トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書 新赤版 1691)
- 岩波書店 (2017年12月22日発売)
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感想 : 27件
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Amazon.co.jp ・本 (272ページ) / ISBN・EAN: 9784004316916
みんなの感想まとめ
神学と哲学が交差する深いテーマを探求する一冊で、特にアリストテレスの影響を受けた新しい解釈が魅力的です。キリスト教に対する偏見が多い中で、神や天使の問題に正面から向き合う姿勢が好感を持たれています。特...
感想・レビュー・書評
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281P
**トマス・アクィナス**は
**カトリックの「祖」ではなく、「最大の体系化者・代表的神学者」**
このトマス・アクィナスの新書面白すぎた。
私は特に信仰してる宗教は無いけど、世界の宗教全般に興味あって昔から本読んでるけど、宗教の尊敬する部分はここなんだよね。歴史的に素晴らしい美術とか建築とかって、ほぼ強い信仰心から作られてるものだし、『把握を超えた何か』を追い続ける気持ちが素晴らしい美術を作ってきたんだと思うから。
『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書 1691)』 山本芳久 #ブクログ #読書 #KindleUnlimited
https://booklog.jp/item/1/400431691X
節制というのは単に欲望を我慢することではなくて、真に欲すべきものへと自らのエネルギーを方向づけていくこと。欲望自体を良い方向へと変容させていくことって、素晴らしい言葉を得た。
『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書 1691)』 山本芳久 #ブクログ #読書 #KindleUnlimited
https://booklog.jp/item/1/400431691X
山本 芳久
(やまもと よしひさ、1973年 - )は、日本の哲学者[1]。東京大学大学院総合文化研究科教授。専攻は哲学・倫理学(西洋中世哲学、イスラーム哲学)、キリスト教学[1]。神奈川県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。千葉大学文学部准教授、アメリカ・カトリック大学客員研究員などを経て、東京大学大学院総合文化研究科教授[2]。2018年、『トマス・アクィナス 理性と神秘』でサントリー学芸賞を受賞。
トマス・アクィナス
(羅: Thomas Aquinas、1225年頃 - 1274年3月7日)は、中世ヨーロッパ、イタリアの神学者、哲学者。シチリア王国出身。ドミニコ会士。『神学大全』で知られるスコラ学の代表的神学者である。カトリック教会と聖公会では聖人、カトリック教会の教会博士33人のうち1人。イタリア語ではトンマーゾ・ダクイーノ (Tommaso d'Aquino) とも表記される。トマスの最大の業績は、キリスト教思想とアリストテレスを中心とした哲学を統合した総合的な体系を構築したことである。
山本芳久『トマス・アクィナス:理性と神秘』を読む。アリストテレスとキリスト教という異なる体系から明晰な説明を生み出すアクィナスの試みを解説する。著書の構造やラテン語の用法からの解説が分かりやすい。中動態的なあり方も感じられた。アクィナスの試みやその倫理観は現代的で共感も覚える。
「 『神学大全』は、邦訳では四十五巻にも及ぶ大著であり、他のすべてのことをなげうって一週間で一冊を読むほどの速さで読み続けるとしても、読了まで一年近くかかるほどの分量である。多大な労力を費やして読み通しても、トマスが得た最終的な洞察がその中に含まれていないのだとすれば、結局は徒労ではないだろうか。そもそも、途中で著作を放棄せざるをえなくなるということは、トマスの構想自体に問題があったということを意味しているのではないだろうか。きちんと完結した神学書を読んだ方が、キリスト教神学の全体像についての適切な知見を得ることができるのではないだろうか。そんなふうに感じる読者もいるかもしれない。 だが、ここで視点を百八十度転換することはできないだろうか。トマスは『神学大全』の執筆に成功していたからこそ、沈黙に至ったのだと。くだんの神秘体験のなかでトマスに何が示されたのか、それは我々には分からない。だが、その宗教体験によって与えられた洞察が、『神学大全』に書かれてあるトマスの立場を根本的に否定するようなものであったならば、トマスは決して筆を折らなかったのではないだろうか。それまで書いてきた構想のとおりに書き進めるのでは書き尽くせないほどの新たなヴィジョンを、トマスは晩年の宗教体験のなかで獲得したのだが、それほどまでの深い宗教体験を得ることができたこと自体が、トマスのそれまでの神学探究の成果なのではないだろうか。世界の根源である神をふさわしい仕方で知り愛することを目的とした神学探求の道が進展するなかで、それまでの構想をそのまま続けていくことができなくなるような決定的に新たな神的ヴィジョンを受容するための準備態勢が、トマスの心のなかで着々と整えられていたのだ。」
—『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書)』山本 芳久著
「トマス哲学の魅力は、事柄を「理性」の力によって徹底的に浮き彫りにしていこうとする姿勢と、神によって啓示された「神秘」を手がかりにして探求を進めていこうとする姿勢が絶妙な仕方で共存しているところにある。「理性」と「神秘」は相対立するものではない。「神秘」に触れることによって「理性」がそれまでにはない仕方で開花し、「理性」に開示されることによって「神秘」が単なる不合理ではなく独自の論理と構造を有するものであることが明らかになっていく、という積極的な相互関係が実現している。」
—『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書)』山本 芳久著
「viaという言葉がある。「道」という意味の極めて平凡なラテン語の名詞である。だが、トマスのテクストにおいてこの言葉が使われるとき、この単語は一つのより特殊な意味を帯びてくる。「この世」とか「現世」という意味で via という語が使われることがあるからだ。そのとき、この言葉は、 patriaという語との対において使われている。 patria という語も、極めて一般的なラテン語であり、「祖国」という意味である。だが、この言葉が「現世」という意味の via と対で使われると、「天の祖国」すなわち「天国」を意味する。トマスにおいて、人間は、 via を経て patria に至る viator(旅人)として捉えられているのだ。 この世という道を歩む人間は、多様な経験を経るなかで、人生という道を適切な仕方で歩み続けていくための様々な力を獲得することができる。だが、悪しきものの考え方や習慣を身につけてしまうと、道を歩み続けるための力が弱まってしまったり、道を少しずつ逸れて行き、行き止まりへとぶつかってしまったりすることもある。」
—『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書)』山本 芳久著
「トマスは、「徳」を、「神学的徳」と「枢要徳」とに大別する。前者は神との関係のなかで成立する徳であり、後者は、自己自身または他者との関係のなかで成立する徳である。また、前者はキリスト教の伝統のなかで成立した徳であり、後者は、もともとはキリスト教とは関係のないもので、古代ギリシアとりわけアリストテレスに由来するものである。 トマスの徳論は、トマス人間論の中核を構成する要素であり、徳論を軸にすることによって、トマス人間論の全体像を手際よく分析することができる。 『神学大全』第二部の人間論は、第二部の第一部の「倫理学総論」と第二部の第二部の「倫理学各論」に大別されるが、各論の実に九割程度は徳論にあてられている。また、総論においても、その三分の一以上は、徳と悪徳についての考察にあてられている。徳についての考察は、トマス哲学のごく一部についての考察に留まるものではない。徳というトマス哲学の根本概念を軸にすることによって、我々は、トマスの全体像を浮き彫りにしていくことができるのだ。」
—『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書)』山本 芳久著
「 「力」にあたるラテン語は virtusである。この語は、文脈に応じて、「力」と訳すこともできれば、「徳」と訳すこともできる。「徳」という言葉を聞くと、我々は、他者や社会から身につけることを求められる、半ば強制的で窮屈な「徳目」のようなものをイメージしがちだ。だが、トマスの言う「徳」とはそのようなものではない。それは、人間一人一人が手堅く前向きに生きていくことを支える内的な「力」のことなのである。徳とは、人間が自らの持って生まれた能力を十全に開花させて、この世界を可能な限り充実した仕方で生きることを可能にさせる「力」にほかならない。」
—『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書)』山本 芳久著
「賢慮とは、今ここの具体的な状況や事柄の真相を適切に認識したうえで、為すべき善を的確に判断し、その判断を実践に移していく力である。そうした適切な判断力や実行力は、ある種の頭のよさであることは間違いないが、単なる頭のよさではない。バランスのよい人柄 すなわち諸々の倫理的徳 が伴っていてはじめて身につくものだ。そして反対に、こうした意味での賢さが伴っていてはじめて倫理的徳も身につく。じっさい、日本語で考えてみても、「性格の悪い知識人」というものは簡単に想像できるが、「性格の悪い賢者」という言い方には何か不自然なものを感じ取る人が多いであろう。そうした意味での人柄のよさ(倫理的徳)を不可欠の前提として伴っている意味での賢さが「賢慮」と呼ばれる知的徳なのであり、それは「理性そのものが直されることに基づいて」成立するとトマスは述べているのだ。」
—『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書)』山本 芳久著
「それに対して、家族の食べているケーキを横目で見て自分も食べたくなっても、欲望を抑え、食べるのを控えることができる場合、その人は、単にそのとき一度限り適切な選択肢を選ぶことができたというのみではない。節制ある行為をするということがどういうことであるのかが、ほんの少しではあるにしても体得されることによって、次にまた似た状況に直面したときに、再び節制ある選択肢を選びやすくなる何かが心のうちに形成されてくる。こうした節制ある行為を繰り返すことによって身についてくる「善い習慣」が、「節制」という徳である。 節制という「徳」とは、自らの欲望を安定した仕方でコントロールする「力」である。そして、節制という徳を身につけた人は、節制ある行為を行うことが素早く容易にできるようになっていくのみでなく、そのことに喜びを覚えるようになっていく。家族の食べているケーキやプリンを食べるのを控えることが苦痛であるどころか、むしろ、自らの健康状態にふさわしい適切な食生活を送ることができていることに喜びを覚えるようになっていくのだ。」
—『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書)』山本 芳久著
「 「徳」概念がトマスの人間論においていかに中心的な位置づけを有しているかということは、トマスが人間論を最も体系的な仕方で展開している『神学大全』第二部の構造を 見すれば明らかである。 『神学大全』は、第一部の神論、第二部の人間論(倫理学)、第三部のキリスト論の全三部から構成されている。第二部の人間論は、第二部の第一部の「一般倫理(倫理学総論)」と第二部の第二部の「特殊倫理(倫理学各論)」に大別される。そして、「一般倫理」は、「究極目的と幸福」「人間の働き」「働きの根源・原理( principium)」の三つに大別される。さらに、「人間の働き」は、「意志的行為」「行為の善悪」「感情」という三つの問題群に分かたれる。また、「働きの根源・原理」は、「習慣・徳・罪」「法」「恩寵」という三つの問題群に分かたれる。」
—『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書)』山本 芳久著
「諸々の善いものに取り囲まれることによってはじめてその存在が成り立つという構造は、人間にのみ当てはまることではない。植物は、光や熱や空気といった善いものに支えられてはじめて存在し続けることができる。諸動物は、これらに加えて、食べ物という善いものに支えられている。食べ物なしには存在し続けることのできない動物は、食べ物なしにも存在し続けることのできる植物と比べて一つの弱さを抱え込んでいるとも言えるが、他方、植物が触れることのできないより豊かな善に触れることが動物には可能になっていると言うこともできる。 動物のなかでも、「理性的動物( animal rationale)」である人間には、より豊かな善の次元が開かれている。人間は、感覚的な善のみではなく理性的な善にも触れることができるからだ。理性的な善とは、「真理を認識すること」や「正義を実現すること」のように、理性があってはじめて可能になる善のことである。また、感覚的な善に関しても、人間は、理性を有していることによって、他の諸動物よりも豊かな接し方が可能になっている。食べ物の摂取に関して、人間が、種類に関しても食べ方に関しても、どれだけ豊かな在り方が可能になっているかを思い浮かべてみれば、そのことは自明だろう。」
—『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書)』山本 芳久著
「 何を「善」とみなすかは、人によって異なる。それだけではなく、同じ人であっても、時の経過とともに変化していく。たとえば、クラシック音楽を聴いても退屈しか感じなかった少年が、大人になる過程で様々な機会にクラシックに触れる時間を持っていくなかで、優れた演奏と凡庸な演奏を聴き分ける耳が少しずつ育ってきて、様々な演奏に触れるのが楽しくてたまらなくなってきたとしよう。少年の彼にとっては「善」ではなかったクラシック音楽が、大人になるにつれて、「善」として立ち現れるようになってきたということになる。 言うまでもなく、このような「善」の可変性は、クラシック音楽についてのみではなく、あらゆるものに当てはまる。食べ物であれ、絵画であれ、人物であれ、以前は何の魅力も感じなかったものに強い魅力を感じ取るようになっていくといったことは、一人一人の人生において実に様々な仕方で日々起こっていることだ。このような事実は、「善」というものが人によって異なる、そして同じ人でも時と場合によって異なる相対的なものであることを意味しているのだろうか。」
—『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書)』山本 芳久著
「何かを気に入るか気に入らないか、何かに魅力を感じるか感じないか、それは我々の選択の対象になることではない。何かに魅力を感じ、好感を抱くことを、トマスは「愛( amor)」と呼ぶ。愛は「情念(感情)」の一つであるが、「情念」はラテン語では passioという単語であり、 passio は「受動」と訳すこともできる。「情念」と「受動」は、日本語だと全く違う概念だという印象を与えるが、ラテン語では一つの概念となっている。それは、「情念」は「受動的」な仕方で生まれてくるものだと考えられているからである。」
—『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書)』山本 芳久著
「そして、トマスによると、あらゆる情念の根底には「愛」がある。我々がなぜ津波警報を聞いて恐れるのかと言えば、自身や家族・友人の生命を愛しているからだ。旧友と再会してなぜ喜ぶのかと言えば、その旧友を愛しているからである。配偶者が亡くなってなぜ悲しむのかと言えば、その配偶者を愛しているからだ。同様のことは、他の情念についても当てはまる。 それでは愛とはどのような情念なのだろうか。トマスは、愛のことを、「善が気に入ること( complacentia boni)」とか「欲求されうるものが気に入ること ( complacentia appetibilis)」と定義している。日本語で「愛」と言うと恋人や親子などの特別に濃厚な関係のみに使われるという印象があるかもしれないが、トマスの述べる愛とはそのように特別な場面においてのみ用いられるものではない。「ミカンを愛する」「散歩を愛する」「漱石を愛する」といったように、あらゆる対象に関して、それが気に入ることを「愛」という言葉で指すことができる。」
—『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書)』山本 芳久著
「ところが、もう少し考えてみると、実は、我々はそういった「最善の味覚を有する人」の存在を自然に認めていることに気づく。たとえば、我々は、ソムリエという職業の存在を認めている。ワインの好みは様々とはいえ、一定の訓練を積んでいくと、どれがよいワインでどれはさほどよいワインではないということが味わい分けられるようになっていく。ワインの善し悪しについての評価が一定の方向に収斂していくということが、ソムリエという職業という仕方で社会的に制度化されているのである。 このような話はソムリエのみに当てはまるのでもなければ、味覚という一領域のみに限定された話でもない。絵画や音楽の鑑賞などについても事情は同様である。抽象的な線と色のみで構成された現代絵画を見て、最初はどれからも感銘を受けなかった少年が、多くの作品に触れたり、現代美術の解説書を読んだりしていくなかで、少しずつ見る眼が育ってきて、真に優れた抽象絵画から受ける感銘と凡庸な作品から受ける印象とを明確に腑分けできるようになる。最終的にすべての鑑賞者の評価が同一になるわけではないとしても、だからといって完全に相対的なのではなく、それぞれの分野に馴染み習熟していくことによって収斂していく善し悪しの評価の方向性というものがある。誰であれ、時間をかけて訓練を積み重ねていくことによって、様々な分野での見る目や聴く耳を育てていくことができるのだ。」
—『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書)』山本 芳久著
「 「節制」という言葉を聞くと、嫌々ながら欲望を我慢するというイメージを抱く人が多いかもしれない。だが、トマスによると、それは「節制( temperantia)」ではない。嫌々ながら何らかの欲望を我慢するのは「抑制( continentia)」と呼ばれる在り方である。 それに対して、節制という徳を有する人物の特徴は、バランスよく欲望をコントロールすることに喜びを感じるところにある。そのようなことが可能になっているのは、節制ある人においては、欲望すべきものを欲望するという積極的な在り方が実現しているからだ。「節制」という徳の本質は、やりたいことを我慢するという点にあるのではなく、真に欲望すべきものへと自らのエネルギーを方向づけていくこと、別の言葉で言えば、欲望自体をよい方向へと変容させていく点にこそあるのである。」
—『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書)』山本 芳久著
「だが、ここで注意すべきことは、トマスは、必ずしもキリスト教的な観点のみからアリストテレスと距離を取っているのではないという点である。トマスの論拠はもっと普遍的だ。彼は、同項の主文において、「このような〔人間の生のために必要な〕諸活動から帰結するこうした諸々の快楽を、何らかの目的のために控えることは、時には賞賛すべきことであり、必要なことでもある」と述べている。そして、その例として、身体の健康のために飲食物や性的な事柄を控えるとか、運動選手や兵士が自らに固有の職務を遂行するために多くの快楽から身を慎むことが必要だというような例を挙げているのである。 このような論の構成は、極めてトマスらしいものと言える。すなわち、トマスは、アリストテレスを中心とするギリシア伝来の哲学的伝統に依拠しつつも、聖書に由来するキリスト教的な視点を手がかりとしながら、自らが依拠する哲学的伝統を相対化する観点を提示してくる。だが、そのキリスト教的な視点というものは、「神の言葉だから」といった問答無用の仕方で持ち出されてくるのではない。むしろ、聖書の物語を手がかりにすることによって、理性的な哲学探究自体に新たな観点を普遍的な仕方で持ち来たらせることをトマスは試みているのである。」
—『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書)』山本 芳久著
「節制という徳の一種である純潔という徳を身につけている人は、不本意ながらに性的欲望を我慢しているのではない。そうではなく、純潔を身につけることによって、自らが真に欲求している最高善である神の観想を自由に追求できる在り方へと解放されているのである。純潔という徳を身につけることによって、この人物は、感覚的世界に気を取られすぎることによって生じてくる視野狭窄から解放され、自らの真の欲求対象へと全エネルギーを方向づけていくことが可能になっているのだ。」
—『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書)』山本 芳久著
「ここにおいても、トマスによって洗礼を施されたアリストテレスの姿を我々は見出すことができる。このように、キリスト教に固有な「神学的徳」のみではなく、アリストテレスに由来する「枢要徳」の枠内においても、トマスの徳論においては、単なるアリストテレスの理論の受容や解釈といった次元を超えた独自の体系化が為されている。哲学史では、トマスは、「アリストテレス主義者」と位置づけられることが多いが、このような位置づけの仕方は、完全に間違いとまでは言えないとしても、非常に一面的なものだ。トマスは、聖書やキリスト教的古典のみではなくアリストテレスをも一つの素材として自らの神学・哲学体系を築き上げた、一人のオリジナルな探求者であったのだ。」
—『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書)』山本 芳久著
「しかも、その愛する相手が、このテクストにおいては、単なる人間ではなく、神になっている。そして、「神は愛である」という「ヨハネの第一の手紙」第四章第十六節の有名な言葉にもあるように、神は愛そのものだというのがキリスト教の根本的な教えである。そうすると、神を愛する者は、愛を抱けば抱くほど、愛そのものである神と似た存在となり、神の本質へとより深く参入していくことができるようになる。このような在り方における神との親密な関わり合いを分析するのが、信仰・希望・愛徳という神学的徳を主題とする次章以降の課題である。」
—『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書)』山本 芳久著
「トマスにとって、「信仰」とは、絶対者に対する依存感情を抱いて安心するとか、意志的にとにかく決断するというところに本質があるのではない。何よりも「知性」に関わるものであり、さらに言えば、「知性」の固有対象である「真理」に関わるものなのである。後述のように、トマスの信仰論においては、「意志」も極めて重要な役割を果たすが、あくまでも「知性」が軸になったうえで、「知性」と「意志」とが協働するという話になっている。」
—『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書)』山本 芳久著
「そのなかでも、とりわけ自分だけでは充分ではないのは「知識」である。特に現代のような情報社会においては、生きていくために必要な知識のうちの大部分を我々は他者に依拠している。我々が直接的に経験して知っている事柄というのは、この社会のなかのごく一部の事柄にすぎない。新聞やテレビやインターネットを通じて触れる情報が、我々のこの社会についての認識の大半を形成していると言っても過言ではない。我々は、いわば、これらの情報を「信じる」ことによって社会について「知っている」のだ。ときに我々は、あるニュースが間違っていたとか、誰かが意図的に流した噓の情報に基づいていたという事実に後から気づかされることがある。そうすると、我々は、噓または誤りを信じてしまっていたことに気づく。」
—『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書)』山本 芳久著
「友人や恋人のような特別に親しい関係においては、相手を信じて深く付き合うことによって初めて見えてくる相手の真の姿というものがある。完全に信じることができないからといって距離を置いて接しているのでは決して見えてこない、それぞれの人の人柄の深みがある。相手がきちんとした人物であると確実な仕方で証明されない限りその人を信じないというのでは、親密な人間関係は成立しない。誰も信じずに孤立して生きていれば、 されたり噓をつかれたりすることもないから安全かと言えば、そんなことはない。苦境に陥っても誰にも相談することもできず、喜び悲しみを共有することもできず、むしろ、この世界において安全に幸せに生きていくことの根幹が揺るがされてしまうだろう。この世界には、絶対に確実でなければ信じないというのでは失われてしまう実に多くの事柄があるのだ。トマスがこのテクストにおいて為そうとしているのは、このような仕方で、「信」というものが、人間が生きていくうえで、いかに不可欠なものであるかという事実の指摘だ。」
—『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書)』山本 芳久著
「たとえば、「裏山には熊がいる」と知人から言われたとしよう。裏山で熊を見たことのない私がその言葉を信じるとき、私は、その知人から提示されること 裏山には熊がいるという情報 に同意を与えるのであり、自らは熊を見たことがあるわけではない。もしも実際に見たことがあるのであれば、知人の言葉を「信じる」のではなく、「それは私も知っています」という反応になるはずだ。山歩きの好きな知人は裏山について自らよりも「より完全な認識」を持っているし、むやみに噓をつくような人ではないから、私はその知人の言葉を信じる。そのとき、事柄の真相は次のうちのどちらかである。すなわち、その知人の言葉を信じてよいという私の評価は間違いであるか、または、その知人が実際に私よりも完全な認識を有しており、知人の言葉を信じたことによって私は正しい認識を獲得できたかだ。 これは、一番単純な例だが、もう少し複雑な例を考えることもできる。「裏山には熊がいる」と私に語った知人自体、自分で直接熊を目撃したのではなく、第三者から目撃情報を聞いたという事例だ。さらに、その第三者自体、他の人から目撃情報を聞いたという仕方で、情報伝達の系列を次から次へと っていくことが可能な事例を考えることができる。だが、「裏山には熊がいる」という情報を真なるものとして承認する私の「信」が意味のあるものとなるためには、この「信」の系列が無限に続くのではなく、「それ自体から確固としており、信じる者の信の確固さをもたらす第一の何か」がなければならない。すなわち、伝聞ではなく直接的な仕方で熊を目撃した人物の「裏山の熊についての確固とした知」があり、その知が究極的な支えとなって、一連の情報伝達全体の信憑性に確固さをもたらしているということがないと、単なるデマや 、 憶測や都市伝説に留まってしまうだろう。」
—『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書)』山本 芳久著
「同じく第二章で述べた「徳」や「技術」を身につけた人の特徴を簡単に振り返ってみよう。ピアノを弾くという「技術」が身についてきた少年は、以前はたどたどしくしか弾けなかったピアノが、いつのまにか容易に弾けるようになっていることに気づく。そして、億劫なピアノの練習を早く終えて別の遊びをしたいと思っていた以前とは異なり、ピアノを弾くことに喜びを感じている自分を見出して驚く。ピアノを弾くという行為に伴うこうした「容易さ」と「喜ばしさ」こそ、ピアノを弾くという「技術」が身についた徴である。それと同じように、「節制」という「徳」が身についてきた人は、以前は「我慢している」という不満を抱きながらかろうじて実践することのできていたダイエットがいつの間にか違和感なく自然に行えるようになるとともに、節度ある健全な食生活に喜びを感じている自分を見出す。節制ある行為に伴うこうした「容易さ」と「喜ばしさ」こそ、節制という「徳」が身についた徴なのである。」
—『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書)』山本 芳久著
「キリスト教の思想史とは、単に、イエス・キリストによって与えられた「答え」を歪めることなくありのままにそのまま受け継いでいくようなものではありえなかった。キリストによって与えられたのは、「答え」というよりは、むしろ、「神秘」だったからである。 トマスにおいて、「理性」を超えた「神秘」という用語が使用される様々な文脈のなかでも、使用される頻度が高く、また、キリスト教の教えの最根幹に関わるのは、「キリストの神秘 ( mysterium Christi) 」や「受肉の神秘 ( mysterium incarnationis) 」という用法である。以下においては、キリスト教最大の「神秘」と言える「受肉の神秘」に着目しつつ、神の「神秘」がどのような仕方で人間の「理性」に新たな可能性を開くものとなっているのかという観点から、トマスの論述を分析していきたい。」
—『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書)』山本 芳久著
「 「教義( dogma)」という言葉は、現代では極めて評判が悪い。「あなたの考え方は dogmaticだ」と言われたら、「独断的」で「おしつけがましい」と批判されていることになる。同様に、 dogmatismとは、「独断主義」とか「教条主義」と訳される言葉である。「独断的主張」というような訳語が英和辞典にも散見するように、「ドグマ」は硬直化した柔軟性のないものの見方を批判するための言葉として使用されることが多い。これは日常用語においてそうであるのみではない。聖書を読むときにも、「教義はとりあえず脇に置いて、まずは聖書のテクストを丁寧に読んでいこう」などということがしばしば言われたりする。あたかも教義が聖書のテクストを丁寧に読むための障害ででもあるかのように。だがトマスの捉え方はそれとは全く異なるものだ。」
—『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書)』山本 芳久著
「こうしたトマスの論述に触れて、彼は既存の考えを上手くまとめて提示するのが得意だった、と理解するだけでは不十分だ。むしろトマスは、受肉の神秘についての統合的なヴィジョンを抱いていたからこそ、この神秘についての実に多彩な見解を自らの筋道だった論述のなかに絶妙な仕方で組み込んでいくことができたのである。トマスの論述は、往々にしてあまりにも淡々としており、そして他の論者からの引用に充ち満ちているので、当たり前のことをまとめているだけであるかのように見えてしまうこともある。しかし、我々は、こうしたトマスの淡々とした論述を可能にしている彼の驚異的なまでに透徹したヴィジョンを見失ってはならない。」
—『トマス・アクィナス 理性と神秘 (岩波新書)』山本 芳久著
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神学大全は全く馴染みがなかったが、アリストテレスの考え方を取り入れて新しい解釈をしているのが面白かった。
味わい深くもう一度読みたい。 -
本屋でタイトルに惹かれて衝動買い。キリスト教嫌いが多いこの国では珍しい「神学者トマス・アクイナス」の入門書である。一般には無視されがちな「神」や「天使」の問題にも正面から扱っているところに好感が持てる。個人的には特に第三章の「徳論」は大いに知的刺激を受けた。近代のカトリック思想に大きな影響を与えた神学者であるだけに、”カトリック入門”としても読める一冊だと思う。
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四ツ谷のドンボスコだったか、書棚の上段の方にズラッと並べられた「神学大全」から発せられたまばゆい光彩は、幼少のころ図書館で分厚い聖書に心を奪われた経験を想起させた。
その著者がトマスアクィナスである事はいつの間にか知っていたが、手に取るには明らかに力量不足を自覚しており、しばらくは書棚を眺めて憧れるにとどまった。
それから数年が流れ、ある日YouTubeで神学大全全巻邦訳完了した出版記念の映像を発見。
「学問と出版 トマスアクィナス 『神学大全』全訳の歩み」
稲垣良典先生の朴訥で、穏やかな中に芯の強さをにじませるお人柄に惚れ込み、このエンゼル財団の動画は繰り返し視聴させていただいた。
その動画のひとつ、神学大全 全巻邦訳完成記念フォーラムの 「ダイアローグ みんなのためのトマスアクィナス 」の中に今回の「トマスアクィナス」の著者、山本芳久氏が質問者として登場する。
山本氏を知ったのはここが初めてであったが、その後雑誌 Nyx(ニュクス)で稲垣良典氏との対談を読み、信頼を深めたところに本著書の発売である。
本作の序にて、
「可能な限りの分かりやすさを心がけて執筆されている。
だが、分かりやすくするために、トマスのテクストに登場する分かりにくい概念や馴染みにくい要素を切り捨てるようなやり方は採用しない」
よって、天使も天国も登場するのだと氏は続けて書いている。
私はそこに真骨頂があるのだと思ったのだ。
新書はとかく軽く読める、あくまでもザックリとかかれた、本編における案内書程度の位置付けだと認識されがちだが、この本はしっかりと歯ごたえがある。
その歯ごたえが心地よい。
難解なモノは難解なまま、読者は分からなければ何度でも読み返して考えたら良い。
ほかの本など読んだ後、また手を取り読み直し、または神学大全そのものに挑戦してみたり。
私は山田晶氏 責任編集の世界の名著20「トマスアクィナス 」や稲垣良典先生の「トマスアクィナス 」も読みつつ、時間をかけ、合間、若松英輔氏との共著である「キリスト教講義」を読んだり、出版記念イベントで直接お二方のお話を聴かせていただいたりしながらじっくり読ませていただいた。
それだけ時間をかけてじっくりと取り組んで読むだけの価値のある一冊である。
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中世スコラ哲学の大御所、トマス・アクィナスの入門書。アリストテレス主義者として知られるトマスの、思想のポイントを、いくつか説明していますが、素晴らしい。トマスが素晴らしいのか、著者の山本さんがすばらしいのかわかりませんが、読ませます。
そして、神学大全読みたくなります。
多少キリスト教の知識と、アリストテレス哲学の知識があった方が良いですが、基本的には古き良き新書らしい概説、そして道標といった本です。こういった新書が減ってきて辛い。 -
アリストテレスとアウグスティヌスを結び付けたと理解されているスコラ哲学の大家トマス。やはり難しい本だった。経験と理性に基づき、「神の啓示」を認めないキリスト教の世界観と両立しないように思われるアリストテレスの哲学(倫理学)に洗礼を受けさせたようなものとの著者の説明が適切な譬えのようで、面白い。しかし、「神が降ってきて人間との積極的な交流を求めている」との考えはトマスという人が思っていたよりはプロテスタンティズムとは遠い存在でないことは解ったように思う。しかし理性と信仰を対立的に捉えるのではなく、絶妙な仕方で統合されているとのこと。理性で神を認識できるのか!とのテーマは重要な論点だと思うので、安易に賛成できないとの警戒心で最後まで読んだ。「希望のない、信仰のないキリスト自身」との表現はドキッとさせられるが、完全な存在であるキリストには不完全な在り方は必要がないからとの説明を見て、理解した。いずれにしても論理先行の考えの人のようだ。
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自分のキリスト教への理解が浅はかなもので、「信じる者は救われる」的な、ある意味、思い込みの世界なのかとどこかで思ってしまっていた。トマスも恐らくは一般人の反応はそんなものだと分かっていて、聖書や、アウグスティヌスといった過去のキリスト教の偉人たちの言葉、それらに加えてこの時代に逆輸入されたアリストテレスの思想から、きっとこういうことだ!ということを論理立てて説明していったのだと思う。
現代では科学的に否定されているため、聖書の物語が史実なのか今更論じられることは少ないが、しかしそれも、人間の認知できない世界があるなら否定し切れるものでもなく、少しキリスト教を信じる気持ちも分かった。自分には、ほんのちょっとキリスト教が身近に感じられた本。 -
トマス・アクィナスの主要な思想についての新書。神学の一分野として理解する助けにもなる。
序
第一章 トマス・アクィナスの根本精神
一 トマスの「新しさ」
二 キリスト教とアリストテレスの統合
三 「饒舌」と「沈黙」
四 神秘と理性
第二章 「徳」という「力」――「枢要徳」の構造
一 トマス人間論の中心概念としての「徳」
二 「枢要徳」と「神学的徳」
三 「徳」と「善」
四 「節制」と「抑制」――徳の喜び
五 アリストテレスに洗礼を施す――キリスト教的「純潔」
六 親和性による認識――枢要徳と神学的徳を架橋する
第三章 「神学的徳」としての信仰と希望
一 信仰――知性による神的真理の承認
二 恩寵と自由意志の協働
三 神学的徳による人間神化
四 希望――旅する人間の自己超越
第四章 肯定の原理としての愛徳
一 神と人間との友愛としての愛徳
二 「神からのカリタス」と「神へのカリタス」
三 神の愛の分担者となる
第五章 「理性」と「神秘」
一 受肉の神秘
二 「最高善の自己伝達」としての受肉
三 受肉と至福
四 「ふさわしさ」の論理
五 人間理性の自己超越性――「神秘」との対話
あとがき
参考文献 -
「親和性による認識」cognitio per connaturalitatemという神学的言葉がある。日常の言葉で言えば「好きこそものの上手なれ」という言葉に表されるような事態を掬い取る言葉である。本書はトマスの徹底的に理性的な思考がいかにして神学的思考と接続されるのかを明らかにする本である。キリスト教はわかりにくいと思われることがあるかもしれないが、本書はキリスト教の基本的な発想を明晰な言葉で表しつつも、西欧の言語で語られるところの神学的問題へと読者を丁寧に導く神学入門となっている。
本書はその章立てから見て取れるように、トマスの神学の方法論と徳論と愛徳論を扱ったものである。まずはトマスの神学における論の進め方や『神学大全』の項の成り立ちを始め、基本的な内容を押さえる。そして私たちの日常に根ざした問題群である徳を扱う。『神学大全』の中核に位置する徳論を詳述する真ん中の二つの章は、その考察の具体性を知らせてくれるものである。徳論において枢要徳と対神徳とを接続する言葉として冒頭の「親和性による認識」という問題が扱われており、それは単に神学的思考にのみ関わるものではなく、人間の本性をめぐるトマスの一貫した人間論に裏打ちされていることが明らかにされる。
本書の特徴は、ともすれば翻訳を読む際につい読み飛ばしてしまうような区別を精確に取り押さえていくことにある。通常「神の愛caritas Dei」と訳される言葉の用法として、所有の属格では「神からの愛」と訳され、対格的属格では「神への愛」と訳され得ることが本論において指摘される。この両者の区別を精確に取り押さえることを通して、トマスが指摘する「神の愛」の思想がいかに革新的な内容を含んでいるのかを明らかにしている。そして神学的議論に興味を持ち始めた読者は教義史や異端論争へと関心を抱くことと思うが、まさにそのような読者を念頭に置いた神学的論争の要点を精確に取り押さえていくための手掛かりが与えられるのもまた本書の特徴と言えよう。
本書を読み解くことを通して学問的にテクストを読み解くことの生き生きとした様子を感じ取ることができ、読者を精確な読解へと招く本書は類まれな神学入門となっているのである。トマス・アクィナスだけでなく、中世哲学、ひいては哲学そのものに興味があるすべてに人に薦めたい一冊である。 -
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著者自身のトマスへの敬意や愛情の込められた解説で初学者にも分かりやすかったです。単なる解説にとどまらず表現の多彩さや例えの豊富さにぐっと惹きつけられました。
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中世において、哲学と神学を調和させるスコラ哲学を大成させた大学者として知られるトマス・アクィナスの思索を、トマスのテクストに愛着を覚える著者がそれに従って自らがもつ善を分け与えようと、丁寧な語り口で描いていく
理性と神秘(信仰)は対立するものではなく、信仰によって理性が新たな次元へとステップアップし、理性によって信仰がより深まるといった形で調和するものだとトマスは言う
同じく、トマスはアリストテレス主義者としても知られるが、実際はアリストテレスの哲学を援用して自身の神学を補強したことは間違いないが、哲学を神学の婢のままにすることなく、神学を用いて哲学に新たな概念を付け加えるといった形で調和が見られた
科学合理主義に染まった現代において、理性と対立することの無い神秘(信仰)の在り方や、何かに取り組む際必ず全体的な体系性を意識しつつ取り組むというトマスの思索の仕方など、700年前のテクストながら得られることは沢山あった -
前半まではとても興味深いものだった。今まで、アリストテレスの書を引用してキリスト教の世界観に置き換えた権威主義的な人物をイメージをしていたが、その実当時の誰よりも誠実に理解しようとしていた探究者であったことを知れた。
中途からは自身の不学のため、言っている内容が全くわからなかった。著者の意図が読み取れず、想像の余地すら働かなくなったため、面白さを感じず辞めた。
思うに、その先はアリストテレス、およびその著作である神学大全についての基礎的な知識が不足しているのだろう。また、いずれその時が来たら読み返すかも知れない。 -
岩波新書で読んだ『ルター』と『アウグスティヌス』がよかったので、これも間違いないだろうと思って買ったらやはり間違いなかった。
理性、感情、意志よりも知性を重んじる、アクィナスの考える信仰する態度の考えがとてもわかりやすく書かれている。そして「信仰」とは?「信じる」とはどういうことか?「希望」とはなにか? という神と自分自身の存在の仕方へのアクィナスの考えもわかりやすい。
また、力、愛、自己肯定という日常的な感情や思考についての記述が多く、現代の例えも多くとにかく読みやすかった。
ざっと読んでしまったので、そのうちにもうすこし時間をかけて再読したい。
https://twitter.com/prigt23/status/1132951624492564480 -
『二コマコス倫理学』を読みたくなる
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キリスト教と言っても長い歴史の中で変遷がある。
その中での積み重ねを知ることは今でも十分に意味のあることだろう。
トマスは中世の神学者として活躍した人物である。
宗教改革などをしたわけでもないし、黎明期になにかを決定づけたわけではない。
しかし、それでもなお彼の主著である「神学大全」は偉大な達成である。
本書はそれを中心に、どのようにトマスがキリスト教を整理しようとしたか確認する。
親鸞の教行信証の時でもそうであったが、
大きな遺産に対して敬意を払いながら発展的に展開する時の
「引用」および「編集」というのは現在よりも輝きをもった手法に見える。
テクノロジーはどうもこれらに手垢のついた印象を与えてしまう。
アカデミズムも本来はそうした手法を尊ぶものだが、時代につれて変遷はするだろう。
それはさておき、キリスト教に
ギリシャ哲学を接続していく流れはなかなか読ませるものがあり、
「善き生きる」ことを率直に肯定する教義へとつながっていくのは
キリスト教に対する認識を少し改めるところがあったように思う。
あるひとつの教義からプリズムように生み出される解釈は
宗教というものの多様性、および豊かさを感じさせてくれる。
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キリスト教の修道者が性的快楽から距離を置いた純潔な在り方をするのは、性的事柄が醜いことであったり、善からぬことであったり、価値のないことであったりするからではない。正反対だ。善いものであり、価値あるものであるからこそ、それを犠牲にしてまで神にすべてを捧げて生きるところに意味が見出されているのである。(p.97)
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なるほどね。
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キリスト教の思想史とは、単に、イエス・キリストによって与えられた「答え」を歪めることなくありのままにそのまま受け継いでいくようなものではありえなかった。キリストによって与えられたのは、「答え」というよりは、むしろ、「神秘」だったからである。(p.229)
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前半はむしろ神秘主義者であるよりも人間理性や自由意志が強く打ち出されている一方で
キリスト教の根っこに神秘そのものが埋め込まれているというのはとても面白い。
なぜ私が生まれたのかということを考えるのを代替させてしまうような「神秘」だろう。 -
東2法経図・開架 B1/4-3/1691/K
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トマスという人物は中世キリスト教の支配する思想の中でアリストテレスの合理性を結合させた開明的な人物という印象に改められた(というか歴史に一行以上には知らなかった)。また、凄まじい大著である神学大全ですらトマスの全著書の7分の1であるに過ぎず、アリストテレスや旧新約聖書への注釈、様々な同時代人との対論を残しており、40代で亡くなったことを考えると歴史的な知の巨人であったことがわかる。が、現代から彼の思想を見る意義は、著者がいろいろとこの新書の中で述べているが、アリストテレスの合理性とキリスト教の神秘性を合わせただけでなく、昇華させたところに意義はあるように見えるが、それ以上のところは私には理解できなかっただけかもしれない。
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久しぶりに世界観を揺さぶるほどのすごい本に出会った。トマス・アクィナス、半端ない。
著者プロフィール
山本芳久の作品
