アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書 新赤版 1745)
- 岩波書店 (2018年11月19日発売)
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感想 : 42件
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Amazon.co.jp ・本 (240ページ) / ISBN・EAN: 9784004317456
感想・レビュー・書評
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207P
面白い。こんな岩波新書読んだことない。
栗原 康
(くりはら やすし、1979年 - )は、日本の政治学者[1]。専門はアナキズム研究[2]。著書に『大杉栄伝 永遠のアナキズム』や『学生に賃金を』などがある[2]。東北芸術工科大学非常勤講師を務める[3][4]。1979年、埼玉県に生まれる[5]。高校時代は埼玉から千葉県市川市の市川高等学校[6]まで片道2時間半かけて通学していたが、満員電車で気分が悪くなって吐いてしまったところ、サラリーマンに背中をカバンで連打されたという経験がトラウマとなり[3]、それからは満員電車を避け、途中駅の公園で読書をした。ある日公園で読んだ大杉栄の評論がきっかけでアナキズムを研究することになる。早稲田大学政治経済学部を卒業後、同大学院の政治学研究科の博士後期課程を満期退学[7]。白井聡とは同じゼミであった[8]。2014年、『大杉栄伝 永遠のアナキズム』で第5回いける本大賞を受賞する[9]。2016年、6冊目の著書『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』が岩波書店より刊行された[10]。2017年、池田晶子記念「わたくし、つまりNobody賞」を受賞。
エマ・ゴールドマン
(英: Emma Goldman, 1869年6月27日 - 1940年5月14日)は、リトアニア生まれのアメリカ合衆国で活動したアナキスト、フェミニスト。ラディカルな解放思想やフェミニズムによる著作、発言などで知られる。15歳で姉とともにアメリカに渡った。後にロシア革命期の見聞を語ることになる。またイギリス滞在歴も長く、後年にはイギリスで自伝を執筆している。日本のフェミニスト、とりわけ伊藤野枝に大きな影響を与えた。
「あれもダメ、これもダメ、ぜんぶダメ。ダメ、ダメ、ダメ、ドヒャア! 一〇〇年まえの日本のアナキスト、大杉栄は、それじゃダメでしょうってことで、だいじなのは「生の拡充」だっていっていた。ひとってのは自分の生きる力をどんだけおもうぞんぶんひろげることができるのか、やりたいことをやってみて、それができたら、うれしい、たのしい、きもちいい、オレすげえ、オレすげえって、ハシャギまくって、どんだけ自分で自分に充実感をえることができたのか、そんだけのもんでしょうと。はじめからやっちゃいけないことなんてない、はじめからいっちゃいけないことなんてない、ぜんぶ自由だ。やりたいことしかやりたくないね、やっちまいな、いいよ! はなしをもどすと、ひとが生きていくのに「はじまり」なんていらねえんだよってことだ。カネ、カネ、カネ?なにがカネだよこのやろう、くれよ!ってね。生きることに目的なんてない。はじまりがなければ、おわりもない。過去もなけりゃ、未来もない。あしたなんてない、きのうも大キライ。だったら将来のために、いまを犠牲にするのはもうやめよう。いまこの一瞬に、人生まるごと けちまえ。いま、いま、いま。きょうもあしたも、やけのやんぱち。なんどでも、なんどでも、死んだつもりで生きてみやがれ。やるならいましかねえ、いつだっていましかねえ。きっと、そういう「いま」を生きつづけるのが自由ってもんなんだとおもう。フリーダム!」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「もちろんこれ、とんでもねえことになるわけさ。だって、それまでただしいっておもってきた生きかたをほうりなげるってことだからね。自分の生きる根拠ってんだろうか、そいつをぶっこわしちまう。自分の人生をふっとばせ。まわりからしたら、いや、もしかしたら自分からしても、意味不明なことをやっている。こいつ、どうかしちまったぞってね。たとえば、ある日、とつぜん覚醒してしまって、どうせひとは死ぬのであります、こんな世界はどうでもいいねって朝からブツブツブツいいはじめて、ヨーシッ、会社やめます、家も捨てます、将来も捨てますっていって、ひとり放浪の旅にでて、クソみたいなポエムをかきはじめる。テメエの人生はテメエできめろ、テメエのことはテメエでやれ、やれるんだァってね。うれしい、たのしい、きもちいい。オレ、すげえ。オレ、すげえ。オレ、オレ、オレ、オーレイ!」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「だけど、そういうのイヤじゃんかさ。ものを考えていくうえでの奴隷化システムってのかな。さいしょはみんな、仕事をとるためにはしかたがないんだ、生活がおちついたら好きにやろうくらいにおもっていても、いつのまにか、これが権威だ、ただしいんだっていわれているものを気にせずにはいられなくなっていて、まわりに評価されることばかりをやろうとしてしまう。ファックだぜ。しかもこれ、研究しているアナキズムとおもいきりバッティングしていたわけさ。はじめからやっちゃいけないことなんてない、いっちゃいけないことなんてない、ぜんぶ自由だ、まわりのことなんか気にせずに、好きなことを好きなようにやれっていっているのに、まわりに評価されるための文章をかいちまったら、アベコベだからね。」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「だから、そういうビラをかこうとおもっていたんだけど、これ、けっこうむずかしいんだ。だって、たとえ、だれにもなんにも支配されないためであったとしても、そういう大義がたってしまったら、いいかえりゃ、そういう自分の「根拠」がたってしまったら、おんなじだからね。そのために、ああしろ、こうしろと、自分や他人をしばりつけてしまう。そんなビラをかくほど、クソみたいなことはない。クソッたれだ。だからデモの前になると、よく深夜に何時間もかけて、友だちとふたりでどうしようかと電話ではなしあったりしていた。でさ、こんとき、たしかおいらが「なんか、かきたいことある?」ってきいたら、友だちが「とりあえず、仕事サボりたいっス」っていってきたんだよね。もう反原発もクソもヘッタクレもない、意味不明だ。イヨーシッ!」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「なにがいいたかったのかというと、アナーキーってそういうもんでしょうってことだ。もちろん、だれだってさいしょは、クソ、クソ、チクショウ、したがわねえぞっておもうことがあって、自発的にうごきはじめるわけさ。おもうぞんぶん、好きなことを好きなようにかいてみたい。でも、そのただしさみたいなもんにとらわれて、あれもダメ、これもダメ、ぜんぶダメ、ダメ、ダメ、ダメっていっていたら、かならず自分のなかに、自分たちのなかに支配がめばえてしまう。だからだいじなのは、いざなにかをはじめたら、いくらでもその自発性を暴走させてしまっていいんだってことだ。なんでそんなことをやっているのかわからない。なんで「仮病の論理」とかいっているのか、意味がわからない。それをやったことで、今後、運動がこうなっていくとか、そんな成果みたいなこともありやしない。なにもはじまんないんだ。」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
岩波新書としてはかなり攻めた。文章の躍動を通してアナキズムの「らしさ」を体感させる狙いがあるのではないかと思うけれど、概説本だと思って手に取るとたぶんびっくりするでしょう。笑
読みやすくて平易なので、色々勉強になりました。
アナキズム 栗原康
#読了
amzn.to/4rKJxzW
栗原康『アナキズム――一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』
一見乱暴な言葉遣いだけどサンディカリズムやフェミニズム等の解説や考察などが深くなされていたのだ。同時にアナキズムの思想とその背景にある抑圧された者たちの怒りがひしひしと伝わったのだ。
ちなみに参考文献はこちら
「アナキズム: 一丸となってバラバラに生きろ」
栗原 康 | 岩波新書
落ち込んでいる時に読むとめちゃめちゃテンション上がって元気がわいてくるおすすめの本です
こんな時に、いや、こんな時だからこそこの本をおすすめします。「アナキズム」栗原康。先ずこれがホントに岩波新書か!?という文体に驚愕しますが、中身は素晴らしい。正直言って、日本に限らず、世界中、政治、経済、社会全ての在り方を一回ぜーんぶやり直さないとダメだと思いました。
「そうおもって、数年間、フルーツだけで生きてきた。でもね、これはほんとうに、ついさいきんのことなんだけど、どうも自分で自分に疑問がしょうじてきたんだそうだ。不食にこだわっているわたしってなんなのさってね。だって、これまで、あれを食べなきゃいけない、これを食べなきゃいけない、これだけ食べなきゃいけないっていわれてきたことに、不自由さをかんじて、だったら食わねえぞ、このやろうと不食をはじめたわけだ。だけど、フルーツだけで生活することがあたりまえになってしまうと、気づけば、そういうただしいことをやっている自分に執着してしまっている。たとえ自分の身体がほかにもとめているものがあったとしても、無意識的にそれはダメなんだといっておさえつけてしまうんだ。不自由である。もっと自分の身体の可能性をためしてみたい。で、かの女はあることを決意した。そう、ちょっと食べちゃおうかってね。」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「じゃあ、なにを食ったのか。かの女はまっさきにコンビニにむかう。そして買ったんだ。コンビニおにぎりを。ムシャムシャ、ムシャムシャ、ゴックン、ゴクリ。おにぎりを食べる。アアァァ、アアアァァァッ!!!風が語りかける、うまい、うますぎる。とまあ、そんなはなしだ。いちおうちゃんといっておくと、これでフルータリアンをやめたわけじゃないよ。あくまで、あたらしい身体の実験をしたってまでだ。でもそれができる、あたらしい自分がありうるんだってわかったかの女は、ものすごい力と自信を手にしていたんじゃないかとおもう。ディス・イズ・プライド、イヨーシッ! そりゃね、おまえいっていることとやっていることがちがうぞってひともいるかもしれない。でも、そうじゃない。他人によって強いられた生活をするんじゃない、自分で強いてきた生活をするでもない。自分でも予想していなかった自分でありうる、そういう力があるってことをこの身体でつかむんだ。自分をこえろ、そんでもって、さらにそのさきまでつきすすんでやれ。コンビニおにぎり、マジサイコー! いやね、なんでこんなはなしをしたのかというと、アナキストっていうのは、だいたいそういうもんじゃないかとおもっているからだ。たとえば、さっきの地球温暖化のはなしでいえば、アナキストってのは、企業がボロもうけするためにとんでもねえ森林破壊をはじめたら、ふざけんじゃねえぞっていってたちあがるんだ。それこそ「木守り」みたいに、森にはいっていって自分を木にしばりつけ、「きれるものならきってみやがれ ~ッ!」ってのをやってみたり、あるいは街なかでデモでもなんでもやってみたりね。でも、たいてい街頭でテンションがあがったら、おやおや、車があるぞ、環境にわるそうだァっていって、ムダに火をつけたりしてしまう。警察車両からはじまって、そこらにある高級車をジャンジャンとね。で、結果としてみたら大炎上。 CO2がガンガン排出されている。じゃあ、それで、おまえらいっていることとやっていることが矛盾しているじゃんっていわれたら、アナキストはなんていうのか?かんたんだ。ドン・シンク・トゥワイス、イッツ・オールライト。ヒャッハー!」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「ほんとのところ、だいじなのはこれだけだ。いつだって、なんどだって、これがただしいっていわれている生きかたをぶちこわすことができるかどうか。あたらしい生をつかみとれるかどうか。たとえ、それが予想外の結果をもたらしたり、マジっすか、それ大失敗じゃんってなっちまったりしたとしてもね。かまわずにやれ。おいら、マジメだからもう一回、いっておくよ。ただしいモラルをふりかざして、はじめからなにもおこらないようにしてしまうのはもうやめよう。だれかが失敗したら、おまえがわるい、おまえがわるいっていって、よってたかって問いつめて、謝罪させようとするのはもうやめよう。こりゃダメだァっておもったら、ヒャッハー!っていって、わらいとばせばいい。いつだって、こころの奥底にそういうユーモアをもっていることができるかどうか。きっとそれが、なんどでもあたらしい自分にであえるかどうかの分かれ道なんだとおもう。風がかたりかける、うまい、うますぎる。コンビニおにぎり、マジサイコー。全身全霊で大失敗だ。ディス・イズ・プライド、イヨーシッ!」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「ほんとは農民が定住していて、わかりやすく稲穂がなっていたら、権力者が人口と収穫高をはあくして、年貢を収奪しやすいってだけなのに、大量生産したら年貢の量がふえるってだけなのに、いちどそういうただしい農民規範ってのかな、アイデンティティがかたまっちまうと、みんなとおなじようにはたらけなかったり、はたらかなかったりするやつらが、めっちゃディスられるようになる。こいつらクズだから、ろくでなしだから、生産性がないからなにをしたってかまわない、排除しろってね。しかも、そういうのを権力者がいうだけじゃない、農民みずからいいはじめるから、またたまんない。 でだ。だからこそ、その規範をなんどもなんども素でやぶっちまうブラジルのインディオたちは、さんざんないわれかたをしていたのだが、ほんとのところ文明社会なんて、たかだかこの五〇〇〇年くらいのはなしである。人肉を食べるのがいいかどうかはべつとして、文明以前からみんな、ただしくなんてなくてもいい、大失敗してもかまわないから、あたらしい自分に生まれかわろう、あたらしい生きかたをつかみとろうってやってきたわけさ。それが自然だ、自然人だ。でも、そういう生きかたがこの腐った文明社会では、野蛮人だの、野生人だの、未開人だのっていわれてディスられる。チクショウ! だから、あえてこんなふうにいっておきたいとおもう。文明なんていらねえんだよ。ただしい生活も、ただしいアイデンティティも、勤労も、禁欲も、ぜんぶまるごとクソくらえだ。よりよくなれはクソくらえ。野蛮人は気まぐれである。ついでに、おいらはおっちょこちょい。人間を自然化せよ。アーメン!」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「もしかしたら、えっ、自然ですか、なんかそれアブなくないっスかっておもうひともいるかもしれない。だって自然って、支配のことばとしてもつかわれてきたからね。たとえば、女は家のことをするのがあたりまえ、それは「自然」なことなんだとか、天皇は現人神だ、臣民を支配するのはあたりまえ、それは「自然」なことなんだっていわれたりする。でも、そういう「自然」ってどうなんだろう。文明の産物ってのかな、古代国家ができたあとの発想なんじゃないか。男が女を、天皇が臣民を、奴隷みたいにコキつかいたいから、それがただしい生きかたなんだ、「自然」なんだっていっているだけのことなんじゃないのか。そんなの、自然でもなんでもない。めっちゃ人工的だ、人間による人間の支配があるだけだ。だから、ていねいにこういっておこうか。われわれの任務は、「人間化された自然」をぶちこわすことなのでございます。オース!」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「もちろん、こんかいの震災の場合、放射能の問題もあるから、それでよかったですねとはいえないのだが、でもそういうのもひっくるめて、自然ってのをあらわしているんじゃないかとおもう。なんでそんなことをするのかわかんない、理由もなけりゃ目的もない。でも、ああ終わった、死んだ、もうダメだァっておもったその瞬間に、予想もしていなかったような、あたらしい生がうみだされている。いつだって、なにをしでかすかわからない。手に負えない、制御できない、あばれる力だ、暴動だ。自然とは暴動である。そんでもって、つきせぬ自己産出だ。オース!」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「でも、ふとわれにかえったら、まったく逆のことをおもっていた。どうせひとは死ぬのである、だったらいま死ぬつもりで生きなきゃダメじゃないか、将来のためにいまを犠牲にするのはもうやめよう、全身全霊で大失敗だ、いくぜってね。じっさい、序章でもいったけど、それまでおいら若干だけど、大学で定職につく努力はしていてね。いまみたいなヘンチクリンな文章はかいちゃいなかったんだ。いまはガマンだっておもいながら、自分のおもいはおさえて、客観的にみえる文章をかいていた。だけど、そんな努力はヒョイと捨てちまったよ。あとさき考えて文章なんてかいてられっか、イヨーシッ、ビラだァ、一〇〇枚、一〇〇〇枚、クソみたいなビラをかきまくってやれってね。そしたら結果、日々無職。あっ、いまは週一日だけ、はたらいているんだけどね。はたらかないで、たらふく食べたい。」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「ほれ、農薬まみれの野菜は食っちゃダメだ、体にわりいぞ、地球にわりいぞっていわれたり、コーヒーでもなんでも有機にかぎるでしょう、よし、フェアトレードだっていわれたり、そっからだんだん、いろんなもんがのっかってきて、食いもんを工業製品みたいにつくっちゃダメでしょう、添加物まみれのメシは食っちゃいけないだとか、だからコンビニごはんはやめましょうよとか、あるいは、ウシさんやブタさんをなめんじゃねえぞ、工場でジャンジャンモノをつくるみたいに、化学肥料だの、ホルモン剤だのなんだのをつかって、ジャンジャンそだてて、ジャンジャンぶっ殺して、よっしゃ、食肉加工だ、よっしゃ、安くてたくさんだ、ほれ、ボロもうけだとか、そういうのはやめましょうよ、動物にだって生きる権利はあるぞとか、だからマクドナルドにいくのはやめましょうとか、もうちょっというひとだったら、肉は食っちゃいけないとかね。」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「はい、そろそろまとめにはいりましょうか。アメリカのアナキストに、マレイ・ブクチンってひとがいてね。かれは一九六〇年代から活躍していたひとで、それこそエコ・アナキズムの提唱者としてもしられているんだが、このブクチンがいっていることが、これまでいってきたことをうまくまとめてくれるとおもうんで、ちょいとご紹介してみたいとおもう。ブクチンは、環境破壊にコンチクショウっていって、それにあらがうための思想をうちだそうとしていたひとなんだが、そんとき、こういうことをいっていたんだ。ながらくエコロジストを名のる人たちは、「自然 vs.人間」という二項対立でものを考えてきたけど、そういう図式はもうやめませんかってね。ここで言うのは、自然の支配(自然を支配すること)についての私たちのすべての観念が、人間による人間の支配そのものから生じるというソーシャル・エコロジーの洞察のことである。「生じる」( stem)という言葉を用いるこの命題は、その内容の観点から検討しなければならない。それは人間の条件についての歴史的な命題であるだけでなく、社会変革にとっての広範に及ぶ含意をもっている、現代の条件に対する挑戦でもある。歴史的な命題として、それは、人間による人間の支配が、自然の支配という観念に先行していると明確な表現で主張する。実際、人間による人間の支配は、自然の支配という思想そのものを生じさせたのである。(マレイ・ブクチン、藤堂麻理子・戸田清・萩原なつ子訳『エコロジーと社会』白水社)」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「たとえば、こういうことをいうやつがでてきたりする。ヘイトスピーチはダメだっていうんだったら、まずは自分からですよ、あらゆる差別からピュアでなくちゃいけません、えっ、いま畜生っていいましたか?それ動物差別ですよ、あやまってください。えっ、いま狂人ってことばをつかいましたか?それ精神病差別ですよ、あやまってください。えっ、いまセックスっていいましたか?異性愛者が愛欲をかたるのは、あらゆるセクシャルマイノリティにたいする差別なんですよ、あやまってくださいってね。もっとピュアになれ、もっとピュアになれ、それができなきゃクサイ、キタナイ、非国民。どういう意味で、なにをかたっているかなんておかまいなしだ。言葉狩り、ポリティカルコレクトネスだ。みんなの言葉づかいを政治的にただしいものにしていきましょう?適切なものにしていきましょう? ヘドがでるのでございます。オス! ほんとは、こういうのがあんまり口うるさいんで、ファシストがしゃしゃりでてくるわけだし、それでいて、いっていることが似ているんだよね。どっちにしてもこの社会から、クサイ、キタナイものをなくしていきましょう、もっとピュアに、もっとピュアに、社会を浄化していきましょうっていっているんだから。オレたちはマイノリティの代弁者だといいはって、自分の正義を他人にふりかざし、そんでもって障害になるやつらを駆除していく。どうっスかね。ただの権力じゃないのか。ちゃんといっておくよ。たいがいにしろ!権力はいらねえ、アナーキーでゆけ。」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「でね、こっからが本題なんだけど、安倍やファシストがアナーキーだってのにたいしては、いまいったみたいに、あいつら秩序が好きなだけなんだよ、それで暴走してるだけなんだよ、アナーキーじゃないでしょう、てことでいいんだけど、もうひとつ、こういうこともいわれるんだよね。いまの資本主義はアナーキーなんじゃないのかってね。ほら、経済のグローバリゼーションだとか、企業のとりひきは国境なんてこえているんだとか、もしその活動に規制をかけるなら、そんな国家はいらねえんだよとかって、そうおもっているビジネスエリートはけっこうおおいんじゃないかとおもう。 じっさい、アナルコ・キャピタリズムってことばもあってね。これ、「無政府資本主義」って訳されるんだけど、この世のなかは市場だけでまわせるぞ、そこに政府なんていらないんだよっていうことなんだ。ちなみに、「アナルコ」ってのは「アナーキー」が接頭語になったもので、それがキャピタリズムにくっつけられているんだけど、意味としては「無政府」に限定されてつかわれているわけだよね。政府なんかなくても市場だけでやっていけますよと。だけど、もういちど序章をおもいだしてほしい。「アナーキー」ってのは、「支配がない」っていうことなんだ。政府だけじゃない、あらゆる支配がいらないんだ。」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「でもこれさ、おかしいのってわかるだろうか。はじめからほしいものがきまっているんだからね。いや、もちろん自分でえらんでいるんだけど、いまの自分にとって役にたつ本しかよまなくなってるんだ。ほんとは、読書ってそういうもんじゃないだろう。しらべたいことがあるから図書館にいって、館内をプラプラしていたら、ふとおもしろそうな本があって、それを手にとってみたらメッチャおもしろくて、当初の目的なんかわすれちまって、その本を借りていったりとかね。 おいらだったら二十代のころ、大正時代の労働運動をしらべようとおもって、毎日、大学の図書館にかよっていたんだけど、おめあての本棚にたどりつくまえに、中浜哲とか、カツアゲばっかりやっていたチンピラアナキストの詩集なんかがおいてあってね。ああ、ちょっとだけならいいかなとおもって、手にとってみたらハマっちまって、もうやめられない、とまらない。けっきょく、それで一日おわっちまったりね。もちろん、そんな読書をしたって役にはたたないし、ムダなんだけどさ、でも五年後、一〇年後、けっきょく自分の身体にのこっているのって、そういう読書体験だったりするんだよね。でも、ネットショッピングがあたりまえになってしまうと、はなからそういう芽がつまれてしまう。えっ、役にたつ読書をすればいいんだよって?うるせえよ。ムダなことしかしたくはないね。アナキストはムダがいのち!」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「でも、それはなんにもしないってことじゃないよ。わかりたいけど、わからない。わかりたいけど、わからない。でも、やっぱりわかりたい、でもでも、やっぱりわからない。アア、アアッ、アアアァァァ!!! めっちゃとりみだす。自分の脳天がパンパーンッ!!!ってふっとんじまうくらいね。で、そういうとき、ひとってのは相手をおもうあまり、マジでわけわかんないことをやりはじめるんだ。それこそ「無いものを発見する」ってのかな。加害者としてのテメエすらぶちぬいて、これこれのために、これこれの成果をださなくちゃいけないとか、そういう目的なんてぜんぶふっとばしちまって、とつぜん、ふりきれたことをやりはじめるんだ。 そりゃね、日特金を一五分とめたって、なんの役にもたちやしない、ムダでしかありゃしない。でもそれでも自分の身をかなぐり捨ててうごいてしまう。パクられて人生を棒にふってもかまわない。仕事をクビになるかもしれないし、退学になるかもしれないし、その後、定職につけなくなるかもしれない。でも、でも、アア、アアッ、アアアァァァ!!!やるならいましかねえ、いつだっていましかねえ。もちろん、ベトナムのことをおもってやっているんだけど、でもこれ、コミュニケーションとかそんなことばじゃいいあらわせないんだよね。加害者だからやってるんじゃない、たんに被害者のためにやっているんでもない、もう名づけようのない、得体のしれない、だれにもなんにも制御できない力が、いまここにあらわれちまってるんだ。しいていえば、それがやさしさってもんだろうか。まあ、相手にとっちゃ、よけいなおせっかいかもしんないけどね。チャッハハ!」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「だからね、おいら、「みんなで」ってことばが大っキライなんだよ。みんな弱者なんだから、それで統一がとれていなくちゃいけないんだとかいって、そこから抜けだそうと必死になってつよくなろうとしているやつが強者だとか、マッチョだとか、非民主的だとかって、えらくディスられる。大杉栄は、こういうのを「奴隷根性」っていっていたけど、ようするに弱者による弱者のとりしまりなんだよね。弱者によりそえ?権力にたちむかうのは強者の論理だ?あらがうな、したがえ?あばれるな、したがえ?したがえ、したがえ? ただの支配だ、このやろう。あらためまして、こういっておきたいとおもう。弱者をカサにきて、弱者をとりしまるのはもうやめにしよう。弱者は死ぬんだよォーーーッ!!! おら、つよくなりてえ。おらも、おらも、おらも、ミートゥー!」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「そうじゃなくて、ほんとうにこわいのは、こいつらなんにもできないっておもわれていた連中が、とつぜんあばれはじめることなんだ。たとえばある日、路上でおっちゃんが死んでいたりしてね。でも、警察はそれを何時間も放置して、ほんとに犬の死骸みたいなあつかいをした。あっ、犬にだってそんなあつかいしちゃダメなんだけどね。とはいえ、そんなのゆるせねえ。じゃあどうしたらいいかっていうと、クサい、きたない、どんとこいだ。この社会がみたくない、フタをしたいっておもっていた連中が、そのままのすがたでとつぜん街頭にくりだしてくる。そして、荒れ狂うんだ。」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「とまあ、船本さんがいっていたのはそういうことだ。みずからの抑圧されたその存在状況を武器にしろ。もうちょっとわかりやすいことばにすれば、弱者がその弱さにひらきなおって、それを武器にしてたたかえってことだ。すると、相手はそんなたたかいかたがあるだなんておもっちゃいないから対応できない。いきなりたたかいのフィールドを変えるってのかな、土俵そのものをひっくりかえしちまうんだ。いつだって、非対称なたたかいをしかけよう。しかもこれ、ほんとにすげえ力を発揮しててね。一九七二年五月に「鈴木組闘争」ってのがあるんだけど、鈴木組ってのは暴力団で、釜ヶ崎に手配師をだしていたとこだ。その鈴木組が労働者をラチして、リンチにかけるって事件があった。」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「そんでもってだ。この弱さにひらきなおって、なんかやらかすってのがさらに力を発揮するときがあってね。船本さんは、それが日雇い労働者の日常なんだっていっている。たとえば、ということで、船本さんはトイレットペーパーのはなしをもちだす。これさ、いまでもそうだとおもうんだけど、おなじ仕事をしていても、正社員と日雇いとでは雲泥のちがいがあるんだよね。差別的待遇だ。カネのはなしだけじゃないよ。船本さんがはたらいていたとこじゃ、トイレがちがうんだ。正社員のトイレにはトイレットペーパーが完備されている。でも、日雇いのほうにはそれがない。テメエらみたいなクズどもに、くれてやるトイレットペーパーはねえってことなんだろう。チキショウ! じゃあ、どうしたらいいかっていうと、船本さんは三つのやりかたがあるっていっている。ちょっとながいけど、すげえいい文章なので引用させてもらおう。」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「でね、これがすげえのはとめようがないってことだよね。なんせ、みんなシレっと新聞紙をつまらせていくんだから。だれがやったかなんてわかんない。しかもあきらかにつよいんだけど、それがどういうつよさなんだかわかんない。もはやテメエら弱いんだよ、なんにもできないんだよっていわれてきた奴隷じゃないし、かといって、主人の強さを身につけているわけでもない。みずからの弱さに徹することで、その底をぬいちまってるんだ。主人でも奴隷でもない、そういう関係からスルッとぬけだして、得体のしれないなにかに化けちまっているんだ。 船本さんは、これを「プロレタリア権力」っていっているけど、どうっスかね。たぶん、これ、いわゆる権力じゃないよね。はじめから、この社会をハミだしてるってのかな。この社会から見捨てられ、クソミソにいわれて育まれてきた圧倒的な敵意。その敵意そのままに生きはじめたら、そりゃ、ひとは社会から離脱しはじめるわけさ。まったくべつの生がはじまっていく、自律だ、その力があるってことだ。群れからはなれっぱなし、ずっとはなれっぱなし、とおまわりのクソったれの人生。だまってトイレをつまらせろ。恨みを食らって生きる隠花植物たちよ、たちあがれ。クソにまみれたそのクソったれの人生を、そのまんまのすがたでぶちまけてやれ。やられたらやりかえせ。やられなくてもやりかえせ。黙って野たれ死ぬな。」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「てなわけで、こっからは元祖、アナルコ・フェミニストのはなしをしていきたいとおもう。エマ・ゴールドマンだ。ちなみに、かの女はアナルコ・フェミニストを名のっていたわけじゃない。たんにアナキストを名のって活動していたんだけど、でも女性解放の文章もガンガンかいていてね。そういうこともあって、のちにアナルコ・フェミニストってよばれるようになった。まずは、その半生をご紹介してみよう。いくぜ! エマ・ゴールドマンは一八六九年、リトアニアうまれ。ユダヤ人だ。ちっちゃいころ、お父さんが投機に失敗してドビンボーに。エマは、プロイセンのケーニヒスベルクにあったおばあちゃんちにあずけられて、そこで学校にかようことになった。でも、その家にいた叔父さんがまたひどいやつでね。仕送りがたんねえよっていって、カネをもらうだけもらっておいて、ろくにメシを食わしてくれなかったり、学校をやめさせられそうになったりしたんだそうだ。チクショイ! でも、おばあちゃんはやさしかったし、かよっていた学校の先生がむっちゃよくしてくれてね。ドイツ系のユダヤ人で、やさしくドイツ語とロマン派文学をおしえてくれた。ダンケ!」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「ちょっと、まえおきがながくなっちまったけど、エマは結婚制度もこれとおんなじなんだっていっている。たとえば、これはさいきん邦訳された本で、シルヴィア・フェデリーチ『キャリバンと魔女 資本主義に抗する女性の身体』(以文社)ってのにかかれてんだけど、中世ヨーロッパをみると、どうも男にも村にも依存せずに、自分で食っていけちゃっている女性ってのがけっこういたんだそうだ。森とかにすんでいて、薬草とかハーブとか、そういうのにめっちゃくわしい。で、村人が病気でこまったりしていたら、薬を じてやったり、なんか相談事があったらきいてやってアドバイスをあげるとか、そういうことをやって尊敬もされていたそうなんだ。でも、そこに資本主義がはいってくると状況が一変する。そういうマジで自律した女性ってのがわずらわしくなってくるんだ。 なんでかっていうと、女は家庭にはいって家事、育児をこなすのが労働なんだ、そうしなくちゃ生きていけないんだっていいたいのに、そんなことしなくても、自由に生きられちゃっている女性がいるわけだからね。キャー、カッコイイとかいって、村の女たちが続々と森にくりだしていったら、家事労働がなりたたなくなってしまう。で、マズイぞってことで、国家が率先してやりはじめたのが、魔女狩りなんだよね。世の常識にさからって生きている女性をみつけると、こいつは「魔女」だっていって、血祭りにあげていく。火あぶりとか、すんげえ残忍なやりかたでね。そうすると、みんな恐怖をおぼえて、そんな生きかたしちゃいけないんだっておもうわけだし、ずうっとそれが正義なんだっていわれていると、自律した女性の生きかたってのが、とてもキケンなことにおもえてくる、犯罪なんだっておもえてくる。 でね、気づけば、女というのは家庭にはいらなければ生きていけないんだよ、それ以外の生きかたをえらぼうとするのは、反道徳的なことなんだよっておもわされているんだ。そしたら、どうなるかっていうと、あたしが生きていけるのはダンナさまがおカネをかせいできてくれるからです、ダンナさまがまもってくれているから、保護してくださっているから、生きていられるんです。このご恩は生涯わすれません。ご主人さまのいうことには絶対服従。家事も、性的奉仕も、出産も、育児も、親の介護も、暴力をふるわれたって、なんでもいうことをききましょう。それがあたりまえのことなんだ、自然なことなんだってね。でさ、そういうのが妻の役割だっていわれるんだけど、ほんとは奴隷の生を強要されているだけなんだよね。でも、それに慣れてしまうと、妻としての役割をこなせることが、よき妻であることが、まわりに評価される、ホメられる、女のほまれだっておもわされてしまう。他人に「あんた、いい奥さんだね」っていわれたら、なんだかうれしくなってしまうみたいにね。アベコベだ。」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「それにね、エマはなんどか講演会で、同性愛者を支持しますっていっていたらしいんだけど、ひとがひとを好きになるのに、男女のペアである必要なんてないんだよね。世間さまがどういおうと、好きになっちまうもんはなっちまうんだ。勝手にしやがれ、ヘイシスター!」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「もし結婚しちまって、クソみたいな男に虐げられていたらどうすればいいのか? こたえはかんたん。 DV夫にファックユー!逃げろ。ずっと家庭にいると、外にでたら生きていけないようにおもわされているけど、意外とでてみたらなんとでもなる。ヤッチマイナ! あるいは、好きなカレがいるんだけどほかのひとも好きになってしまった。どうしたらいいか? これもかんたん。ヤッチマイナ! 法律も道徳もクソくらえ。シレっと自由恋愛をやっちまえってね。それからね、ほんとは貧乏ヒマなし、子どもをつくるのはキビしいんだけど、まわりからは子どもをうむのが女の役目だみたいなことをいわれていて、お国も「産めよ、殖やせよ」っていっている。ずっとそういわれていると、しかたがないかっておもえてくるんだけど、どうしたらいいか? これもこたえはかんたんだ。うむな!産児制限運動だ。もちろん、この産児制限運動ってヤバイところもあってね。提唱者のサンガーさんは、障害だとか、親の愛だとかもふくめて、うまれていい子どもとそうじゃない子どもがいるみたいなことをいっているんだけど、それだと優生学になっちまう。」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「野枝さんは、このやさしさのことをたんに恋愛っていうだけだとわかんなくなっちまうから、フレンドシップといっている。友情だ。いやね、考えてみるとそうなんだよね。恋愛だけじゃない、友だちがなにをもとめているかなんて、わかんないからね。逆にこれができるから、こいつはつかえるんだ、つかえなくなったら切るぞとかっていっていたら、そんなの友だちじゃない。友だちは組織じゃない、そこに支配は存在しない。生産性にファックユー。むしろ、友だちはなにをしでかすかわかんないからおもしろいんだ。まあ、たいていはムダなおしゃべりをしておわっちまうんだけどね。でも気づいたら、いっしょにわるのりしていて、自分でも予想もしていなかったことをやらかしていたりする。友情はアナーキーだ。」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「あるいはさ、ヒエラルキーのベースにコミュニズムがあるってこともあるわけさ。たとえば、ある部族で首長がいて、かれがトップにたっている。ヒエラルキーはあるわけだ。でも、もし首長がひとりでハッスルして、なんでもかんでもきめようとしたら、内紛がおこってとりかえしのつかないことになっちまう。だから、部族によっては首長が権威をもたないようにしているとこがあるんだよね。村の寄り合いがあったとき、首長は私財をはたいて村人たちをもてなす。そんでもって、自分の意見はいわずにひたすらみんなの意見をきくんだ。そんで、みんなが納得するような案をだして村の運営をおこなっていく。そのうちに、カネもなくなっちまうしね。上にいけばいくほど権威をうしなっていく。それにさ、部族によっちゃ、狩人のあいだに競争がおこらないようにもしていてね。強者が部族をしきらないように、男たちがケモノを狩ってきたら、それをとりあげてみんなで平等に分配するってとこもある。ね、コミュニズムっぽいでしょう。これさ、文明国家みたいにひとがひとを支配して、それにさからうやつらがでてきて戦争になるっていうのがイヤで、あえてそうしているんだ。ごくろうさん。」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
「じゃあ、そこからぬけだしていくためにはどうしたらいいか? ランダウアーは注意しろっていっている。なににかっていうと権力だ、権力とガチでやりあっちゃダメなんだってね。これは国家や資本と真正面からやりあったら、そりゃあいては軍隊も資金力もハンパないわけだからね。勝てないってのもあるんだけど、それだけじゃない。国家とがっつり四つでやりあっていたら、こっちも政党をつくって、政治家を輩出して、この国をよりよくしていかなくちゃいけないってなるんだ。その結果、これ一〇〇パーセントそうなんだけど、そういうやつらがまた、おまえら税金をはらえっていうようになっているんだよね。オレたちはちゃんといいつかいかたをするから、ちゃんと税をはらいましょう、ちゃんと正義のための戦争をしますから、ちゃんと戦地にいきましょうと。えっ、よりよい国民になれ?よりよい兵隊になれ?ああ、戦争なんていきたくねえんだよ。よりよい国民になるということは、よりよい奴隷になるのとおなじことだ。 あるいはさ、資本家とガチでやりあってもおなじなんだよね。つよい資本力とたたかうためには、こっちもどでかい労働組合をつくるしかない。でもそれをやっていたら、こっちも組合のなかでヒエラルキーができていて、あたらしい権力がたちあがっている。たとえそれで賃金があがったとしても、それってこんだけもらってるんだから、もっとちゃんとはたらけっていわれているだけだしね。もらえばもらうほど、カネになることしかできなくなっていく。遊ぶな、うたうな、踊っちゃいけない。そういうのを奴隷の生をしいられるっていうんだとおもう。」
—『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)』栗原 康著
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アナキズム 栗原康 岩波新書
大杉栄の研究者?
何だかアナーキーを追い求めて
まるでベトナム戦争後のヒッピーのように
路頭に迷い自己破壊している振りして
酔って楽しんでいるような〜
エゴイスティックで読みにくい限りだ
思うにアナーキーとは
自由自在
目指すは無限なる真球
限りなく永遠の冒険を夢見て
生きては死んで寝ては起きて
欲ボケした嫉妬という摩擦をかい潜り
何でもありの自然体
入れ子になった全体の一部として果てしのない連鎖
無駄が無駄でない調和による相乗効果
それは切磋琢磨によるあなたと私君と僕
私をめぐる臓器同士の関係
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大好き!毎日新しく生まれ変わって生きていきたいよ
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アナキズムは自分をルールから自由にし続ける過程なんだなと思った。中指を立てるような文体も岩波新書らしさを抜ける試みなのかな。今度は理論と歴史に関する本も読んでみたい。
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2023/01/15
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2018年の出版だが、その後取り沙汰されるブルシットジョブ、資本主義リアリズム、人新世の資本論などを見事に先取りしている。
ハチャメチャな文体の奥に垣間見える著者の誠実さも魅力。 -
いや、やっぱり栗原康は最高です
自分の中にあるあらゆる支配をぶち壊してくれる
「岩波新書」は格式高い?そんな知ったこっちゃないと言わんばかりの暴れっぷり
栗原康の思想の真髄を知る上で、最も適切な一冊目になると思います
無政府は事実だ!
あらゆる相互扶助は犯罪だ!
やられてなくてもやりかえせ!
できっこないをやらなくちゃ!
ちなみにここにあるレビューの大概は的外れなので参考にしないほうがいい
文体?んなこた知ったこっちゃねぇんだよ
栗原康さんは栗原康さんの書きたいように書くんだよ
そんなこともわかんねえなら初めから読み直せ
自分のなにかを捨てる覚悟で読まないならそれは永遠の奴隷です-
どらどらさん
はじめまして。
『自分のなにかを捨てる覚悟で読まないならそれは永遠の奴隷です』…いいですね~!痺れるワードセンスですね!どらどらさん
はじめまして。
『自分のなにかを捨てる覚悟で読まないならそれは永遠の奴隷です』…いいですね~!痺れるワードセンスですね!2023/03/11
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2018年12月読了。
この著者の著作を読むのは2冊目(1冊目は『村に火をつけ、白痴になれ』)。
今回の『アナキズム 』、なにか非常に飛んでいる。
文体が飛んでいる、というよりも文体以前の問題でイッテしまっている。
「真面目な岩波新書でございます」てな調子で読み始めたら痛い目に遭う。
アルケー(arche)がないのがアナーキー(anarchy)、アルケーは「統治」や「支配」という程度の意味で、それがan、つまり「〜がない」のでアナーキーは「無政府主義」と訳されるが、アルケーは哲学用語では「万物の始原」、あるいは「根源的原理」という意味のものであって、アナーキー=無政府主義だけでは足りない。根拠のないことをやる
という意味も抑えておく必要がある(9ページ)。
とかく意味や根拠、社会的な評価の尺度に合わせて生きなければならない、もしくはそう生きなければならないかのように思わされている人々にとっては、アナーキズムはそういった発想から解放される手段になる。
邪推するに、この手の本が新書として出版されるということは、今の世の中に不自由や理不尽に憤っている人が多く、あるいは慣習、因習その他諸々の人の思考や行動を制限する何かによって窮屈な思いをしている人が多いのではないか、と思う。
もっと群れずに自由に生きる、過去にもそんな人がいて、度々痛い目に遭いながら=時の権力に押さえ付けられたりしながら、どうにかやってきたということを知ることで、より自由な発想で生きるための縁としたい。 -
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本屋でたまたま開いたのがトイレを詰まらせるページでそのまま何となく買ってしまった 歴史上のアナキズムの提唱者たちがとんでもないように見えつつも、いや実際とんでもないことをしている場合もあるけれど徹底して支配と権力に否を突きつけ続けるところに好感を持ちました
敢えてあの文体なんだろうと思うけどオーディブルあったら凄そう 火のついた猿 毛のない猿 私にとっては読みやすかったです 副題にもなってる一丸となってバラバラに生きろっていうところ良かった -
面白いですね。岩波新書とは思えない勢いのある砕けた文体で読みやすかったです。
入門書なんだけど基礎的なことを大体学べるというよりは入門者に興味を持たせる本という感じでした。
章ごとにテーマがあるのも読みやすくてよかった。おすすめです。 -
たいへん面白く読めましたがテンションが高く疲れる時もありました。対面で栗原さんのお話を聞ける自信がありません。文章でよかったです。
エマ・ゴールドマン知らなかったので勉強になりました。 -
めっちゃ面白かったし、すごく元気出た。ヒャッハーーー!
でも、「弱者の〜」という疑問に誠実に答えてるかと言うとそんなことない。例えば、デモとか集会の情報保障にはかなり気を配る。まんべんなくそういうスタンダードを打ち立てる必要があると思うけど、「みんなでやる」とかくそくらえって言われたらそれはそう…。 -
もうちょっと穏健なアナキストの方が好感が持てる
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【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/721027 -
以下、引用
●アナキズムというのは、ギリシア語のanarchosからきていて、(中略)ていねいに訳していくと、「だれにもなんにも支配されないぞ」とか、「統治されないものになれ」ってのがアナーキーになる。
●権力の暴走はアナーキー?(中略)アナーキーってのは、いつでもそういう権力をぶちぬいてやるぜってことだ。もうちょっといえば、かりに権力の横暴に反対しても、それがまた権力になっちまったら、いつだって、そいつもぶちぬいてやるぜってことだ。
●前日のあの大会議はなんだったっていうことさ。だってさ、すんげえ苦労して、何時間もかけて1万5000人で全員一致のコンセンサスをとっておいて、いざ本番になったら、だれもまもらないわけだからね。バカやろうだ、圧倒的なバカやろうだ、てやんでい。でもね、そうじゃなきゃ、アナーキーじゃないんだとおもう。逆にだよ、オレたちはアナキストだから自己統治や水平性をおもんじている、だから、みんなできめたことはまもらなきゃいけないんだ、絶対服従、デモで不規則行動をとるな、したがえ、したがえっていいはじめたら、あたらしい支配がたっちまうからね。アナキズムという名の、民主主義という名の。
●アナキストはムダがいのち。
●直接行動ってのはテメエのことはテメエでやるってことだよ。この場合、どでかい労働組合とか、クソみたいな政治家なんかにたよらなくても、たとえ少人数であっても、たとえ一瞬であったとしても、自分たちの力でじかに軍需工場をとめてみせる、それができるってことをしめしてみせる、(中略)じゃあ、どういうことをやったのか。10月19日、白昼堂々、東京都田無市、いまの西東京市にある日特金属工業にのりこんだ。(中略)だいじなのは、かれらが物的効果にはこだわっていなかったってことなんだ。だって、日特金属にのりこんで電源を切ったっていっても、工場がとまったのは15分くらいだからね。逆にいうと内容が良くてもダメなんだ。(中略)ちっちゃな軍需工場をとめても意味がないとか、この工場をこれだけの人数をかけて、何時間も何日もとめることが効果的なんだ、それがもっとも革命的なんだ、だからオレたちにしたがってればいいんだとかっていいはじめたら、あたらしい権力がたってしまう。
●いつだって、ひとってのは、あいつらこまってんなっておもったら、なにかしてやりたいっておもうものだ。でもなにもできない、でもなんとかしてやりたい、わかりたい、でもわからない。そうおもえばおもうほど、テメエのなかの合理性が錯乱し、もうやめられない、とまらない、異様な力がわきあがってくる。
●ふだん、うちらがあたりまえだっておもっている自分は他人によって強いられた自分である。カネをかせぐのがあたりまえ、資本家にしたがうのがあたりまえ。(中略)でも、そうやって生きていると、カネにならなきゃ、なにひとつ好きなことができねえし、カネもちにコキつかわれて、自分の人生をふみにじられちまう。だったら、そのあたりまえだとおもってきた自分の皮をひんむいてやるしかない。でも、むいてもむいても皮がある。だってさ、いろんなあたりまえがあるからね。(中略)でも、そういうのをむいてむいてむきまくって、それこそ自分が理想としてきた自分すらひんむいちまって、かんぜんにゼロになったとき、はじめて本当の自分の人生がはじまる。もうだれにもしばられない。いつだって、ゼロからはじまるいまこのとき。やりたいことしかやりたくない。そのやりたいことにすらしばられない。いつだれがどこで、どんな生きかたをはじめるかなんて、そんなのだれにもなんにもわからない。生きることは爆弾だ。その力が労働によって封じこめられているならば、もういちどその力を爆発させてみるしかない。生の拡充だ。パンパパーン!!!
●ひとが明日なんか捨てちまうってのかな。仕事も、自分の命も、革命の大義も、そんなもんはどうでもいい。ぜんぶかなぐり捨てちまって、いまこの場で遊びたい、おどりたい、うたいたい、そうさせてやまない力がある。だいじなのは、その力にふれることだ。だれにもなんにもしばられない力を手にするってことだ。しかも、おもしろいのはそういうときって、もちろんのぞんでやってはいるんだけれども、自分の意志で選択してやっているわけじゃないんだよね。もっと無意識的なものってのかな。だれかが火をつけると、ふっとメロディーがわきあがってきて、ああ、明日、仕事があるのに、ダメなのにってわかっているけどやめられない、とまらないんだ。
●えっ、秩序をはみだすのは、犯罪だって?みんなにきらわれてしまうって?上等だよ、上等だよ、ひらきなおるわけじゃねえが。現にあるものをブチこわせ。主人でもない、奴隷でもない、民衆の生をつかみとれ。新天地にむかってあるきだせ。それはとても孤独なことなのかもしれない。おいら、ゴロツキ、はぐれもの。でも、ひとたびその一歩をあゆみだせば、かならずあのメロデイがきこえてくる。もうなんにもこわくない。過去の民衆たちがおどりだす。おいらもいっしょにおどりだす。つられて、だれかもおどりだす。ユートピアだ。コミュニズムとは絶対孤独である。それは現にある秩序をはみだしていこうとすることだ。かぎりなくはみだしていこうとすることだ。あらゆる相互扶助は犯罪である。アナーキーをまきちらせ。コミュニズムを生きてゆきたい。 -
アナキズムとは何か。ぶっ飛んだ文体で紹介している図書。好みは人によってわかれそう。とはいえ、引用文献の紹介や解説は非常にわかりやすい。権力が発生してしまう体制はどんなものであれ認められない!とし、人が自由に生を拡張することの重要性を説く。「一丸となってバラバラに生きろ」という言葉は衝撃的だなぁ…
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体型的なアナーキズムが説明されていると思ったけど、そうではなかった。
実践的アナーキズム、帰納法的にアナーキズムを知りたい方にオススメ。
著者プロフィール
栗原康の作品
