ミシェル・フーコー: 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書 新赤版 1802)

著者 :
  • 岩波書店
3.60
  • (9)
  • (17)
  • (23)
  • (2)
  • (1)
本棚登録 : 502
感想 : 24
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (206ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004318026

作品紹介・あらすじ

ミシェル・フーコー(一九二六―八四)は顔を持たない哲学者だ.今の自分にとって「正しい」とされることを徹底的に疑いぬき,自己を縛り付けようとする言説に抗い,危険を冒してでも常に変化を遂げようとした.だからこそ彼の著作は,一冊ごとに読者を新たな見知らぬ世界へと導いていく.その絶えざる変貌をたどる.

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • ミシェル・フーコーの入門書として最適な本のひとつに文句なく数えることができるだろう。まず、主要作品に関する網羅性があり、それらの作品間の位置づけが時系列に沿ってシンプルに説明されている。また、その時の経過におけるフーコー自身の変化と一方でその変わらない問題意識や技法についての説明が著者の言葉で比較的わかりやすく解説されている。

    例えば、フーコーの哲学的歴史研究の任務として「歴史を辿ることによって、現在においてほとんど当たり前として受け入れられていることが過去においては決してそうではなかったことを示しつつ、新たなやり方で思考する術を探ること」と定義する。非常にコンパクトにまとまった、かつ的を外していない定義だと思う。

    本書の目標として、フーコーに関して「自明性の問題化と研究の軸および内容の絶えざる変化が実際にどのように展開されているのかを描き出す」ことだと述べている。それはある程度成功しているのではないだろうか。この本を読むことで、自分の中でもある程度頭が整理されたと思うことができた。

    本書の構成は、フーコーの著作を年代別に追いかけていく形になっている。『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』『言葉と物』『知の考古学』『監獄の誕生』『性の歴史』と主要著書がもれなく並ぶ。それぞれ簡単に見ていきたい。

    ■『狂気の歴史』(1961年)
    フーコーが自らを「フーコー」たらしめることとなった最初の著作といえる。当時の精神医学における狂気の扱いと現代とのその違いが分析され、狂気と理性の分割がどのようになされて、病という形象に還元されたのかが問いとされる。いわゆる「理性」が西洋においてどのようにその地位を確立してきたか、その過程でどのように狂気を排除することとなったのかが示された。もともとは貧者、物乞い、浪費家、など他の雑多なものと合わせて収容されていた狂者は他のものと切り分けられ、その収容施設は精神病院となり、いまや病者となったのだ。
    同時期に書かれた博士論文取得のための副論文、カントの『人間学』への序論を交えて、『狂気の歴史』が提示している人間学的錯覚について議論されているが、この問題意識がここから後のフーコーの歩みの拡がりにつながっている。

    ■『臨床医学の誕生』(1963年)
    この著作においては、病理解剖学によって、病が身体の表面に現れた症状ではなく、身体内部に標定されうる「病変」によって引き起こされるものだというように認識が変化したことを指摘している。これは医学的視線に対して、表層から深層へという垂直の道が課されるようになり、見えるものと見えないものとのあいだに新たな関係が結ばれたということを示したものだと指摘する。ここに時代の断層と人間学的思考の地平が時代によって構成されたものではないのかということが問われているのである。それは後に『言葉と物』の分析につながり、また『知の考古学』でその思考方法が整理されるのである。

    ■『言葉と物』(1966年)
    いまだにこの長大で難解な著作があれほど売れたのか理解できない。「「人間」はごく最近の発明品にすぎず、いずれ波打ち際に描かれた砂の顔のように消え去るであろう」という、実際どこまで理解されていたのかわからない「人間の死」を宣言したことでそのフレーズとともに有名になった。
    ルネサンス期の支配的な思考形態を「類似」に、古典主義時代のそれを「表象」であると分析し、それぞれが「言語」「自然」「富」においてどのように影響を与え、いかに時代の断層を生じさせたのかを分析した。あまりにも知的であり、ベラスケスの絵画 『侍女たち』を古典主義時代の思考様式を代表するものであるとして解説したその文章は眩暈がするほどゴージャスだった。
    十八世紀末にそれぞれの分野で発生した「表層」から「深層」への重心の移行が、人間の有限性を浮かび上がらせるとともに、人間理性にとっての大きな関心事とすることになった。これが「人間」つまり「至上の主体であると同時に特権的な客体でもあるものとしての人間」の登場につながった認識論的変容なのである。

    同じく難解なラカンの『エクリ』が刊行されたのも同じ1966年。このころのフランス思想界の盛り上がりが想像されるとともに、他の構造主義の著作と比べてもフーコーの時代を超えた有効性が改めて際立つように思えるのである。

    ■『知の考古学』(1969年)
    これまでの自身の思考の方法論を「考古学」と名づけて解説した本。著者からも「フーコーの著作のなかで最も難解で近づきがたい」と評価される著作だが、フーコーの思想を知るうえでは必読書だ。言表、言説、アルシーヴ、考古学(アルケオロジー)、といったフーコーの哲学的思考ツールが整理される。サルトルの実存主義にとどめを与えたとも言われる「人間の死」に対する批判にも応えたものとしても位置付けられる。
    著者によると「歴史を連続的なものとして打ち立てようとすることの拒否が、人間学的思考からの解放のための努力に他ならない」ということが明示的に語られたのがこの著作であるという。連続ではなく、不連続や差異を暴き出すことが、考古学的探求の意味であるという。

    このレビューを書いているときにはじめて著者が河出文庫から出された『知の考古学』の新訳の訳者だと気が付いた。あの新訳はよかった。

    ■『監獄の誕生』(1975年)
    この著作で取り上げられたことで有名になったパノプティコンという監視様式が「規律権力」を象徴的にも論理的にもよく表現していたため、そのイメージによって理解されていることが多い著作である。
    著者によると「刑罰という、通常そのネガティヴな側面が強調される制度的メカニズムを、それが引き起こすことのできる「ポジティヴな諸効果の系列全体」のなかに置きなおして研究しようと目指す」ものであるという。つまり、著者の解釈であるのかもしれないが、抑圧や排除の権力ではなく、権力をポジティヴなメカニズムとして捉えているという。もちろんここで書かれているように監獄の誕生や学校、軍隊、工場などで見られた「規律権力」は「従順かつ有用な個人を作り上げる」ことを目指した。これについて、自分は「規律権力」をそこから抜け出すとは言わないまでも自由になるべきものであり、相対的にはネガティヴなものと捉えていたが、それは「権力」という言葉によって植え付けられた人間主義的な偏見から来るものであったのかもしれない。もう一度フーコーの権力論をこれまでとは異なるポジティブな視点で読み込むことも可能なのかもしれない。

    なお著者によるとフーコーは、この著作の目標として「近代の魂と新たな裁判権力との相関的歴史」の研究であるとし、これを「「魂」の系譜学」と位置付けているという。「魂」とは人間を特権化する何かであると捉えると合点がいくのではないだろうか。

    「「人間の出現」という出来事が、新たな権力関係の成立によってもたらされた帰結としてとらえ直されるということ。「魂」の系譜学は、このように、人間の認識可能性の成立という、「考古学」にとっての中心的課題として扱われていた問題に対して、新たな視点から新たな回答を提示するものとして自らを差し出すのである」
    この著作でも「人間」というものが近代の発明品であるということが改めて示されるのである。

    ■『性の歴史』第一巻『知への意志』(1976年)
    セクシュアリティに関する言説を抑圧や禁止、隠蔽といった観点ではなく、権力による知や言説の産出という観点からポジティヴに扱ったのがこの著作であるという。性はかねてより「権力」により深く介入されていたという。それは過去の教会での告白という制度もそうであるし、それ以前の遠い過去から「介入の表面」としてそれを権力に差し出してきたのだと。性は、これまでの著作で扱われたように、治療、差別、排除といった社会的メカニズムにその根拠を提供するものとなるのである。

    フーコーはこの性に対する考察の中で、「一つの真理ないし本性を自らに固有のものとして保有する主体(sujet)であると同時に、権威に服従する臣下(sujet)でもあるような者が作りだされる」として語の二重の意味での主体化=従属化が行われるのを見るのである。

    また、性が生殖にも直接かかわるものであるがゆえに、そこに「生権力」「生政治」といった概念が生み出された。
    「権力の問いが、「死なすか、それとも生きるに任せておくか」から「生かすか、それとも死ぬに任せておくか」へと移行した、とフーコーは指摘し、ここから人種主義やナチズム・全体主義の問題の思考へとつながるのだという。

    ■『性の歴史』第二巻『自己への配慮』~第三巻『快楽の活用』(1984年)、第四巻『肉の告白』(2018年)
    『性の歴史』は自己への配慮、というテーマでギリシア時代までさかのぼって考察されることになった。また、晩年の思考の大きなテーマになった「パレーシア」という概念もここで語られる。

    ミシェル・フーコーの『性の歴史 第四巻』が最近刊行されていたのは知らなかった。確かに英語版は2018年に刊行されている。すでに遺稿があったのだが、1984年の死によって校正作業が完了せず、フーコー自身の死後出版の禁止という遺志があり、ずっと未刊のままであったという。日本語版の刊行が待たれるが誰が翻訳しているのだろうか。本書の著者でもあり『知の考古学』の改訳をした慎改さんが担当されるのであれば悦ばしいのだが。いずれにしても早くしてほしい。

    それにしても、こうやって時系列で一気にフーコーの仕事を確認すると、改めて1984年の死が早すぎたと思えるのである。フーコーの解説本はいくつも現れたが、フーコーの後を継いだと言えるものはいまだ現れていないのである。

    ----
    『知の考古学』(ミシェル・フーコー著/慎改康之訳)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4309463770

    ---
    (後記)
    『性の歴史 第四巻 肉の告白』は2020年12月に刊行された。「日本語版の刊行が待たれるが誰が翻訳しているのだろうか。本書の著者でもあり『知の考古学』の改訳をした慎改さんが担当されるのであれば悦ばしいのだが」と書いたのだが、まさか本当に慎改さんが翻訳をされたのには驚いた。確実に本書を刊行するときには翻訳作業中で、早晩刊行されることを知っていたはずだ。黙っているとはいじわるな。いずれにせよ、このいわくつきの書を信頼できる翻訳で読むことができるのは、幸せなことだ。

    『性の歴史 4 肉の告白』(ミシェル・フーコー)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4105067125

  • 僕が学生時代から読もうとして、怠惰ゆえに今までほとんど読まずに過ごしてきた本、それがフーコー、ドゥルーズ、メルロ=ポンティ等の哲学書である。
    先月、ブルデューの「世界の悲惨」の感想を書いたときに、《「世界の悲惨」とは、まさに哲学の悲惨に他ならない。》(「世界の悲惨Ⅲ」(監訳者あとがき))という言葉を引用したが、その言葉が自分に返ってきてしまった。
    かく言うお前はどれだけの哲学書を読んで来たのか?と。

    そんな訳で、いよいよ宿題に向き合わざるを得なくなった。
    ちょうど昨年の12月に、フーコー「性の歴史」の第4巻「肉の告白」が出たので、大分前に読んだ第1巻からもう一度読んでみることとし、そのウォーミングアップのつもりで本書を手に取った。

    新書にもかかわらず、あまり頭に入って来ないなあと思いながら読んで来て、
    「第五章 「魂 」の系譜学──『監獄の誕生 』と権力分析」の所で愕然とした。
    そこには、同書に対する僕の理解とは全く違う読みが示されていたのだ。


    《そこで当初企てられていたのは 、刑罰の理論および制度を 、抑圧のシステムのなかに置き直して分析することであった 。 ー中略ーコレ ージュ講義においてもやはり 、まず問題とされたのは 、権力のネガティヴな作用だったのである 。》


    僕の読みは、あくまでもこうした観点からのものだった。ところが、


    《しかし 、研究を進めていくなかで 、フ ーコ ーは次第に 、抑圧や排除といった作用から 、権力によってもたらされるポジティヴな効果へと 、その視線を転じることになる 。つまり 、処罰形式をめぐる歴史的探究の進展が 、彼を 、権力をめぐる伝統的な考え方から引き離し 、権力の生産的な側面の分析へと導くのである 。そして 、そのようにして権力のポジティヴなメカニズムに焦点を定め直した研究が進められた後 、その成果として一九七五年に著された書物 、それが 、 『監獄の誕生 』なのだ 。》


    とあるではないか。
    これは、かなりショックだった。
    もちろん、著者の理解が正しいのだろうが、これはぜひもう一度読んでみなければならない。


    《「規律権力 ( p o u v o i r d i s c i p l i n a i r e ) 」と呼ばれるその新たな権力は 、一方の他方に対する支配力を誇示する代わりに 、すべての人々を一様に監視し管理することで 、 「従順かつ有用 」な個人を作り上げることを目指す 。》


    《監獄的な監視と矯正のシステムは 、ただ単にさまざまな 「規律的 」制度のうちの一つとして機能するばかりではなく 、他の制度に対するモデルとしても役立つのだ 、と 。そして監獄のそうした範例的役割を端的に示しているものとして描き出されるのが 、 「パノプティコン 」と呼ばれる建築様式である 。》


    僕は大学で哲学を学んだこともなければ、それほどたくさん読み込んでいるわけでもない。
    おまけに自分の理解力にさして自信があるわけでもない。
    そんな僕が哲学書を読んで行けば、これからも数々の誤読を犯すだろう。
    だが、たとえそうだとしても、人生の総決算として、『誤読の旅路』を歩んで行きたい。

  • [出典]
    「現代思想入門」 千葉雅也
    P.89 フーコーの入門書

  • フーコーの著作と主張の移り変わりを西洋知の文脈を踏まえて、端的にまとめている。

    最後にある通り、彼の問題意識は「主体と真理」の関係の問題化にあった。

    『言葉と物』で人間の有限性への覚醒を促す。人間を基礎づける無意識なようなものはないのだ。

    『知の考古学』で歴史の連続性の否定と歴史解釈の拒絶を通して、人間主体の至上権を打ち倒す。宗教やイデオロギーへの対抗か。

    『言説の領海』では、言説に拘束力を及ぼし、言説を希少化するようなシステムがいたるところに存在している、と説く。同書では、生を抑圧する権力のあり方が検討されたが、逆転して、生を規制しつつ促す、権力のポジティブな面が『監獄の誕生』で扱われる。

  • 副題「自己から抜け出すための哲学」というワードに惹かれて購入したが、フーコー自身が人間学的思考から離れるプロセスが見事に描かれた良書。

  • フーコーが顔を持たない哲学者である。つねに流動的に自己から抜け出すことがわかった。

    しかし、フーコーの作品を時代順に並べるのはいいが、そもそも、それをまとめようとしているせいであろうか、文章があまり頭に入ってこなかった。

    今度はフーコーの書いた本を読もうと思った。諸事情により、『知の考古学』に手をつけようと思った。

  • 「哲学100の基本」を読んだ後なので、少しは哲学に対する理解が進むかと思い読んでみたが、やはり難しかった。そもそもフーコーの当初よって立っていた「人間学」というものが何なのかが全く理解できなかったので、その後のフーコーの過去の自分の思想からの脱却という流れが理解できないまま読み終わってしまった。ただし、フーコーの考え方が歴史を残されてい文献からありのままに受け止め、そこから人間の言葉と考え方の変遷を客観的に捉えるという「考古学」という考え方と、それにより「狂気」「死」「性」などが人間にとってどのように変わっていきそれが現代にどのような影響を与えているのかということを「権力」の観点から考えるというのは非常に興味深い考察だった。

  • ミシェルフーコーという哲学者が何をどう考えてきたかということについて、時間軸順に学べる本だった。論旨はなんとなく理解できたが、細部については話についていけず自分自身の勉強不足を痛感した。
    星については、読んで良かったがどう評価すれば良かったのかわからないので真ん中の3とした。

  • 顔を持たぬ哲学者。現代思想の重鎮ミシェルフーコーの哲学とは。

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/729436

全24件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

1966年、長崎県生まれ。明治学院大学教授。訳書にミシェル・フーコー『ミシェル・フーコー講義集成』第1巻、第4-5巻、第8巻、第13巻(筑摩書房)、『知の考古学』『言説の領界』(共に河出文庫)など。

「2019年 『フーコーの言説』 で使われていた紹介文から引用しています。」

慎改康之の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
J・モーティマー...
マルクス・ガブリ...
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×