暴君 シェイクスピアの政治学 (岩波新書 新赤版 1846)

  • 岩波書店 (2020年9月23日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (268ページ) / ISBN・EAN: 9784004318460

作品紹介・あらすじ

政治は行き詰まり、人々は裏切られることに慣れ、経済的困窮はポピュリストの怒りをあおり……。なぜ国家は繰り返し暴君の手に落ちるのか。暴君と圧政誕生の社会的、心理的原因を探り、絶対的権力への欲望とそれがもたらす悲惨な結末を見事に描いたシェイクスピアが現代に警鐘を鳴らす。

みんなの感想まとめ

権力の欲望とその悲惨な結末を描いたこの作品は、政治や社会の深い問題を扱いながらも、物語としての面白さを失わない。シェイクスピアの作品を現代に蘇らせたこの日本語訳は、分かりやすく、読みやすいと評判で、ま...

感想・レビュー・書評

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  • 読書会でおすすめされた本。
    1590年代から劇作を行っていたシェイクスピアは「どうして国全体が暴君の手に落ちてしまうのか?残酷で狡猾で衝動的で、明らかにふさわしくない指導者であっても、人々を魅了するのはなぜか?」という問題を戯曲を通して語った。本書はそんなシェイクスピア戯曲を通して、現代にも通じる社会問題について書かれている。

    当時のイングランドの統治者エリザベス一世で、わたしも歴史的には漠然とした流れしか知らなかったのですが、当時の社会情勢の危うさ、王位継承の複雑さ、カトリックとプロテスタント争いなども書かれているので世界情勢も分かりやすかったです。
    シェイクスピアの時代は「統治者を批判するのは謀反人」として罰則があったため、シェイクスピアも別の国、別の時代のこととして表現している。

    ❐シェイクスピア戯曲の暴君たち:リチャード三世、マクベス、リア王、シシリア王リオンティーズ(冬物語)
    『ヘンリー六世』では、薔薇戦争と呼ばれる争いが始まる。王のヘンリー六世はまだ子供で経験もない。ある時ヨーク公とサマセット公が言い争う。周りの人々は関わらないようにしていた。しかしヨーク公は「真の紳士として私と共にあるものはこの白い薔薇を摘んでくれ」、サマセット公は「私と共に真実の側につくものは赤い薔薇を摘んでくれ」と声を掛ける。この薔薇戦争の始まりって分かりやすいし戯曲としてはかなり見栄えがすると思う。
    戯曲としては、戦争の始まりが些細な個人の言い争いから、周りの人々を巻き込んだ勢力となり、赤薔薇白薔薇という象徴を持ち派閥の結束と憎悪を掻き立てる様子が書かれている(読んだことないけどそうらしい)。

    シェイクスピア戯曲のなかでも高名な「暴君」グロスター公リチャードは、ヨーク公の末息子だ。戯曲では、肉体不具、内向的な性格、母親からも性格がネジ曲がっていると嫌われ、それが権力欲に結びついて書かれている。
    なお、『リチャード三世』はシェイクスピア戯曲の中でも珍しくも母と息子の憎悪の関係が書かれる。父と子の関係は多いが、母と子はこの戯曲くらいだそうだ。そういえばそうかも!
    リチャードは敵を騙し討ちにして王位に就く。だが統治には全く向かなかった。リチャードは転落するばかりだし、戯曲登場人物としての魅力も失う。観客は、暴君が権謀術数で登りつめる様相は道徳を忘れて楽しむけれど、頂点に達するともう笑えないのだ。

    マクベスは初めは野心はなかった。『マクベス』冒頭では三人の魔女から「王になる」と予言されても恐ろしさを感じるくらいだった。それが野心に突き進むのは、妻から囁かれたものだ。一度その道に進むと「完璧」でないと気がすまなくなる。王を誅しただけでなく、自分に危険になるものを排除してゆく。そして「明日、また明日へと…」という、人生の完全な虚しさを味わうことになってしまう。

    初めから王座にいるもののが暴君となる戯曲もある。まずは『リア王』で、年を取って自分への忠義を試すために転落してしまう。どうやら舞台である紀元前八世紀のブリテンでは重要な決定は王によってなされていた。議会や政府もなく、教会や国会も王の権威には敵わない。
    リア王なんですが、もともとわがまま独裁者の側面があったと考えられます。それでもずっと王なので、戯曲冒頭でわがまま言い出してもまだ忠告する者がいる(リチャード三世やマクベスにはいなかった)。王に権力があり皆が従うのは王が正しく判断できる状態にあるからだ(正気)。しかしその後のリア王は正気を疑われて国は崩壊する。なお本書では「暴君なのはリアではなく、法律も人間としての道徳も無視する二人の姉娘」としてます。

    もう一人の王のは『冬物語』のシシリア王リオンティーズ。突然王妃の不義を疑い、投獄し、臣下の離反を呼び起こしてしまう。
    しかしこの戯曲では(読んだことないけど)、王妃もその擁護者である女性も、王へははっきり物申す。そして王は多くのものを失うが、「やり直し」が許される終わりを迎えるのだそうだ。

    シェイクスピア義挙国においての暴君は短命に終わる。彼らはどのように統治するかの考えもなく、支持者もいない、抵抗組織をすべて潰すことはできない。そのために短命。
    …これってでも現実では完全独裁政権って結構長いですよね…。
    そしてたいていのシェクスピア戯曲で暴君に抵抗できるのはエリート階級だ。シェイクスピアは一般人はスローガンに乗せられ、脅され、贈賄にも弱いので、暴君に抵抗できない(脅し、賄賂、はエリート階級でも同じでは?)しかしリア王には名も無い召使が王に対して「これこそが忠義」と言って諌める場面がある。それによって殺されてしまうし名前もない登場人物なんだけど、彼には「人間の真意を守って命懸けで立ち上がる」暴君に抵抗する民衆の本質がある。

    シェイクスピア戯曲で『ジュリアス・シーザー』は専制政治が起こる前に止めようとする動きがある。凱旋するシーザーの偶像化を防ごうとするのだ。しかし彼らの声は届かない。エリートにとって平民には名前はない。シェイクスピア戯曲でも、印象的な平民であっても名前がない、金持ち、エリートにとっては、平民が飢えるとしても市場の価格を落とすなら穀物を溜め込み腐らせたほうがよい。国家の経済システムが貧富のさを悪化させるものだった。(サド侯爵の本でありました。「楽しみで小麦を溜め込んで値を吊り上げて平民が飢え死にするのが楽しかった」)


    ❐暴君について
    ・政治は貴族のもので、彼らは平民など眼中になかったのだ。しかし平民の力を利用したら自分が権力を把握できると分かっている。社会の混沌こそが暴君誕生の舞台となる。
    ・暴君となる者は、かなり強引に敵を排除してゆく。暴君(になる者)自身も「こんなあけすけな仕掛けを分からないような馬鹿なやつがいるわけがない。でも分かったというほど大胆なやつもいない」ということで、周りも分かってるけど暴君(になる者)黙って道を開けている。
    ・暴君が求める「同意」は許可ではない。共犯者になれということ・暴君が権力の座へ登っていけば悲惨な事態となるが、喜劇的な側面もある。戯曲では、暴君、敵対する者、味方、それぞれに悪どさがあり、観客は彼らが受ける報いを楽しみにする。
    ・暴君は満足しない。望んでいた地位を手に入れても、欲求不満、怒り、不安はあり続ける。
    ・暴君は絶対的に孤独。心を許せるものはいない、誰も愛さない、自分が心でも誰も悲しまないと知っていた。(※実際のリチャード三世が戦死した時は、市民は嘆き悲しんだそうです)
    ・暴君には真実や証拠はいらない。自分が非難しているということで充分。
    ・暴君の元から逃げたものは、他の国外逃亡者と手を結んで侵攻軍を引き連れて戻って来る。歴史上成功例もあるし、失敗例もある。『リア王』のコーディーリアは国に戻ってきたが、権力や暴君抵抗ではなくて「ただお父様への愛のため」となってます。



    シェイクスピアはその時代に政治や王(女王)批判により残酷な処刑が行われたことも見てきたのだろう。そして観客となる大衆が感じる恐怖や、それでも物語に味わいたいスリルがなにかを図ってきた。そしてシェイクスピアは社会への不満分子でもない。そこで罰則を受けずに大衆が楽しめる表現を行ってきた。
    貴族階級の目に触れない平民だが、その普通の市民の人間的精神が暴君を倒す力だという考えが見られる。

  • なぜこんな人物が国の首位に就くのか そのメカニズムを読み解く | レビュー | Book Bang -ブックバン-
    https://www.bookbang.jp/review/article/648384

    「暴君」はなぜ生まれるのか、シェイクスピアが教えてくれること(北村 紗衣,髙山 裕二) | 現代ビジネス | 講談社
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/75914

    暴君 - 岩波書店
    https://www.iwanami.co.jp/book/b527920.html

  •  シェイクスピアが好きなので、副題の「シェイクスピアの政治学」という字句に興味を持って、手に取った。

     開巻早々、シェイクスピアは、なぜ国全体が暴君の手に落ちてしまうなどということがあり得るのか?という納得のいかない問題に繰り返し取り組んできた、との魅力的な言明から始まる。
     シェイクスピアの生きた時代には、治世者を暴君と呼ぶ者は謀叛人なりと法で定められており、そうした危険を避けるため、同時代より大分前の時代のイングランドを舞台設定したり、遠い外国を舞台とする芝居を上演した。

     第二章以降が、実際の作品に登場する暴君自体、及び彼を取り巻く人々についての考察となり、第二章、第三章では、『ヘンリー六世』三部作が取り上げられる。戯曲の場面や登場人物のセリフを拾い上げながら、著者は丁寧に考察を進めるが、随所に現代の問題関心が示される。例えば、第三章では、王位を狙うヨーク公が、騒乱を引き起こすことを画策して自らの言うことを聞くジャック・ケイドを利用するのだが、「ポピュリズムは、持たざる者の味方をするように見えるが、実は巧みに民意を利用するものでしかない。」とあるように。

     第四章から第六章にかけては、暴君と言えばこの人、『リチャード三世』についてである。この劇が探求しているのは、リチャードのように悪事や残酷さや裏切り体質を多くの人々が知っているにもかかわらず、そんな人間がどうして王位に就けるのかという問いである。様々なレベルでの共犯関係がある。すなわち、騙されてしまう者、脅されたりして怯え何もできなくなる者、あり得ないことは起きないと信じていて、気づいたときには手遅れになっている者、甘い汁を吸おうと企む連中、面倒を避けたいために、仕方なく従ってしまう者たち、これらが理性的なコントロールの利かない感情的な流れの中で、とんでもない決断をしてしまう様子を、偉大な演劇の力で見事に見事に描いている、と著者は言う。

     第七章は『マクベス』、魔女の予言を契機に、マクベス夫人の唆し、叱咤に乗って、国王を殺し王座に就いたのに、心は休まらない。自分の王位を脅かす恐れのある者を次々に殺し、遂には完全な無意味さを味わうこととなる暴君の運命を描き出す。

    第八章は、最初は正統な支配者であったのに、精神的不安定さのために暴君のように振る舞いだす人たちが引き起こす問題を取り上げた『リア王』、『冬物語』についてである。一旦国家が情緒不安定で衝動的で報復的な暴君の手に落ちれば、普通の調整機能は働かなくなる。分別ある忠告は無視され、重要な異議申立ては払いのけられる。結果として、リア王では完全な悲劇に終わり、冬物語でも調和は計られるが、失われたものは二度と戻らない。

     第九章では、暴君を描く劇では、少なくとも共同体の再生と正統な秩序の回復を示唆して終わるのが常なのに、『リア王』では、秩序を回復し得る主要人物はいない。では全く希望はないのか。著者は、名前さえ明らかにされない召使いに希望を見出す。次女の夫の公爵が両目を抉り出そうとしたとき、見かねた召使いが止めようとする。主人と召使いの乱闘となり、召使いは殺されてしまうが、著者は、この召使いは、命懸けで、黙って見守ることを拒む、人間の品位を保って立ち上がる、シェイクスピアの偉大なる英雄の一人であると褒め称える。
    (リア王の舞台を見ているのだが、ここまで称賛されているのに、記憶に残っていないのが残念。)。


     第十章では、潜在的暴君に備わっている危険な特質は有用な場合がある、この両刃の剣の有用性を描いたものとして、『コリオレイナス』が紹介される。コリオレイナスは、エリート主義の武骨な武人で、平民を軽蔑し、それを隠しもしない。ところが、執政官になるためには、平民の支持が必要である。貴族たちは、その強固な信念は脇に置いて、一時のことなのだから、嘘をついて民衆に迎合し、デマゴーグを演じろという。著者の口調は辛辣である。「生まれついてあらゆる特権を持っていて、自分より下の連中を内心軽蔑していながら、選挙期間の間はポピュリズムのレトリックを口にして、選挙に勝ったとたんに手のひらを返すという、あれである。」
     彼は反対派の策謀に乗せられ、自分の本音を爆発させてしまい、謀叛人として追放されてしまう。

     このように、登場人物の暴君の運命と彼を取り巻く人々の行動を丹念に辿ってきた訳であるが、シェイクスピアは暴君についてどう考えていたのか、希望はあると考えていたのか。著者の総括が、最後の結部に示されている。

     

     この数年、シェイクスピアの史劇が随分上演されてきており、本書で取り上げられた舞台は全部観たし、戯曲も全作読んでいたのだが、「暴君」という切り口で、こうした読み方があるのかと、感嘆しきりである。特に、著者の論旨展開におけるセリフの引用が絶妙であり、さすがシェイクスピア、それらのセリフを読むだけでも、いろいろな示唆が得られるであろう。

     また、本書がどのような関心の下に書かれたかは、読み進めていくうちに、各所に挟まれた著者の見解から推測できたが、謝辞にある本書を著した経緯にあるとおり、同時代的な問題意識に貫かれている。正に、シェイクスピア作品を通して見た政治学である。文学畑、人文畑の人に、広くお勧めしたい。

  • 面白すぎてページを捲る手が止まらなかった。
    シェイクスピアに関する知識は殆ど持っていなかったが、易しい日本語訳なので分かりやすい。
    学術書というよりは物語や小説に近い感じがする。
    とにかく日本語訳が上手い!すごい!

  • 世界史知ってたら、より読みやすい?かと思います。
    自分は途中で挫折しました。
    内容はたぶん面白いと思います。

  • 図書館の本を読む▼
    https://kguopac.kanto-gakuin.ac.jp/webopac/BB00663248

    「なぜ、明らかに統治者としてふさわしくない指導者、危険なまでに衝動的で、邪悪なまでに狡猾で、真実を踏みにじるような人物に心惹かれてしまうのか――シェイクスピアは考えた」(本書pp.2-3より)。本書はシェイクスピア作品と16-17世紀の歴史のことを語りつつも、現在の世界にあてはまることばかりです。
    (経営学部 中村友紀)

  •  『ヘンリー六世』三部作、『リチャード三世』、『マクベス』、『リア王』、『冬物語』、『ジュリアス・シーザー』、『コリオレイナス』など、「暴君」が登場する物語における暴君がどのように権力を掌握したのか、暴君自身が抱える問題とともに、そのような暴君を生み出した社会の構造、周囲の反応を分析したもの。現実世界の「近々の選挙結果について心配していた」(p.248)という著者が「現在の私たちがいる政治世界にシェイクスピアは異様な関係性を持っている」(同)ことを示した本。
     著者はアメリカの人なので、「選挙結果」というのはトランプのことだと思うけど、日本での最近の兵庫県政とかを見ても、いつでもシェイクスピアの暴君が生まれそうな状況、ということでは、2018年に書かれた、この本で描かれているシェイクスピアの与えた示唆がどんどんリアルになっていく感じがするからとても不思議だった。
     あとは印象に残ったところのメモ。まず今更ながらシェイクスピアの巧みさ、つまり検閲を逃れるために「わざと遠回しにしたり置き換えたりして表現する」(p.17)方法について知れたのが面白かった。これこそ演劇や文学だからできることなんじゃないかなと思う。あと最近読んだ『リチャード三世』のブクログの感想のところで、リチャードはマクベスとは違って悪ガキみたい、って書いたけど、リチャードは「富の中に生まれ、大いに金に物を言わせる。だが、金で手に入るものは何でも享受するものの、それが最も興奮することではない。興奮するのは、支配の喜びだ。いわば、ガキ大将、いじめっ子なのだ。すぐにカッとなり、邪魔なやつは殴り倒す。ほかの人が縮こまって、震え、痛みに顔を歪めるのを見て喜ぶ、人の弱みを握るのに長けており、嘲笑と侮辱が巧みである。」(pp.66-7)で、そうそう、ガキ大将っていうイメージだよな、と思った。でもこの説明だとガキ大将というよりただのサディストな感じもするけれど。そして、この本の内容の核心の一つは、なぜこんな悪い人間が「そもそもどうしてイングランドの王位に就けるのかという問い」(p.84)で、その答えは「まわりにいる人間たちがそれぞれ同じように自滅的な反応をしてしまうがゆえだとシェイクスピアは示唆している。こうした反応が集まると、国全体が一挙に崩壊するのだ。」(同)という部分はこの本のポイントである気がする。そして具体的に「自滅的な反応」とはどのような反応なのか、ということで列挙されているのが面白い。これは政治の世界だけでなく、ふつうにいろんな会社とか組織にこういう人がいるよな、と思うと、組織論にも応用できそうだし、あとは単純にシェイクスピアに出てくる人物がどのタイプなのか、ということを考えるのが面白い。そしてまさに「支援者のタイプを挙げていくと、シェイクスピアの演劇的天才のすごさを見失ってしまいそうになる。シェイクスピアの才能は、(略)実体験を忘れがたいほど生き生きと想像させてくれるところにある。」(p.87)というところで、「お先真っ暗な中で、人々はまちがった選択を強いられてしまう」(同)し、「耐えがたい抑圧を受けて必死に考える人々が、理性的なコントロールの利かない感情的な流れの中で、とんでもない決断をしてしまう様子を見事に描いている。」(p.87)というところに納得した。
     あと話は変わるが、最近読んだ『マクベス』の有名なTomorrowスピーチは、てっきり人間の人生一般について言ったものかと思っていたが、「これは現代の不条理演劇で示されるような人間の存在論的な無意味さとは異なる。これはまさに暴君の運命なのであって」(p.144)というところが勉強になった。暴君になると、こういう心境、状況になる、ということ。あと、『リチャード三世』や『リア王』、『マクベス』は読んだことがあったし、『ジュリアス・シーザー』も演劇で見たことがあったので、それらが分析されるのは面白く読めるが、逆に読んだことのない話についてはイマイチ内容が頭に入ってこない部分があった。ただその中でも、『コリオレイナス』って本当面白そう。「父親のいないコリオレイナスの無慈悲な心理と政治は、その母親である厳格なヴォラムニア譲りのようだ」(p.212)ということで、息子を男勝りに育てる母、ってあんまり想像できないなあと思った。結構過激な感じなので興味が湧く。「文明化された国家では、指導者少なくとも最低限の大人らしい自制心があるとみなされ、思いやりや、品位や、他者への敬意や、社会制度の尊重が期待される。コリオレイナスはそうではない。そうしたものがない代わりに、育ちすぎた子供のナルシシズム、不安定さ、残酷さ、愚かさがあり、それに歯止めをかける大人の監督も抑制もないのだ」(pp.216-7)という状態で、「怒りっぽさ、脅したがる無情さ、共感の欠如、妥協の拒絶、圧倒的な支配欲」という性質を獲得し、そして国家でこういう人物が最高権力を握るとどうなるのか、という物語、ということだから、ぜひ読んでみたいと思う。そして、シェイクスピアの生きた時代、つまり言論の自由がない中で残酷な公開処刑が行われていた時代に、大衆にスリルを味わわせようとするシェイクスピアの劇作家としての力は、やっぱり目を見張るものがあり、あらためてシェイクスピアの凄さも感じられる本だった。
     上記に挙げた作品を読んでいれば、それらの作品についての「解説」として楽しむことができるので良かった。逆にいうと読んだことない人にとっては、たぶんそこまで楽しめないと思う。(25/03/21)

  • あれ?これコメント書いてなかった?おもしろいのでみんな読みなさい。

  • シェイクスピアの作品の中に、まるでトランプ大統領支持者?みたいな?…
    とても読みやすかったです。

  • 人文系の本というと、割合的には歴史学の本ばっか読んでるから(実数としては全然読んでないんだけど)、正直どう読んだらいいのか戸惑ってしまった。
    第7章が読み終わるか終わらないかくらいのところで、読書会に突入したけど、トランプの大統領選勝利を読み込んだ場合の説得力への疑問と、読み込まない場合の読み方という話が出てたな。
    個人的には、今自分が読んでいる時間、グリーンブラットが執筆していた時間、トランプが勝利した時間、本の中のシェイクスピアの生きていたヴィクトリア一世期という時間、そしてシェイクスピアが描いた時間という、何十にも重なる時間的層のうち、どこを中心に読んでいくのがいいのかなーというのが気になった。
    文章自体は非常に読みやすく、すいすい読んでいける。

    数週間前、Twitterで新書を数時間で読んでいく能力が云々というドイツ現代史の先生の発言を見て、一生研究者になれないなと絶望してたけど、線も引かずにただ読むだけなら数時間で読めたじゃん!って勝手に感動しました。

  • アメリカのシェークスピア研究者グリーンブラットが、シェイクスピアの歴史劇が当時のイングランド(=エリザベス一世時代)の政治状況に対する諧謔を含めた批判であることを紐解きながら、実はこの本が書かれた(2018)当時のアメリカの政治状況を痛烈に批判しているという、二重構造。

    つまり、リチャード2世、ヘンリー6世、リチャード3世、マクベス、リア王、シーザー、コリオレイナスという暴君を主人公に据えた演劇はエリザベス朝の暴君性を批判したものであるといいながら、その暴君性についての表現は誰が読んでもそのまま前大統領に当てはまる・・・そして、日本の読者にとっては某首相を想起させる。

    「リチャードのことなど気にかけず、ほかの誰かがリーダーになるだろうとずっと考えているうちに、やがて手遅れの事態となる。ありえないと思っていたことが実際に起こっていると気づいたときには遅いのだ」(P85)

    「ずっと虚偽を連続して浴びせ続けると、疑い深い人たちは隅に追いやられ、混乱を生み、本来なら起こるはずの抗議の声も生まれない」(P100)

    「私たちは、悪党のとんでもない行動に何度も魅了され、普通の人間としての節度などどうでもいいとする態度に魅せられ、誰も信じていないときでさえ効果があるように思える嘘を楽しんでしまう」(P104)

    「どんなに狡猾に頭角を現そうと、一旦権力の座に就くと、暴君は驚くほど無能なのだ。」(P186)

    「シェイクスピアは巧みに描いたのであるー混乱の時代に頭角を現し、最も卑しい本能に訴え、同時代人の深い不安を利用する人物を。激しく派閥争いをする政党政治に支配された社会は、詐欺的ポピュリズムの餌食になりやすいとシェイクスピアは見ている」(P244)

    シェイクスピアの良き読者にとっても再読のきっかけになるだろう。歴史劇は読んでないという私には、本書と同じ河合祥一郎訳で読んでみたいと思わせてくれる。

  • 正直、シェイクスピア作品に明るくない私はあんまりついていけていなかったと思うが、もう10年以上見ている舞台の2幕冒頭シーンがどういう意図をもってつくられた場面なのか、やっとわかった気がして嬉しかった。
    ついていけないながらになんとなく既視感を感じつつ読み進める中で、make England great againとの記述にぶつかり、ああ、そういうことかと。ホワイトハウスに群がる暴徒たち、Twitterという現代のやり方で扇動する暴君よ。結部の最後の一行を読み、この決して穏やかとは言えぬ現代を生きる我々も良識ある人民として襟を正さなければと思わされた。

  • シェイクスピアの各作品での「暴君」の描かれ方をうまく抽出してあると感じた。
    項目立てが絶妙なのか、各論的になりすぎず、一貫した書きぶりで読みやすい。
    シェイクスピア作品に目を通したうえで再読してみたい。
    トランプ政権誕生を明らかに意図しているはずだが、本文に指摘のシェイクスピアのやり方と同様、「直接的な状況から遠くへ想像力を飛ばし」て書かれていたため、自らの政治主張の押し付けめいたものはそこまで感じられなかった。
    暴君を放置、時には支持してしまう民衆らへの指摘についても、なるほどと思わされた。

  • シェイクスピア研究の泰斗、と知っていた。
    でも、自分の予備知識なんていい加減。
    著者はアメリカ育ちで、所属もアメリカの大学。

    そう思って読むと、四章冒頭の暴君の性格は、もしかして有名なあの人に当て書きしたのかと思えてくる。
    (謝辞を見ると、その理解でよさそうだ。)

    取り上げた作品は、『ヘンリー六世』『リチャード三世』『マクベス』『リア王』『冬物語』『ジュリアス・シーザー』『コリオレイナス』など。

    これらの作品群を通して、暴君の特質、背景、そして周囲の人間のありようなどを分析する。

    リチャードは、絵にかいたような暴君。
    コンプレックスや愛情欠乏を権力で補償しようとする、ある意味わかりやすい悪者。

    マクベスには「近代」的男性の悲劇が滲む。
    妻から男性性を証明することを迫られ、正統な王殺害に追い込まれ王位を簒奪するが、狂気に陥る。

    忠義の臣下や召使、親族は迫害される。
    鶏まきは追従するか、沈黙する。

    人々は、というと一筋縄ではいかない。
    このあたりは古代ローマに材を取った『ジュリアス・シーザー』や、『コリオレイナス』から分析される。

    混乱しながらも、民主制を守るためにシーザー殺害を決意するブルータス。
    彼の理想主義は仲間のデマゴーグに踏みにじられ、肝心の市民から理解されることはない。

    コリオレイナスは英雄軍人で、友人の貴族たちに執政官の候補として担ぎ上げられる。
    彼自身は庶民を侮蔑しているが、貴族たちに選挙に勝つために、庶民に迎合せよと薦める。
    しかし生来の性格から、その戦略を貫き通せず、結局ローマは内戦状態になる。
    人々はコリオレイナスを憎んでいるはずだが、彼がローマを攻めてくると聞くと、彼の評価に「歴史修正主義」を適応しはじめる。
    結局彼はローマから離れ、やがて死ぬことになるが、この暴君から民主制を救ったのは、庶民――とはならない。
    私利私欲に走る俗物として描かれる護民官が、結果的には民主制を救う、という何とも皮肉な結末。

    シェイクスピアの生きた時代の弾圧を思いやる。
    けれど、「人民がいなくて、何が街だ?」というシェイクスピアのメッセージは、なかなか自分が作品から読み取ることは難しいとも思う。

  •  最高権力者の心に宿る矜持と巣食う不安。最高権力者は、最高権力者がゆえに常に孤独である。自らの地位を危うくすることには誰よりも神経質で、その不安が抑えきれないほど強くなれば、暴君となる可能性が高まる。最高権力者には、権力にすり寄ってくるものたちが多く出て、その追従は、権力者に自信と自己満足をもたらす。ただ、それは躓きの石でもあり、自らを最高権力者にしてきた冷静な観察力と判断力を失わせることにつながる。権力をえる過程で行使した手段は、その強みを知るがゆえに、自らの権力を奪う有力な手段であるとの認識をもつ。暴力で地位を奪ったものは暴力を恐れ、権謀術数で地位を奪ったものは権謀術数をおそれる。強みが自縄自縛となって、権力失墜の崖に自らを追い込んでいく。
     シェイクスピア研究の大家が、シェイクスピア作品を解説しながら暴君の姿を追う。

  • 『ヘンリー六世』、『リチャード三世』、『マクベス』、『リア王』、『ジュリアス・シーザー』、『コレオレイナス』……。シェイクスピアは作家人生を通じて何度も〈暴君〉の有様を書き続けた。政治批判が直接命に関わるエリザベス一世の統治下で、シェイクスピアは〈暴君〉の政治をどう描いたのか。2020年の今につながる刺激的な一冊。


    北村紗衣先生と鴻巣友季子さんがアメリカ大統領選にあわせておすすめしていたので、絶対に間違いないと思い手にとったがやっぱり面白かった。
    グリーンブラットがこの本を書いた発端は2016年の大統領選でのトランプの勝利に絶望し、食卓で妻と息子に現代政治とシェイクスピア劇の〈暴君〉との類似性を語ったことにあるという。つまり本書は、女王の専制政治下で当時の劇団がさまざまな逃げ口を用意しながらどう政治劇を上演したかについての本であると共に、トランプの名前をださずに痛烈にトランプを批判する一冊でもある。その二重写しが読んでいて楽しいし、ときに背筋を正される。
    元は食卓での会話だったと言うとおり、研究書ではなく世間話の延長のように軽快にシェイクスピアを語るので、エリザベス朝がとても身近に感じられる。時折「シェイクスピアは〜」という主語で明らかに自身の主張を語っている節もあるがそれも愛嬌のうちだろう。
    ハッとさせられたのは、シェイクスピア作品のほとんどに種本があるのは、お上からクレームがついたときに「我々の創作じゃないですよ、元ネタに書いてあったんですよ」と言い逃れするためだったという説。他にも専制君主に対して反抗的な台詞は作中の狂人に言わせるなど、劇団はさまざまな逃げ道を用意していたらしい。現代のオリジナリティ至上主義と異なる視点から、社会学的にシェイクスピアを読んでみるのはとても面白そう。エリザベス女王が「リチャードは私だ」と言ったというエピソードも初めて知った。すべてに勘づきながらシェイクスピアとその劇団を泳がせ続けたのだとすれば、やっぱり賢い人ではあったのだろう。
    あからさまにトランプ批判のためにシェイクスピアをダシにした一冊ではあるのだが、ちゃんと戯曲も読みたくなるのがグリーンブラットの面目躍如。最終章で扱われている『コリオレイナス』は未読だが、紹介されているあらすじからするに毒母とバイオレンスマザコン野郎の成り上がりと敗北の物語で、三島みたいなので興味が湧いた。コリオレイナスを束縛しておいて最後には棄てる母・ヴォラムニアが元老院議員たちの手でローマ救済のシンボルに持ち上げられるくだりは、直前に読んだ『イメージの歴史』でやったとこ!と進研ゼミ気分だった。
    単純に「実はシェイクスピア劇には専制政治批判のメッセージが隠されていた!」などと言えるものではないが、少なくともシェイクスピアとその劇団は演目の解釈可能性を広く保ち、多義的であることによって観客ごとの感想の違いを許し、〈物語の専制君主〉にはならなかったのだと思う。だからこそ、2020年になってもこんなシェイクスピア本がだせるんだもんね。

  • 2020年10月1日購入。

  • シェイクスピアといえば悲劇、くらいの認識しかなく、リア王・マクベス・ハムレットくらいしか読んだことがなかったが、「暴君」という切り口で鮮やかに切り取られた史劇群は非常に魅力的だと感じた。
    シェイクスピア作品自体の面白さを伝えながら、暴君が生まれ来るメカニズムを読み解き、現代において我々が直面しているものごととの連関を考えさせられる。

  • 東2法経図・6F開架:B1/4-3/1846/K

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