憲法の無意識 (岩波新書)

著者 :
  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004316008

感想・レビュー・書評

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  • 柄谷さんの本は毎回期待しながら読むのですが、今回も期待を裏切らず面白く拝読しました。柄谷さんの本は、書いてあること自体正しいか正しくないか、という視点で読むのではなく、素直に「そう来たか」というところを面白がって読む方が私は好きです(正確に言えば私のレベルでは正しいかどうかなどわからない)。本書は複数の講演録をもとにつくられているので、章の間のつなぎというか、論理展開が飛躍している感じのある箇所もあったのですが、全体的には面白く拝読しました。憲法9条はなにか仏教で言うところのお布施、見返りを求めない純粋贈与であって、純粋贈与に対してつばを吐きかけるような国があれば世界中から非難を浴びる、よってこれこそが実は抑止力であるという視点です。ある国で市民革命が起きれば他国の干渉(領土侵攻)が起こりますが、日本の9条に関しては他国の干渉(領土侵攻)が起こらない中で導入された、これはなにか色々な偶然が重なった奇跡という感じもしました。私くらいのレベルでは、もはやこのレベルの本ですと正しい、正しくないというのが判断できる水準を遙かに超えているので、純粋に楽しんで読みました。

  • フロイトが出てきて途中で挫折しました。

  •  『柄谷行人「力と交換様式」を読む』の読了後、交換様式Dは自らの意志では達成不可能なものである、しかし何もしなくてもよいわけではないという主張に、説得的な説明が不足していると感じていた。本書を読むことで、その行間を一定程度埋めることができた。
     議論の出発は、人間の攻撃性を所与のものとするところにある。その攻撃性を自己に向けたとき「超自我=文化を形成する」(16頁)。この「自然の狡知」は無意識により生まれるのだから、交換様式Dは「自らの意志では達成不可能」としたのではないか。
     また、歴史が示すように、ヘゲモニーは闘争によってのみ成立してきた。右の通り、人間の攻撃性はもはや否定することができないほどの根源的なものであるからこそ、少しでも戦争による犠牲を生じないよう努力することが求められるのである。

     そのほかにも、日本国憲法の先行形態を徳川時代に求めたこと、カントの『永遠平和のために』は実践的な構想であったがゆえに「現実的でない」との批判を呼んだこと、120年の周期で歴史が繰り返していることなど、重要な指摘は多くあった。
     しかしながら、柄谷の依拠する「自然の狡知」などフロイトの精神分析は、いったん消化したものの、自分の言葉で説明しようとすると補完すべきところの多いスピリチュアルなものとなってしまう。これは私の無学によるところであるので、より精緻な理解とするために著作を読みたい。

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    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/687443

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  • 【由来】
    ・確か図書館の岩波アラート

    【期待したもの】
    ・柄谷行人だし、タイトルも興味深い

    【要約】
    ・実は柄谷初体験でした。日本人の憲法に対する無意識を都市計画における「先行形態」と紐付けて江戸時代にそれを見出すというのが面白かったです。何だか加藤典洋と似た印象。

    【ノート】
    ・日本人にとって憲法は最初強制、そこから自発的。江戸時代の高次的復活。無意識の力、スーパーエゴ。

    世界史における120年な周期。帝国と帝国主義。新自由主義は呼び名を変えた帝国主義。

    リアリスティックな安全保障の考え方こそが偶発的な事故を第一次世界大戦に変えた。軍事同盟とか。日本は今こそ九条をこそ世界に具体的な実行として示せ。

    ちゃんと本を買って読む価値がある。宇野弘蔵の話も。佐藤優本との読み合わせをしたい。

    柄谷行人は実は初体験。加藤典洋とかぶる、って、ちゃんと読んでないけど。

    【HARA無双】
    ・柄谷行人は昔からしばしば読んでおりますが、最初の印象はまずまずですが、ダボハゼのように何にでも食らいついて(一番、最近、読んだのは中国文化についてだ)、自分の意見を開陳する(私のようだ)ところが鼻について来て、最近は気に入りません。見た目も横柄で不細工な奴だし。

    【目次】

  • 配置場所:摂枚新書
    請求記号:323.142||K
    資料ID:95160986

  •  日本国憲法第9条が事実上空洞化しつつも、なぜ反憲法派が「明文改憲」に成功しないのか?という問題を考察しているが、フロイト精神医学の恣意的な準用による疑似科学的分析や、「徳川の平和」を現行憲法の「先行形態」として引き出す非歴史的思考は、とてもではないが説得力をもたない。「憲法の無意識」を捉えるならば、憲法と同様に「外的強制」され、ある意味9条以上に規範化している「日米安保の無意識」にもメスを入れる必要があろう(日米安保体制という前提がなければ憲法9条はとっくに改定されていたことは想像に難くない)。また、いくら講演草稿が元になっているとはいえ、「山県有朋が死ぬと《中略》美濃部達吉の『天皇機関説』が主流となった」「それが”大正デモクラシー”と呼ばれた時代です」(p.58)とか「日清戦争当時、米国は日本と手を結んでいました」(p.175)というような基本的な事実誤認がかなり多く、大雑把にもほどがある。

  • 現憲法の底流にあるものは,明治憲法ではなくて徳川時代の体制にあるという議論は目新しいが納得できるものだ.特に象徴天皇制については非常にしっくり当てはまると思った.第9条についての議論で無意識であるが故にこれまで存続してきたというのも,よく考えた考察だと感じた.カントの著作から哲学的な議論もあったが,やや現実離れしているように思った.

  • 柄谷行人は、自分が大学生の頃はいわゆるスタープレイヤーであった。彼の著作を読むことが一種のステータスでもあったように思う。もちろん一部では、ということだが。
    本書は、その柄谷の憲法九条に関わる四つの講演を新書にまとめたものである。憲法改正が政治的なイシューになっている中で、それに対して反対であるという態度を明確にしているわけだが、現実へ与える影響は柄谷にはもうあまりないのではないかと思う。それでも、その理論的根拠を知りたいとは思うのだ。

    まず第一に、憲法第九条が変えられなかったのは、日本人の無意識からきている。意識的なものであったのならとっくに変わっている、というのが柄谷さんの主張だ。「九条は護憲派によって守られているのではない。その逆に、護憲派こそ憲法九条によって守られている」というのは正しい認識だと思う。

    ただ、「無意識」を語るのにフロイトを持ち出してくるのはどうしても今更感がある。フロイトが無意識というものを初めて大きく取り上げて世に知らしめたのは確かだが、その時代から無意識に関する知識は大きく進化していると思っている。もちろんここで使っている「無意識」は実際の人間の脳内活動における意識-無意識とは別のより比喩的な意味で用いているのであろうが、であればこそフロイドを持ち出すことなく丁寧に柄谷さんがここで使う「無意識」とはどういうものであるのかを説明すべきであったのではないのだろうか。

    また九条=戦争放棄の位置づけを語るために、『世界史の構造』などで練り上げた交換様式に言及し、戦争放棄が一種の贈与であり、それが交換様式Dにおける純粋贈与となるという。戦争放棄を贈与とみなして、それを徹底すべきだというのは独自の観点でよいのだが、それでもリアリスティックなリスクを鑑みると責任のない地点からの言論にすぎないということもまた感じ取られてしまう。そういった想定される批判に対して、柄谷は次のように言う。

    「憲法九条は非現実的であるといわれます。だから、リアリスティックに対処する必要があるということがいつも強調される。しかし、最もリアリスティックなやり方は、憲法九条を掲げ、かつ、それを実行しようとすることです。九条を実行することは、おそらく日本人ができる唯一の普遍的かつ「強力」な行為です」

    しかし、こういった平和論よりも、日本ではずっと憲法改正などは行わず、リアリスティックに対処していくのではないか。それが似合っている。それを「無意識」と呼ぶのであれば正しいと思う。


    『世界史の構造』などを読んだ後であれば、決してわかりにくい本ではないが、どこかもやもや感や落ち着きのなさが残る。それは左翼的なものがどこかいかがわしさをまとうようになったことを図らずも示しているのだと思う。柄谷さんはそのことに関してどれほど意識的であるのだろうか。

  • 60年間憲法九条を廃棄してこなかった世論は、フロイトを引き合いに出して説明されます。「超自我は、死の欲動が攻撃性として外に向けられたのちに内に向かうことによって形成されるものです。現実原則あるいは社会的規範によっては、攻撃欲動を抑えることはできない。ゆえに、戦争が生じます。それなら、攻撃欲動はいかにして抑えられるでしょうか。フロイトがこのとき認識したのは、攻撃欲動(自然)を抑えることができるのは、他ならぬ攻撃欲動(自然)だ、ということです。つまり、攻撃欲動は、内に向けられて超自我=文化を形成することによって自らを抑えるのです。いいかえれば、自然によってのみ、自然を抑制することができる。(15頁)」ゆえに、憲法九条は私たちの無意識の中に、自然発生的に存在するものであって、手放すことができないものである。仮に再び戦争をすることがあっても、手痛い代償を払ってまで、再び憲法九条を取り戻すだけであると著者は言います。難しいのですが、そのことを理解するとすっきりします。

  • 2016年6月新着

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784004316008

  • 323||Ka

  • 配置場所:2F新書書架
    岩波新書 ; 新赤版1600
    資料ID:C0037507

  • (2回目)その1
     柄谷行人、あこがれの名前である。何とかして著書を読みたい、理解したい。とは思うものの、なかなか最後まで読み通せない。直接講演会などでお目にかかったことはない。テレビなどのメディアにもほとんど顔を出さない。雑誌の対談などでその人柄を知るくらいである。なぜあこがれの対象になったのか、最初のきっかけが何であったのか、まったく記憶にない。が、おそらくは森毅であろう。そこから、浅田彰、蓮見重彦等と同時に知ったのだろうと思う。おそるおそる本書を読み返していく。「憲法の無意識」とはいったい何のことであろうか。ここに登場するのは憲法九条のことである。まずは、その条文を以下に挙げてから本文へと進もう。
    「日本国憲法 第2章 第9条 
    1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 
    2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
    さあ、それでは本文に入っていこう。
     「日本の戦後憲法九条には幾つもの謎があります。第一に、世界史的に異例のこのような条項が戦後日本の憲法にあるのはなぜか、ということです。第二に、それがあるにもかかわらず、実行されていないのはなぜか、ということです。たとえば、自衛隊があり米軍基地も多数存在しています。第三に、もし実行しないのであれば、普通は法を変えるはずですが、九条がまだ残されているのはなぜか、ということです。まず、第三の謎から考えてみましょう。そうすれば、第二、第一の謎も解けると思うからです。自衛隊や米軍基地などは、歴代政府による憲法九条の「解釈」によって肯定されています。また、集団的自衛権(実はこれは軍事同盟の別称です)も可能だという「解釈改憲」もなされています。しかし、憲法九条を変えるということは決してなされない。なぜそうしないのでしょうか。むろん、それを公然と提起すれば、政権は選挙で敗れてしまうからです。では、なぜそうなのか。人々が憲法九条を支持するのは、戦争への深い反省があるからだという見方がありますが、私はそれを疑います。たとえ敗戦後にそのような気持ちがあったとしても、それで憲法九条のようなものができるわけではない。実際、それができたのは、占領軍が命じたからです。また、憲法九条が人々の戦争経験にもとづいているのだとしたら、それをもたない人々が大多数になれば、消えてしまうでしょう。・・・」この後、しばらく、護憲派・改憲派について議論しているが、最終的に不思議な結論に達する。「憲法九条が執拗に残ってきたのは、それを人々が意識的に守ってきたからではありません。もしそうであれば、とうに消えていたでしょう。人間の意志などは、気まぐれで脆弱なものだからです。九条はむしろ「無意識」の問題なのです。・・・無意識は、意識とは異なり、説得や宣伝によって操作することができないものである・・・。九条は、「無意識」の次元に根ざす問題なのだから、説得不可能なのです。」そして、無意識については後ほど詳述するとなっている。もちろん、この後にフロイトが登場することになる。「憲法の無意識」を理解するためには後期フロイトの認識が不可欠であるという。しかし、これ以上フロイトについて深入りするのはやめよう。もともと、私にそんな力はない。最低限、「憲法の無意識」に直接関係するところを引用しよう。「フロイトは、強迫神経症(たとえば、出かけに何度も戸締りを確認したり、外から帰って何度も繰り返し手を洗ったりするようなこと…清水注)の患者は、外から見ると罪責感に苦しんでいるようにみえるけれども、当の本人はそれについては何も意識していない、ということを指摘しました。彼はそれを「無意識の罪悪感」と呼んだ。日本人が憲法九条にこだわるのは、それと同じです。日本人はドイツ人と比べて歴史的な反省が欠けているといわれることがあります。確かに「意識」のレベルではそういってもいいでしょう。しかし、憲法九条のようなものはドイツにはありません。憲法九条が示すのは、日本人の強い「無意識の罪悪感」です。それは一種の強迫神経症です。」そして、九条が占領軍の強制によるものでありながら、日本人がそれを自主的に受け入れてきたことが矛盾するものではないということをフロイトの文章を使って説明している。「人は通常、倫理的な要求が最初にあり、欲動の断念がその結果として生まれると考えがちである。しかしそれでは、倫理性の由来が不明なままである。実際にはその反対に進行するように思われる。最初の欲動の断念は、外部の力によって強制されたものであり、欲動の断念が初めて倫理性を生み出し、これが良心というかたちで表現され、欲動の断念をさらに求めるのである。」(「フロイト全集18」岩波書店)清水なりの解釈を入れると、これは、小さな子どもが自分の欲望のままに何か悪いことをしようとしたとき、親にしかられる。それで、これはしてはいけないことだとわかる。そうやって、両親(もちろん別の大人でもよい)によって良心が築かれていく。そんなことではないだろうか。柄谷はこのフロイトの考え方が、見事に日本人が憲法九条を無意識のレベルで受け入れてきたことを説明しているという。「まず外部の力による戦争(攻撃性)の断念があり、それが良心(超自我)を生み出し、さらに、それが戦争の断念をいっそう求めることになったのです。」「憲法九条は、日本人の集団的な超自我であり、『文化』です。子どもは親の背中を見て育つといいますが、文化もそのようなものです。つまり、それは家庭や学校、メディアその他で直接に、正面から伝達されるようなものではなく、いつのまにか知らぬ間に(背中から)伝えられるものです。だから、それは世代の差を超えて伝わる。それは、意識的に伝えることができないのと同様に、意識的に取り除くこともできません。」この後、憲法九条がつくられた過程が説明されているが、そこは省略する。さあ、ある程度「憲法の無意識」ということばが示す意味は分かっただろうか。実は清水自身、これを書くことでかなり理解できたつもりです。一回読んだだけではしっかり理解できないかもしれません。繰り返し読んでみてください。
     最後に一言書き添えておこう。それは、マッカーサーにとって憲法九条はそれほど重要ではなかった。彼にとっては一条がより重要であった。つまり天皇制の維持である。そのために、国際世論を説得するため、戦争放棄を憲法に掲げた。
     本書は、各章、講演会がもとになっている。次回はカントの平和論について考えてみよう。

    その2
     第2章では現在ある憲法の先行形態について語られている。「『先行形態』とは、主要な原因となっているにもかかわらず、その後に忘却されてしまうようなものです。かつて存在していたが、その後になくなった、にもかかわらず、今も人を動かしているもの。」「戦後憲法の『先行形態』を考えるとき、明治憲法だけを見ると、誤解に導かれます。むしろ、明治憲法以前を考えるべきなのです。むろん、明治以前に憲法はありません。が、成文法がないとしても、国家の体制、機構はあった。たとえば、徳川幕府の体制では、天皇はいわば象徴天皇としてあったといえるのです。」ということで、江戸時代についてページがさかれます。「徳川の平和Pax Tokugawanaということがよくいわれますが、その場合、国内の平和しか考えられていないのはおかしい。平和はやはり国家間で考えられるべきものですから。徳川の体制はまさに秀吉の朝鮮侵略を頂点とする四百年に及ぶ戦乱の時代のあと、つまり『戦後』の体制なのです。ふりかえると、徳川の体制は、さまざまな点で、第二次世界大戦後の日本の体制と類似する点があります。」そして、1つめに象徴天皇制を、2つめには全般的な非軍事化があげられています。「現在の憲法の下での自衛隊員は、徳川時代の武士に似ています。彼らは兵士であるが、兵士ではない。あるいは、兵士ではないが、兵士である。このような人たちが海外の戦場に送られたらどうなるでしょうか。彼らは戦わなければならないし、戦ってはならない。そのようなダブルバインド(二重拘束)の状態に置かれます。それは、たんに戦場で戦うのとは別の苦痛を与えます。イラク戦争に送られた自衛隊員のうち54名が『戦力』でなかったにもかかわらず帰国後に自殺したということがそれを示しています。」そうして、憲法一条と九条の先行形態として考えられるのは明治憲法ではなく、徳川の国制であると結論づけます。また、九条については1928年パリ不戦条約、さらにさかのぼってカントの『永遠平和のために』の理念にももとづいていると考えます。ということで次はカントの平和論です。
     「カントの『永遠平和のために』は1795年に出版されました。つまり、フランス革命(1789年)の後、周辺国家による干渉とそれに対する革命防衛戦争が起こった時期に書かれたのです。」「この本で、彼は次のように述べています。それまでの『平和条約』はいわば休戦条約であって、戦争を廃止するようなものではない。・・・『平和条約』にかわって、彼は『平和連合』を提起します。・・・カントは前者を『たんに1つの戦争の終結をめざす』もの、後者を『すべての戦争が永遠に終結するのを目指す』ものと区別します。そして、『永遠平和』は、国家間の敵対性を無化するような連合(アソシエーション)によってのみ可能である、と。」「彼は世界政府を目指すのではなく、諸共和国の『戦争を防止し、持続しながらたえず拡大する連合』を目指すというのです。」「永遠平和のための国家連合を構想したとき、カントは、人間の攻撃性、そして、暴力にもとづく国家の本性を容易に解消することはできない、という認識に立っていたのです。したがって、カントは、国際連邦を構想しつつ、それが人間の理性や道徳性によって実現されるとは考えなかった。が、それが実現されないとも考えなかったのです。それは実現される。ただし、それをもたらすのは、まさに人間本性(自然)の『非社交的社交性』、いいかえれば、戦争であると、カントは考えたのです。」何のことだか分からなくなってきた。このあと、マルクスが登場し、なお分からなくなる。それでも読み進めていこう。「カントがいう『永遠平和』とは、たんなる『休戦』ではなく、戦争の原因である国家間の敵対性が終わることです。それは実質的には『国家の揚棄』を意味します。国家は他の国家に対してあるのだから、そこに敵対性がなくなるならば、国家は存在しなくなる。厳密にいうと社会的国家は残りますが、政治的国家は消滅する。カントがいう『世界共和国』とは、そのような状態です。」
     次にカント自身のことばに耳を傾けよう。これは「永遠平和」より10年ほど前に書かれた「世界市民的見地における普遍史の理念」によるものである。ここでは人類史は「世界共和国」に向かって必然的に進むということが述べられている。「自然は人間を、戦争をとおして、また戦争へ向けてのけっして縮小されない過度の軍備、さらにまったく平和状態にある国家でさえも結局はそれぞれ内心抱かざるをえない苦境をとおして、最初は不十分ながらいろいろな試みをさせるが、最終的には、多くの荒廃や国家の転覆を経て、さらに国力をことごとく内部から消耗させた後に、これほど多くの悲惨な経験をしなくとも理性ならば告げることのできたこと、つまり野蛮人の無法状態から抜け出して国際連盟を結ぶ方向へ追い込むのである。」(「普遍史」第七命題)一文が長い、主語と述語が遠い、翻訳が悪い。要するに、自然は、あるいは神は、人間を、国際連盟を結ぶ方向へ追い込む、という。「人間の自然的素質としての『非社交的社交性』が不可避的に、敵対・戦争をもたらす。しかし、同時に、それは平和状態をも不可避的に作り出す。」ここで再びフロイトが登場する。前回にも登場した「超自我」という考え方だ。無意識的にはたらく良心のようなもの。戦争からもどった兵士たちが抱える神経症。それは、そうと意識することなくなされる戦争への批判である。文化の中にもこの「超自我」が見いだされると考えた。ここからさらに、柄谷は「贈与の力」へと飛躍する。それは、暴力・武力とも権威・権力とも違う力だ。ふつう贈与には返礼が伴う(交換様式A互酬)。プレゼントをされれば、お返しをする。子どもは育ててもらったお返しに親孝行をする。親も、いくらかはそれを期待しているのかもしれない。親の行いが子どもを動かす力となる。もう少し大きなところに目を向ける。国家による支配—服従、収奪—再分配(交換様式B)。我々は国に税金を納め、法律に従って暮らしている。国は我々が安全で安心な生活を送れるように環境を整える。国が我々を守ってくれると信じるからこそ、素直に税金を納めている。さらに近代に入っての貨幣と商品の交換(交換様式C)。古くは物々交換だったものが、いつでも何にでも交換できるということで、貨幣を欲する気持ちが強くなる。資本主義である。「資本とは、物を所有できる権利、いいかえれば、『力』を獲得しようとする欲動なのです。」柄谷はこれら3つの交換様式に由来する力とは別の力を生み出す交換様式Dを新たに付け加える。それは、厳密には交換ではない。それは「純粋贈与」と呼ばれるものだ。まったく見返りを期待しない贈与。「愛の力」といってもよい。そして、憲法九条における戦争の放棄は、国際社会に向けられた「純粋贈与」であると考える。「日本が憲法九条を実行することを国連で宣言するだけで、状況は決定的に変わります。それに同意する国々が出てくるでしょう。そしてそのような諸国の『連合』が拡大する。それは、旧連合軍が常任理事国として支配してきたような体制を変えることになる。それによって、まさにカント的な理念にもとづく国連となります。」「日本が憲法九条を文字通り実行に移すことは、自衛権のたんなる放棄ではなく、『贈与』となります。そして、純粋贈与には力がある。その力はどんな軍事力や金の力よりも強いものです。カントが人類史の目標とした『世界共和国』は、AやBやCに由来する力でなく、D、すなわち純粋贈与の力によって形成されるものです。」
     純粋贈与は本当に存在するのかという私なりの感想は次回に回そう。いよいよ最終章です。

    その3
     前回、純粋贈与ということばが登場していた。見返りを期待しない、いわゆる「愛」ということだろうか。しかし、私はこう思っている。「情けは人の為ならず」ということばがあるように、だれかのためを思ってした行為も、いずれかはまわりまわって何らかの形で自分のところにもどって来るのではないか。それを、意識しているか、していないかはあっても、無意識のレベルででも期待しているのではないかと思う。プレゼントをしたとき、「お返しとか気にしないでね」と言っておきながらも、何か返って来るとうれしい。子育てというのも、基本は一方的に与える「愛」のはずだが、それでも、将来、自分が年老いたときに面倒みてくれるのではないかと、はかない期待をよせたりもするものだ。ここで、本書には登場しなかったが、別のキーワードを紹介しよう。「ペイ イット フォワード」(恩送り)自分にしてもらったことを別の人にしてあげるということ。自分も親に育ててもらった。部活後のきたない洗濯物を洗ってもらっていた。だから、今度は自分が自分の息子の汚れたジャージを洗っている。そんなふうに考えることで、自分の行為に納得がいく。私が学びの中で感動したことがらをみなさんに伝えていく。それをまた、皆さんが他の人にも伝える。感動の連鎖。あこがれの連鎖。それがまた、時代を超えて伝わって行く。
     憲法九条の話でした。日本が文字通り九条を実行に移す。見返りを期待するわけではないが、それを示された他国が日本に対して武力を行使することはできないだろう。それどころか、そういう行いが連鎖的に広がっていく可能性がある。その先に、本当の意味での世界平和がおとずれる。少し安易すぎますか?
     本書最終章は歴史的な話が多くなる。基礎知識の足りない私にはついて行くのがしんどいが、わかる範囲で引用していこう。「アメリカがヘゲモニー国家(覇権国家、主導権をにぎっている国)となったのは、第一次世界大戦後です。それによって、それまでの帝国主義的段階は終わった。その結果、イギリスはヘゲモニー国家として没落し、それがアメリカに継承されたのです。ヘゲモニー国家が確定したという意味で、第一次大戦以降の世界は、『自由主義的な』段階です。むろん、アメリカのヘゲモニーに対しては、ドイツや日本の抵抗があり、それが第二次大戦となった。また、それ以降は、ソ連による抵抗がありました。しかし、それはアメリカのヘゲモニーを脅かすことにはならなかった。むしろ、それはアメリカをヘゲモニー国家とする世界システムを補完する役割を果たしたというべきです。」「それが終わりを告げたのは、1980年代に顕著になったアメリカの産業資本の衰退です。さらに、1990年ごろに起こったソ連邦の崩壊。この出来事は当時、アメリカの自由主義の全面的な勝利、『歴史の終焉』のように見られたのですが、まったく違います。このあとに生じたのは、第一次大戦以降否定されてきた『帝国主義』の復活なのです。もちろんそのような評判の悪い言葉が使われることはけっしてありません。そのかわりに、新自由主義といっているのです。資本=国家は、もはや遠慮容赦なく、労働運動を抑圧し、社会福祉を削減するにいたった。こうして、各国で資本の独裁体制ができあがったのです。また、アメリカのヘゲモニーの没落とともに、各地に『地域主義』的なブロックが生じました。その口火を切ったのはヨーロッパ共同体です。・・・」「1990年以降の『新自由主義』の時代は、1870年以降の『帝国主義』の時代と類似するわけです。」ということで、著者は歴史が120年周期でくり返すと主張する。「興味深いのは、近年フランスで起こっているイスラム過激派のテロリズムとそれに対する世論の反応が、120年前と類似することです。むろん、かつては〝ユダヤ″が標的となったのに、今は〝イスラム″が標的です。」「現在は、ITの発展があっても、それは労働者の雇用を減らすことになるので消費の減退に帰結する。現在の不況はそのようなものですから、これに類似するのはむしろ、19世紀末、重工業への発展によって、雇用・消費が減退したことから生じた慢性不況のほうです。要するに、現在は『帝国主義』時代に類似するのです。」(右図参照)
     「最後の問題は、没落しつつあるアメリカに代わって、新たなヘゲモニー国家となるのはどこか、ということです。それが日本でもヨーロッパでもないことは、確実です。人口から見ても、中国ないしインドということになります。しかし、次の点に注意しなければならない。それは、中国やインドの経済発展そのものが、世界資本主義の終わりをもたらす可能性があるということです。資本は自己増殖できないなら死ぬ。すなわち、産業資本は成長できないかぎり、終わってしまうのです。・・・」そして著者は、産業資本の成長条件に次の3つをあげている。「自然」が無尽蔵にある。「人間という自然」が無尽蔵にある。技術革新が無限に進む。しかし、この条件は1990年以降、急速に失われているという。そんな中、世界が戦争に向かう可能性を示唆している。「第一次大戦の場合、それが始まった時点では、4年も続く戦争になると思った人はいなかった。」「局地的な戦争はあっても、世界戦争はとうてい起こらないだろうと、今人びとは考えている。が、突発した局地的な戦争が世界戦争に発展する蓋然性(確実性)は高いのです。」「現在の新自由主義的段階も、やはり戦争を通して収束する蓋然性が高いからです。」これは2016年より以前に執筆されている。現状はさらにきなくさい。しかし希望は捨てない。「それは最悪のシナリオです。現在の状況は、世界戦争を経なければ解決できないというわけではありません。真の解決はむしろ、世界戦争を阻止することによってこそもたらされるものだと思います。その場合、日本がなすべきことでありかつなしうる唯一のことは、憲法九条を文字通り実行することです。」
     あとがきに入っても著者の筆はさえる。過去に書かれたものを引用しながら、内村鑑三がいかにキリスト教徒になったのかということと、憲法九条が守られてきたことの類似性を指摘する。それは、「自発的」にではなく「強制的」に始まったものだからこそ続いたのだということだ。「自発的」に始めたものは「自発的」に終わらすことができる。「日本で憲法九条が存続してきたのは、人々が意識的にそれを維持してきたからではなく、意識的な操作ではどうにもならない『無意識』(超自我)があったからです。」「護憲派の課題は、今後、九条を文字通り実行することであって、現在の状態を護持することではありません。」「九条を実行することは、おそらく日本人ができる唯一の普遍的かつ『強力』な行為です。」
     3ヶ月かけて1冊読み終えました。なかなか骨の折れる仕事でした。憲法九条は選挙のときも必ず争点になります。みなさんもぜひこの機会にじっくり考えてみてください。日本の平和、世界の平和について。私たちは未来への責任も負っているわけですから。

    (1回目)憲法九条が執拗に残ってきたのは、それを人々が意識的に守ってきたからではない。もしそうなら、とうに消えている。人間の意志などは気まぐれで脆弱なものだから。九条はむしろ無意識の問題である。なるほど。マッカーサーは、九条よりむしろ一条、天皇制を残したかった。それを諸外国にも納得させるために九条を入れた。なるほど。この憲法は戦後、強いられたものであった。だからこそ、捨て去ることが出来ない。これを、内村鑑三のキリスト教信仰との類推で語られるが、ちょっと分かりづらい。カントの平和論、いったん戦争があって、その後、国際連合などがつくられ平和が維持される。分かったような分からないような。歴史は120年周期で繰り返される。だから日清戦争の頃を想起せよ。そこからきっと得られるものがあるはず。きっとその通りだろう。九条を日本が再度世界に訴える。見返りを求めず、純粋贈与として。それが世界平和への突破口となる。その通りだと思う。いくつかの講演会をもとに本書は出来上がっています。いつもながら強い説得力で引き込まれます。

  • いつもながらの柄谷氏の斬新な視点がとても好きです。

  • フロイトやカント等を引用しながら、「日本が見返りを求めずただ憲法9条を愚直に実行する(具体的な定義は言及されていない)ことが、世界平和の第一歩になる」という論旨。

    フロイト(マゾヒズムの経済論的問題)
    最初の欲動の、断念は外部の力によって強制され、それによって倫理性が生まれ、良心となり、欲動の断念をさらに求める。

    カント(普遍史)
    自然は人間を、戦争とその悲惨な経験を通して、国際連盟を結ぶ方向へ追い込む

    憲法の先行形態
    徳川の体制は、さまざまな点で第二次大戦後に類似する。象徴天皇制、非軍事化

    日清戦争時との類似性
    ヘゲモニー不在ゆえ、大戦争がありうる。

    だからいまこそ、世界平和への道を。

    →歴史描写は面白いが、交換理論あたりから、ついていけなくなった。学生団体シールズ&世論におもねいただけではないと思いたいです。

    →しかし、落ちぶれる米国にからむ主導権争いが戦争を呼ぶ、という点は、なるほど。トランプ米国がその引き金になるかもしれない。

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著者プロフィール

1941年兵庫県生まれ。東京大学経済学部卒業。同大学大学院英文学修士課程修了。法政大学教授、近畿大学教授、コロンビア大学客員教授を歴任。1991年から2002年まで季刊誌『批評空間』を編集。著書に『ニュー・アソシエーショニスト宣言』(作品社 2021)、『世界史の構造』(岩波現代文庫 2015)、『トランスクリティーク』(岩波現代文庫 2010)他多数。

「2022年 『談 no.123』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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