- Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004318347
作品紹介・あらすじ
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をはじめ、今も読み継がれる名著を数多く残した知の巨人マックス・ヴェーバー(一八六四—一九二〇)。その作品たちはどのようにして生み出されてきたのか。百花繚乱たるヴェーバー研究に新たな地平を拓く「伝記論的転回」をふまえた、決定版となる評伝がここに誕生!
感想・レビュー・書評
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副題の「主体的人間」には、確立された自己というだけではなく、自分勝手という意味も含まれる。ヴェーバーにおける2つの側面をともに把握しよう、という意図から著された評伝。社会ダーウィニズムへの関心や、周囲とのイザコザ、自己矛盾など、これまで十分には目を向けられてはこなかった側面に光を当てている。
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本書は、「知的巨人」マックス・ヴェーバーの「人格形成物語」を描く試みであり、ヴェーバーの個別作品の解説ではなく、「伝記論的転回」として、それらの作品が生み出された人格的・歴史的文脈を描いている。
本書により、主体性を追求しつつ、攻撃的で、熱心なドイツナショナリストであり、自分及び自分側中心(プロテスタンティズム・ドイツ・西洋など)の状況認識をしがちであったといったヴェーバーの様々な側面が理解できた。
正直、これまでウェーバーは「学問の価値中立」を提唱した知的に謙抑的な人物だと思い込んでいたが、ヴェーバーは決して「世事を超越して知的に精進した求道者」ではなく、ポーランドへの蔑視をはじめ、バイアスにまみれた存在であったということがよくわかった。しかし、だからといってヴェーバーの業績が無価値ということになるわけではなく、そういう背景があるということを押さえた上でヴェーバーの著作を読み、その限界も含めて理解する必要があるのだと感じた。 -
副題に「主体的人間の悲喜劇」とある本書は、著者が提唱するヴェーバーの「伝記的論的転回」によって、新たなヴェーバー像を描き、「人間の「主体性」(ドイツ語ではSouveräntiät)の追求こそ、ヴェーバーの人生を貫くテーマだった」(p.230)ことを示している。もともとこの「主体性」なる用語・概念は戦前期日本の西欧からの自立、戦後は国家や集団からの自立という意味で安藤英治(1921-88)が使用した用語であり、その意味で本書もヴェーバーの伝記的研究の先駆者としての安藤へのオマージュであると述べられている。
では、主体性を追求していったヴェーバーは、立派な人間であったのか。答えは否であろう。良く言えば、「独立自尊」悪く言えば「傍若無人」なナマの人間、ヴェーバーは近くにいたら敬遠したくなる人物であったに違いない。しかし、その一方でヴェーバー・クライスと呼ばれる自宅のサロンでの個人的接触等を通して、広範な感銘と畏敬の念を多くの人々に呼び起こしたこともまた事実である。
最終章のアドルフ・ヒトラーとの対比ではヴェーバーとヒトラーとの共通点と相違点を考える上での主要論点が8つ列挙されており、素直に読めば、どうもかなりの共通基盤をもつと言わざるを得ないようだ。つまり、当時のドイツ国民がなぜヴェーバーやヒトラーに惹かれたのか。そこに重要な問題が存在しているように思われる。
本書はヴェーバーの「伝記論的転回」を、読者にわかりやすく示そうとしており、今までの漠然としたヴェーバーのイメージをかなり変えたという意味で魅力的である。一方、多分これからそうした伝記的な基礎を前提として、ヴェーバーのテクストに今一度立ち戻っていく必要があるのだろう。 -
ヴェーバーの思想よりも生き方に重きを置いた詳細な記述。
愛国者だったんだ、従軍経験もあるんだ、多くの愛も求めたんだ、言ってることとやってることが違う場面もあったんだ、など英雄としてではなく、人間としてのヴェーバーが描かれている。
勝手に想像していた理想的なイメージは崩れたが、後書きで著者が書いているように、白か黒かの人間観は浅薄であることを改めて認識した。
時代と対峙する中で、彼が提示した社会学的概念は背景を加味すれば、今も色あせない。
最終章のヒトラーとヴェーバーの共通する点と異なる点は興味深い。
最近読了した『危機の政治学』『社会学史』と響き合いながら、重層的な政治と国家に関する思索を巡らせた。 -
ウェーバーの全集を丁寧に読み解いたうえで彼の生涯をたどっている。これまでのウェーバー像は読み解く立場によって大いに左右されてきたことがよくわかる。
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ヒットラーとの類似が秀逸。ポーランド人入植への反対だけでなく、6項目に渡り記載あり。日本第三世代のウェーバーと記載している。
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2冊続けて読んでみたけれど、正直言って、ヴェーバーの思想は全く分からなかった。私の読解力不足と、通勤電車の中で半分寝ながら読んでいるということはあったとしても、結局何だったのか。姜尚中さんあたりが漱石とヴェーバーと言っているし、いつかちゃんと読まないとなあと思っていて、いい機会だと思ったのだけれど。本書でわかったのは、ヴェーバーが嫌な奴だということだけ。「おわりに」にある。「ヴェーバーの主体性を語るならば・・・辛辣な他者攻撃、自分および自分側中心の状況認識・・・」この悪い方にしか目がいかなかった。「プロ倫」は確かに家にある。読んだ覚えはない。大学の一般教養で購入したのか、はたまたつれあいがもっていたのか。いずれにしても、いつか読みたいと思っていたおもいは消えてしまった。本書の役割はいったい何だったのだろう。まあ、はっきりとした(それが間違っているとしても)人物像ができあがってしまったことだけは確かなようだ。
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東2法経図・6F開架:B1/4-3/1834/K