内村鑑三 悲しみの使徒 (岩波新書)

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004316978

感想・レビュー・書評

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  • 内村鑑三の大きさは十二分に分かった。かのような人の下で、感化を受け、生を全うできた弟子は幸いである。

    祈りと願い、主義の無二性、再臨(信仰観は違えども、『おらおらでひとりいぐも』との親近感あり)に読みどころがあった。

    彼は聖書を実際にどのように読んだのか。次はそこに興味が移った。

  •  どんな宗教であっても、一つの宗教を「信ずることは非常なことである。一生涯の熱血を濯いだものでなければこれを信ずることはできない。たとえわが宗教でないにしろ、その人がその宗教を信ずるということは容易のことではない。たとえ幾ら欠点があろうが、声を極めて異教の人を罵り合うことはお前たち決して為てはならない」といったというのである(日蓮)。(p.46)

    「教育の精神とは、真実と耐忍と勉励とをもって体中に秘蔵せられ居る心霊を開発するにあり、教育の目的必ずしも学生に衣食の道を授くるにあらず」(p.57)

    「愛するものの失せし時」の最初に内村は、これまで自分は死を知っているつもりでいた。それは生物の生命活動の停止を意味すると思っていた。また、死と死後のあり方をめぐって人々の前で講演をしたこともある。しかし、愛する者を失い、それが、まったく次元の異なるものであることを、身をもって知った、と告白する。
     また、「生命は愛なれば愛するものの失せしは余自身の失せしなり」、生命とは愛それ自身である、愛する者を失うことは己を失うに等しい、と内村は書いている。ここに一切の誇張はない。彼は伴侶を失い、ある時期、自己を見失うほどの悲痛のなかに生きねばならなかった。(p.76)

    「精神の世界のなかで宗教的なものの占める位置が大きいことは今さらいうまでもないことであろう。宗教というものを、既成宗教や宗派の枠にとらわれずに、競技や礼拝形式などの形をとる以前のもの、またそれらを通してみられるもの、つまり、目に見えぬ人間の心のありかたにまで還元して考えるならば、それは認識、美、愛など、精神の世界のあらゆる領域に浸透しているように思われる」(p.107)

     石牟礼は「生類」という言葉を、人間だけでなく生けるものすべてを包含する言葉として用いる。彼女にとって公害は、人間が人間に対して行なった存在への冒涜に映った。
     それは内村も変わらない。石牟礼と内村は、公害問題において共振するだけでなく、いのちの世界観ともいうべき地点で深く交わる。真の意味の「生類」の復活、この地平において二人は深く交わる。(p.132)

    「君は基督信者ならざるも、世のいわゆる愛国心なるものを憎むこと甚だし。君はかつて自由国に遊びしことなきも、真面目なる社会主義者なり。余は君のごとき士を友として有つを名誉とし、ここにこの独創的著述を世に紹介するの栄誉に与かりしを謝す。(「『帝国主義』に序す」『帝国主義』岩波文庫)(p.136)

    「戦争は人を殺すことである。そうして人を殺すことは大罪悪である。そうして大罪悪を犯して、個人も国家も永久に利益を収め得ようはずはない。世には戦争の利益を説く者がある。然り、余も一時はかかる愚を唱えた者である。しかしながら今に至てその愚の極なりし
    を表白する。(「戦争廃止論」)(p.138)

     祈りの歴史のほとんどは、言葉として記録されない。祈りの言葉は残っても、人が心のなかで行なった祈りの記録が年譜に刻まれることはない。
     思想史は文献をたよりにさかのぼることができる。精神の場合も射程を文字から絵画、音楽、あるいは民俗学や科学にまで広げて考えることができるだろう。しかし、再臨信仰のような霊性の歴史を考える場合、私たちは沈黙のうちに行われる、ベルの祈りのような動きをどこかで感じながら考えを深めていかなくてはならない。語られざる出来事を文字の彼方に見ることが求められる。(p.166)

     無教会、と内村がいうときの「無」は、そこに何もないことを指すのではないだろう。それは英語でいうnon-churchというよりも既存の教会のあり方を超えて、beyond-churchと理解した方がよいように思われる。(p.209)

     内村がいう「十字架」とは教会に掲げられた十字架ではない。内なる十字架である。それは人間が、自らの生でわずかながらでもイエスの受難を引き受けつつ、生きることを指す。それは他者の誤りを批判することよりも、その痛みを引き受けようとすることであり、罪を裁くことではなく、その罪を贖うことだった。内村にとってのイエスの生涯とは、神による「贖い」の奇蹟の実現にほかならない。
    「贖い」とは、神が人の罪を引き受けることを指す。イエスによって罪が贖われることによって人ははじめて神との関係を結び得る、それを信じ、体現すること、それが自分が全生涯を賭して試みたことだったというのである。(p.214)

     人は通常、この世の王、この世の法に従って生きる。内村にとって信仰とは、その「この世」の現実を包み込む「霊の世界」を発見することであり、その王であるキリストに従うことにほかならなかった。非戦、無抵抗主義、文化の独立、あるいは永遠の生命といった問題も「霊の世界」における真実であり、彼はそれを「この世」の常識にだけ従って生きるものたちに伝えようとしたのである。(p.232)

     聖書を読むとは「直接に神に教えられ」ることであると内村はいう。それは神の声ならぬ「声」を聴くことでもあっただろう。また、隠れたものの姿を見た者の言葉が、従来の見解と異なるのは当然の理で、そこに「独創的見解」があるのはむしろ自然なことだという。(p.240)

    「聖書は過去における活けるキリストの行動の記録なり、しかしてわれらは今日彼の霊を接けて、新たに聖書を作らざるべからず。古き聖書を読んで新らしき聖書を作らざる者は聖書を正当に解釈せし者にあらず。聖書はなお未完の書なり、しかしてわれらはこれにその末章の材料を供せざるべからず」(p.253)

  • 【新着図書ピックアップ!】
    ICU図書館には、内村鑑三記念文庫があります。そこには内村鑑三の著作をはじめ、内村に関する研究書がありますが、新しい書籍が入りました。内村の生涯や言葉をたどり彼の思想を読み解きます。あたらめて内村鑑三記念文庫を訪れてみてはいかがでしょうか。

  • 東2法経図・開架 B1/4-3/1697/K

  • 18/01/27。

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