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Amazon.co.jp ・本 (256ページ) / ISBN・EAN: 9784004316039
みんなの感想まとめ
建築家の丹下健三の活動や思想、彼が残した影響を探る内容が展開されています。特に、戦後の彼の設計理念や作品の変遷に焦点を当て、広島平和記念公園などの公共建築における「軸線」の重要性が詳述されています。こ...
感想・レビュー・書評
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以前、通勤路に丹下健三氏設計の建物があって、毎日の様に目にしていたため、興味を持ち手に取る。
昭和において世界の丹下と呼ばれた建築家について、概論的な書籍。
戦前から活動している建築家だが、本著では戦後の活動のみが触れられる。
氏の設計が時代や設計物によってどの様に変遷していったのか、都庁から海外都市設計まで触れられていく。
後半では弟子筋の建築家たちも紹介されていく。
丹下氏について興味を持っていたので前半部分はスイスイ読み進められたが、後半の丹下シューレの方達の話は若干興味が薄れていた。
建築や都市設計がいかにダイナミックな仕事か、学べた。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
259P
谷口吉生が好きなんだけど、谷口吉生は丹下健三に弟子入りしてたからこの本に谷口吉生の事が書かれてたのが良かった。谷口吉生は大学に行くまで父親と同じ建築やろうと思ってなかったから、建築学科がない慶応の機械工学科に進学したけど、大学生の時に清家清から建築に誘われたからハーバード大建築学科行ったってストーリーは知らなかった。
丹下健三はカトリック(洗礼名ヨゼフ)だったんだけど、建築って宗教とかなり関係あると思うし、私の感覚的に無神論者に美しい建築は出来ないんじゃないかと思う。
好きな日本人建築家は伊東忠太、丹下健三、谷口吉生だけど、谷口吉生自身は丹下健三事務所に行ったから影響受けてるよな。
丹下建築のヒューマンスケールでない感じ本来なら苦手なはずなんだけど、丹下建築に限ってはかっこよすぎるから受け入れられるんだよね。代々木体育館のフォルムなんてあれ誰が思いつけるんだよ。だから丹下健三って日本建築界の神に近い人なんだと思う。
岩波新書、丹下健三もKindleUnlimitedに来てる。一番好きなのは代々木体育館だけど、日本の建築家でも丹下健三は別格だと思うな。
豊川 斎赫
(とよかわ さいかく、1973年- )は、日本の建築家、建築史家、千葉大学准教授。仙台市生まれ。1992年宮城県仙台第一高等学校卒、1997年東京大学工学部建築学科卒、2000年同大学院工学系建築学専攻修了。株式会社日本設計に勤務。2007年「丹下健三研究室の理論と実践に関する建築学的研究」で東京大学工学博士。2007年国立小山工業高等専門学校准教授。2017年千葉大学工学部都市環境システム学科准教授[1]。専攻・建築史、都市デザイン[2]。
「冒頭の文章が雑誌に掲載された一九五〇年代半ば、丹下が美容整形的なデザインと機能主義的なデザインについてどのように理解していたか、簡単に振り返ってみたい。まず前者について、当時、戦勝国アメリカではジャパニーズ・モダンと称されるオリエンタルな和風デザインが流行していた。そして、ジャパニーズ・モダンは欧米人の認めるデザインとして日本に逆輸入されたが、これに対して、丹下は表層の細部をいじっただけの美容整形的な「インチキ」だ、と批判していた。 また後者について、丹下は機能主義を信奉する同業者から、社会の実相に向き合わず、雑誌に掲載される竣工写真の美しさばかり気にするのはけしからん、と批判されていた。ここで言う社会の実相とは、当時の日本の工業生産水準であり、民衆の生活水準を指す。丹下を批判する機能主義者たちは、民衆に寄り添い、日本の低水準な工業製品を素直に使いつづけることが機能主義的で素朴な美しさにつながる、と純粋に信じていた。こうした設計スタイルはテクニカル・アプローチと呼ばれ、天才的な建築家一人による設計ではなく、皆が平等に知恵を出し合う共同設計が模索された。今日的にいえば、インターネット上の無数の情報を結び付け、みんなの力で社会問題の解決を図る、アノニマス・デザイン(匿名的思考)の先駆けとも呼べるだろう。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「では、丹下は実際にいつも一人で設計し、天才的な構想力を発揮していたのかといえば、そうではない。一九七三年まで、丹下の設計は大学の研究室で行われ、研究室に所属する卒論生や大学院生らとの協同作業からいくつもの傑作が生み出されていった。極論すれば、丹下の構想力の基盤は研究室にあった、と言えよう。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「ここで、丹下健三について簡単に紹介しておきたい。丹下は一九一三年大阪府に生まれ、一九三八年東京帝国大学工学部建築学科卒業後、前川國男建築事務所に就職し、岸記念体育館等を担当した。退職後、東京帝国大学大学院に入学し、大東亜建設記念造営計画設計競技にて一等となる。丹下は戦後、東京大学建築学科助教授となり、丹下研究室内で独自の都市解析を進める傍ら、戦後日本の復興を象徴する数々の公共建築の設計を手がけた。この間、丹下研究室から多くの著名な建築家、官僚が輩出されたことでも知られる。 一九七四年東京大学を定年退職後、中近東、アフリカ、ヨーロッパ、シンガポールなどで広大な都市計画、超高層計画を実現し、「世界のタンゲ」と呼ばれるに至った。代表作に広島平和記念公園、旧東京都庁舎、香川県庁舎、国立屋内総合競技場、東京カテドラル、山梨文化会館、大阪万博お祭り広場、アルジェリア・オラン総合大学、ナイジェリア新首都計画、新東京都庁舎などが挙げられる。 本書では丹下自身をはじめ、丹下研究室で建築を学んだ門下生を「丹下シューレ」(丹下学派)と呼び、その中から、浅田孝、下河辺淳、大谷幸夫、槇文彦、磯崎新、黒川紀章、神谷宏治、谷口吉生といった八人にスポットを当ててみたい。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「丹下が考える「新しい生活」とは何か 一九四九年三月、横浜で日本貿易博覧会が開催された。ここで丹下は外国館内部の展示を任され、「新時代の生活と技術」をテーマに掲げた。その背景には、生活とその環境についての世界の水準、ならびに将来への動きについて観衆に知ってもらいたい、と丹下が願ったことがある。この結果、以下のような明快な見出しと共に、たくさんの写真を大きく引き伸ばし、展示が行われた。一 新しい時代がはじまっている。(ロックフェラーセンターの空撮)二 都市、建築、工芸すべてに新しい精神がみなぎっている。(モダンデザインの写真)三 しかし問題がないのではない。(朝の通勤ラッシュ風景)家庭の主婦の生活は?(豊かな食事を楽しむ男女 アメリカ映画の一コマ?)四 生産力の上昇がひとびとの生活の向上をもたらしてゆく。(アメリカ TV Aの紹介)五 技術化、合理化によって家庭生活の能率がたかめられていく。さらに生活の集団化、共同化がひとびとの生活の向上を保証している。(低収入家庭のためのコミュニティ、田園都市などの写真)六 世界は新しい都市をつくりつつある。(ル・コルビュジェの計画紹介)」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「当時の丹下は、マルクスについて他の建築家以上に学習し、 NAUに勧誘されたものの、ついに参加することはなかった。というのも、丹下の妻・とし子が「共産主義そのものは否定しませんが、組織に入って活動するのは反対です」と主張し、丹下もこれを受け入れたためであった。一九五〇年代、 NAUに参加した日本の建築家たちはマッカーシズムによって渡航を禁じられたものの、 NAUに参加しなかった丹下は比較的自由に欧米に渡航できたのである。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「一九四九年八月六日、広島平和記念都市建設法が公布され、恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設することとなった。この法案が公布されるしばらく前、イギリス出身の建築家で進駐軍の広島市建築・都市計画顧問を務めたジャッピー氏は、原爆被災者の慰霊を目的として五重塔のような鐘楼を建てることを検討していた。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「丹下はこの施設の計画に込めた意味合いを以下のように説明している。平和は訪れて来るものではなく、闘いとらなければならないものである。平和は自然からも神からも与えられるものではなく、人々が実践的に創り出してゆくものである。この広島の平和を記念するための施設も与えられた平和を観念的に記念するものではなく、平和を創り出すといふ建設的な意味をもつものでなければならない。わたくし達はこれについて、先づはじめに、いま、建設しようとする施設は、平和を創り出すための工場でありたいと考へた。その「実践的な機能」をもつた工場が、原爆の地と結びつくことによつて、平和を記念する「精神的な象徴」の意味を帯びてくることは、極く自然のことであらう。 「廣島市平和記念公園及び記念館競技設計当選圖案一等」一九四九年 丹下は、平和が与えられるものではなく、実践の中から作り出してゆくものであることを強調したが、その理由の一つに、進駐軍の検閲で広島の原爆被害の現状を自由に報道することができなかったことが挙げられる。つまり、戦後日本の「新しい生活」のモデルは自由と民主主義の国アメリカであり、一方で広島に原爆を投下して厳しい情報統制を強いたのもアメリカであった。こうしたアンビバレントな状況下で、戦争のない、新しい社会を建設するためには、輿論を惹起して、市民一人ひとりが行動に移す必要があった。「平和を創り出す工場」としての機能が付与された広島平和記念公園こそ、戦後日本の市民社会の形成に重要な意味を帯びることとなったのである。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「一九三八年、フランスはコルビュジェに集合住宅の設計を委託し、マルセイユにユニテを設計している。この集合住宅の足下はピロティで構成されているが、陳列館と同じ変形断面の柱を採用している現場写真が雑誌『新建築』(一九四九年一二月号)でも紹介されている。しかし、コルビュジェのピロティは同じ変形断面が連続するが、丹下の陳列館のピロティは一本一本の柱の断面がダイナミックに変形しており、模倣の域を超えていた。 また本館は、陳列館とは対照的に水平垂直の細いプロポーションが追求されている。丹下は大量の図面を引いて検討を重ねたものの、どの一本の線も、自信を持って引くことができなかった。同時に、指物大工が作ってくれた幾種類かの柱と梁の組合わせの模型のそれぞれのプロポーションのなかから、何に頼って選択すればよいだろうか、と逡巡している。その際に、丹下が頼りにしたのが桂離宮のプロポーションであった。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「イサムノグチは日本人の父とアメリカ人の母を持ち、戦前にアメリカで生まれた。その後、イサムは彫刻家として活躍しはじめ、戦後来日した際の歓迎会で丹下と出会っている。この時、イサムは、日米の血が流れる者として広島で平和共存の夢を託す仕事がしたい、という希望を丹下に伝えた。その後、朝鮮戦争が勃発する前日の一九五〇年六月二四日、イサムは丹下研究室に立ち寄っているが、広島平和記念公園の図面や模型を見て、ますます創作意欲がかき立てられた、と推測される。 一九五一年春、いよいよ陳列館の現場工事が始まった。建設省は敷地の南を東西に走る一〇〇メートル緑道(現在の平和大通り)に二本の橋を架ける工事に取り組んでいたが、この橋の欄干のデザインを丹下に依頼した。丹下は広島でイサムとコラボレーションすることに前向きで、浜井信三・広島市長と建設省の了解を得て、欄干のデザインをイサムに依頼することにした。イサムは敷地から見て東側の平和大橋について、昇る太陽と生きる力のイメージを重ね合わせ、欄干を太く、力強いデザインとした。さらに末端部分で空に向かって跳ね上げ、半球体を取り付けている。一方の西平和大橋では、東よりも細めの欄干を二本並行させ、末端部は日本の古い舟をかたどっている。これは死後、船に乗ってあの世に静かに去って行くという世界観に基づくものだった。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「一九五一年七月、丹下はイギリス・ロンドン近郊のホッデストンで開催される第八回 CIA M(近代建築国際会議)に招聘され、国際的に活躍する建築家たちの前で、広島計画をプレゼンテーションする機会を得た。丹下は幾度もプロペラ機を乗り継いでロンドン入りしたが、その直前にローマに立ち寄っている。そこでは、かねてから憧れていたミケランジェロの建築や彫刻を堪能し、古代ローマ遺跡が「神々の尺度」で貫かれていることに感嘆している。 一般に、近代建築は「人間の尺度」(ヒューマンスケール)に基づくとされ、これは椅子の座面高さや天井高さなど、さまざまな建築のサイズは平均的な人体寸法から割り出すのが正しいとされた。しかし丹下は、近代社会が群衆によって成立することに注目し、数万人もの群衆を一度に受け入れる尺度として「社会的人間の尺度」に言及する。これは古代ローマの「神々の尺度」に通ずるものであった。丹下は広島平和記念公園が数万人の慰霊祭参加者を迎え入れることを想定し、「神々の尺度」に近しい「社会的人間の尺度」で広島計画全体を構成したが、古代ローマの遺跡を自らの眼で見て、その構想への確信を深めるに至った。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「当時、日本の国土計画には二つのアプローチが示されていた。一つ目のアプローチは、都市計画的な現実から出発する国土計画で、都心への人口集中を避けて、都市の分散を唱える発想によるものである。これは都市計画家・石川栄 の生活圏構想に代表され、半径五キロメートルの日常圏、半径一五キロメートルの週末圏、半径四五キロメートルの月末圏、半径一三五キロメートルの季末圏の中で職住近接の生活を送る、という構想であった。ここでは長時間の通勤地獄が解消され、都市と農村の均衡が図られ、今日の国土交通省が主導するコンパクトシティに近しい発想であった。 二つ目のアプローチは、経済学的、社会学的な観点から国土全体を把握する方法で、エネルギーや工業立地の合理化が主眼に置かれている。これは今日の経済産業省が主導するスマートコミュニティにつながる。 一つ目のアプローチである生活圏構想と丹下のスタンスとの違いは、都心への人口集中を肯定する姿勢に集約される。丹下の見解に従えば、人々は雇用や学習の機会を得るために都心に向かうのであり、人々が自らの意志に基づいて都心へ向かう力こそ戦後経済復興の礎であった。このため、丹下は生活圏構想が人々の移動の自由を奪い、人々を仕事の乏しい田舎に貼付け、実質的に国民生活を向上させない、と考えていた。また二つ目のアプローチは、丹下にとって抽象的な議論に止まり、具体性に欠けていた。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「丹下は一九五二年に行われたコンペで一等を取り、東京都庁舎の設計を担当することとなった。この敷地には現在の東京国際フォーラムが建っており、最寄り駅は JR有楽町駅で、文字どおり東京の都心と呼べる場所であった。丹下案が採択された理由として、明晰な分析と近代性が追求され、交通処理の問題における都市計画的な深い考察がなされた点が挙げられる。 丹下は都庁舎の計画を始めるにあたって、有楽町以外にも大手町、神田、月島、市ヶ谷、新宿といった他の地域に都庁を移転した際の長所・短所を整理している。これを要約すれば、有楽町は他の地域に比べてアクセスしやすい場所だが、周辺の鉄道網のために将来計画が立てづらく、自動車渋滞や騒音問題もひどかった。 丹下は、自動車渋滞の緩和を目指して、都庁舎へ向かう歩行者の移動を中二階レベルに設定していた。これは、将来的に都庁周辺一帯にペデストリアンデッキ(空中歩廊)が設置されることを予想し、まず都庁舎の敷地内で自動車と歩行者の移動を円滑に分離しようとしたのである。都庁舎を訪れた歩行者は、まず一階の吹き抜けピロティにアクセスするが、このピロティは都民に解放され、自由に集える場であった。さらに、ピロティの奥にはエレベーターや階段、空調シャフトなどを納めた建築のコアが据えられ、庁舎を訪れた人々は用件のある階にエレベーターや階段でアクセスすることになる。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「ペリアンは丹下が尊敬して止まなかった建築家ル・コルビュジェのパートナーとして活躍した女性アーティストであり、インテリア・デザインでも顕著な功績を残していた。丹下にとってコルビュジェとペリアンの協働は、建築家とアーティストの理想であった。また、ペリアンの作成した椅子が単板を巧みにカットしたインダストリアルなものであったが、丹下は「玉串の紙型にも似て、日本の古代を思わせる」と高く評価していた(『美術手帳』一九五五年五月)。 その後、都庁舎のインテリア・デザインを検討した際、丹下はペリアンのデザインしたテーブルや棚を知事室に用いている。丹下はペリアンの家具のボリュームがコンクリート打放しの都庁舎のボリュームに対抗できている、と考えていた。ここでいう「ボリューム」とは、質感などを含めた存在感全体を指すと考えられ、家具と建築はそもそも大きさがまったく異なるが、ペリアンの家具と丹下の都庁舎が存在感において拮抗していたのである。 一方、岡本太郎は、丹下から都庁舎ピロティの巨大な壁面に陶板を設置してほしいと依頼されている。当時の岡本の考えでは、日本の建築家にとって芸術作品は単なる装飾であり、建築の余白を埋める一要素でしかなかった。つまり、岡本自身の陶板も平凡なアクセサリーに成り下がってしまう危険性をはらんでいた。 岡本は、これを打ち破るべく、丹下との協働を以下のように位置づけている。 「建築と芸術の本質的な協力は、相互の異質の徹底的な自己主張による激しいディスカッション、問題のぶつけ合いによって、新しい次元をひらくことだ。(中略)壁画が安易に建築に調和するのではなく、むしろそれをひっくり返すものとして入る。つまり建築にほとんど必要的にそなわった合理性、機能性に対し、人間本来の混沌、非合理性を強烈につきつける。それによってかえって建築全体の本質的な生活空間、居住性がうち出される。」(『新建築』一九五八年六月号) 岡本にとって芸術とは、建築に従属する装飾ではなく、混沌を秘めたものであり、建築の普遍的な合理性と対立的に秩序づけられるものであった。岡本の芸術に対する熱い思いは東京都庁舎ピロティのカラフルな陶板に反映されたが、公共空間には不釣り合いだと批判する者もいた。しかし、丹下は建築、絵画、彫刻という諸芸術の総合が公共の場で必要だと確信していたため、そうした批判には耳を貸さなかった。丹下にとって、岡本とのコラボレーションは対立を含んだ統一であり、加算ではなく積分された総合(インテグレイション)となることを期待していた。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「 都庁舎の竣工後、想定された収容人員をオーバーし、人口過密なオフィスとして批判されたが、それ以上に丹下を悩ませたのが、ルーバーの の問題であった。都庁舎の外周を覆うルーバーは鉄製であったが、これは薄い鉄板を折り曲げて空洞の箱を作り、それらを溶接してバルコニーの先端に取り付けていた。その際、表面のベコつき、溶接による歪み、仕上げの不手際などから水抜きが徹底されず、防 塗膜のない部分から が発生した。 丹下の建築はそれまで、ディテールがない、質感に乏しい、と批判されてきた。つまり、周辺環境と建築の関係や、建築そのもののプロポーションは抜群であったが、それを構成するガラスや鉄といった素材の扱いに力が注がれていないことへの指摘であった。この問題について、都庁舎の監理を担当した大谷幸夫は、戦後日本の建築産業水準が著しく低く、丹下が期待する造形を実現することが難しかった、と述懐している。 さきに触れたとおり、丹下の師にあたる前川國男やその周辺では、テクニカル・アプローチと呼ばれる方法が唱えられていた。無骨でみっともないプロポーションであろうとも、日本の産業水準に呼応した材料で建築を作ることを推奨した。この背景には、日本は欧米から近代建築を形として移入しているに過ぎず、近代建築を実現する基盤を欠いている、という時代認識が共有されていたことが挙げられる。テクニカル・アプローチを推奨する側から丹下の都庁舎を見ると、戦後日本の現実を顧みず、一足跳びに美しい近代建築を実現させた結果、ルーバーから が出たのは、文字どおり「身から出た 」 であった。つまり、下部構造に裏打ちされない戦後日本の近代建築の短所が、都庁舎の外装にストレートに浮かび上がったのである。 総じて、丹下が一九五〇年代の国土と都市、とくに首都である東京を統計数学の視点から把握し、近代都市特有の人口動態に即した都市建築のプロトタイプを生み出したことは高く評価できよう。しかし、戦後日本の建築産業の基盤は決して盤石ではなく、建築家の構想力が下部構造の可能性を引き出すには、一九六四年の国立屋内総合競技場まで待たねばならなかったのである。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「広島平和記念公園が竣工した一九五〇年代前半、世界各国で建築の伝統と近代主義の関係が取沙汰されていた。そもそも近代建築は合理性や機能主義を標榜し、過去の様式を排除しながら西欧各国で発展してきた。ロシア・アバンギャルドと呼ばれる革命的な建築家たちも近代建築の発展に大いに寄与したが、一九三〇年代以降、ソ連の表舞台から消えてしまう。彼らの先鋭的なデザインに代わって、モスクワではスターリンの指導のもと、人民のための宮殿として新古典主義的な高層ビルが建設されたのである。この動きは左翼を自認する建築家たちのなかで議論の的となっていた。 ハンガリーの批評家ヨージェフ・レーヴァイは、歴史的要素を切り捨てた近代建築は反人間的であり、富裕層のための快楽的な建築に堕落しがちだと批判する。一方の古典回帰的なスターリン建築に対しては、権力表現とみなして距離を置いた。レーヴァイが着目したのは、ハンガリーの歴史に根ざし、「進歩的伝統」に即した、人間に奉仕する建築であった。言い換えれば、各々の国の風土や社会背景を踏まえつつ、裕福でない民衆が自分自身の建築とみなせる近代建築、現代の民衆の感情を表白する近代建築の出現を期待していたのである。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「一方で、県庁舎のインテリア・デザインについて、丹下は剣持勇と協働して知事室の家具を設えているが、丹下は剣持に対しても丹下モデュロールの徹底を要求した。そもそも身体スケールに調和するためにモデュロールは用いられるが、丹下モデュロールは都市と建築をつなぐ手法で調整されたため、小さい数値は洗練された家具やこなれた手すりをデザインするには不向きであった。例えば、香川県庁舎の立面図を描いた際、低層棟下ピロティに階段の手すりが現れるが、これは丹下モデュロールに従ってデザインされた。遠方から庁舎を捉えた際、丹下モデュロールに沿った手すりは建物全体と調和しているが、実際に目の前で手すりを握ると非常にごついものになった。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「さらに、丹下の眼から見て、加納案にはマスタープランがなく、利益優先の不動産業者が場当たり的な埋立開発をするのがオチであった。丹下は MITでの設計課題として new community on the bay を出題し、ボストン湾上に高速道路と五〇〇〇人規模の集合住宅の複合体を計画させている。これはアメリカの学生らに新しい海上都市の雛形を模索させるため、と考えられる。 二つ目の側面として、丹下自身が自ら構築した都市モデルに変更が迫られていた点が挙げられる。一九五〇年代、丹下は東京都心への人口集中は経済復興のためには必要である、という立場をとった。そして、人口集中が極点に達する都心・有楽町において諸矛盾を止揚する公共建築のプロトタイプを生み出そうと努力してきた。また、それを裏付けるべく、同心円の統計モデルを作り、東京都心からの距離で人口動態を把握しようとした。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「一九六〇年代に入り、丹下は国土開発に資する人材を育成する都市工学科を立ち上げ、国土開発に関連するプロの集う地域開発センターを組織し、その成果を国土開発地図として可視化した。さまざまな分野のプロが集う中で、丹下は歴とした建築家であったが、異分野のプロのための共通言語を作る役割に徹していた点で特異であった。つまり、他の業種から見て建築家のイメージは、どこか文化人気取りで、理解しがたい詩的な言葉で聴衆をけむに巻き、大胆な造形と称して粗大ゴミのような建築を量産する不逞の輩であった。丹下はそのイメージを払拭し、異分野の人々のコミュニケーションを促進するプラットフォームの構築に力を注いだ点で高く評価される。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「その後、一九三六年七月にベルリンで IOC総会が開かれ東京への招致が決定した。丹下の師にあたる岸田日出刀は、この直後に開催された第一一回オリンピック・ベルリン大会を視察している。岸田の渡欧の目的は東京大会の施設計画を立てるためであった。岸田は、ベルリンのメインスタジアムが約四〇万坪(約一三〇万平方メートル)の敷地の中に立つのを見て、とても神宮外苑に一〇万人規模のスタジアムは作れないと直感する。ちなみに、日本スポーツ振興センター( JSC)の公開資料によると、二〇一五年に撤回された建築家ザハ・ハディドによる新国立競技場の収容人数は約八万人だが、敷地面積は約一一万三〇〇〇平方メートルで、ベルリンの一〇分の一にも満たない。 帰国後、岸田は一九三七年四月一九日付の『帝大新聞』に、「依然外苑案は不可」という論考を寄せている。このなかで岸田は、紀元二六〇〇年に開催されるオリンピックゆえに神宮外苑での開催にこだわる人々に共感しつつも、以下三点の理由から外苑案に難色を示している。そもそも一〇万人規模のスタジアムを建設するにしては外苑敷地面積が狭隘である。次いでスタジアムが大きくなるとせっかくの神宮外苑の風致を害する。さらに完成して間もない神宮外苑競技場を壊すのは忍びない、というものであった。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「設計者に選出された同月、丹下は株式会社都市・建築設計研究所( URTEC)を渋谷区南平台に構え、代表取締役に丹下研究室の神谷宏治をあてた。丹下の指導のもと、神谷らは設計場所を本郷の東大工学部一号館から南平台に移し、一九六二年五月、 URTECが国立屋内総合競技場の実施設計を担当することとなった。本来ならば代表取締役は丹下であり、丹下の名前で諸々の公的書類が提出されるべきである。しかし、丹下は当時東大教授で、私企業の代表を務められなかった。このため、一九六二年一〇月、神谷が屋内総合競技場計画通知提出状の代理人に委任されている。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「また、丹下と坪井は、今治市公会堂(一九五八年竣工)で折板構造に挑戦している。「折板」とは、読んで字のごとく、紙を折って壁のように自立させる構造で、屋根部分も壁と同様に折られている。つまり、壁も屋根もジグザグに折れた状態のコンクリート造で、香川県庁舎で試みた水平垂直な柱・梁とはまったく印象の異なる構造であった。なお、今治市公会堂の屋根のスパンは二七メートル程度であった。 一九五〇年代、丹下は坪井と共に多くのコンクリート・シェルに取り組み、その都度、難易度の高い構造に挑戦してきた。この背景には、素早く施工できるものの、材料代の高い鉄骨造に比して、手間暇のかかるコンクリート・シェルの方が安く施工できたことが挙げられる。言い換えれば、一九五〇年代の日本は人件費の安い発展途上国に属し、建設現場で鉄骨造以上にコンクリート・シェルが重宝されてきた。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「 しかし、コンクリートの打設は天候や季節に左右され、駿府会館では竣工後に室内の梁の一部が客席に落下する事故が発生した。幸い、けが人は出なかったが、工期の短さや、雨天時にコンクリートを打設したことなどが理由として挙げられる。不特定多数の市民が集う大空間をコンクリート造で覆うことは明らかにリスクを伴う。コンクリート・シェルに代わる大空間を覆う手法の開発こそ、一九六〇年代の丹下と坪井の共通の課題となった。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「 かつて西欧社会における教会は、天と地を、彼岸と此岸を結ぶ場としての役割を果たしたが、近代社会において国立屋内総合競技場がその役割を担えるのかが問われていた。極論すれば、国立屋内総合競技場は色欲に塗られた渋谷や原宿とは一線を画し、聖なる場となり、象徴としての建築となりうるか、という問いであった。 丹下はこの問いに対して一九六五年の段階で「イエス」と答えた。しかし、それから一〇年も経たぬうちに、中東のオイルマネーの渦中に飛び込んでいった。象徴としての建築からネオリベラリズム(民間活力と規制緩和)の建築へ。筆者の見方では、両者のミッシングリンクを取り結ぶものとして大阪万博が位置づけられる。これが次節のテーマである。そして、丹下が中東や東南アジアで何を経験し、バブル期の東京に何を還元したのかが次章のテーマとなる。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「 こうしたなか、丹下はサウジアラビア政府から南部地域開発に関する調査研究を依頼され、一九七四年五月に作業を開始している。この研究はサウジアラビア南部地域を構成する五つの主要都市を対象とした。報告書の中では、現況の要約、人口動態と住宅事情、雇用、公共施設、観光、交通、主要インフラ(電力・水など)、地区計画の順に整理され、一九九五年頃を目処とした地域の将来像が描かれている。丹下の提案がこの地域の発展にどれほど寄与したか定かではないが、七〇年代以後の国家主導の開発計画は、遅れていた社会資本を整備し、石油関連産業を中核とする国内産業全体の発展を促し、国民へ石油収入を再配分することで社会の安定性を高めた、と評する識者もいる。一方で、丹下は石油ブームによる開発ラッシュが中東諸国にもたらした弊害をこう指摘している。この二〇年間を振り返ると、中東各国はまさに隔世の感がします。どこも国づくりを進め、西欧的な都市を建設してきました。しかし、石油ブームにのって開発をあわてすぎたのかもしれません。また、本来、労働を重視しない考えがあるのでしょうか、口きき料などによる収入のみを求め、自らは働かない傾向が目立つようになってきています。石油収入が国民をスポイルしたといえるでしょうか。 「発展期の中東 都市づくりに貢献して」一九八六年」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
読み終えた。丹下の伝記でかなりヒロイックに書かれている。丹下が中東等、国外で活動していた時期をほとんど知らなかった。丹下や丹下シューレの活躍を見るとアツい。
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豊川斎赫『丹下健三』(2016年、岩波新書)を読了。戦後の焼け野原に、圧倒的なスケール感に基づく構想力で都市を設計した建築家に迫る一冊。専門的な言葉も混じるが、一般向けの新書らしく総じて読み易い。興味深いのは1970年代から80年代の海外、主に中東とアフリカでの仕事に対する著者の評価だ。
岩波新書「丹下健三」読了。建築家というより都市空間デザイナーだったのかなあと。70年頃まで、未来への構想や希望を空間に具現化していたが、アジア中東の独裁者のシンボル建築・都市計画に携わるうち、「世界のタンゲ」ともてはやされバブル期にバブリーなビルを建てるという展開がなんとも。
「一九七四年二月、丹下とカーンは各々の案を持ち寄り、すり合わせを行った結果、以下五つの原則を定めることに合意した。一つ目に、自然の美しい地形とその起伏を最大限に残すこと。二つ目に、この地区をテヘランの南北軸と東西軸の交差する新都心であることを構造上明確にすること。三つ目に、中央に広場を置き、イラン二五〇〇年の歴史を象徴する文化の中心とすること。四つ目に、住居はこの地区の周辺に配置し、一部は山の頂に立つ塔状アパート、一部は谷を橋渡すような橋状のアパートとすること。五つ目に、都心の広場はイスファハーンに見られるような建築の諸原型を持ち、地区全体のシルエットにはペルセポリスにそびえ建つ列柱のシルエット・イメージを与えること、であった。 しかし、これをもとに作業を進めようとしたのも束の間、同年三月、カーンは地元フィラデルフィアの駅で亡くなってしまう。この結果、丹下はカーンの思想を取り込んだ形で最終案を作成している。その後、この地区の開発はイギリスのルーエリン・デイビス・アソシエイツが引き継ぎ、南北軸をつくって東西に住宅群を配置する、という基本概念が生かされている。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「丹下がデザインしたホテルやマンションが偶像破壊の対象になったか否か判断しかねるが、一九七七年、テヘラン大学建築美術部長 Mehdi Kowsar はイランに持ち込まれた近代建築について冷ややかに次のように言及している。「誰もが近代建築を何か「新しい」ものとして受け容れはしたが、結局のところ、それは未消化のままに留まっており、所 、 その文化の形成には誰も寄与していないのである。(中略)結果的にみると、建築様式にせよ、建築工学にせよ、建築材料にせよ、ひどく間違った方法で用いられてきた。なぜなら、これらのある部分は西洋の社会的、文化的、歴史的なコンテクストの中においてのみ、意味をもつものであった。」 これを読むかぎり、丹下がイランに持ち込んだ近代建築は、中東諸国のコンテクストの中で意味を持ちえず、文化の形成に寄与できなかった可能性が高い。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「一九世紀以来、アルジェリアはフランスの植民地であった。しかし、独立戦争を経て一九六二年三月、アルジェリアはフランスと休戦と独立を約束するエビアン協定を締結、一九六五年にはブーメディエン政権が樹立される。この政権は、社会主義を掲げて土地改革や外国企業の国有化政策を推し進め、国民の生活向上を図るため、数次にわたる経済開発計画を策定、遂行した。日本の民間では、伊藤忠商事が他の商社に先駆けて一九六四年にアルジェリアに事務所を開設し、油田開発プロジェクトに深く関与することになった。 一九七一年、丹下はアルジェリア政府からオラン総合大学建設プロジェクトへの参加を依頼される。当時、アルジェリアでは文字が読めない人の割合が七五パーセントに達しており、高等教育を担う教員の絶対数も不足していた。また、国家の経済発展を担うエンジニアや医者の数も不足していたため、大学建設は将来の国家運営に直結する重要課題であった。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「ここで、中東やアフリカ諸国で丹下が携わったさまざまな計画のなかで、丹下がいかに依頼先の地域の伝統装飾や建築様式に向き合ってデザインしたのかを考えてみたい。この問いは、丹下が一九八〇年代半ばに設計したシンガポールの超高層ビルや東京都庁舎の外装を考える上での興味深い補助線となる。 一九七〇年代後半、カタールのガバメント・センターを設計した際、丹下は施主から「アラベスクの装飾をあちこちに付けてほしい」と依頼されている。しかし、丹下はモダニストを自認していたために、「そういう装飾は使わない」と強く拒否した。これに対して施主は「アラベスクはわれわれの文化だ」と反論するや、丹下は立腹して席を立ち、出て行ってしまった。一九五〇年代の広島平和記念公園以後、丹下の設計した建築は大半が鉄筋コンクリートの打放し表現であり、可能な限り装飾を排した丹下にとっては当然の反応だったかもしれない。 一方で、一九八〇年代初頭に取り組んだナイジェリア国会議事堂の外装では、当地で古くから伝えられるプリミティブ・アートの柄が採用されている。というのも、 URTECの担当スタッフが、ナイジェリアの伝統、歴史、文化を外装に反映すべきでないか、と提案したことが発端であった。これに対して、丹下は利用可能な柄を探すようスタッフに指示し、丸、三角、四角を用いた力強く原始的なデザインを採用するに至った。 ここで、広島から、カタール、ナイジェリアに至る過程で起きる、外装に関するわずかな変化を読み解くと、五〇年代の丹下が担った施設は海外プロジェクトに比して小規模で、自らの思想をダイレクトに表現する機会に恵まれたといえる。七〇年代に入って、丹下は巨万の富を持つ複数の施主の期待に応えようと、東京計画 1960や三次元都市構想をもとに、数十万平方メートルにも及ぶ巨大施設を次々とデザインした。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「シンガポールの体験は私たちにとって貴重なものでした。シンガポールから世界が見えてくるように思われます。それに反して日本にいると世界が分かりにくくなります。日本にはまだまだ鎖国的な領域が多過ぎて、それが国際化をはばんでいるように思われます。 「シンガポールでの設計活動」一九八七年 さきに触れたとおり、丹下はシンガポールが陸地の土地売却益によって公共交通を整備した点に強い関心を示している。これは国鉄用地売却益によって臨海を開発し、さらに臨海の土地を民間に放出することで、さらなる開発資金を得る、というバブル経済の雛形に近しいことがわかる。つまり、丹下にとってシンガポールは、一九八〇年代以後の日本、とくにその中枢である東京湾臨海部を国際化する際の手本であったようにも読める。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「丹下が建築と都市と国土を結びつけようとしたのに対して、浅田の思考のスケールはそれを大きく上回り、より大きな全体から部分を把握しようとした。例えば、丹下がコルビュジェを真似て、自らのモデュロールを駆使して公共建築を作ったことはすでに触れたが、浅田は原子核の大きさから銀河系の宇宙の直径までを一〇の指数で整理し、一目で把握できる「浅田スケール」を編み出している。その中で、人間は二乗(百数十センチ =一〇センチの二乗)、建築は三乗、銀河系の大きさは二四乗に該当する。 一九六〇年、浅田は世界デザイン会議に際し、槇文彦や黒川紀章、菊竹清訓といった若手建築家を組織し、メタボリズム・グループを結成した。この国際会議参会者向けに販売された冊子の序文には、以下のように書かれている。 「「メタボリズム」とは、来るべき社会の姿を、具体的に提案するグループの名称である。われわれは、人間社会を、原子から大星雲にいたる宇宙の生成発展する一過程と考えているが、とくにメタボリズム(新陳代謝)という生物学上の用語を用いるのは、デザインや技術を、人間の生命力の外延と考えるからにほかならない。したがってわれわれは、歴史の新陳代謝を、自然的に受入れるのではなく、積極的に促進させようとするものである。」 (『 METABORISM / 1960』)」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「設計当初、浅田は弾薬庫跡地をそのままに活用することを主張したが叶わず、丘陵の高低、登降曲折の移り変わりに力点を置いて、四つの地域にゾーン分けを行った。一つ目のゾーン「広がりのある地域」は、正面入口の中央広場や自由広場など、スケールの大きい広々とした場所で、子どもの「心のスケール」までも大きくする。二つ目のゾーン「水を中心とする地域」は、人造湖や自然プールで水を中心とした遊びの楽しさを満喫できる。三つ目のゾーン「自然と産業の地域」は、自然のめぐみから牧場へ、牧場から乳へ、乳から乳製品へと、産業のしくみを体得できる。四つ目のゾーン「科学と文化の地域」では、自然の中で科学知識を身につけるのを目的として、交通訓練のためのセンターや図書館、林間学校などが設けられる。 こうした設計の背景として、浅田は子どもの遊びの中に現代社会を相対化する契機を見出していた。浅田によれば、子どもは自由な楽しみのためにのみ遊戯するが、大人にとっての余暇は生産と労働の余った時間に過ぎなかった。この結果、自然を楽しむ野外活動さえ形骸化・商品化され、リフレッシュさえ不可能な状態に陥る、と警告している。浅田はこうした危機的状況を突破する手がかりとして、こどもの国を位置づけたのである。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「大谷幸夫 一九二四年、大谷幸夫は医師の子として東京で生まれた。一四人兄弟の一一番目であった。大谷は幼い頃から体が弱かったが、戦前に東京帝国大学工学部建築学科に進学し、丹下研究室の初代の卒論生となり、その後大学院特別研究生として研究室に残った。大学を卒業した一九四六年、大谷は、丹下や浅田らと共に広島に入り、復興計画の立案を手伝った。三年後に開催された広島平和記念公園コンペの際、再び大谷は広島を訪れたが、その時の様子を以下のように述懐している。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「磯崎新 一九三一年、磯崎新は大分県に生まれた。一九四五年七月の大分空襲で自宅は全焼し、翌八月、松根油を採取するために丘の松を切り倒していたところで、磯崎は玉音放送を聞いている。その後、磯崎は東京大学工学部建築学科に進学し、丹下研究室で卒業論文「高層建築の諸問題 スカイスクレーパーの史的分析」をまとめている。この成果は丹下研究室のメンバーらと共に寄稿した「コアシステム 空間の無限定性」(『新建築』一九五五年三月号)に反映され、アメリカの超高層ビルをオフィスレイアウト・構造・空調といった、さまざまな視点から分析を行っている。 卒業後、大学院生として丹下研究室に残った磯崎は、広島平和記念公園、旧東京都庁舎、香川県庁舎の設計に携わる一方で、国際建築学生会議の日本側の取りまとめを行っている。その際、磯崎は、京都大学の西山研究室にいた絹谷祐規と共に、国際建築学生会議報告書「現代建築と国民的伝統」を執筆した。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「この会議はイタリアのローマ大学の学生らが中心となって組織された団体で、ムッソリーニ体制下で近代建築がファシズムに奉仕したことへの反省から、戦後イタリア建築は地域に根ざした伝統を建築に反映させるべきではないか、と議論されていた。同時に、共産主義にシンパシーを持つ建築家たちはソ連の建築に注目していたものの、スターリン体制のもとで近代建築が粛正され、人民の宮殿と称して新古典主義のデザインが復活した状況を評価するか否か、が問題となっていた。 戦後日本の「現代建築と国民的伝統」という問いに対して磯崎は、戦前の日本建築が伝統に回帰してファシズムに奉仕したことへの反動から、敗戦直後の日本建築では、「伝統よりの隔絶」が叫ばれたと指摘する。その後、アメリカナイズされた近代的オフィスや、和風料亭の如き超高級住宅、合理主義を標榜する実験型住宅などが作られたが、どれも国民の実生活から乖離していた。これに対して磯崎は、日本における「現代建築と国民的伝統」の可能性を丹下による広島平和記念公園に見出している。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「一九五六年、磯崎は丹下研究室に在籍しつつ、研究室以外のメンバーらと共に日本共産党のための総評会館の設計に取り組んでいる。ここで磯崎は師である丹下の設計手法を乗り越えるべく、集団設計に取り組み、使い手である共産党幹部へのヒアリングを重視した。磯崎は、共産党幹部の口から先進的なデザイン指針や深淵な芸術哲学が示されるものと考え、「どのような建築がいいか」を聞いたところ、当の幹部から「どこどこの田舎の旅館の床の間が最高だ」という答えが返ってきた。この瞬間、磯崎は幹部たちがコミンテルンの指導だ、矛盾論だ、と議論してはいても、日本の風土の中でそれを建築に反映しようとすると、超成金趣味のスターリン主義に陥ることを知る。この経験から磯崎は「民衆と話し合えば良い建築ができる」という設計手法は幻想であり、これを大衆万能主義として批判するに至った。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「丹下研究室の誰よりも文才に恵まれた磯崎は、設計のかたわらで精力的に執筆活動に取り組み、またアーティストとのコラボレーションにも長けていた。この点で、磯崎は建築家であると同時に、文人であった。 一九六八年、磯崎は丹下のもとで大阪万博お祭り広場のソフト開発を担当し、さまざまなジャンルの現代アーティストの参加できる企画を立案している。これと同時期、磯崎はミラノ・トリエンナーレの招待作家部門の一人に選出された。主催者側からは、メタボリストをはじめとする日本の都市デザイナーらの作品との関係を展示してほしい旨連絡があったが、磯崎は菊竹や黒川らによる都市ビジョンが全く不毛に思え、白紙還元された都市を設定して、そこから抽出された情念を展示すべきと考えるに至った。 この結果、磯崎は一柳慧、杉浦康平、東松照明といったアーティストの協力を得て会場構成を行ったが、会場の中心には「ふたたび廃墟になったヒロシマ」と題されたモンタージュ(ヒロシマの焼土を撮影した写真の上に、廃墟と化した未来都市の構築物をモンタージュしたもの)が大きく展示された。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「ミラノから一〇年後、磯崎はパリの装飾美術館で「 M A」展(「間」展)をキュレーションすることとなった。元来、間とは二つのもののあいだに生まれる距離を指すが、磯崎は時間、空間という言葉に間という漢字が用いられ、また日本の音楽、絵画、庭園、建築、演劇、舞踊といった諸領域にも間という発想が重視されてきたことに注目する。ここから「間」というコンセプトを、〈すき〉、〈やみ〉、〈うつろい〉、〈さび〉というキーワードに引きつけて解釈し、先に挙げた諸領域の古典と日本の現代芸術を取り結ぶ試みとした。 この展覧会は、茶道や華道といった日本文化を海外で紹介する際のオーソドックスな方法を大幅に改変していたため、展示を見た西欧の観客が混乱するのではないかと危惧された。しかし予想に反して大変な反響を呼び、アメリカや北欧を巡回することになった。一方で、日本の批評家から保田与重郎の日本浪漫派のようだと指摘され、フランスの批評家からは全学連・赤軍派のようだと批判された。両者の指摘に対して磯崎は反発しつつも、日本浪漫派と赤軍派を等距離に見据え、「間」というコンセプトの下に既成の価値観を御破算してもなお浮かび上がる日本的な時空間の感覚を提示することが重要であった、と振り返っている。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「 磯崎案に競り勝った安藤の東京招致案は、二〇一六年夏期オリンピックがリオデジャネイロに決まったことで一旦棚上げとなったが、二〇二〇年東京オリンピック招致運動の際、安藤は新国立競技場デザインコンペの審査委員長となり、ザハ・ハディド案を選出している。しかし、多くの問題点が浮上し、マスコミ上でザハ案やコンペそのものの有効性が議論され始めた。 二〇一四年一一月、磯崎は海外特派員クラブで記者会見に臨み、ザハをデザイン監修者の立場に留めたまま、「列島の水没を待つ亀のように鈍重な」変更案を実現しようとする JSCの姿勢を批判する。そしてザハには建築家として与条件の変更を受け入れる能力があり、新しい案の作成を依頼すべきである、と主張している。これと同時に、磯崎は皇居前広場でのオリンピック開会式の挙行を提案し、二一世紀の東京にふさわしい広場の構想案を披露している。おそらく、磯崎の頭の中では、大阪万博お祭り広場のサイバネティック・エンバイラメント、つくばセンタービルの中庭、東京都庁舎コンペ低層案の都民広場の延長線上に皇居前広場の国家イベントが位置付けられており、世界都市・東京の空虚な中心を再定義しようと試みているのかもしれない。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「これらの提案は東京一極集中を是認する鈴木・石原都政への逆張りであり、必然的に美濃部都政下で浅田が書き上げた「広場と青空の東京構想」に接近する内容であった。マスコミは黒川の乱心と面白おかしく書き立て、石原都知事が安藤忠雄に東京オリンピックのグランドデザインを任せたことへの対抗意識から黒川が都知事選に出馬したのではないか、と勘ぐるメディアさえあった。 しかし、黒川が当代随一のメディア型建築家であったことを思い返せば、磯崎の予言どおり、政治家への転進は必然であった。あるいは、がんを患った晩年の黒川は、座して死を待つより、返り討ちに合おうとも、選挙を通じてメディア型建築家の構想力を世に問いたかったのかもしれない。さまざまな憶測と波紋を呼びながら、黒川は都知事選で敗北し、二〇〇七年一〇月にこの世を去った。そして黒川が招致中止を求めた東京オリンピックが現実のものとなり、都心部の開発が進んで、東京は金 け主義の投機の 食となりつつある。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「谷口吉生 一九三七年、東京工業大学教授で、建築家の谷口吉郎の息子として生まれた谷口吉生は、幼い頃から建築の文化に触れあい、夏には軽井沢の別荘で丹下夫妻とも会っていた。しかし、建築家として成功した父とは別の道に進みたくなった谷口は、慶應義塾大学工学部機械工学科に進学している。それからしばらく後、就職活動の時期に父の同僚の清家清から建築の道を勧められ、谷口はハーバード大学建築学科に留学することにした。 留学先では「建築を都市のエレメントとして考える」というスタンスの設計指導を受け、建築史家ジークフリード・ギーディオンの講義を受講している。また、授業以外では、ワルター・グロピウスの設計事務所でアルバイトをし、卒業後の一年間はボストンの設計事務所での勤務を経験している。 帰国後、丹下研究室の門を叩いた谷口が最初に担当したのは「スコピエ都心部再建計画」であった。谷口はスコピエ以外にも、アメリカの「ミネアポリス・アート・コンプレックス」、サンフランシスコの「イエルバ・ブエナ・センター」、ニューヨークの「フラッシング・メドゥ・スポーツ・パーク」などの海外案件を多く担当した。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
「 しかし、丹下と谷口の解説文の最大の違いは、建築と社会がいかにつながるかという問いに応えるか否かにあった。この点について、磯崎は谷口が設計した豊田市美術館について、建築と庭との関係やディテールについて高く評価しつつも、以下のように評している。 「美術館建築というコンセプトをひねって問題提起するとか、建築物の社会的なあり方とか、美術館の将来についてとか、そういうものに対する提案というのはこの中味からすると無理で、それは頑強ってもしょうがないということで、あきらめて箱で対応するというふうにしてある。「もの」が来たらその箱に入れればいい、という考えでやっている。」(「現代建築 ○と × 豊田市美術館」) 谷口の言葉と空間は限りなく一致し、配置から形態、細部に至るまで、設計者の意図が一貫していた。この点で谷口は丹下シューレの中でも突出した才覚の持ち主であったことがわかる。しかし、磯崎が指摘したとおり、谷口の建築には来るべき社会に向けられたメッセージに乏しく、谷口の言葉と空間はその外側に広がる世界と隔絶していたのである。ここに丹下シューレが師から受け継いだ方法の進化とその限界を見出すことができる。」
—『丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)』豊川 斎赫著
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2016年5月27日、現職の米国大統領として初めて、オバマ大統領が広島を訪れ、原爆資料館を見学し、慰霊碑に献花し、所感を述べ、被爆者と言葉を交わし、原爆ドームを仰ぎ見た。広島への原爆投下から71年めの、この一連の歴史的な出来事の舞台となったのが、広島平和記念公園であった。演説するオバマ大統領の背後には、常に原爆ドームが見えていた。それは偶然ではなく、公園の設計にあたって,明確な意志を持って設定された視線の軸線の力によるものであった。その軸線を設定した建築家が丹下健三である。
本書は丹下健三の作品紹介ではない。言うなれば、丹下が時代の中で構想し、設計した「軸線」についての物語である。
その「軸線」はバリエーションを展開しながら、旧都庁舎、香川県庁舎、代々木オリンピックプール(国立屋内総合競技場)などの公共建築に現れ、中東やシンガポールやアフリカの都市計画に現れ、東京計画1960の都市軸から東海道メガロポリスの国土軸を構成していった。日本を代表する建築家や官僚を輩出した「丹下シューレ」の門下生たちはこの軸線からの距離を測りながらそれぞれの歩を進めていくことになる。
著者は、本書の作業を「戦後一〇〇年というスケールを導入するための準備作業(p.216)」であるという。戦後70年の今日から、これからの残り30年に、私たちはどんな構想力を発揮できるだろうか。 -
☆信州大学附属図書館の所蔵はこちらです☆
http://www-lib.shinshu-u.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BB21092642 -
丹下健三の事績、考え方、そして薫陶を受けた建築家たちを通して丹下健三を語る概論とでもいう本。
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丹下健三や日本の現代建築に興味がある方や
私のように建築士免許を持っている方には
オススメ出来ます。
ただそれ以外の方には絶対にオススメ出来ない本でした。 -
3月22日 2005年 建築家丹下健三さんの命日
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僕が学生の頃にはすでに、丹下健三は建築作品、言説共に同級生との会話の中であったり、設計製図の講評の中で直接参照されることはなかった。
個人的に、明治期の西洋建築の導入からはじまり現在の建築シーンに至るまでのおおまかな見取り図はもっと共有されてもいいと思う。 -
2016年6月新着
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私の中の傑作は代々木体育館と東京カテドラル。圧倒的なシェルの存在感に驚いたのを覚えています。
この本でのは様々な門下生がいたというのを知ったことが収穫でした。 -
丹下を始め、浅野、槇、大谷などの一門が、戦後日本の建築界でどのような活動をしていったかを概観している。
特に丹下は、建築というハコにとどまらず、都市あるいは地域全体をデザインする視点が濃厚であったという。読者の印象としては、やはり建築出身者はハードで目に見えるデザインにこだわりすぎ、インナーでソフトなエネルギーや情報やコミュニケーションという分野まで射程に収めるのは難しいのだなと思う。 -
戦後100年を見据えて70年目の今、丹下健三の業績を読み解き、今後30年の建築・都市・国土を構想する糧にしようという壮大なビジョンを提起するのが本書。
である故に敢えて戦前のキャリアについては言及せず、丹下健三の戦後の実績を分析し、後半では丹下チルドレン(本書では「丹下学派」として《丹下シューレ》と呼んでいる)の実績を読み解く新書としては充実の1冊。
バブル期の海外の仕事とバブル最後期にあたる東京都庁新庁舎設計、そしてその頃はそれぞれ一人立ちしていた丹下シューレの仕事を概観できて大変興味深かった。
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