律令国家と隋唐文明 (岩波新書)

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  • 岩波書店 (2020年2月22日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (230ページ) / ISBN・EAN: 9784004318279

作品紹介・あらすじ

中国の王朝が隋から唐へと移り、朝鮮半島から戦火が迫る。古代日本の律令国家は、そうした極度の軍事的緊張のなかから生まれた。国土防衛と権力集中への模索から、海を介した人々の知的交流、制度にとどまらない文明の継受によって、独自の国制を築く過程を描き出す。東アジアを舞台とした、「日本」誕生のドキュメント。

みんなの感想まとめ

古代日本の律令国家がどのように成立していったのか、その過程を緊迫した東アジア情勢を背景に描き出しています。遣隋使や遣唐使の派遣を通じて、隋唐文明を受容し、日本という国号が確立されるまでの道のりが、学術...

感想・レビュー・書評

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  • 遣隋使を派遣することになる緊迫の東アジア情勢から書き起こされ、隋唐文明を一通り受容し律令国家として基礎が固まる嵯峨天皇あたりまでを一気に解説します。コンパクトですが安易な部分はありません。「倭」ではなく「日本」を国号として認めさせる場面は日本が志高い青年に思えます。遣唐使が求めたものは珍品装飾品の類ではなく万巻の書物でした。必死に外国人を受け入れ、高僧鑑真を招聘する姿に「坂の上の雲」を目指す日本人が重なりました。中国の歴史ドラマを見ていると玄宗皇帝が日本に暦を下賜したと言っています。吉備真備が持ち帰り、藤原仲麻呂が施行した「大衍暦」でした。当時最先端のテクノロジーですね。

  • ・隋唐の中国統一は東アジアに大きな影響、高句麗は泉蓋蘇文による宰相独裁、百済は義慈王による王族・重臣追放の専制君主型官司制、新羅は金春秋による傀儡女王一人に権力集中・貴族評議の集権化と集権化による国力の強化を図った。倭も蘇我入鹿が高句麗型、中大兄が新羅型の集権化を目指した。
    ・白村江の敗戦は激震をもたらし、庚午年籍による徴兵、朝鮮式山城の建築、防人等軍事力の強化が図られた。
    ・唐・新羅とは緊張関係にあったが、唐と新羅との10年に及ぶ戦争のなか、新羅が倭に接近、唐も倭との対立を緩める。
    ・国号の日本は、唐からみた国号であり、唐と対立した倭とは別の王朝であるとの印象操作もあったのではないか。
    ・律令の受容にあって、唐律は極めて緻密で体系化されていたので、量刑を軽くするなどを除き、そのまま受容した。ただし唐は礼とのセットであったのに対し、文化の異なる日本は礼をほとんど受容しなかった。
    ・唐令は日本の文化や政治に合わせる必要があり選択的需要や改変を行った。
    ・戸令の家族法は中国の宗族と礼によるものであり、日本の文化とはまったく違っていたが、逆に理想形としてそのまま継受。衣服令・鹵簿令・儀令のうち天皇の儀式・衣服等に関するものは、ほとんど継受せず、伝統的な宗教による儀式が法文化されず行なわれた。
    ・皇帝は律令の外にあり、律令を超える権限行使ができたが、天皇は律令の下にあり、マエツキミの群議に従った。
    ・戸籍・計帳・班田収授が喫緊の課題であり先行的に整備され、戸令が人民支配の規定とされた、唐令の戸令は貴族の身分把握や選挙が主であった。唐の均田制は永業田もあり、規定では一定だが実際は相違していたし、口分田も場所によって相違していたが、日本では一律に、また女性にも配分された。国造制下のアカチダ(班田)がもとか。
    ・唐の庸調は、正丁に課す人頭税で現物貨幣である布に換算している税金。日本の調(みつき)は布のほか鉄、のしアワビなど多くの雑物を規定しており、国造が特産物を神に献上するミツキ(みつぎもの)。庸は布・米・塩で徴収されたが、大王の宮で奉仕するトモを国造が差し出し、その生活物資であるチカラシロ。租は収穫高の3%に過ぎず、ハツホ(初穂)として神に収めるもの。
    ・唐は官制が先にあり、官職につくと官位相当の位が授与されたが、日本では位が先にあり、中央の豪族が貴族として五位以上につき、位田、蔭位も貴族に極めて有利。
    ・四等官のカミ、スケは長官と次官ではあるが権限はほぼ同等、長官二人制は一般的であり中央貴族が任官。律令以前は南朝の制度導入し三等官で実務官僚がサカン(朝鮮語の史官?)。ジョウ(丞)は漢語の助け。

  • 大津透『律令国家と隋唐文明』
    軍事脅威が国家の意識を固めさせた、7〜8世紀の日本が隋唐という巨大文明の「波」に揉まれながら、必死に国家像を模索した時代、天智・天武の本気が隋・唐の組織像への解像度を上げ、文化を含めて形を作っていったダイナミズムが時代としか言いようがない
    タイトル「律令国家と隋唐文明」、白村江の敗戦後の極度の緊張の中で、唐の先進制度を「生存戦略」として取り入れ、飛鳥浄御原令から大宝律令へと律令国家を構築していく過程を、東アジア史の文脈で描く、制度の輸入に終わらず、古来のヤマト王権の宗教的性格や氏族制を残しつつ、柔軟に日本化させていった日本人の感覚が好印象
    この文明受容の流れは桓武天皇(山部王)時代において一つギアが上がった、百済系帰化人出身の母を持つという出自のハンディを背負いながら、大学頭など官僚として実務を積んだ山部王は、律令制導入後の「新しい意識」を最も求めて体現した天皇だった、官僚独自の文脈で中国皇帝像を強く意識し、光仁天皇から新たな朝であると言わんばかりの郊祀の実施、長岡京・平安京への遷都、親政の強化、唐風儀礼の深化など、制度(律令)から「礼」へと文明の受容を二段階に分けて移行した
    頭でっかちな理想追求と、現実の政治家としての冷徹さの両面を持ち合わせた桓武天皇の姿は、律令国家が単なる「模倣」ではなく、日本独自の国制を模索する「創造的適応」のプロセスだったこと、ソレが唐の制度を復元した根気強い研究があればこそ解像度の高い論を楽しめるのだなと言いたい(実は途中で挫折しかけた)
    危機が日本を変え、隋唐文明がその触媒となった——本書は古代史の入門書としてだけでなく、「日本とは何か」を考える上でも非常に刺激的な一冊で、飛鳥・奈良・平安のつながりがより立体的に見えるようになり、読後感は爽快です

  • ニホン、あるいはニッポン。普段は「ニホン」と読むことが多いが、応援の場では「ニッポン」のほうが力強く響く。いずれにせよ、漢字で書けば「日本」。もともとは中国大陸から見て東方、すなわち極東を意味する呼称であった。それが、どのような経緯で自らの国号として定着したのか――本書は、その問いから日本の成り立ちに迫っていく。

    「日本」以前、この列島は「倭」あるいは「倭国」と呼ばれていた。倭は和や俀とも表記され、大倭は大和、すなわちヤマトである。ヤマト政権は、氏姓制度を基盤とする統治体制によって成り立っていた。血縁を軸とした豪族たちが土地と人民を支配し、その上に大王が君臨する――それが当時の政治構造であった。

    しかし、この体制は有力豪族同士の対立を内包し、国家としての統一性には限界があった。そこで志向されたのが、中央集権国家への転換である。その契機となったのが大化の改新であった。土地や人民を国家が直接把握し、天皇を頂点とする統治体制へと再編しようとする試みである。

    そしてこの時期、「日本」という国号と「天皇」という称号が用いられるようになる。その背景には、単なる国内改革にとどまらない、東アジアの国際関係があった。すなわち、隋や唐という軍事・文化の超大国に対峙する中で、自らを一つの国家として位置づけ直す必要があったのである。

    本書は、こうした内政と外交の両面から、日本という国家の成立過程を解き明かしていく。学術的でありながら平易で、古代国家形成のダイナミズムを丁寧に伝えてくれる一冊である。

  • 古代日本における律令国家の形成を、隋唐帝国の圧倒的な文明的圧力と、それに対する「生存戦略」としての主体的受容の過程として描き出す。本書の特色は、「日本」という国名や「天皇」という称号が、なぜあのタイミングで必要だったのかを、激動の東アジアの中で「必死に文明化しようとした人々」のドラマとして、石垣や木簡といった証拠から立ち上がらせる点にある。著者は「日唐律令制の比較研究」の第一人者。

    本書の核心は、律令制の受容を「接ぎ木」として捉える視点。律令法は「青写真(目標)」として導入されたが、実態は郡司(旧地方豪族)による地域支配や、初穂貢納に基づく「租」など、日本の固有の慣行に依拠していた。制度面では「調・庸」が部民制や国造制下のミツキ(貢納)の慣行を継承し、「官僚制」も五位以上の有力氏族が天皇に近侍するマヘツキミとしての性格を色濃く残していた。

    「天皇」号については、隋の「訓戒」を受け、対等と礼節を両立させる第三の称号として採用されたとする。冊封を受けない「不臣」の立場を貫くための外交的決断であり、国内では神話に基づく「現神」としての権威を保ち続けた。金石文(野中寺弥勒菩薩像など)の再検討から「天智朝に遡ることは確実」との立場をとる。

    7世紀、白村江の敗戦という「極度の軍事的緊張」が、日本に強力な中央集権化(律令導入)を強いた。百済遺民を登用し、筑紫に水城、対馬に金田城を築城。防人(防)と烽(とぶひ)を設置した「戦時体制」の構築が進む。鬼ノ城(きのじょう)は天智朝に築かれた朝鮮式山城で、記述は『日本書紀』に欠落しているが、吉備大宰(総領)の府としての軍事的緊迫感を示す。

    天智期関連では、中大兄皇子の権力型を石母田正説を引き、「万機総摂」を、王族の一人に権力が集中する「新羅型」の権力集中と位置づける。庚午年籍の作成(670年)は天智9年に作成され、調庸の賦課や兵士徴集を目的とし、族制的支配から領域的支配への転換点となった。太政大臣の初設として、天智10年、大友皇子を太政大臣に任命。これは従来の皇太子執政の機能を継承し、大友の権力を強化するための政治的任命だった。亡命百済人の「学職頭」として、天智朝に鬼室集斯を大学寮の前身の長官に任命。最新の知的・技術的指導を亡命貴族に依存していた。

    文書行政については、四等官制と帰化人の役割として、文書行政の「主典(サカン)」を主に帰化人が担い、上官がそれを口頭で決裁する「宣」のスタイルは、文字を持つ帰化人と持たざる有力氏族の共同運営の伝統に由来すると指摘。文字を操る層と、血統・序列で近侍する層の共同運営が官僚制の実態として描かれる。

    奈良時代から平安時代にかけて、吉備真備や鑑真らによる「礼」の受容を通じて、天皇の衣服や儀式が徐々に唐風化し、九世紀に至ってようやく制度として完成されたと結論づける。避諱(皇帝や先帝の本名を避ける中国の礼)は仲麻呂政権下で導入され、聖武の諱「首」などが改名対象となった。

    学術的争点として、『近江令』の存在について、存在を肯定する説と否定する説(青木和夫説)を提示し、著者は後者の立場を詳述している。体系的な法典としての『近江令』は存在せず、実際には「甲子の宣」のような単行法令の集成であった可能性が高いとする。

    岩波新書で最新の研究成果に基づきつつ、非常に整理されており、古代史の大きな流れを掴みやすい初学者向け。宮廷での「宣(言葉)」の呪術性や、天皇の衣服が白(帛衣)から赤(袞冕十二章)に変わるプロセスなど、描写のディテールが豊富。飛鳥の都に亡命してきた百済人たちがどのような技術(城造りや漢文)を伝え、中大兄皇子らがそれにどう縋り、国を改造したのか、激動の東アジアの中で理解できる一冊。

  • 古代日本において、対外的な軍事的緊張を契機として律令国家が成立していく過程を描く内容。輸入された律令と大和王権の独自性の相克を消化しつつ、国家体制が整備されていく過程が興味深かった。

  •  日本における律令国家の受容と形成を、東アジアの国際関係(とりわけ隋唐)という視点から論じ、そのなかで国号「日本」や君主号「天皇」といった、こんにちの日本にも連なる国家の基礎が作られてゆく様子をダイナミックに描き出す。

     推古朝に隋との関係の中で、天皇号が成立した。ここで有名な「日出ずる処の天子」問題が起こった。本書は、煬帝が怒ったのは「日出ずる処」が「日没する処」にという一節だとする俗説を排している。これらは仏典に基づく東西関係を表すだけで、仏教的朝貢において文帝の歓心を買おうとして考えられた表現であったとする。そうではなく、「天子」を名乗ったことが、中華思想に反するものとして問題視されたという。ここからも日本における君主号の問題が対外的な関係によってかなり制約され、そのなかで成立していったことが分かるので面白い。

     国号「日本」も、もともとは東方であることを示す一般名詞であったが、白村江の戦いで悪化した唐との関係を回復し、新たな関係を築く試みのなかで成立した。

     律令国家もまた、危機的な状況のなかで国家を強化する必要性から、唐から急速に摂取されたものだった。そのなかで文明が接ぎ木されてゆく。例えば、中国では天子がときに法の上に立って勅断を下すが、日本では天皇も律令に拘束された。このように日本のそれまでのあり方を踏まえて現実的に摂取された部分と、「あるべき」理想として空文化された部分がありながら律令国家が作られてゆく。

     天皇制は最後の砦だったのか、唐の律令が天子らの衣服の色を厳密に定めるのとは対象的になかなか規定されることがなかった。本書では唐風化という流れから吉備真備や鑑真がさらに律令の受容を進めていったことを論じ、藤原仲麻呂が唐風化に与えた影響を再評価している。

     新書としては学術書寄りというか難しい部類に入るけれど、日本という国の成立を当時の国際関係とともに生き生きと感じられて、読み応えのある一冊だと思う。

  • 中央集権国家における政治経済面での支配体制の確立について知りたかったのだが、文化面から「日本」誕生≒「天皇制」の誕生をメインに描いている印象。これはこれで興味深い話ではあるが、中国文化の影響を受けていることを多少拡大解釈しているようにも思える。元ネタの研究が「日本古代国家における中国文明の受容とその展開~律令制を中心に~」らしいので、こっちの方が題名的にはしっくりくるような。新書の題名としてはマズイのだろうけど。

  • 国郡里制や条里制について知りたかったので期待と異なる内容だったが、知らない事ばかりで興味深く読めた。特に平安以前の日本政府がこんなにも外交を活発に行っていたとは全く想像外だった。

  • 今も昔も大国との距離の取り方は大変なんだな。そして、振り合わされtるのは同じなんだな。

  • 20200818-0829 大和朝廷の成立、壬申の乱から天平時代、平城京に至るまで、隋唐の影響は大きかったことを再認識させられた。

  • 日本の奈良時代、大陸に遣唐使を送ることによって唐の最新の優れた支配体制を学び、それが律令制という形で結実する事になる、その変遷を史料を追いながら解説した本。難しい漢字が多数出てきて読めない事もあり、自分には少し難解に感じた。詳細→http://takeshi3017.chu.jp/file8/naiyou29001.html

  • 2020年3月4日購入。

  • 奈良時代について、つい政治史などに目が行ってしまうのだが、このような制度史的な部分はやはり重要。なるほどと思わせる部分多々。歴史はいろいろな面から見ないといけないと改めて思った。

  • 東2法経図・6F開架:B1/4-3/1827/K

  • タイトルの通り、律令国家成立に至る過程を、中国を中心とする東アジア情勢との関連の中で解き明かしていく。資料や先行学説の紹介もきめ細かく、古代史研究の最前線に触れることができる、充実の一冊である。

  •  飛鳥時代から奈良時代に至る6世紀-8世紀に成立したとされる大和朝廷による律令制度、これを隋や唐という律令の規範に照らし合わせながら、その導入に至る経緯や国際情勢について時代を追う形で確認していく。次第に明らかになっていくその全体像が至る形は、唐風様式の受入れとその継続というものだった。
     そして律令制度は形を変え意味合いを変えて、それでも形式上は廃止されることなく明治維新を迎えることになるのである。
     これは、例えば天皇の即位にあたっても、江戸時代最後の孝明天皇までは唐風の装束で、つまり中国式の衣装で即位の式典が執り行われてきたことの背景である。
     今、天皇の即位にあたって、「古式ゆかしい」衣冠束帯を身に着けた儀式が紹介されるのだが、実は本当のところは江戸時代まではそんなものは着ておらず、中国の服を着ていたのである。これが真の伝統と言えるだろう。
     隋と唐、そして律令のなんという影響力だろうか。

  • 日本古代の律令国家形成を、隋唐文明との関わりから著述しています。時代は遣隋使が派遣された推古朝から、中国の礼が継受されて儀礼が整う弘仁・貞観期までを扱っており、途中で律令制の概説(官僚制や戸籍・民衆支配など)を挟んでいます。
    帰化人が国家建設に果たした役割や、吉備真備や鑑真ら海を渡った人々の功績が、それぞれ章を立てて解説されているところが印象的です。やはり古代史、律令国家は面白いと思わせる一冊です。

  • さすがは古代史の大家、と思わせてくれる重厚な新書。しっかり、たの研究者の説などをわかるように示してくれているのが非常にありがたい。かつ、鬼ノ城や吉備真備など、岡山愛が感じられるのも新書らしくて良い。隋唐といいつつも、特に唐の文化が日本に与えた影響というのは、やはりとても大きかったのだなと改めて考えさせてくれた。

  • 魏晋南北朝間の動乱による人的移動が、渡来人という形で日本に文明を移植させ、大和政権(倭)から天皇を中心とした国家(日本)へのアップデートを促した。律令はその骨子。この時代の唐の存在感は、その後「から」という言葉が中国の代名詞になるほど大きく、古代日本の成り立ちは、大陸の動静と連動していた。吉備真備、鑑真、藤原仲麻呂といったキーパーソンを軸に、両国の交流(対等ではないが)と、文化の伝播が示され、今日に至るまでの影響を再認識した。

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著者プロフィール

1960年東京生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科教授。主要な著書に『日本の歴史06 道長と宮廷社会』(講談社学術文庫、2009年)、『律令国家と隋唐文明』(岩波新書、2020年)、『藤原道長 摂関期の政治と文化』(山川出版社、2022年)など。

「2023年 『藤原道長』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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