ガンディー 平和を紡ぐ人 (岩波新書)

著者 :
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  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004316992

作品紹介・あらすじ

My life is my message.非暴力不服従により社会を民衆の側から変革しようとした、ガンディーの生き方は、いまも汲めど尽きせぬ恵みをもたらす。恐怖と不信に屈すれば真理を見失う。人々の真の自由と独立は、平和を紡ぐ手紡ぎ車から生まれる。「マハートマ」(偉大なる魂)と呼ばれた人の生涯を語る、熱き評伝。

感想・レビュー・書評

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  • 行動力と、絶対に屈しない辛抱強さにただただ感服。
    あんまりアジア史系の本は読んでいなかったから、当時のアジア情勢なども知れて勉強になった。

  • 902

    宝塚みたいに現実とはかけ離れた世界観にハマるっていうのがあって、物理の世界とかも現実なのに現実逃避できるレベルですごい話が多いから好きなんだけど、インド関連も日本とあまりにも世界観が違いすぎて現実逃避できて好き。インドの古典も面白かったけど、ガンディーについて知ることで、現代インドが知れた感じがした。知りたかったパキスタンとの国境の話とか

    竹中千春
    日本の政治学者。専門は、インド政治・国際政治史。東京都生まれ。東京学芸大学教育学部附属高等学校を経て、1979年東京大学法学部第3類(政治コース)卒業。東京大学法学部学士助手(1979-83年)、東京大学東洋文化研究所助手(1984-89年)、立教大学法学部助手(1990-92年)、明治学院大学国際学部助教授(1992-2000年)、教授(2000-2008年)。2008年4月立教大学法学部教授に就任。2022年3月立教大学を定年退職。夫は政治学者・元東京大学大学院法学政治学研究科教授の藤原帰一。

    受賞歴
    2011年 - 大平正芳記念賞(『盗賊のインド史』)



    モーハンダース・カラムチャンド・ガンディーは、一八六九年一〇月二日、ポールバンダルという藩王国で生まれた。ポールバンダルはアラビア海に面した港町で、現在はパキスタンのシンド地方に隣接するインド北西部グジャラート州に

    少年時代への自己評価は高くない。小学校では記憶力が劣り、後に人並みにはなったものの、中学校では引っ込み思案で、学校が終わるや否や、すぐに家へ飛んで帰るような子どもであったという。人とのコミュニケーションが苦手だったらしい。「書物と課業だけがわたしの伴侶だった」と『自伝』で語っている。もっともこれは本人の自画像で、実際には勤勉で優秀な生徒であったらしい。

     親友の一人にシェーブ・メータという少年がいた。肉を食べ、酒や煙草に親しみ、売春宿にも行く豪放磊落 なイスラームの男の子だった。スポーツマンのシェーブ少年は、「イギリス人がぼくたちを支配できるのは、彼らが肉を食べているから」だと、モーハンダースに繰り返し肉食を勧めた。ヒンドゥー教徒と違って、イスラームの人々はもともと肉食を常としている。この友人の誘惑に、「わたしは負けた。肉を食べてもかまわない。そうすれば強くなるし、大胆になれる。もし国じゅうの人が肉食をすることになれば、イギリス人にうち勝つこともできよう。こんな考えがわたしに生まれた」と、『自伝』で告白している。

    まず、チャンパーランとはどのような土地だったのか。ここはビハール州の北西部にあり、その北はネパールで、当時はビハール=オリッサ州の管轄下にあった。ベンガルの後背地であり、一九世紀にはイギリス人の資本家が進出して土地を確保し、藍(インディゴ)のプランテーション、つまり大農園をつくった。産業革命を驀進するイギリス本国の綿工場が必要とする染料の藍である。東インド会社は鉄道を敷き、税務署、警察、裁判所が置かれた。イギリス人用のバンガローが建てられ、ホテルやクリケット・クラブが開かれた。ちなみに、小説家のジョージ・オーウェルは、父がインド政府の役人として働いていたため、チャンパーランの県庁所在地モーティハーリ生まれの人である。

    仲間の心配をよそに、ガンディーはひたすら頭を悩ませていた。どんな民衆の行動が可能か。誰もが参加できる、民族や宗教やカーストの差別のない戦いは何か。スワラージの正しさを示す行いとは何か。熱血的な若者を導き、人々の怒りを暴動やマイノリティ迫害に向かわせないために、どうするか。彼は黙考を続けた。

    藩王国を代表したマハーラージャたち、イスラーム代表としての全インド・ムスリム連盟のジンナーら、パンジャーブのシーク教徒の代表、クリスチャンの代表、「不可触民」として差別された人々を代表するアンベードカル、そのほか様々な代表にとっては、「自分だけがインドを代表する」と言うガンディーの主張は失礼であり、自分たちの存在を否定するものだと不評だった。当然と言えば当然のことだが、その結果、ガンディーは会議の場で終始孤立することになった。

    ガンディーの説いた平等は、平等を教義とするイスラームにも別の次元から問題をもたらしたが、高いカーストのヒンドゥーの人々にとっては簡単には認められないものだった。ガンディーはイスラームとの平和を説き、カースト差別を否定し、ヒンドゥー教徒がイスラーム教徒に襲撃される事件が起こっても報復するな、と非暴力を説いた。それにもかかわらず、市民不服従運動を突然停止したり、自分たちが獄につながれている間にも、ロンドンで国王とのんびりお茶を飲んだりしているではないか。怒りを露にするヒンドゥー青年が出てきても不思議ではない。「ヒンドゥー国家インドの復興」を目指そう、イスラームに復讐しようと説くサーヴァルカル ── イギリス人の暗殺を企てた罪で、アンダマン・ニコバル諸島の刑務所に入れられたが、恩赦で戻ってきたヒンドゥー右翼の英雄 ── の周りに、こうした青年たちの幾人かが集まっていたのである。この問題については終章で再び論じることになるだろう。

    ガンディーは一九三四年末の会議派年次大会で市民不服従運動の終了を提案し、それ以後は彼一人でサッティヤーグラハを行うと約束した。自分は会議派を去り、以後の政治は若い人々に委ねようとしたのである。しかし、ガンディー自身がどう考えようが、当時の政界で誰よりも有名で、誰よりも影響力を持ち、誰よりも信頼されていたのはガンディーだった。その評判の基礎には、ガンディーの抜きんでた構想力、組織力、実行力があったし、マハートマとしてのカリスマがあった。彼ほど人を呼び、寄附を集められる指導者はいなかった。彼に思い止まるよう訴える人々も大勢いた。

    だが、外的な問題以上に、彼に内在する問題があった。ガンディーの中には、エリート政治の世界にはおさまらない自分がいたのである。土を耕す素朴な人々を深く尊敬し、好奇心をもって彼らに学ぶモーハンダースの自分がいた。彼は、国王や首相や総督よりも、「誰々の妻」とか「誰々の娘」としか呼ばれない、村の女性から糸の紡ぎ方を教えてもらうことに、心からの喜びを感じる人だったからである。

    ガンディーは、「インドは一つ」であり、帝国の撤退後、住民が国の形を選ぶべきだということを繰り返し説いた。この考えには、独立後、イスラームはマイノリティに転落してしまうと主張するムスリム連盟だけでなく、会議派の指導者たちの多くも賛成していなかった。もしも分断が避けられないならば、イギリスの下で将来の国家の形を決めたほうが、内乱を回避できると考えたからである。こうして味方からも敵方からも、頑固な理想主義者のように扱われたガンディーは、失意の中、会議の半ばで退席し、アーシュラムへの帰路についた。

    祖父の希望を叶えようと努めた若いマヌーも、周囲の雰囲気を察して、ヨガを始めた一か月後の一九四七年一月初め、祖父に対して修行の停止を嘆願した。ガンディーは「怖がらないでいいよ」と慰めたが、マヌーの気持ちを汲んで止めることにした。ガンディーの孫であり、作家として知られるラージモーハン・ガンディーは、マハートマについての二冊目の伝記の中でこう書いている。「 非暴力 が完全に成就すれば、周囲の敵意や悪の諸力を完全に流し去ることができる」と信じ、「自己を完璧に空にできれば、そこに神の力が入り込み、コミュナルな暴力に打ち勝つことができる」はずだ ──。祖父はそう望んで、厳しい犠牲を神に捧げようとしたのだ、と。

    インド国家の正史を伝えるような歴史書やガンディー伝においては、この「ブラーフマチャーリヤ」の実験はほとんど言及されてこなかった。常識的にはマハートマらしくない行為だと考えられ拒絶されてきたのだろう。一部の文筆家が指摘してきたように、ガンディーには性的倒錯の兆候があったのだろうか。あるいは、高齢ゆえにこのような逸脱行為に走ったのか。だが、当時のガンディーの手紙や発言を辿るかぎり、精神に異常をきたしたとは思えない。政策をめぐる論議についても、ネルーやパテールよりも鋭い分析力を発揮している。いつも通りの冷静で穏やかで、辛抱強く賢いマハートマであった。そうだとすれば、性的な禁欲のヨガを実行すれば宗教暴動が抑えられるなどと、ガンディーはどうして考えたのだろうか。

    実際、暴動について、「問題解決の鍵はどこかにあるはずだ」という言葉を、ガンディーは繰り返していた。彼は、解決できないほど深刻な危機を前にすると、心身ともに不思議と強靱になり、驚異的な問題解決能力を発揮する人であった。人々はそれを「奇跡」と呼んだのである。そして、彼の「奇跡」は、人並み外れた集中力で問題解決の鍵を探す、天才的な努力によってもたらされたものだった。残念ながら、ノアカリでの「ブラーフマチャーリヤ」は不完全かつ不本意な形で終了したが、こうした非常手段に頼ってでも 非暴力 の「奇跡」をもたらしたいと、ガンディーは考えていたのだろう。ただし、マヌーや周囲の人々にとっては、聖人の行動の意味を汲み尽くせないまま、深い痛手を負った経験であった。

    両国を分割する国境線は、独立の二日後、八月一七日になって公表された。それまで現地を訪れたこともない、イギリス人官僚のラドクリフが国境委員会を託され、人口調査を基礎に線引きを行ったのである。会議派もムスリム連盟も異論を唱えなかった。「住民の多数がムスリムかムスリムでないかを基準に隣接している地域を確定し、それをもとに国境線を区切る」という原則により、古い寺院があるとか橋が両岸を結んでいるといった固有の要素はほとんど考慮されず、機械的に分断された。このような行為を、ガンディーは「生体解剖」と呼んだ。

    ガンディーに銃弾を撃ち込んだのは、ナトゥーラーム・ゴードセーという人物であった。暗殺後、訴追された法廷で被告席に座っている被告たちの中に、彼の顔も写っている。暗殺計画を立てた仲間とともに裁かれたが、ゴードセーはまじめで 癇 の強そうな、それでいて繊細な顔立ちの三十代後半の男性であった。人前で話すのは苦手で、とくに英語は使えないとされていた彼が、一世一代の法廷という舞台で、説得力のある答弁を披露したとき、彼を以前から知る人は大変に驚いたという。彼は暗殺を行ったことを明確に認め、命乞いは一切しないと誓い、ガンディーさえいなくなればインドは誤った非暴力思想から自由になり、軍事力でパキスタンに報復し、国民を守って正義を実現できる、と主張した。

    彼の父は郵便局員、母は敬虔なヒンドゥー教徒、子沢山の一家は貧しかった。兄三人は次々と夭折したため、両親は風習に従ってゴードセーを女の子として育てた。女の子の服を着て、女の子のように鼻輪(ナトゥー)をした。そのため、もともとのラームチャンドラという名前に変えて、ナトゥーラーム(鼻輪のラーム)と呼ばれるようになった。こうした育てられ方が影響したのかどうかはわからないが、ゴードセーは女性に触られることを嫌悪し、生涯独身で暮らしたという。師と仰いだヒンドゥー右翼のテロリスト、サーヴァルカルとの同性愛的な関係も取りざたされてきたが、確かな証拠はない。

     先に述べたように、ゴードセーとガンディーには共通した部分もあったが、決定的な違いがある。ゴードセーは人間嫌いで人々と触れ合うことが苦手な孤独な人だった。彼の師にあたるサーヴァルカルも孤高の暮らしをし、要塞のような堅牢な建物に住んで、ごく限られた人にしか会わなかった。彼らは頭の中で敵と味方の観念的なドラマを描いた。憎むべき「イスラーム」は悪を体現した存在であり、ガンディーは彼ら「イスラーム」を助け、ヒンドゥーを裏切る悪の支配者だという筋書きを書いた。だから「イスラーム」もガンディーも殺すべきだと考え、無法な暴力の行使を自己正当化したのである。

    また、先達の研究なくして、本書はありえませんでした。先輩や同僚の皆様に、心からのお礼を申し上げます。とくに、山崎利男先生、中里成章先生、中溝和弥さん、永野和茂さん、アチン・ヴァナイクさん、パメラ・フィルポーズさん、ウルヴァシ・ブタリアさん、深く感謝します。立教大学の先生方と職員の皆様、研究室で補助してくださった今村真紀さんと影山純子さん、講義やゼミで一緒に考えてくれた学生の方々、本当にありがとうございました。





    ナトラム・ヴィナヤック・ゴドセ
    (Nathuram Vinayak Godse、1910年5月19日 - 1949年11月15日)は、1948年1月30日にニューデリーでマハトマ・ガンディーを暗殺した、ヒンドゥー・ナショナリズムを信奉する右翼の活動家。ゴドセは、至近距離から、ガンディーの胸部に3発の銃弾を撃ち込んだ[1]。ゴドセは、右翼のヒンドゥー・ナショナリズム結社である 民族義勇団の元メンバーで[2]、インド・パキスタン分離独立の過程で、ガンディーがインドのムスリムたちの政治的要求を支持していると考えていた。

    1949年11月8日にゴドセに死刑判決が下されると、ガンディーの息子たちから減刑を求める嘆願が出されたが、これは却下された[3]。ゴドセは、1949年11月15日に絞首刑となった[4]。

    生い立ち
    ナトラム・ヴィナヤック・ゴドセは、マラーター・チットパーワン(英語版)のバラモンの一家に生まれた[5]。父ヴィナヤック・ヴァマンラオ・ゴドセ (Vinayak Vamanrao Godse) は郵便局員で、母はラクシュミ (Lakshmi)、旧姓ゴダヴァリ (Godavari) といった。生まれた時には、ラマチャンドラ (Ramachandra) と名付けられた[6]。 ナトラムにこの名が与えられたのは、不運な事情のためであった。彼が生まれる前、両親には既に息子3人と娘1人をもうけていたが、男の子たちはいずれも夭折していた。男の子を狙った呪いがかけられているのではないかと恐れた両親は、幼いラマチャンドラを、生まれてから数年間、女の子として育て、鼻にピアスを施し、マラーティー語で「ナト (Nath)」と呼ばれる鼻輪を付けていた。このため彼は「ナトをつけたラマチャンドラ」という意味で「ナトラム」と呼ばれるようになった。やがて弟が生まれると、両親は彼を男の子として扱うようになった[7]。

    学校で学んでいた頃のゴドセは、ガンディーを大いに尊敬していた[8]。


    マハトマ・ガンディーの暗殺に関わったとして告発された面々の集合写真。
    (後列左から、シャンカール・キスタイヤ(英語版)、ゴパル・ゴドセ、マダン・ラル・パーワ(英語版)、ディガムバール・バッジ(英語版)、前節左から、ナラヤン・アプテ(英語版)、ヴィナヤック・サーヴァルカル(英語版)、ナトラム・ゴドセ、ヴィシュヌ・カルカレ(英語版))
    政治活動と信条
    ゴドセは高校を中退し、ヒンドゥー・ナショナリズムを信奉する組織である民族義勇団 (RSS) と、時期ははっきりとしていないがヒンドゥー大連盟(英語版)にも加入して、活動家となった[9][10]。

    ゴドセは、ヒンドゥー大連盟の新聞として、マラーティー語の『Agrani』を創刊し、同紙は数年後に『Hindu Rashtra』と紙名を改称した。ゴドセは、ガンディーの哲学を拒み、ガンディーは様々な問題に関して「死に至る断食 (fasting unto death)」を用いることでヒンドゥー教徒の利益を何度も損なってきたと考えるようになっていた。ゴドセには反国民的と思われた様々な(ヒンドゥー教徒以外の)利益にガンディーは屈してきたのだ、と彼は考えていた[11]。

    民族義勇団 (RSS) のメンバーとして
    ゴドセは、1932年にサーングリー(マハーラーシュトラ州)で、「boudhik karyawah」(「基礎作業員」の意)として民族義勇団に加入し、並行して同じく右翼団体であるヒンドゥー大連盟のメンバーとしても活動した。ゴドセは自分の考えを広めるために、しばしば新聞に記事を書いた。当時、ゴドセとM・S・ゴールワルカール(英語版)(RSS総裁 Sarsangchalak)はしばしば共同作業をしており、ババラオ・サーヴァルカル(英語版)の著作『Rashtra Mimansa』の英訳もおこなった。1940年代はじめ、ゴドセは、自らが主宰する組織として「Hindu Rashtra dal」を準備し[12]、1942年のダシャラー祭(英語版)の日にこれを立ち上げたが、その後しばらくはRSSとヒンドゥー大連盟のメンバーに留まった[2]。

    1946年、インド・パキスタン分離独立問題についての見解の相違から、ゴドセはRSSとヒンドゥー大連盟を離れた。他のRSSのメンバーの多くとの関係は悪化し、ゴドセはRSSが立場を軟化させていると感じた[13][14]。

    ガンディー暗殺
    詳細は「:en:Assassination of Mahatma Gandhi」を参照
    ゴドセは、ナラヤン・アプテ(英語版)ほか6人とともに暗殺計画を練っていた。

    1948年1月30日、夕べの祈りの最中だった17時17分、ゴドセはガンディーに近づいた。ゴドセがお辞儀をすると、ガンディーに付き添って介助していた若い女性が「お兄さん、お父さん(=ガンディー)はもう遅れています (Brother, Bapu is already late)」と言ってゴドセを離そうとしたが、彼は彼女を押し退け、ガンディーの胸部を至近距離から3度、半自動式拳銃ベレッタM1934で撃った。当時デリーのアメリカ合衆国大使館に副領事 (vice-consul) として勤務していた若きハーバート・レイナー・ジュニア(英語版)は、真っ先に前に進み出てゴドセの両肩を掴み、ゴドセを振り回して居合わせた軍人たちに捕らえさせ、軍人たちはゴドセを武装解除した[15][16]。レイナーは、軍と警察がゴドセを連行するまで、ゴドセの首と肩を掴んで離さなかった[17][18]。ガンディーは、ビルラ・ハウス(英語版)の自室に運ばれたが、程なくして死去した[19]。

    裁判と処刑
    ゴドセは、シムラーのピーターホフ(英語版)に入っていたパンジャブ高等裁判所 (Punjab High Court) で裁判を受けた。1年以上の裁判の結果、1949年11月8日に死刑判決が下された。ガンディーの二人の息子たち、マニラル・ガンディー(英語版)とラムダス・ガンディー(英語版)から減刑を求める嘆願が出されたが、インドの首相ジャワハルラール・ネルー、副首相ヴァッラブバーイー・パテール、インド連邦総督チャクラヴァルティー・ラージャゴーパーラーチャーリーは、これを却下した[3]。ゴドセは、アムバラ中央刑務所 (Ambala Central Jail) で、1949年11月15日に絞首刑となった[4]。39歳であった。

    その後
    何百万人ものインド人たちが、ガンディーの暗殺を悲しんだ。ヒンドゥー大連盟は非難され、民族義勇団は一時的に禁止された。しかし、捜査の結果、ゴドセの企てを民族義勇団の組織が正式に支援していたことはもちろん、知っていたことにも証拠が出てこなかった。RSSへの禁止措置は、1949年に解かれた。

    その後もRSSは、ゴドセとの関係を否定しており、かつて彼がメンバーであったということにも疑義があるとしている[10]。ゴドセの弟ゴパル・ゴドセ(英語版)は、暗殺の当時ゴドセ家の兄弟は全員がRSSのメンバーだったと主張している[20]。ゴドセの甥であるサティヤキ・サーヴァルカル (Satyaki Savarkar) は、ゴドセが1946年にヒンドゥー大連盟の職から降りていたと述べ、彼はRSSには批判的で、RSSとの結びつきに不満を持っていたものの、正式な脱退の手続きはとっていなかったとしている[2]。

    復権への動き
    2014年、インド人民党が政権に就くと、ヒンドゥー大連盟はゴドセの復権を試み、彼を愛国者として讃えるようになった。ヒンドゥー大連盟はナレンドラ・モディ首相に、ゴドセの胸像を設置するよう求めた。2015年1月30日、ドキュメンタリー映画『Desh Bhakt Nathuram Godse』(「愛国者ナトラム・ゴドセ」の意)が、ガンディー暗殺の日にあわせて公開された[21]。ゴドセを祀る寺院を建設し、1月30日を「Shaurya Diwas」(「勇気の日」の意)としようとする試みも何度かあった[22]。プネーの裁判所には、このドキュメンタリー映画の上映を禁じる措置を求める民事訴訟が起こされた[23]。

  • ガンディーのことをあまり知らなかったので、サッティーヤーグラハやバガパッドギーターという言葉がわかって勉強になった。

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/702383

  • インド独立の父として、言葉だけじゃなくて行動を持って民衆を導く姿が素晴らしいと感じた。

    ただ、この本の良いところは、そんなガンディーの偉大な一面だけでなく、ガンディーの偉大な功績の影にある負の部分(特にガンディーの家族)にも触れてあるところにあると思う。

    どんな事にも良い面、悪い面があり、そのどちらもきちんと記されてあるこの本はガンディーを知る取っ掛かりとして素晴らしい本ではないか。

    この後は、ガンディー自身の著書も読んでみたい。

  • 温かみのある筆致で人間ガンディーを描く。そうガンディーは、ダメ人間でもあった。だからこそ、共感できるビジョンを築けたのではないか。劣等感を抱えつつ、酷い仕打ちにも遭い、ダラしなさも抱えていたからこそ。
    100分de名著のガンディーと合わせて読むと更にガンディーが立体的に見えてくる。

  • この本を読めば、ガンディーが生まれてから、暗殺によりこの世を去るまでの生き方が分かる。
    サッティーヤグラハ(非暴力運動により独立を目指す運動)に生涯をかけたことが分かった。

  • ガンディーが人々に与えた影響を知れた

  • インドを知るためにはやはりガンディーの理解が必要。
    本著にて彼の生涯の概要を理解することができた。
    恥ずかしながら、非暴力運動としてのガンディー程度の理解だったので、多くの事実を得ることができた。
    彼は、当初、南アフリカで活動していたこと、インド人がアメリカにおける黒人のような処遇でイギリス植民地で働かせられていたことなど等々。
    また、ガンジーの非暴力がイスラム教徒に対する宥和策として捉えられ批判も少なくなかったことも新たな理解であった。
    結果としてパキスタンの分離がされた事実からも、後年、ガンディーの政治的な影響力は弱まり、どちらかというと象徴的な存在になってしまったのだろうか。
    ただ、人を惹きつけるカリスマ性に優れていたことは、本著からもよく分かるのだが、その人柄、社会への影響力については、他複数の本も読んでみないと十分に理解できないのかもしれない。

  •  マハトマ・ガンディーの評伝である。ガンディーについての本は、世界中で3000点くらい出ているそうだし、日本語の本も当然多い。
     が、その中にあって、本書は「現時点でガンディーを知るために、日本人が一冊目に読むべき本」になっている。

     私には(子供向けの本ではあるが)ガンディーについての著書もあるので、彼についての文献はそれなりの数を読んでいる。それらの中でも、本書はまぎれもない一級品だ。

     生い立ちから死までを時系列でたどり、没後の世界に与えた影響についても解説するという、評伝としてオーソドックスな構成。新書というコンパクトな器ゆえの制限もあるなか、ガンディーについて我々が知っておくべきことが、手際よく網羅されている。

     書物の性質上、読者を驚かすような衝撃の新事実が多数盛り込まれているわけではない。ガンディーにある程度くわしい人なら、旧知の事実がほとんどの内容だろう。

     それでも、著者ならではの卓見にハッとさせられる部分が2つあった。
     1つは、ガンディーがその晩年に、裸になって孫娘たちと添い寝していたという「奇行」エピソードに、独自の解釈を加えた部分。

     その「添い寝」のエピソードは、ガンディーを聖者として描きたい伝記作者は触れずに済ませ、一部の論者は性的スキャンダルとして扱った。
     著者の視点は、そのどちらでもない。ジェンダー研究者として、女性に対する性暴力に深く向き合ってきた経験をふまえ、著者ならではの解釈を披露している。それを読んで私は、これまでどう受け止めてよいかわからなかったガンディーの「奇行」の謎が、初めて解けた気持ちになった。

     もう1つハッとしたのは、ガンディー暗殺についての考察。
     通常、ガンディー暗殺犯ゴードセイについては、狂信的なヒンドゥー原理主義者としてあっさり触れられるのみで、彼の心の動きにまっとうな検討が加えられることはなかった。
     それに対して、著者は資料をふまえ、ゴードセイの内面にまで分け入っている。彼を単純な「悪役」にはしていないのだ。そのうえで、ガンディー暗殺事件に新たな光を当ててみせる。

     それは、ガンディーの中にも苛烈な「殉死」の思想があり、ゴードセイらが依拠したテロリズムの中にある「殉死」の思想と、じつはそれほど遠くなかったのではないか、という視点である。
     ガンディーの伝記などを読んで感じる、「晩年のガンディーは、暗殺されることを待ち望んでいたかのようだ」という違和感とモヤモヤに、著者は1つの答えを提示し、スッキリとさせてくれる。

     以上2点の独自の解釈だけでも、本書にはガンディーの評伝として高い価値がある。

     なお、「本書には衝撃の新事実はほとんどない」と書いたが、一つだけ、私が本書で知って衝撃を受けたことがある。
     それは、ガンディーの不肖の長男・ハリラール(放蕩生活の果てに行き倒れで死んだ。その生涯は『Gandhi My Father』という映画にもなっている)が、実娘のマヌー(最晩年のガンディーにつねに寄り添った孫娘)を8歳のころからレイプしていたという事実である。
     マヌーという女性は、なんと数奇な運命を歩んだのだろうか。

  • 3月3日 平和の日

  •  正直、ガンディーが何をした人なのかしらない。インドの歴史や、差別についても殆ど知らない。彼が何をしたどんな人かわかればいいと思う。

     モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー1869年10月2日生をうける。16歳の時に父が亡くなり喪失のを味わう。叔父の勧めでイギリス仕込みの弁護士の道を選んだ。イギリスへの渡航に際し親戚の長に当たる人より、差別を受け、村八分にあう。イギリスでは紳士になるように努力する。また菜食主義に目覚め、菜食主義教会を結成。この経験が後の活動家になるために大きな経験となる。インドに帰国後、歓迎されない待遇にあい、失業を経験。南アフリカで商売相手のインド人商人との争いを解決するため一年間弁護してほしいと依頼がくる。インドでの境遇から抜け出すように、アフリカへ渡航する。帰国の際の送別会でインド人の検挙権問題について我々は戦わなければならないと発言し、弁護するためアフリカに残る。インド人たちのナタール・インド人会議派を立ち上げ、さまざまな宗教を人達300人を要する会を設営。アフリカでの弁護士資格取得には反対を受けるが裁判で勝利し資格を得る。3年の間に家族をアフリカに呼び寄せ、アフリカに落ち着く。ガンディー26歳。
     ガンディーはインドでの活躍が印象深く、アフリカで活動していたことに少し驚いた。菜食主義にもおどろき。だからあんなに痩せているのかとも。
    20代から40代のあいだをアフリカで過ごす。この間看護兵として戦地を駆け巡る。ボーア戦争のち、インディアンオピニオンという週刊新聞を発行する。またフェニックス農場をたちあげ移民たちが共同で生活し、質素に自給自足の生活をし、宗教やカーストや民族に囚われすだれもが平等に生活する場だった。1906年にはもう一つの戦争、ズールー人の反乱を経験する。この中でガンディーは―人間狩りを見、その中で救護活動に走り回った。(その中で戦争のおぞましさと植民地支配の残酷さをしっかり目に焼けつけ胸に刻んだ)〔()内はP40の引用、著者の志向が見られたので引用して我信はしなかった。〕南アフリカでの活動で最大の功績は「サッティーヤグラハ運動」がある。これは1906年アジア人登録法案に反対した運動である。逮捕保釈、イギリス本国での訴え、トランスヴァール大行進、トルストイ農場の設立などをへてインド法求人法案を勝ち取った。イギリスからの帰路ではヒンド・スワラージという本を執筆、自らの境遇を批判するないようも書き、血気にはやる若者を前にさとし、文明が一種の病気であると論じた。
     この20~40代の部分は前の章に比べて親近感がわかなかった。戦争・暴動・暴力が身近にないせいだろうか。植民地で何がおこなわれていたか実感がわない(わいたらわいたで怖い気もするが)20年もアフリカの地にいたのにはびっくりした。この時代の寿命は短命で、ガンディ―はインドだけで生活していたのと思ったから。ヒンドスワラージは世界史を読み返して読んでみたいと思った。
     第一次世界大戦から大戦後の10年間の間にインドの民主的な主導者になって行った。帰国直後はうまくいかなかったが、アフリカで結団した農場に次ぐもの、サッティーヤグラハ・アシュラームを建設した。チャンバーランでは藍プランテーションによる搾取が行われており、これに取り組むことになった。これには、財力、経営能力、があり村人に信用の厚いシュラクという人物が協力を求めたきっかけがあった。1919年にローラット法、実秩序革命犯罪法が制定されるに当たりガンディーはこれに反発、サッティヤーグラは・サバーという団体を設立非暴力運動を行う。この中でヒマラヤでは一部が暴徒化し、多数の死傷者が出た。政治運動にはいり、イギリス製品の不買運動、カーディー運動、禁酒運動などの非協力運動を行う。カディー運動では下半身に身につけるドーティーという白い布を糸から作成しインド製の服を着ようという運動だった。
     ガンディーのかっこうはそういう謂れがあったのかと思った。世界が戦時下に合った10年の間にいろいろなことをしたんだなとも。ガンディーは奴隷について、カースト制度についてどう思っていたのだろうか?気になる。

    次2章よみ読了
    最晩年の生き方がいいなと思った。でも、称えられる人の周りには被害に遭う人もいるのだなと改めて思った。
    まだまだつかめないガンディー次何読もうかな。

  • インドで非暴力の平和を説いた白い布をまとった人くらいの知識しかなかったので、改めて知ろうと読んでみる。

    弁護士になるが、その後イギリスの植民地であったインド人の待遇改善を求め、権力に非暴力(民衆を巻き込んでデモをして世論を動かす)で立ち向かうガンディー。志の高さ、エネルギー、確かにあの時代に歴史を動かした人物なのだなということが、わかる。

    【学】
    1930年 インド・ナショナリズム 塩の進行
    ガンディー流の交渉術には、法廷で戦う弁護士の姿を垣間見る事ができる

  • 東2法経図・開架 B1/4-3/1699/K

  • ガンディーの人柄、業績がざっくりとわかった。行動することこれこそが大事なことなのだと感じた

  • 289.2||Ta

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著者プロフィール

立教大学法学部教授

「2010年 『盗賊のインド史』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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