者が語りかける形式で対話をしてる。プラトンのイデア論は、時代とともに否定されていく。でもそれで良い。
>相手が師匠であっても、自分自身であっても、厳しく批判して真理を探求する姿勢、それが哲学です。 -
プラトンの著作が対話篇であることにフォーカスした解説書であり、各章が個別の対話篇に当てられている。この書き方によって、統一的なプラトン像の提示はある程度犠牲になっているが、その代わりに各対話篇の空気感が伝わってくるようなものになっている。プラトンに関しては、このような書き方も有効なのかもしれない。読書体験として、アリストテレスやカントであっても、解説書と原典とのギャップはかなりある。しかし、プラトンの著作とその要約とのギャップに比べれば小さいように思う。対話篇→(解説書の著者)→論文では文章のスタイル自体が変わってしまうからだ。プラトンの場合、プラトン自身が対話に登場しないのも理解を難しくしている。本書の題名は「プラトンとの哲学」であり「プラトンの哲学」ではない。プラトンは哲学の場を提示しているのであって、それはプラトンがソクラテスに語らせた個々の主張内容そのものより重要だということだろう。何しろ著者によれば、プラトンにとって『仲間と言葉を交わす現場、とりわけアカデメイアでの議論』こそが『生きた言葉』であって、著作である対話篇は『あくまで補助的な手段、あるいは遊びだったはず』とのことである……しかしそうであるならば、そもそも哲学の起源に一つの自己矛盾を抱えていることになる。私はこの点について十分に考えることができない。
各対話篇について印象深かったことを書いていく。まず『ゴルギアス』では、カリクレスの発言に笑ってしまう。カリクレスは『アテナイの厳しい社会と政治』に生きた人間であり、その現実的な価値観は十分に理解できる。要は「理屈をこねてないで働け」ということなのだ。哲学は、その起源において既にこのような扱いだったとは。私はてっきり、日常生活の役に立たないものを無価値だと断罪するのは資本主義に特有の悪癖だと思っていたが、そうでもないらしい。
『真実がこうだと、あなたにも分かるでしょう。哲学はもうやめにして、もっと重要な仕事に向かうのなら。哲学というものは、ソクラテスさん、若い時分に適度に触れておく分には結構なものです。ですが、必要以上に従事しつづけると、人間を堕落させてしまうのです。(『ゴルギアス』四八四C)』
さらにカリクレスは次のように続ける。これは強さの倫理であり、ニーチェが賛同したのも納得できる。
『正しく生きようとする者は、自身の欲望をできるだけ大きく解放して、懲らしめられず、そして欲望ができるだけ大きくなったら、勇気や思慮でそれに十分に仕えて、欲望がその都度求めるものを充たすべきなのだ。(『ゴルギアス』四九一E─四九二A)』
『もし十分な素質(フュシス)を持つ男が生まれ出たら、これらすべてを震撼させ、破り捨てて逃げ切るだろう。私たちの書き物も術策も呪いも法律(ノモス)も、すべて自然(フュシス)に反するものとして足蹴にし、すっくと立ち上がり、私たちの奴隷が主人として顕現するのだ。そしてそこで、かの自然の正義が輝き出る。(『ゴルギアス』四八四A─B)』
『ソクラテスの弁明』では、何といっても、著者が『温い日常で自分の評価や思いに安住していたい私たちにとって、不快で憤りさえ催させる』ものであり、『まどろんでいる私たちを叩き起こす衝撃』を与え、『真実を突きつけて私たちを覚醒させよう』とすると評する、次の発言のインパクトが大きい。これが死刑のかかった裁判での発言なのだから驚きである。助命などは一切考えず、逆に人々を挑発しているようにさえ聞こえる。
『恥ずかしくないのですか。魂というものができるだけ善くなるようにと配慮せず、考慮もしないとは。(『ソクラテスの弁明』二九D─E)』
『パイドン』では『魂の不死論証』と『イデア論』が主に論じられる。前者は現代的意義に乏しいように思う。後者について著者は『さまざまな事態を、それら相互の関係から見極めること』を可能にするものであり、『言葉を信じてそこで事態を把握することで、世界の健全なあり方に接することができる』、『このイデア認識が、私たちの言葉の営み』であると説明する。その説明が正しいとすれば、『イデア論』なるものは、存在論よりも認識論に関係するようにも思えてくる。また『パイドン』では『魂の肉体からの解放と離在』というようなことが論じられるように、極めて心身二元論的な『魂』概念が前提となっている。これは『ソクラテスの弁明』にも『ポリテイア』にも見られないもので、プラトン全体から考えてもかなり独特なのではないか。『パイドン』の『魂』概念は、むしろデカルト以後の身体と明確に区別された「精神」の概念に近い。『パイドン』においては「ソクラテスの死」が前面に出たために、一時的にこのような『魂』概念になったのだろうか。
『ポリテイア』、通常は『国家』と訳される著作の副題は『正義について』である。ソクラテスは、対話相手から『正義はそれ自体として善い』のであれば、『正しい人は幸福である』ことを論証してほしいと要望される。このような要望があるということは、古代ギリシアでも今の日本でも一般的に『正義は幸福をもたらさない』と思われているということだ。しかし私としても、どこかでそれを論駁してほしい気持ちも否定できない。プラトンの主張によると、『魂』における『正しさ』とは『理性が命令を下しながら気概がそれに従い、欲望をコントロールして全体として善きあり方を実現』していることである。著者の説明によると、人間が真に生きるためには『理性に従った正しいあり方』が必要であり、反対に『不正』は自己の破壊として『まさに不幸であり害悪』なのだということである。しかしこれでは、『正義』=『正しい』=『理性に従った正しいあり方』というトートロジーであり、『幸福』にまで結びつけることは難しいように思う。このプラトンの感性は、『実践理性批判』のカントにかなり近いのではないか。カントにおいては「神」と「魂の不死」の要請というアクロバティックな方法で『幸福』を(無理やり)保証したが、プラトンは無邪気に『正義』=『正しい』=『理性に従った正しいあり方』=『幸福』と等式を繋いでいるようである。私としては、その最後の等式を理解できないままなのだ。あくまで私の推測であるが、『ポリテイア』の示す『幸福』とは自己の能力を十分に発揮できる状態くらいの意味合いであり、日本語の『幸福』のニュアンスとはかなり異なると仮定すれば、まだ腑に落ちるようにも思う。ともあれ、このような『魂』の議論の助けのために類比的に、『国家の構成という大きな文字』による『思考実験』が展開されるわけである。つまり著者によると、あくまで主題は『正義』であり、『国家(ポリス)のあり方』という題材は副次的なテーマだということになる。これは意外だった。主題と副題が逆なのである。何かプラトンには政治的な、自分の著作の真意を隠蔽とまではいかなくても、微妙にずらして読ませる意図があったのかもしれない。なにせ国家に、『正義』を追求した師を殺されているのだ。そう思って読めば、『私有財産廃止、男女平等、家族制廃止』のような不穏な印象を受ける案も、『私利私欲』に起因する『不正』への対策としての極論というようにも思えてくる。『ポリテイア』の言葉をそのまま読めば、どう考えても共産主義あるいは全体主義である。これを真剣にプラトンが主張していたとしたら、さすがに人間というものを理性的に考えすぎだろう。だが、そんなこともあるまい。著者の説明としては、『正しい国家』では『構成員は自らの役割を言葉で理解し、誰が統治にあたるべきかを言葉で合意しつつ、その人物の言葉に従って調和のうちに生きて』おり、『一方的な命令』や『絶対的な服従』もなく、『一人ひとりが自由人として理性を働かせて、ともに議論しながら最善を目指して共に生きること』=『善き生』が実現している、とのことである。これを読む限り、やはり共産主義の理想社会に近いように思う。これは私が少し考えても、善人かつ能力の高い人ばかりで構成される社会においてしか実現しないだろう。
『ティマイオス』の章が本書の中で一番印象深かった。私は『ティマイオス』の宇宙論については『歴史的、あるいは好事家的関心の対象でしかない』と思っていたからだ。今さらアトランティスがどうとか、制作神デーミウールゴスがどうとか、読んでも仕方ないと思っていた。それが一変し、『ティマイオス』とは、人間の知の宿命を記録した書なのだと考えるようになった。著者はこの対話篇の魅力は『始まりにどこまで遡れるか、その想像力』にあると評する。現代人は、150億年前のビッグバンから宇宙が始まり、46億年前に太陽系が誕生し、50億年後に太陽の寿命が尽きる、と思っている。それを知ったところで自分の生活は一切変わりはしない。それにもかかわらず、そういったことを考えずにはいられないのである。生きている間に体験できないという意味では『ティマイオス』の神話と何も変わらない。だから、それが正しいかどうかも、実は問題にすらならないともいえる。しかしながら、そういった宇宙的想像力といったものが、人間の知には現に備わってしまっており、知の宿命としか言いようがない。著者は、『イデアの永遠の下で』は、『世界や私の人生』は『このもっとも美しい宇宙の一部として、なによりも愛おしい存在として現にある』のであり、同じように『今というこの一時』も『永遠を写しだす現れとして、なによりも価値あるもの』だと表現している。著者の言葉において称揚されているのは、天上の『イデア』と『永遠』への憧れに対置された地上的生の慎ましやかな価値であり、まさしくプラトニズムといった地平だろう。 -
f.2025/2/2 (2025-008)
p.2015/8/4 -
「1人の人間が真理より尊重されてはならない」だからこその「の哲学」ではなく「との哲学」という題名になっている。対等な関係による対話の重要性。権威より真理。このプラトンの教えを実践している教員は現代にどれほどいるのだろうかと思ってしまう。
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プラトンなら何と言うか、何とこたえるか?と言う観点からプラトンとソクラテスの哲学を論じる。ディアロゴスのプラトンにぴったりのアプローチではないだろうか。
現代の思想や哲学はプラトンの哲学の上に層をなして積み上げられており、プラトンなどを今更引き合いにしても意味がないように思う人もいるかも知れないが、「プラントンなら今の世界について、自分の考えについて何て批判するんだろう?」と仮想プラトンと対話することでむしろ逆に新鮮な答えを得られるような気がしてきた。
プラトンの本は実は『ソクラテスの弁明』くらいしかちゃんと読んでなかったけれど、他も読んでおくべきだと思った。この世界はプラトンの上にできているのだから。
ところで、岩波新書は最後のページに『岩波新書新赤版1000点に際して』という文章が載っている。読んでいない人も多いと思うがぜひ一度は読んでほしい。学ぶことの大切さを身に染みて知らされると思う。本文を読まなくてもいいけれどここだけでも読んでほしいと思う文が書かれている。あと、岩波文庫の最後のページも熱いです。
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6章宇宙の想像力で頭がこんがらがって挫折してしまった。
著者が読者の方を向かずにプラトンさんと対話しているので、あまりプラトンさんのことをわかっていない読者である私は置いてけぼりをくらって寂しかったのも挫折要因の一つ。自分の考える能力、読解能力の低さに気づけたのでもう少し哲学の世界に慣れてから出直したい。 -
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プラトンの哲学はなく
プラトンとの哲学のみがあると納富さんは説く。
プラトン自身は対話篇には登場せず、
もっぱらソクラテスとその他の人達によって対話は進む。
プラトンはこういったニュアンスのことをソクラテスのセリフとして伝えている。
「私の言うことを全て鵜呑みにするな」と。
自分の頭で考えることの重要性、
そこにこそ哲学の真価があるということをプラトンは伝えたかったのではないだろうか。
たしかに、
プラトンの本を読むと中期作品以降には答えが出てくる。
だが、だからと言ってそれが正しいという答えをプラトンは伝えたかったわけではない。
対話を通して、
絶えず探究していくというこの「哲学」するという姿勢を伝えたかったのではなかろうか。
ゆえに、
弟子アリストテレスもイデア論を否定し形而上学を打ち出し、
ニーチェも神や哲学を否定し超人を打ち出す。
まさに
アリストテレスやそれに続くものたちは、
プラトンを批判しながらプラトンの教えに真の意味で忠実だったのではないか。
そこような所感。 -
この本はプラトンの哲学ではなく、プラトンとの哲学である。プラトンからの問いかけにどのように答えるか。それを考えることで、その時哲学が始まる(らしい)。スーッと読めるけど、真摯に「善いとは」、「美とは」、「善き生きる」とは、と思考するのはなかなか骨である。対話篇が家の本棚でほこりを被っているので、また取り出してみよう。
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哲学とは厳しいものだなー。8章中2章で挫折。
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プラトンとの哲学 納富信留 岩波新書
対話篇を読む
プラトンもソクラテスも答えを用意して臨むわけでなく
問い掛けによって自問自答を引き出そうとしていることに
強く共感を覚える
答え在りきの質問か一つの確かな答えを求めようとする
数学的な学問と違い
哲学や倫理学あるいは文学や音楽などには対話と
自問自答のプロセスしかないということだ
多分物理学や数学も現象面から距離を置くと
具象的な枠を超えて抽象的な形のぼやけた答えに近づくのだろう
究極の全体で見ればどの学問からスタートしたとしても
この世の真理を目指している同じ方向に辿り着くはずだ -
哲学の本にしては妙に情緒的で、特に倫理を論じるところなんかすごい飛躍を感じた。
が、最後の辺りはちょっと感動的でもある。 -
いろいろ考えた。自分の考えをまとめるべきと思ったし、行動しようと思う。
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流し読み。心に刺さろうとする文章がなかった。
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プラトンの代表作を幾つか取り上げ、そのものよりもそこに根付くプラトンの意識というものを掘り出して対話するというスタイル。
プラトンは、真の哲学者であったはずのソクラテスの刑死に対して生涯どうして起きたのかという不条理に対する疑問を持っていたと思われる。正義や真実に対して真摯に生きるということの価値を追求してこその人生だという結論に至るまでの対話を、著者とプラトン(仮想)と読者で行う。 -
プラトンの主要な対話篇を取り上げながら、ニーチェ、カール・ポパーら近現代の批判を踏まえながら、プラトンとの対話を試みる実践の哲学の書。
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