「私」をつくる 近代小説の試み (岩波新書 新赤版1572)

  • 岩波書店 (2015年11月20日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (212ページ) / ISBN・EAN: 9784004315728

みんなの感想まとめ

小説の語り方や視点の変遷について深く掘り下げた本作は、近代文学の魅力を再発見させてくれます。言文一致体への移行や、一人称と三人称の使い分けがもたらす距離感の違いについて、具体的な作品を通して解説されて...

感想・レビュー・書評

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  • 言文一致体に変わる過程で、試行錯誤された小説の「語り方」について非常に面白く書かれている。

    文末の「ーた」と「いる、ある」の違いで、距離感が違い、その距離感と、語り手と登場人物をうまく交錯させていく試みが『三四郎』などで具体的に明示されており、非常に楽しかった。

    人称を変えることについても触れられている。
    一人称小説でも、何を語るのかの距離によって伝聞モードと告白モードに分かれたり。また、告白モードの中でも「私」を押し出す形と隠す形に分かれたりする。

    「私」と、あなたと、私たちについて論じながら、最後に私小説の在り方へと辿り着く。
    語っているのは、作者そのものなのか。
    そして、それはただの真実の告白なのか。
    否、そこにも虚構があるということ。

    私は、作家論的に読むことは苦手なのだが、そう読んでしまうとか、見えるものに寄り添って読んでしまうといった読者の読み方をも、小説はうまく取り込んで在る。勉強になった。

  •  これは、なかなか示唆に富む近代文学の分析の書だ。
     作中における「私」(=作者)の存在を、近代小説の黎明を、明治大正の文学を例に引いて解読していく。
     言文一致を標榜した明治以降の文学、小説は、この「私」の処理を体得してこそ、ということか。
     第一章 演技する「私」で著者が述べている、

    ”「私」を使いこなす術を身につけることは、文章を書く実践的なコツ、あるいはまた「小説」を書く創作方法のヒントになるかもしれない。”

     これが、本書を貫くテーマだ。
     近代の小説(明治~大正期)を使ってそれを考えるのは、以下のような作者側にも迷い、葛藤があったため非常にに面白い。

    「なまじ“話すように書く”などという試みを自覚的に始めてしまったために、近代の小説は「話しているのは誰なのか」という問題、つまり作中世界を統括する主体がどのような立場と資格で語るべきなのか、という大きな課題に突き当たることになってしまったのである。」

     その後、いかに作者の存在を隠すよになるか(第二章 「私」をかくす)、読む対象をどのように設定するか(第三章 「あなた」をつくる)と、かつての文豪たちが試行錯誤した足取りをたどっていく。

     前半の、夏目漱石、森鴎外などは、実際に作品にも触れてきているが「小説の神様」、「文章の神様」と称えられる志賀直哉あたりになると、ちょっと遠い記憶、いや、教科書で馴染んだ程度の思い出しかない。こりゃ、ちょっと本書で取り上げられた作家、小説作品は、順次当たっていったほうが良いのかもしれない。

     作者も、ずっと漱石、鴎外と、ポピュラーな作家の作品ばかり扱っていてもと思うのか、後半になればなるほど、知らない作品の引用が増えてきて、ちょっと置いて行かれそうになる。

     第四章 「私」が「私」をつくる、第五章 小説を書く「私」あたりまでは良かったが、第六章 憑依する「私」以降は、その他作品も読み漁ってから、改めて読み直したほうが良さそうな気もした。
    (第七章 「私たち」をつくる、第八章 「作者」を演じる)

     いずれにせよ、力作の書だ。

  • めちゃくちゃ面白い。
    ただストーリーやプロットを楽しむだけでなく、小説を深く読むために重要な視点が数多く示唆されている。

  • 近代小説の始まりには様々な文体が併存しており「言文一致」を目指して二葉亭四迷が試行錯誤し、文末表現や、一人称視点と三人称視点による地の文での工夫。そして坪内逍遥が謳った「写実」から田山花袋の「平面描写」岩野泡鳴の「一元描写」、太宰の饒舌な語りの文体に志賀の「心境小説」。泉鏡花の描く怪異の世界。自然主義文学のなかに描かれる「私」と「私小説」とは何か。大正期の文壇における、自己を素材として小説にすることからの「リングネーム作り」……とまぁ、この一冊の新書の内容の濃いこと。

    今までさほど意識せず、一人称視点の作品や三人称視点の作品を読んでましたが、そこには「私」という作者でも作中の登場人物でもないモノがいるということ。そして、それがもたらす効果について、今まで無意識に(感覚的に)読み取っていたことが明文化されてて、とにかく面白い。小説の「地の文」に込められた工夫の変遷を辿りながらサラッと近代文学史みたいにもなってますし。

    近代文学の作品では作家自身をネタに書かれているものが多くて、本書の中で触れていた「これは小説ではなくてエッセイなのではないか?」という点は私も感じていたので、これを読んでちょっとスッキリしました。

  •  小説の中の「私」は、必ずしも明示されているとは限りません。「私」とは、著者ではありません、主人公でもありません。小説のあらゆる場面に潜んでいて、状況を描写し、読者を案内する、裏方のような存在が「私」です。「私」は裏方だからこそ、今まであまり注目されることはありませんでした。この「私」探しを通じて、名作の新たな読み方を教えてくれるのが本書です。
     著者は様々な作品を例として取り上げ、「私」の見つけ方を指南してくれます。例えば、川端康成の『雪国』には、有名な書き出しがあります。列車が雪国を駆け抜ける、あのシーンです。ここでは描写の主である「私」が、巧みに作中に潜んでおり、書き出しの重要なシーンを演出しています。「私」は列車を俯瞰しているのか、列車の窓から景色を見ているのか、もしくは列車自身となってトンネルを出てくるのか。異なる「私」の視点を共存させることで、ありありと情景が現れてきます。
     最後にもう一つだけ、この本の特徴を挙げておきます。現在、我々日本人が使用している言葉は、言文一致体です。言文一致体とは、文章を書く際、文章専用の文体である文語を用いるのではなく、会話で用いる文体をほぼそのまま使用することです。明治以降に生まれた言文一致体の普及には、作家たちが大きく貢献しています。「私」を作中に忍ばせる技法の開発こそが、言文一致体の小説を進展させる鍵であったことを、本書は教えてくれます。

    若林智章(新領域創成科学研究科先端エネルギー工学専攻)

    https://opac.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/opac/opac_details/?bibid=2003294170

  • 太宰治の文章は著者自身を思わせる一人称だが、エピソードはだいぶ盛っている。一方、夏目漱石は猫などのキャラクターが主人公だが、著者の経験に基づくことが書かれている。小説における「私」へのアプローチが様々な文学派を生んだ。

    柴田元幸さんのイベントで朗読された19世紀の英国作家トマス・ハーディの短編では、地の文で主人公が寝ている間に服や馬を盗まれて成りすまされるという描写はあるけど、それの詳細を知らないはずの主人公が騎兵にその事情を話していて、現代の小説ではこういう書き方はしないと柴田さんが言ってた。

    小説における「リアル」は読者に「リアリティ」として感じさせられれば「事実」である必要はなく、逆に「語り方」で「騙る」ことが求められる。日記のような完全な独り語りでは了解事項は省かれるから、他人である読者には充分に伝わらないし、日記ですら読むかもしれない誰かを意識して虚構が混じる。

  • 小説を教える際、「私」の存在をどう教えるか・・・
    実はめっちゃ難しいので、いつも逃げます。
    というか、私自身がよくわかっていない部分が多いのです。
    自分がわかっていないことを人に教えるのは不可能。
    まだまだ勉強しないといけませんね。

    漱石先生の偉大さがわかりました。
    漱石先生がいたから、今の私たちの日本語があるのです。
    やっぱりこの人、天才なんだな。
    今更だけど、改めて実感。

  • 近代文学における語り手の視点が作品にどのような効果を与えているか、というような内容。大学で似たようなことも勉強していたのでついつい手にとってしまったが、気軽に読書という感じではないですね。行きつ戻りつ考えながら読むから、それなりに時間がかかってしまった。あと何回か読み返すことになりそうです。

  • 背ラベル:910.26-ア

  • 「語り」について。

  • 910-A
    閲覧新書

  • 面白い。確かに視点の観点って日本語だとあんまり意識しないよね。

  • 先生に勧められ、とても面白くて読みやすい。勉強になった。

  • 小説に出てくる「私」は、ナレーターでもあり解説者でもあり主人公でもある。
    深く考えたことなかったから、「ああそうやったんか!」と思った。
    小説の新しい見方を知った。
    "話すように書く"という試みから、「私」の見せ方の研究が始まったなんて知らんかった。
    小説好きな人に勧めたい本。

  • 久々に面白い本だったので、2度読んでしまった。言文一致体の主語が明確になるという作用、生まれ出でた「私」という作中の存在をどのように乗り越え、利用してきたかを、代表的な小説家の置かれた時代、思考に寄り添いながら考察していく。今のフラットな文学の状況に対して、自己の文学のアイデンティティを求め、試行錯誤を続ける様に懐かしさを感じた。

  • 2016年1月新着

  • 太宰治の私生活が荒んでいたことがやたら有名なことについて著者はこのように語る。
    おそらくその際に(ブランド化の際に)重要なのは、これらが現実の作者とは別に、作品を創るために意図的に演じられ、創り出された「作者」像であった、という事実であろう。例えば第1章に述べたように、太宰治に関していえば、自殺未遂を繰り返し、薬物中毒に苦しみながらも自身の弱さから目をそむけず、既成のあらゆる権威に戦いを挑み続けた無頼派作家、というイメージは、実は小説を書くために、あるいは小説を受け取るために、作り手と受け手とがともに作り上げた伝承世界でもあったのだった。作者はこうしたシグナルを巧みに小説に埋め込むことによって「太宰神話」を発信し、それを背景に新たな作品を書き継いでいくことが可能になるわけである。p167
    つまり我々は太宰の術中にはまっているのである。小説の描写から作家を想像し、それに太宰の姿を重ねる。その時太宰の「無頼派」というイメージが強調され、そのイメージが神話となる。この本を読んだ後にゲス極がMステで「ロマンスがありあまる」歌ってるのを見て「プロだな」と思った。

  • 明治以降の小説を何気なく読んでいましたが、「私」を通してみると、作家はそれなりに工夫していたことがわかります。

  • 小説を読む際は、物語を語っているのは「誰」で、それはいつなのかを意識している。これがうまく頭に入らないと、自分にとっては読みにくい作品ってことになる。
    明治から始まった近代小説が、言文一致体をとり、写実主義・自然主義・私小説の形式を試しながら世界観をつくってきたんだと分かる。私小説に出てくる人物が作者を投影しているっていうのも作家が作り出した仕掛けなんだよなぁ。

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著者プロフィール

安藤 宏(あんどう・ひろし):1958年、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院人文科学研究科博士課程中退。同文学部助手を経て、上智大学文学部、東京大学大学院人文社会系研究科/文学部で27年間教鞭を執る。現在、東京大学名誉教授。専門は日本近代文学。『近代小説の表現機構』で博士(文学)を取得。太宰治の研究で知られ、著書に『太宰治 弱さを演じるということ』(ちくま新書)、『日本近代小説史』(中公選書)、『「私」をつくる 近代小説の試み』(岩波新書)などがある。2024年『太宰治論』(東京大学出版会)で日本学士院賞を受賞。

「2025年 『近代小説の表現機構』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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