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Amazon.co.jp ・本 (256ページ) / ISBN・EAN: 9784004316411
AIがまとめたこの本の要点
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みんなの感想まとめ
文庫解説のあり方を斬新な視点から探求するこの作品は、著者のユーモアと毒舌が光り、軽快に読める内容となっています。文庫解説が読者のためにあるべきだという主張を基に、著名な解説者や作品の背景を鋭く分析し、...
感想・レビュー・書評
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文庫解説に目をつけるとは!なかなか斬新な批評だった。文庫解説は誰のものというと、当然読者のためのはずだが、作者のためや自分のための解説が多いという。その取り上げ方、切り捨て方がなかなか痛快!作者の個人史に引きずられた解説や与太話に過ぎない解説も困ったものだが、こうやってこの本に取り上げられて読んでみると面白い。
作品の社会的背景を捉え、読書の指針となる、あるいは視野を広げる解説が優れているということらしいが、これが結構難しいことらしい。だめな解説や優れた解説の書き手の名前が挙げられていて、なかなか厳しいね。
松本清張のアリバイトリックの不備を突いた批評家がいて、「ええー、これじゃ作品自体が成り立たないじゃないか」とあきれてしまった。あの有名な「点と線」や「ゼロの焦点」ですよ。小林秀雄の文も解説もわけがわからんと切り捨ててあるのも留飲を下げる感じかな。 -
斎藤美奈子さんが岩波の小冊子『図書』に連載した文庫解説の批評集。著者らしい毒舌やユーモアに満ちていて、軽快に読める。本領発揮だなぁ。
文庫解説はどうあるべきかに正解はない、というのが本書の最後に書かれているが、著者自身は、国語(文学の鑑賞)よりも社会科(地理的歴史的背景)を重んじている。本が書かれた時代的背景は、十数年もすれば忘れ去られてしまうからだ。実際、本書でも、『小公女』の背景にある階級差と植民地の問題や、1940年に書かれた『走れメロス』を日本の戦時体制のパロディとして読む視点など、後世の読者にとって有益な指摘がたくさんある。 -
この840円の本を書くため、斎藤さんがどれほどたくさんの本を精読したか考えると、本当にすごいと思う。そして、本当に面白かった!
わかりやすいところでは、例えば、「走れメロス」の解説。角川文庫のカバーの紹介文みたいに、「メロスがんばれ!」と、私は一度も思ったことはないが、太宰治を知らない純粋な小中学生なら思うのだろうか、そしてそういう「読み」が正しいのか、とずっと疑問に思ってきたが、それを否定するような解説もなく、太宰作品の中では最も嫌いな一つとなっていたのだが、
「<メロスは激怒した>ではじまり<勇者はひどく赤面した>で終わるテキストは、心身ともに「裸」だった若者が「見られている自分」に気づいて最後に「衣」を手に入れる物語である。この瞬間、メロスはコドモ(赤子)からオトナ(赤面を知る)に変わるわけで、『走れメロス』は「裸の王様」ならぬ「裸の勇者」の物語とも言えるのだ。」(p35~36)
という斎藤さんの「読み」に初めて納得できる「メロス」の解説を読んだ気持ちになった。心から納得した。
難解と言われる小林秀雄については
「小林秀雄はかつて「試験に出る評論文」の代表選手だったのだ。試験に出る評論文の条件は名文であることではない。「論旨がわかりにくいこと」だ。」(p148)
で、また納得。そして
「そうだった、思い出したよ。コバヒデの脳内では、よく何かが「突然、降りてくる」のである。こういった箇所を読むと(少なくとも私は)鼻白む。しかし、小林にとってはこの「突然、降りてくる」が重要で、こうした一種の神秘体験を共有できるかどうかで、コバヒデを理解できるか否かが決まるといっても過言ではない。」(p150)
でさらに納得。
『少年H』については
「もしかして、妹尾河童も「こうありたかった少年像」を描いたのではないか。戦争の欺瞞を鋭く見抜き、母を雄々しく守り、敗戦の日に天皇の戦争責任に思いを致すような少年を。このような物語は読者に歓迎される。「日本人はみな本当はHのように戦争に反対したかったのだ」という気分を共有することで、庶民の戦争責任は免責されるからである。」(p234~235)
当時を生きた人でないとわかりにくい安保闘争やバブルの頃のベストセラーの読み解きも面白いし、もちろん渡辺淳一の部分は笑える。
納得しないまま読んできた作品やその解説を、この本で初めて納得できた。
こんなに面白くて中身が濃くて840円か。30分で読めて中身スカスカで、他の文献を当たったのか大いに疑問の本が倍の値段することもあるんだから、大いにお買い得の本。
今度は翻訳読み比べをやってほしいなあ。
ついでに言うと、この本のあとがきに引用されている、著者の恩師、浅井良夫の文章がまたわかりやすくて面白く、この師にしてこの弟子ありってことだなと深く感心したのであった。 -
子どもの頃から本の虫を自認していたのだけれど、人生も後半に入って最近は「こんなに本ばかり買って置いておいたら自分がいなくなったあと子どもたちにどれだけ迷惑かけることになるんだろうか」とか思い始めてしまい、仕事で書籍を買わざるをえない現状も手伝って専ら電子書籍を買うことにしていたのだけれど、美奈子さんの本だけは(いや"だけ"ではないんだけど)店頭にあったら反射的にレジに持って行っちゃうよ!
驚くような角度から本の読み方を見せてくれる美奈子さんだけど、なんと今回は文庫解説についての本。最初から最後まで全部、解説について書かれている。それでもってこれが滅法面白いのですよ。
古典的な日本文学の解説合戦(戦ってないけど)に始まり、著名人による謎解説を斬り、返す刀でそもそも解説にすらなってないエッセイもどきが一体どこから生まれてきたのかを解体してみせる。
さらには、これぞ読者のための解説でしょ!という"お手本"もちゃーんと紹介してくれています。
美奈子さん曰く、解説とは結局端的にいうと「これって、あれでしょ」である、と。
他にも、作品を貶すためだけのものであってはいけないが、読み込んだからこそ発見できる瑕疵についてきちんと考察できている解説にはお得感がある、とも。なるほどなあ。
とにかく、最初から最後まで面白いです。好きすぎる。 -
現在活躍中の文芸評論家のうち、いちばん文に「芸」があるテクニシャン・斎藤美奈子――。本書も、彼女らしい技巧が冴え渡る一冊だ。
文庫本の巻末に付される、評論家や作家などの筆になる「解説」。そのうち、おもに有名文学作品の解説を俎上に載せ、批評していくコラム集である。
ダメな解説は完膚なきまでにメッタ斬りにし、素晴らしい解説は「どこが素晴らしいのか?」を鮮やかに腑分けして称賛する。
また、ロングセラーとなり、多数の文庫化がなされている名作については、解説の変遷の中に、その作品についての評価の変遷をも浮き彫りにする。
文庫解説という狭いフィールドを素材に、これほど多彩で知的興奮に満ちた評論が成り立つとは、私には想像すらできなかった。企画の勝利、柔軟な批評眼の勝利である。
私がいちばんスゴイと思ったのは、川端康成の『伊豆の踊子』と『雪国』を取り上げた回。
三島由紀夫などの大家が書いた文庫解説がいかにダメであるかをズバリと解説したあとで、著者は『伊豆の踊子』『雪国』の「正しい」解説の手本を示してみせるのだ。
ほかにも、『走れメロス』を取り上げた回、『智恵子抄』を取り上げた回などは、作品を見る目が一変するほど驚きに満ちている。文庫解説を批評するというフィルターを通して、斎藤美奈子ならではの名作解題の書にもなっているのだ。
斎藤自身がこれまでにかなりの数の文庫解説を書いているし、これからも書いていくのだろうから、既成の文庫解説にケンカを売るような本を書くこと自体、ものすごい勇気の要ることだと思う。
全23編のコラムの中には調子の出ない回もあるが、それでも、ここまでの「芸」を見せてくれれば十分。
斎藤美奈子は、相変わらずバツグンに面白い本の書き手だ。 -
普段、文庫の解説は注意して読むことはないが、『こういう楽しみ方もあるんだ』と新発見。読書の別の楽しみ方を教えてもらった。
ばっさばっさ切りまくる文章は痛快。著者の読書量の凄さも感じることができる。 -
古くは『坊ちゃん』から、最近の『永遠の0』までの文庫本解説を、著者の独断と思い切りの良さで一刀両断し、まるで凄腕の剣豪小説を読んでいるかのよう。
楽しく爽快感をもって、たちまち読み終えた。
解説とは読者のためであるべきはずが、しばしば「著者のため」、あるいは解説者自身の「自分のため」に陥っていると看破する。
確かに何を言いたいのか理解できない解説や、ちょうちん持ち的解説をよく目にする。
本文で偉そうに断言した著者が、自分自身も解説を書いていることに思いを致し、冷や汗タラタラ、プレッシャーを感じてしまったと、あとがきで書いているのはご愛敬(笑) -
「解説の女王」気分で文庫解説を書いてきた筆者自身が、古今東西の名作の文庫解説を斬りまくった(自戒の念に苛みながら)、文庫解説についての解説新書です。文豪の作品を読んで「よくわからないけど、スゴイ」という無根拠な権威に圧倒され、高尚すぎる解説文で「これが解らぬか」と追い打ちをかけられ「何が言いたいのかわからない」という淋しい感想しか残らないことがあります。最適な解説とは、中途半端な教訓がらみの誘導は無用であり、読者に判断の余地を残す案内を心がけた「お口なおし」となる存在であってほしいと述べてあります。
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2020年11月26日読了。文庫本の巻末に付きものの「解説」について批評する本。確かに文庫本は解説に当たり外れがあるとは自分も感じていたところ、こういうネタをこの毒舌で突いてくるあたりがこの著者のセンスなのか。本をもう一度最初から読み直したくなる・本の時代背景を調べたくなる・著者への理解が深まるような解説はよい解説、と理解していたが、「解説が読者を向いているか?著者におもねったり解説者自身の自己満足になっていないか?」という観点で解説の良し悪しは判断できる、というのは面白い。解説者の思いがほとばしりすぎる珍解説や、解説がマッチしておらず本文自体のリーダビリティが損なわれている著者があるなどの観点も興味深い。「解説は焼肉の後のペパーミントキャンディ」という意見には同意するが、それだけでない・本文とケンカするような解説にもそれはそれで読み応えのあるものだと思う。
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文庫の解説が大好きだ。
わけのわからない解説がついているとがっかりするし、本文に劣らぬ輝きのある解説もある。
そんな解説好きはきっと珍しくないはずだ。
本書はそんなニッチな、マニアックな、「解説」にスポットライトを当てた珍しい本。
まずは名作から。
『坊ちゃん』の解説だ。
実は読んだことがないが、「痛快な勧善懲悪劇」(13頁)という認識はあった。
しかし、だ。
それを覆す悲劇として読んだ解説があるそうだ。
奇をてらいすぎじゃないか、何でもかんでも本流に逆らえばいいってもんじゃない。
あるいは、赤シャツがうらなりからマドンナをとったのではなく、マドンナの方から赤シャツに近づいたのだとした解説もある。
物事というのはここまで違った見方ができるものか。
太宰の解説をした井伏鱒二。
智恵子抄の解説をした草野心平。
信じられない豪華さだが、思い出話に終始する。
それはわかった、しかしあなたが今すべきは「解説」であって思い出話じゃない。
背景が主人公でどうする。
紙幅がそれで占められてしまい、消化不良この上ない。
結構あるんだ、この手の解説。
小林秀雄の文章は難解で大学受験の試験問題にも頻繁に使われる。
教科書にも載る。
でもいまだに私はよくわからない。
解説もわかりにくい。
あれはなぜあんなに難解なままなんだろうか、私の読解力がないのか。
しかし著者は言う、「権威による権威付け」と。
なんでも簡単にすることだけがベストではないが。
奥深い解説の世界。
著者はそんな解説にエールを送るが、私も同様に声援を送りたい。
「出でよ、戦う文庫解説!解説は作品の奴隷じゃないのだ。」(238頁)
蛇足:本書は文庫ではなく新書だ。 -
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著名な作品につけられた「解説」。適当に読み流しがちな解説はよく読んでみると実はかなり面白い。独りよがりな解説、作品には殆ど触れず作者の生き様模様ばかり書かれた解説、似たり寄ったりの解説、話があらぬ方向にぶっ飛んじゃう解説、、、。笑える本でした。
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名作とベストセラーが綺羅星の如く並ぶ文庫本。その巻末に併録されている、所謂「おまけ」である解説。本書はこれを主役に据え、毒ある筆致で寸鉄釘刺す「解説の解説」書。誰しもが知っている不朽作品のあらすじと作風と時代背景をさらりと舐め、いよいよ“なっとらん解説”の中枢へ。筆法はあくまでも鋭く容赦なく遺漏なくぶった斬り。その多くの指摘は至極尤もで、作家先生ご指名の御用文芸評論家によるものも多く、解説の解説が必要とする「屋上屋を架す」ような難解極まりないものに出くわし、著者は原理主義的命題に辿り着く。「はたして、解説はだれのためのものか」。初読者への理解促進をミッションに掲げるわけでもなく、読書の愉しみをプロモートする任務を買ってでることもなく、言辞遊戯に没入する独善的文芸評論家に筆誅を喰らわす。中々痛快な本ではありますが、文芸に明るくないと、その小気味さを玩昧できないという絶対条件があることを付記しておきます。
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いくら素晴らしくても、いくら「なんだよこれ」な内容でも評価されず放っておかれることがほとんどの文庫解説を、こんなにきっちり読んで評するなんて。相変わらずすごい人です。
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中学から高校にかけて、ヘヴィメタルを愛好していました。
CDも随分と買いました。
今はどうか知りませんが、当時、ヘヴィメタルのCDを買うと、ライナーノーツ(解説文)を書いていたのは必ずと言っていいほど伊藤政則でした。
そして、この伊藤政則の書くライナーノーツを読むのが楽しみでした。
早く読みたくて、封を開けるのがもどかしいほど。
時にはライナーノーツを読みたくてCDを買うなどという暴挙に出たこともあり、あのころは本当にどうかしていました。
ただ、ライナーノーツというのはCDに付いている「おまけ」などではない。
少なくとも、私にとってはCD本体と並ぶ1個の商品だったような気がします。
文庫本の最後に付いている「解説」も同じではないでしょうか。
自分は本も割と読みますが、この解説が結構大好物。
その文庫解説に焦点を当てたのが本書です(前置きが長い)。
著者は切れ味鋭い論評が身上の文芸評論家、斎藤美奈子さんですから、面白くないわけがない。
たとえば、先年亡くなった渡辺淳一の項なんて、何度も吹き出しました。
ナベジュンの作品の文庫解説は、ナベジュンが選考委員を務めていた頃に直木賞を受賞した(あるいは大変世話になった)女性作家が担当していることが多い。
つまり、ナベジュンには頭が上がらないんですね。
ただ、「ナベジュンが描く女性像や恋愛像は、ぶっちゃけ男の幻想か妄想の賜で、今日の女性読者には違和感のほうが強い」(213ページ)。
しかも、人並み外れて感性に優れた女性作家たちです、おいそれと褒めるわけにはいかない。
どうするか。
斎藤さんいわく、「褒めず殺さずの高等テク」を使っているのだそうです(笑)。
谷村志穂も桜木紫乃もみんな苦し紛れといった筆付きで、角田光代の解説にいたっては「もはや半分ヤケッパチである」というから笑います。
夏目漱石の「坊ちゃん」は解説を担当した人たち間でも大きく見解が分かれていたのだなとか、太宰治の「走れメロス」は解説に恵まれなかったのだなとか、個人的には得るところ大の本でした。
CDのライナーノーツもそうですが、小説の解説も「おまけ」ではないのだと再確認した次第。
これからも文庫本は解説と共に堪能したいと思います。 -
めちゃくちゃ好き。次はどんな解説の解説が出てくるのか!気になって夢中でページめくった。
町の図書館でピックアップされていて、「ちくま」の連載で気になっていた方だったので手に取りました。
わたし本でもなんでも、解説読むの大好き。ある意味答え見てるわけで思考停止しちゃうから良くないなーと思いつつ、みんな好きですよね?(答えに対して更に批判できればいいだけなんですが)
著者のおっしゃる通り、誉めてる解説より貶してる解説の方が得した気分になる。経験あり。
そしてこの本も、良い解説に対して誉める解説と、良くない解説に対して貶す解説を両方捌いてくれている。しかも明快・痛快。褒めと貶し両方くれてすごく得した気分。
漱石「三四郎」の解説を筆者は次のように分析する。
「三四郎」が描く世界の一つは「知識人予備軍の群れ」(野々宮、広田界隈)の世界で、同じ界隈の解説者にとっては共感を呼ぶものだったので素直な解説が多い。一方同じ漱石の「坊っちゃん」には捻くれた解説が多い(坊っちゃんの解説の解説は本の一番最初に出てくる)。その理由の一つは「坊っちゃん」が「知識人予備軍の群れ」(赤シャツ一派)にクサして出て行く小説だからなのだと。
この分析を踏まえると、反対の世界を表現できる漱石ってやっぱりすごいなあと。漱石はバリバリ知識人だけど反対側の視点も持っていたってことですよね。 -
「智恵子抄」や「放浪記」の変遷を文庫解説から読み解くくだりが面白かった。
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やはり著者の「文芸評論」はひと味もふた味も違っていて、抜群に面白い。妊娠や紅一点に着目したり、名作を後ろから読んでみたり、なるほどねえと楽しませてもらってきたが、今回取り上げているのは文庫解説。
いやまったくさすがの目の付け所で、文庫解説についてまとめて論じたものって目にしたことがないような。単行本を読んでいても、解説を楽しみに文庫を買うことがあるくらい、面白いのがある一方で、なんだか身内でのホメ合いに終始していたり、全然やる気のなさそうな「読んでないんじゃ?」というのがあったり、いろいろ突っ込みどころがありそうだ。
ここのところちょっとなりを潜めてた気もする、著者の鋭い舌鋒(「悪態」といった方がいいかも)が久々に快調で、実に楽しい。笑いながら読んだ。
唸ってしまったのは、庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」2012年新潮文庫版についた、苅部直による新解説。この作品にはじまる四部作には、強い思い入れがある。私は子どもの頃から本の虫だったが、高校生の頃これを読んだとき初めて、本の中の世界を自分とつながったものとして感じたと思う。軽々とした文体の底に、なにかしら切実な焦燥のようなものが感じられてならず、旧解説に書かれていたような「機知とユーモアにあふれた愉しい風俗小説」とはまるで思えなかった。苅部は書く。
〈これは戦いの小説である。あえてもっと言えば、知性のための戦いの〉
〈ひたすら「感性」の解放のみを称揚して「知性」を嘲笑するような「狂気の時代」〉に対して〈「薫」がひたすら守ろうとしているのは、「ぼくの知性を、どこまでも自分だけで自由にしなやかに素直に育てていきたい」と語る、知性にむけた願いである〉
著者曰く、〈薫の悩みは、大衆社会を前にした「インテリの悩み」である〉〈知識人/大衆という線引きが失効した時代に、自分は知識人としていかに生きていったらいいのか。それが「赤頭巾ちゃん」の命題だった〉
ああそういうことだったのかあ、とこれには深く納得。ワタクシ、もともとこういうたぐいの小説にすごくヨワイ。そのことを自覚したのも、著者の「名作うしろ読み」で読んだ「トニオ・クレエゲル」の評だったのだが。あれは「凡人は呑気でいいなあ。インテリの僕は苦しいよ」ってことだとバッサリ斬られていて、ぐうの音も出ませんでした。「赤頭巾ちゃん」もその系譜だったのね。
田中康夫「なんとなくクリスタル」にも、最近になって高橋源一郎による新解説がついたそうで(なんと「なんクリ」は「資本論」と似てるという内容)、どちらも〈その後の歴史を俯瞰できればこそ獲得した視点〉だと著者は言う。〈こうした解説が出現するまでには三○年四○年の時間が必要だった。事件的作品の咀嚼には意外と時間がかかるのだ〉とあり、確かにそうだと思った。
このあたりについて、著者は次のようにもまとめている。
〈思えば日本の青春小説は、あるいは近代文学は、「三四郎」以来、「知識人いかに生くべきか」という、一種ホモソーシャルな問いを一貫して追求してきたのである。だが戦後、空前の大衆消費社会が出現、この問いは急速にリアリティを失う。そうして生まれたのが、一方では「(こんな時代にそれでも)知識人いかに生くべきか」を問う小説であり、一方では「知識人なんかクソ食らえ」とせせら笑う小説だった〉
その流れで、漱石と鴎外にも触れられている。漱石は門下生と言うべき集団を作ったが、鴎外は作らなかった。山崎正和は「阿部一族・舞姫」の解説の中で、白樺派の同人や漱石の門下たちのことを評して、〈こうした友情の異様な君臨は、一方では、前近代的な「若衆宿」のなごりでもあったろうが、他方では、伝統的な人間関係の崩壊の産物であったことも、疑いない〉と書いているそうだ。若衆宿!思いもよらない見方だよなあ。
また、高村光太郎が「純愛の人」というイメージでとらえ続けられるようになったのには、草野心平が書いた「智恵子抄」の解説によるところが大きいとあって、これまたなるほど~であった。光太郎が戦争協力詩を書いていたこととか、智恵子の病気はそもそも光太郎のせいではないかと思われることとか、文学好き以外にはあまり知られていなくて、光太郎の清潔なイメージは不動だ。解説恐るべし。
リービ英雄による原民喜「夏の花」の解説について述べたくだりには、「戦争文学」への新鮮な視点があると思った。リービ英雄は、「夏の花」のような文学が可能になったのは、〈私小説という近代の伝統〉〈「自然現象の中の私を書く」という近代文学の手法が働いているからである〉と指摘しているそうだ。言われてみれば確かに。著者が〈痛いところを突かれた感じ〉〈大きな辛い物語を共有する国民。だから自分にも他者にも国家に対しても戦争責任が追及できないんだ、といわれているような感じがする〉と書いているのも実にその通り。
えーと、一番笑ったのは、小林秀雄についての章。なんと著者は小林を「コバヒデ」と呼んじゃってる。コバヒデ!なんだか一気にそこらのオジサンみたいな気がしてくるではないか。大体小林秀雄とか江藤淳とか、そのあたりの人を論じるとなると、眉間に思い切りシワを寄せなくちゃいけないような気がするんだよね。そういう「権威」の匂いが斎藤美奈子さん、キライなんだな。教科書で習った「無常という事」、よくわからなかったのを覚えている。センター試験で「鐔」に当たっちゃった人たちには、今でも深く同情してしまう。
最初の方で、〈批評の要諦とはひっきょう「これってあれじゃん」だと私は思っている〉とある。あ、物真似がしばしば鋭い批評に見えるのもそれかな?とちょっと思った。違うかな…。 -
いやー切り口が面白かった!
共感するものもそうでないのもあるけど、解説にここまでフォーカスして今まで考えてみたことのない角度からの分析は新鮮で面白かったです。 -
上野千鶴子のあとだからか、セジウィックのホモソーシャル論を駆使しても、軽く感じてしまう。しかし、この軽妙さが斎藤美奈子だったと思い出す。
最後の戦争文学を斬り、解説よ作品に屈するな、は良かった。
・太宰と漱石の立たされている位置、まなざしの違い
・サイード『知識人とは何か』:知識人にとってもっとも必要な要素は、専門性の中に閉じこもらない「アマチュアリズム」だ
・同時代の読者には説明過剰に見えても、数年後の読者にはもう通じない。それが現代。後世の読者に必要なのは、国語よりも社会科なのだ。 -
それほど気にしていなかったオマケに思っていた、文庫本の解説コーナー。
でも、オマケだからいいやとはならなくて、しっかり読んでしまう本好きのサガでもあった。
その文庫本の解説に光を当てて、解説・分析・批評のおかしくもほろ苦い本。
当然、文庫本の著者と「解説」者は別人だ。
そこが肝心なところね。
ただしこの本によると、著者は解説者を選べるらしい。
ちなみに
あの解説って稿料もらえるんだろうか?もちろんもらえるだろう。
だけどね、この文庫がふたたびブレイクして売れ、著者の印税が増えたとして、
「解説」者は恩恵を受けるのかなあ?というはしたない疑問がわく。
そういうわけなら、「解説」者はあまり力が入らないのでは・・・。
なんてことは、いっさい分析してない、よ。
さて、「斎藤美奈子節」満載、おかしみの中に厳しいご指摘がある。
曰く、解説とはその作品について述べることなり。
当たり前だ。
けれども、
著者の友人としてお付き合いのあるひとは、その成り行きをとうとうと書き綴る例。
作品に関係ない持論を述べるパターン。
難解な解説でその解説に解説がいりそうな例。
あるある。
「本当の解説とは?」この本文を読んでください、わかります(笑)
わたし、途中まで読んできて
「はて、こんな厳しいこと言っちゃって、斎藤さん、解説お書きになってるよね」
と、このご本に「解説」は無いから(笑)著者の「あとがき」に走った。
おう!
「なんだけど、もしかして私、自分で自分の首絞めてない?」
とあった。
100は超えないけどそれなりにお書きになって、しかもお得意だとか。
この本の雑誌に連載中にも「解説」の仕事ありで「冷や汗タラー」だったそう。
30篇以上、ベストセラー・名作など本の「解説」部分を比較検討、展開する批評は斬新。
現代文学史でもあり、読書指南でもあった。
著者プロフィール
斎藤美奈子の作品
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感想 :

はい、その通りだと思います!
私も全面的に賛成なわけじゃありません。
偏向が過ぎると思うところもあるのですが、そ...
はい、その通りだと思います!
私も全面的に賛成なわけじゃありません。
偏向が過ぎると思うところもあるのですが、それでも読んでしまいます。
それで困っております・(笑)
「本の本」と「名作うしろ読み」が面白いですよ。