読書と日本人 (岩波新書)

著者 :
  • 岩波書店
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レビュー : 24
  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004316268

感想・レビュー・書評

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  • 前半は日本の読書史が書いてあり、本に対する読者や出版業界の成長の過程が良く分かった。しかし少し難しかったのでなかなか読み進められなかった。後半は現在の事になり、固い本や柔らかい本の地位の逆転や電子書籍との今後についての考察。為になったと思う。

  • うーん

  •  9世紀後半、おそらくは宮廷の女性たちのあいだで生まれたのであろう平仮名は、やがて鎌倉時代から室町時代にかけて、人びとの読書生活にさまざまな変化をひきおこしてゆく。まずは仮名文字の普及に反比例して、貴族や僧侶など、専門知識人以外の一般の知識人の漢字能力が徐々におとろえを見せはじめたこと。そして第二に、この時代も終わりに近づくにつれて、それまで文字には縁のなかった下層武士や村の名主クラスの百姓、ひいてはその妻や娘までが、公文書をはじめとする、さまざまな文章を書いたり読んだりできるようになったこと。(p.42)

    「ひとりで読む」という意識が個人の自由にかかわるとすれば、もうひとつの「見知らぬ他人とともに読む」という意識のほうは、長い歴史のはてに、20世紀になってはじめて実現した読書の平等化という局面に対応しています。
     この平等化を現実のものにした要因の第一は、明治政府が国策として強力に推しすすめた識字教育でしょう。そして第二に、読み書き能力の向上によって加速度的に拡大した読者層が必要とするだけの量の本をつくり(本の大量生産)、それらの本をかれらのもとに迅速にとどけるしくみ(全国的な流通網)をととのえるーーすなわち今日にまでつづく資本主義的な産業としての出版のしくみが、この時期に、おどろくべきいきおいで燗熟の域にまで近づいていったこと。(pp.117-118)

     本にはじつはふたつの顔がある。ひとつは商品としての顔。もうひとつが公共的な文化遺産としての顔です。出版社は本を売り買いする商品として生産し、図書館はその本から商品性をはぎとって、だれもが自由に利用出来る公共的な文化遺産としてあつかう。だから書店では金を支払って買わなければならない本も、図書館に行けばタダで読めてしまう。このふたつの顔の実現不可能とも思える共存を、出版社と図書館の双方がそろっておおやけに承認した。<見知らぬ他人たちとともに本を読む>という20世紀読書の基盤には、ひとつには、そうした二重性をゆるす寛容さと大胆な制度的決断があったのです。(p.163)

     いかにも私たちは、いまデジタル革命の衝撃で<紙の本>がはじめて危機にさらされているように感じている。でもちがうんですね。チャベックによると、すでに前世紀の20年代、<読書の黄金時代>が、いち早く、その危機を予感するようになっていったらしい。そして、この天にかかわってもうひとつ見すごしてならないのが、この危機が同時に<紙の本>の力を人びとが発見しなおす機会になったということです。(p.255)

     日用品としての本に慣れすぎて、私たちはともすればそのありがた味を忘れてしまう。そんなとき、不意に衝撃的ななにごとかにぶつかり、忘れていたありがた味を新鮮な物として見つけなおす。<読書の黄金時代>前半期での「なにごとか」は映画でしたが、それに匹敵する後半期のできごとがインターネットの出現です。そして映画の場合と同様に、今回も新しい「なにごとか」に震撼させられた<紙の本>が、逆に、あわただしい情報ラッシュに疲れ果てた人間がそこに戻ってゆく大体のきかない強力な場として再発見される。それがチャベックの「本に戻る」だったし、津村記久子のいう「読書を再び求める」でもあるのでしょう。(p.256)

  • 「読書」という文化が日本においてどのように育ってきたのかがよくわかる。

    文字は昔から中国でも貴族階級の特権であったが、日本もそのご多分に漏れず、読書はほとんど江戸時代までは貴族や武士のみで全てであった。

    一般大衆においては識字率字体は低く、働いて生きることで精一杯だったのだ。読書というのは、やはりある程度の余裕がないとできないようだ。

    そのうち下層武士や農民でも裕福な者や村を管理するような立場にある者にも読書が普及しはじめ、江戸時代からは民衆にも次第に読書が広がっていった。
    武士階級では「素読」といって音読をし、寺子屋の普及によってなどで、貧しい者でも勉学することで身を立てることができるようになっていった。
    その最たる例の一人が二ノ宮金次郎である。今でも八重洲ブックセンターには二ノ宮金次郎の像が立っている。

    このようにして読書文化は文字が日本に入ってきた6世紀から徐々に徐々に時間をかけて広がってきた。

    ここで、明治以降になって読書文化が日本で爆発的に飛躍する。
    それは、識字率の向上である。
    そして、識字率の向上によって読者層に、「子供」「女性」「民衆」という今までになかった読者層が加わることによって、出版数もそれに伴って増えていった。


    よく、教養主義というのが昔はあったと言われるが、これは、この読書文化の爆発に輪をかけた「円本」という一円で教養書が買えて読めるブームが到来し、それに伴い世界文学全集、世界大思想全集などの全集ものが矢継ぎ早に出版され、
    そういった古典を知っているのが当たり前で、知らないことは恥だと見なされるような時代があったようだ。

    だから読んでもないのに本棚に教養書を並べてはったりをかますことも可能だったのだろう。
    それは読んでいることが当たり前で読んでないことは恥だとされる状況、つまり教養書を読んでいることに価値があるということが、万人に共通認識としてあったからこそ通用することである。



    昨今は読書ばなれと言われるが、大体の場合で比較されているのはその読書の黄金期と呼ばれるような時代に対してであり、ある意味では文字導入期からの長い読書の歴史を俯瞰してみれば、現代は読書ばなれが進んでいるとはいっても出版数も多く、歴史的にはよく読まれている時代だといえる見方ができそうだ。

  • 読書はなくならない。

  • 本の本
    読書

  • 参考文献

  • 広く一般の読書というものが、例えば車なんかのように、20世紀の大量生産、大量消費のうえに成り立っていた一過性のもので、永らくは特権階級のものであったし、その黄金時代は既に過ぎた、というのが、とてもよくわかる

    読書の危機は100年前に映画によって既に始まってて、テレビの普及があって、ネット社会が今、やってきてる
    本の危機なんて、凄く昔から何度も指摘されてたというのには驚く

    あと、音読から黙読へ、と思ってたけど、ちょっと違った
    音読と黙読から、音読しない時代へ、というのが正しい
    それには、書院造にはじまる、パーソナルな空間の形成が関わってるし、筆者は言ってないけど、通勤電車というのは、つまりパーソナルな空間ってことなんだね

    無視できる他人しかいない移動時間だけが孤独で自由、というのは、サラリーマンとしてよくわかる

    本には、それを読んだ空間や時間の記憶が重ねられるが、電子書籍にはそれがない、というのは、環境を受け入れない透過光の画面だからか?それともただの世代の差なのか

  • <目次>
    ? 日本人の読書小史
     1 はじまりの読書
     2 乱世日本のルネサンス
     3 印刷革命と寺子屋
     4 新しい時代へ
    ? 読書の黄金時代
     5 二十世紀読書のはじまり
     6 われらの読書法
     7 焼け跡からの再出発
     8 活字ばなれ
     9 <紙の本>と<電子の本>



    2016.11.03 新書巡回
    2016.11.25 読了

  • 本来読み書きというのは、男性のみが行うことだった。
    「男もすなる日記を、女もしてみん」と書いたのは男である紀貫之だったけど、それでひらがなが広まったというよりも、「女が書くところのひらがなを、男も書いてみん」というところなのではないかと私は思っている。
    丸文字とかギャル文字など、若い女性は大昔もきっと、自分たちに通じる独自の文字を開発したのではないかと。

    本が…というか、紙が貴重だったころは、数少ない本を貸したり借りたりして書き写すものだった。
    その頃の大ベストセラー『源氏物語』
    日本の家屋は寝殿造といって、広い板の間だけの建物を衝立で細かく仕切って使うような作りだったので、ひとりの時間をゆったり過ごすなんてことは貴族でもできなかった。
    本(巻物)を持っている人は、得意満面でみんなの前で読み(たぶん音読)、本を読む人はあこがれの的だったのではないだろうか。

    個室ができたのは室町の頃、書院造になってから。
    狭くても壁やふすまで仕切られた部屋に、床の間や違い棚があり、そこで書を読む。
    ようやく今の読書のイメージに近くなってくる。

    江戸時代の寺子屋、明治の「学制」頒布による初等教育などにより日本人の識字率は高かった。

    “[人力車の車夫や全身に入れ墨をほどこした馬丁や]さらにどんな店でも茶店でも見かける娘たち―彼らがみんな、例外なく何冊もの手垢にまみれた本を持っており、暇さえあればそれをむさぼり読んでいた。”
    これは、明治維新の頃来日したロシアからの亡命者の書いた本からの一節。

    印刷機の普及、西洋からの文学や哲学、自然科学の本の流入などにより、出版される本は江戸時代とは比べ物にならないほど増える。

    しかし今、若者の活字離れが言われ、その若者よりも本を読まない高齢者が増えているという。
    電子出版が増え続ければ、紙の本などそのうちなくなってしまうのではという悲観論もある。

    ストーリーやトリックなどの目新しさを楽しむ、再読には向かない本はどんどん電子化すればいいと、個人的には思っている。
    あと、教科書も電子化すればいいと思う。
    タブレット一個に全教科を入れておけば、ランドセルも軽くなるし、忘れ物も減るだろう。
    少子化なんだし、国ががんばって補助をすればいい。

    本を読んでほしいと出版社が痛切に思うのなら、すべての本にルビを振ればいいと思う。
    そうしたら、想定した読者年齢より若い子も難しい本を読むことができるし、難しい本を読むことができた子は、本を好きになると思うのだ。
    難しい漢字をひらがなで書くのではなく、漢字にルビを振る。
    意味は分からなくても、読んでいるうちに何となく理解できる。
    そうやって知識は増えていくものなのでは?

    文字だけではなく行間も含めて、装丁や手触りやインクのにおいや、そういうものをすべて含めて読書の楽しみと思う人たちのために、紙の本も残してほしいなあ。

    今や本は文化の中心ではなくなっているかもしれないけれど、多様化する趣味の世界の片隅で、本への愛を叫ぶ人はきっといる。
    これからも、ずっと。

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