日本の同時代小説 (岩波新書)

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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004317463

感想・レビュー・書評

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  • 新書編集者は「みんなの〈同時代文学史〉」と帯文句に書いているが、著者の主張としても、客観的にもそうではないということは明らかであり、編集者の勇み足というべきだろう。

    「文学史」と銘打ったならば、日本思想史に近づいてしまうのは、加藤周一「日本文学史序説」を読むまでもなく運命であり、だからこそ、世の研究者は同時代文学史を書くのを避けて来た。しかし、70ー90年代がもはや歴史として語られ出した今、こういう本が出るのは、時間の問題だったと思うし、その第一弾としては誠実なものだったと思う。

    西欧小説とは独自路線を貫いて来た「私小説」の伝統が、60年代から否定されて、変形し、綿々と続いていること。プロレタリア文学が、否定されつつも、推理小説やお仕事小説の中で、見事に復活していること。左翼の否定から始まり、会社人間を否定し、男の論理を否定し、凡そその時代を代表する多くの権威を否定しながら世代交代してゆく小説家の姿は、そのまま戦後史の世相史と重なり、多くの示唆をもらった。一方、その表面の変化の底で蠢いている地殻の変動や全体を俯瞰する視点は、ここでは書かれない。そこまでは新書では扱えないし、そもそも文学史ではない以上無理があるだろう。

    びっくりしたのは、思った以上に私は60ー80年代の小説を読んでいた。あの頃は有名文庫を追うだけは追っていた。それでまだ基本的な流れは把握出来ていたのだ。でもそのあとは無数の支流に分かれる。著者は、「女性作家の台頭」「戦争と格差社会」「ディストピア」とひとくくりにしているが、果たしてそのくくり方が正しいのか、私には評価出来ない。細かい処では、いろいろ示唆を貰った良書である。

    2018年12月読了

  • 自分は1973年生まれの45歳。
    物心ついたころから本に親しんできました。
    初めて自分で買って読んだ小説は、赤川次郎の「三毛猫ホームズ」シリーズ。
    小学校高学年のころだったと思います。
    それから現代文学を中心に読み漁ってきました。
    傾向としては、純文学が多かったように思います。
    ですから、今まで読んできた小説とそれを著した作家を、しっかりと時代に位置付けて俯瞰してみたいという欲求がありました。
    ただ、夏目漱石や森鴎外など近代の小説の歴史をひも解いた本はあっても、自分が読んできた小説をカバーする本はほぼありませんでした。
    概ね70年代から現在までに発刊された小説です。
    本書はまさに、この時代に発刊された小説のガイドブック。
    昨年末に読書欄で本書のことを知り、すぐに購入しました。
    それに何と言っても斎藤美奈子さんですからね。
    まず外さないという自信がありました。
    読後、自信は確信に変わりました。
    私がこれまで読んできた小説が、時代背景も含めて解説されているのですから、面白くないわけがありません。
    大げさに言えば、それはまさしく私のこれまでの人生です。
    ただ、本書を読んで分かりましたが、自分はほぼ10年遅れで現代小説を読んできたようです。
    たとえば、龍や春樹を読むようになったのは、彼らが登場してから10年前後経った1990年代。
    90年代の純文学シーンをリードした笙野頼子や松浦理英子らを読むようになったのは2000年代です。
    2000年代から時代に追い付き、綿矢りさや金原ひとみは、芥川賞受賞が衝撃的だったこともあってすぐに読みました。
    吉村萬壱、小川洋子、重松清、赤坂真理、絲山秋子、古川日出男、角田光代、阿部和重、柳美里、吉田修一、三崎亜記、伊坂幸太郎、長嶋有、舞城王太郎、平野啓一郎、川上未映子、三浦しをん、中村文則、村田沙耶香、白岩玄、羽田圭介、朝井リョウ……このあたりは結構好きで読みました。
    あと私淑している町田康ね。
    ただ、結構取りこぼしも多く、恥ずかしながら恩田陸は未読ですし、「ろみたん」こと川上弘美も実はまだ……。
    あと、絶対、自分に合うはずと思っていながら読んでいないのが星野智幸ね。
    いつかタイミングが来れば読むことになると思いますが。
    この種の本でページを繰る手が止まらなくなるのは、やはり著者の手腕によるところが大きいと思われます。
    たとえば、
    「ポストモダンの時代を見てきた現代作家の手にかかると、歴史も過去の文学もみごとに『脱構築』されてしまう。古民家がカフェに生まれ変わるようなものでしょうか。」(165ページ)
    とは、言い得て妙だと思いませんか?
    著者独自の分析にも納得させられました。
    たとえば、渡辺淳一「失楽園」、片山恭一「世界の中心で、愛をさけぶ」、百田尚樹「永遠の0」が爆発的に売れたのは、その直前に大きな震災や戦争があったからなのだそう。
    「『無意味な死』『大量死』の後には『意味ある死』『小さな死』『美しい死』の物語が求められる。」(203ページ)
    極め付きは終盤です。
    ライターの飯田一史が、震災後文学は「被」の文学に終始し、その先を示していないといった趣旨の問題提起をしたのを受けて、著者はこう書きます。
    長いですが、引用します。
    「これは震災関連小説に限らず、純文学全般に当てはまる傾向です。
    なぜ文学は『その先』を示せないのか。私が立てた仮説は二つあります。
    ひとつは『純文学のDNA』とでもいうべき性癖です。
    明治二〇年代、近代文学が『ヘタレな知識人』『ヤワなインテリ』からはじまったことを思い出してください。ふて腐れたまま二階に上がって、二度と階下におりてこなかった『浮雲』の内海文三、結婚する美彌子を呆然と見送るしかなかった『三四郎』。あの性癖がいまもどこかに残っている。純文学はショックに弱い。もともとが敗者、弱者の芸術だっただけに、呆然と立ち尽くす以外の術を知らないか、あるいは問題の解決を先送りにしたがるのです。
    もうひとつは小説の形式上の問題です。
    純文学とエンターテインメントの大きな差のひとつは『終わり方』です。エンターテインメントは閉じた結末(クローズドエンディング)を好みます。ハッピーエンドであれ、バッドエンドであれ、伏線をすべて回収し、事件に白黒をつけ、謎に解を与えて納得させ、読者をすっきり日常に戻す。これがエンタメの流儀です。それに対して純文学は、開いた結末(オープンエンディング)を好みます。事件は解決せず、主人公は宙づりにされ、謎は謎のまま残り、不安な空気を残したまま、テキストはプツリと終わる。するとなんだか余韻が残って『文学らしさ』が醸成されます。問題解決能力の高い人物は、純文学の世界ではたいてい悪役か、もしくは軽蔑すべき俗物です。純文学は安易に人を救わないのです。」(258~259ページ)
    思わず膝を打ちましたよ。
    座右の書にします。

  • さらっと書いてるけど、これすごい本なんじゃないか?
    1960年代〜2010年代の小説を、純文学・エンタメ小説問わず数行で紹介しつつ、その潮流と背景となる出来事を解説している。必ず読んだこと(聞いたこと)がある作品が含まれている。
    最初の方はまだ文学史という気分で読めたけど、自分の読書生活と重なる90年代以降は時代の暗さや作品の痛々しさが辛かったが、解説が的確で未来の展望まで示しているのに救われた。
    これを同時代でやってのけるの、やっぱりすごくない?

  • 1960年代から2010年代までの約50年間、どんな小説が発表され、どう時代と関わり、どんな傾向が好まれてきたのか…俯瞰で知ることのできる一冊。
    さすが斎藤美奈子さん、それぞれの時代の空気を的確に捉え、どう作品に影響を与えてきたかを簡潔に解りやすく解説してくれる。馴染みの薄い60~70年代は、なかなか乗りきれなかったものの、知らなかったことも多くとても勉強になった。
    個人的には80年代から俄然面白くなってくる。90年代の女性作家の台頭も、かなりワクワクしながら読む。斎藤さんの他の著書に比べると、沢山の作品を紹介しているということもあり淡々としているが、たまにピリッと辛みを効かせてくると嬉しくなってしまう。
    時代を経るごとに記憶も鮮明になってくるわけで、どんどん前のめりに楽しく読んでいける…と思っていた。だが、00年代に入ってからじわじわと不穏な空気が色濃くなってくる。そして10年代…ディストピア小説の時代。「では以下、覚悟してお読み下さい。」の一文に背筋が一瞬寒くなる。
    劣悪な労働環境。介護問題。震災、原発。諸々の時代の重さを題材に書かれる作品群、中にはいくつも自分が読んだものがあったけど、このように作品と時代の関わりを解説されると、そのヘヴィーさに怖くなった。楽しく…読んだわけではないが、思った以上に前のめりに10年代章からラストまで一気に読みきった。
    これからは、時代のどんな空気をどう反映させて、どんな作品が生まれていくのだろう…また斎藤さんにここからの時代の小説を論じて頂きたいな。

  • それが書かれた時代に読む、ということの意味を深く考えさせられた。
    何はともあれ、読みたい、読まねば、と思う本がぞろぞろ出てきて、ああ、これから忙しくなるなあ。

  • 世に出ている近世(明治)以降の文学の解説本の多くは、60年代の横光利一・石原慎太郎・開高健らで終わっている。著者はその後の文芸の歴史をきちんと解説した書が見当たらないとことに奮起し、筆を執る。カバーする範囲は1960年代〜2010年代までの約60年。我々が生きてきた“同時代”の「性格」を文学で探っていく。

    印象深かったのは、文芸評論家の蓮實重彦の考察。70年代半ば〜80年代を代表する小説の「羊をめぐる冒険」「コインロッカーベイビーズ」「枯木灘」「吉里吉里人」「裏声で歌え君が代」「同時代ゲーム」は全て同じプロットの物語である。「依頼」→「代行」→「出発」→「発見」という経過を辿る構成であると喝破。

    それを受けて著者は、近代文学と現代文学の差異を絵画を例に挙げ分析する。近代文学が、ミレーやコローのような写実画とすれば、現代文学はピカソやカンディンスキーのような抽象画に当たる。ピカソのデッサンを非難するが、それは旧来の写実的画法では描けないとピカソが考えたからにほかならない。

    かつて文芸界で飛び交った「人間が描けてない」という批判は80年代以降には効力を失った。現代文学はそもそもそれまでの小説の意味や技法に疑問を抱いたところから出発している。その代表格が、高橋源一郎・島田雅彦・田中康夫らである。確かに各氏の処女作は物議を醸した。

    この様に小説は時代を斬り、時代が小説を産んだと言える。本書には、約300篇もの小説を10年単位で区切り、当時の時代の空気をすくい取りながら、簡潔な解説の中に時に容赦のない筆誅を下す。

    すっかり廃れたと思っていたプロレタリア文学や私小説がその形を時代の器に合わせ変容し生き延びていたり…同時代の文学を鳥の眼と虫の眼のデュアルレンズでもって、昭和~平成の世相史が学べる副産物もある労作。

  • 10年ずつ区切られた、その当時の文学のかたち。
    1960年代 知識人の凋落
    1970年代 記録文学の時代
    1980年代 遊園地化する純文学
    1990年代 女性作家の台頭
    2000年代 戦争と格差社会
    2010年代 ディストピアを超えて

    相変わらず読書量も凄ければ、分析力もハンパない。
    知らないことを読めば「ふむふむ、そうか」と思い、知ってる部分を読めば「そうでしょうとも」と膝を打つ。

    子どもの頃の私は学校にある子ども向けの世界文学全集を読み、そのほか中学生くらいまでは海外のミステリを中心に読み、高校生でSFにハマり、同時代小説を読み始めたのは子どもが小学生になった頃からだった。
    というわけで、この本に関して言えば、1990年代以降からしかピンとこないのが実態。
    それはつまり、出版不況が始まってからなんよ。

    そんな中、ある程度時代を代表する作家だったり、世の中の確信を作用の作品はたいてい網羅しているのに、西加奈子がなかったなあ、と思いました。

  • 非常に面白く、興味深かった。「同時代小説」を俯瞰的な視点で分析し、特徴を抽出することがいかに難しいか、ちょっと考えてみればすぐわかる。その困難に果敢に挑んだ本書、なるほどねえ、言われてみればその通りとうなずくことしきり、さすが斎藤美奈子さん。

    60年代から10年ごとに、売れたり話題になったりした作品をとりあげ、そこに刻印された「時代の空気」を鮮やかに読み解いていく、その切れ味に唸ってしまう。文学というのは、現実から遊離した場所で行われる営みのように思ってしまいがちだが、なんのなんの、本書を読むと、これほど「時代」の要請によって創り出されたり読まれたりするものなのかと、目から鱗が落ちる思いだった。

    また、自分の読書歴を振り返るという点でも実に面白い。教科書的な「名作」ではなく、まさに「同時代」のものとして読んだ作品の数々。はっきりそう感じた最初のものは、高校生の時、刊行後しばらくしてから読んだ「赤頭巾ちゃん気をつけて」だった。それから2000年あたりまではここに出てくる作品の多くを読んでいたのだが、それ以降は急に未読のものが増える。そうだ、この辺で自分の趣味嗜好が固まって、手当たり次第に読んだりしなくなったんだなあ。特に最近の小説がどうも苦手で敬遠してしまうのは、やはり自分が旧世代に属するようになって、作家の問題意識を共有しにくくなっているからなのだろう。

    多くの作品について内容が簡単に紹介されているのも嬉しいところ。食わず嫌いはやめて、気になったものを読んでいこうかと思う。



    オマケ
    美奈子姐さんおなじみの啖呵は、ここでは控えめ。それでも村上春樹へのピリッとした批判や、セカチューとか百田のベストセラーをバッサリ斬っているところなんか、やっぱり痛快。

  • さながら近々の歴史をざっくりと見ながら、同時代の文学史をひも解いてくれるとてもわかりやすく面白い文学案内でした。確かにこういうのを待っていました!

    わたしの読書人生は1950年代の後半から始まっています。その頃は桑原武夫や伊藤整の読書入門や、もう少し詳しいのだと中村光夫の『日本の近代小説』、1960年代後半に出た同じく『日本の現代小説』が参考書でした。まさに斎藤美奈子さんが「まえがき」にそうお書きになってます。

    でも、そういう案内は1960年代までで終わっています。このようなわかりやすい案内は今現在2010年代までなぜか空白でした。もちろん専門書的なものはあったでしょうが。

    世界が多様性にばらけている今、文学のジャンルも増え、しかも、堺がわからなくなり渾然の様相、まるっと見渡してまとめるのは大変な作業でしょう。

    わたしとて情報に限りがあり、何をどう読めばいいのか?何か足りないようなもどかしさがありました。
    近代、現代、そして「同時代」とはうまいネーミングであります。

    斎藤美奈子さんもおしゃってますが、この新書を足掛かりにして、まだまだ埋もれている作家・作品を発掘しながら、読書人生を歩みたいと思いました。

  • 60年代以降の日本文学史ということで、私はまあまあリアルタイムで読んできているものが多く、臨場感モリモリだった。
    しかしこれだけ多岐多彩に渡る作品群を、まずはもちろん読み、明解に解析し、グルーピングする手腕はさすが。

    こうしてみると、私小説や不倫小説のめった斬りは爽快だし、フェミニズム文学もうまく網羅しているし、偽史が意外と多いというのも納得。

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著者プロフィール

1956年新潟市生まれ。文芸評論家。1994年『妊娠小説』(筑摩書房)でデビュー。2002年『文章読本さん江』(筑摩書房)で小林秀雄賞。他の著書に『紅一点論』『趣味は読書。』『モダンガール論』『本の本』『学校が教えないほんとうの政治の話』『日本の同時代小説』『中古典のすすめ』等多数。

「2020年 『忖度しません』 で使われていた紹介文から引用しています。」

斎藤美奈子の作品

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