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Amazon.co.jp ・本 (270ページ) / ISBN・EAN: 9784004318521
作品紹介・あらすじ
「悲劇的なもの」への憧憬と渇仰。それは三島由紀夫にとって存在の深部から湧出する抑えがたい欲動であった。自己を衝き動かす「前意味論的欲動」は、彼の文学を研ぎ澄ませ昇華させると同時に、彼自身を血と死へ接近させてゆく。衝撃的な自決から半世紀。身を挺して生涯を完結させた作家の精神と作品の深奥に分け入る評伝。
みんなの感想まとめ
「悲劇的なもの」への憧憬と渇望をテーマに、ある作家の生涯と作品を深く掘り下げる評伝が描かれています。著者は「前意味論的欲動」という概念を通じて、三島由紀夫の独自の視点や文学的な高みを鮮やかに伝えていま...
感想・レビュー・書評
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三島由紀夫ってどんな人だったんだろう?と思って読んでみた。
三島の生涯と作品がコンパクトにまとまってて良かった。
「悲劇的なもの」「身を挺する」をキーワードに三島の生涯を見ていくと、色んな面で腑に落ちた。
しかし、分かった気になって安易に三島について語ると誰かに怒られそうである。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
三島由紀夫、めちゃくちゃ運動神経悪いのに、毎日トレーニングを欠かさなかったのがかっこいい。三島由紀夫って内面のかっこよさの頂点だと思うんだけど。
• 三島は天皇を神秘化していない
• むしろ神話を引き受ける人間の不可能性を直視している
• だからこそ、天皇を「尊ぶ」ことと「批判する」ことを両立させた
めちゃくちゃ面白い三島由紀夫論がKindleUnlimited読み放題に来てて私得だった。三島由紀夫作品もそうだけど、人として興味深い人だったから読めてよかった。
『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書 新赤版 1852)』 佐藤秀明 #ブクログ #読書 #KindleUnlimited
https://booklog.jp/item/1/4004318521
三島由紀夫の有名作品一つも電子化してない理由は何?遺族とか管理団体が作品の電子化に反対してるんかな?
三島由紀夫って運動神経めちゃくちゃ悪いらしい。その時点で今日見失ったわ
佐藤秀明
サトウ・ヒデアキ
著者プロフィール
1955(昭和30)年生まれ。立教大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。近畿大学文芸学部教授。三島由紀夫文学館・運営委員会研究員を務め、『決定版 三島由紀夫全集』(新潮社)の編集に携わる。著書に『三島由紀夫──人と文学』(勉誠出版)、『三島由紀夫の文学』(試論社)など。
三島由紀夫の父の名は梓
三島由紀夫は岡本太郎レベルの真性おぼっちゃま
三島由紀夫は産湯で洗われた記憶があるらしい
三島由紀夫の文学は、自決して初めて完成したって聴いてなるほどなと思った。
「この若者を見て「『私が彼になりたい』といふ欲求、『私が彼でありたい』といふ欲求」に取りつかれてしまう。ここには同性愛的な同一化の願望が出ている。しかしそのことよりも大事なのは、次の一節である。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「三島由紀夫の作品を一つひとつ思い浮かべてみると、主人公たちのほぼすべてが、生き辛さを託っている。三島由紀夫の文学は、生き辛さに喘ぐ人たちに、「人生いかに生きるべきか」という意外に古風な読み方を、しかし黒く焦げた苦みのある生き方を開いてみせるのである。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「その人の心の深いところから出た、容易に動かすことのできない気持ちや考えを「本心」と呼んでおくと、若い頃の三島由紀夫は、〝本心のない作家〟〝本心の見えない作家〟と見られていた。戦争が終わると、大学生だった三島は作品の売り込みに腐心する。しかし文芸誌にやっと載せてもらえても、評価は芳しくはなかった。本心がない、あるいは見えないと言われたのである。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「それから六十年ほど経った座談会「 2010年の三島由紀夫」では、平野啓一郎が「三島さんは、本気で自分の作品を書いていたはずなのに、世間からは、三島の作品世界はどこか人工的で、虚構の世界だと言われ続けていた。それが、最終的に劇的な空間の中で死ぬことで、虚構と彼の本気が、それこそ一瞬にして合致してしまった」と述べる。「虚構の世界」と思われていたことが、作者の死によって「本気」だったと分かったということだが、逆から言えば、死の瞬間まで作者と血の通わない「虚構の世界」だと思われていたということになる。三島の没後に生まれた平野啓一郎が、どのようにしてこの実感を得たのかは分からないが、確かに三島の主張は、死によって「本気」だったと受けとめられた面があった。ではその死の意味はというと、それは判然としなかった。政治的な死か文学的な死か、という簡便な二分法に集約されたのも分からなさゆえであった。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「分からなさは、自刃の衝撃のためばかりではなかった。例えば三島の生前一九六八(昭和四十三)年に刊行された野口武彦の『三島由紀夫の世界』は、三島の「自己同一性の欠如」を問題にする。野口武彦の一捻りした論理は、三島の〝核心〟に「欠如」した「自己同一性」があるという点で議論を深め、「まさにそのような自己同一性の欠如こそが三島氏をして「無限の絶対の否定性」たらしめ、「イロニイの立場」に身を置かせていたのである」と展開する。しかし、「欠如」が「イロニイの立場」に「身を置かせる」というのは、三島の内の何がその立場に立たせたのかという議論を放棄する空論である。さらに、反語的で逆説的な三島文学を作ったのが「イロニイの立場」であることには同意するが、では「イロニイ」のない至福を描いた「憂国」は、どのように解き明かされるのだろうか。「自己同一性の欠如」を梃子にして論理を進めると、愛と死を肯定した「憂国」で躓くことになる。三島は多くの自己解説も書いているが、それを前にしながら、批評家や研究者は三島由紀夫の「本心」をやはり摑みかねていたのである。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「 『仮面の告白』は生まれたときの産湯をつかった記憶から書き出されていた。「下したての爽やかな木肌の盥で、内がはから見てゐると、ふちのところにほんのりと光りがさしてゐた」と書かれている。馬鹿げた空想にすぎないという常識に与したいが、少なくとも三島由紀夫自身はそう思っていて、小学校一年生のときに級友の三谷信にその話をしているのである(『級友三島由紀夫』)。そうならば、「もはや取り返しのつかないような形で失われてしまう原初的対象」に三島は到達していたのではないか、と言えば冗談になってしまうが、「到達不可能な」生まれたときの光景にまで遡行する発想は、「享楽」を求める人間にふさわしいと思わずにはいられない。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「このように見てくると、五歳のときの汚穢屋の印象が四十五歳の死に直結すると述べたが、正確を期すならば、「身を挺する」対象としての大きな権威に天皇を据えたことで、三島由紀夫の死の欲動は完結したと言い直さなければならない。 だが、忠誠対象として天皇を据えたことで、今度はその天皇を厳しく批判することになる。それは第五章で述べるが、その批判もまた、前意味論的欲動から発せられたものにほかならないのである。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「三島由紀夫は、一九二五(大正十四)年一月十四日、東京市四谷区永住町二番地の古い大きな家に生まれた。翌年大正十五年は昭和に改元されるから、三島の満年齢は昭和の年号と一致する。「夜九時に六五〇匁の小さい赤ん坊が生れた」と、『仮面の告白』には書かれている。祖父が書生をしていた、土木工学の権威古市公威から名前をもらい、公威と名づけられた。家では、コウイさん、コウちゃんと音読みで呼ばれた。 家族は両親と父方の祖父母の四人で、初めての子どもだった。父の平岡梓は、第一高等学校、東京帝国大学法学部を出て、農商務省に務めていた。高等学校、大学、農商務省と同期だった人に、のちの総理大臣岸信介がいた。切れ者の岸に比べて、梓は怠け者の官僚だったと猪瀬直樹が『ペルソナ 三島由紀夫伝』に書いている。母の倭文重は、梓の出た東京開成中学の校長橋健三の次女で、前年の一九二四年に十九歳で平岡家に嫁いだ。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「小学校は学習院初等科である。その送り迎えのときだけ、倭文重はわが子と二人だけの時間を過ごせた。体が弱く休みがちで、成績は卒業までクラスの中ほどにとどまった。 中等科に入ると、渋谷区大山町に転居した両親と初めて暮らすことになった。半年後に父が大阪に赴任し、母と公威と妹弟が残った。成績が上がり、詩を作り始める。その詩を、文芸部員で高等科三年の坊城俊民が注目し、文通が始まった。詩は、すらすらとできた。ノートに清書し、何冊もの詩集を作った。小説も書き出し、校内では一目置かれるようになっていった。しかし、父の梓は公威の文学熱を好まず、原稿用紙を見つけると破り捨てたという。結核で登校できずにいた高等科の文芸部員東文彦が、公威の小説「彩絵硝子」に注目し手紙を寄こした。坊城俊民とは疎遠になり、東文彦と文通を始める。 国語担当の清水文雄は、公威から預かった「花ざかりの森」を読んで驚嘆した。早速、仲間と出している国文学雑誌「文藝文化」の編集会議にこの原稿を出した。古典評論を書いていた蓮田善明が、この小説の掲載を強く推した。中学生が大人の雑誌に小説を発表するのはまずいということで筆名を考えた。「三島由紀夫」という名前が初めて世に出たのは、「花ざかりの森」が載った「文藝文化」一九四一(昭和十六)年九月号からである。十二月号までの四回にわたる連載となった。満十六歳、「三島由紀夫」の誕生である。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「三島由紀夫はどこで生まれたのか、それを知る人に出会えなかった。四谷区永住町二番地という所番地は分かっている。現在の新宿区四谷四丁目二十二番地である。しかし、四谷四丁目二十二番地はそれなりの範囲があり、何十軒かの家やマンションが建っている。 新宿駅から新宿通りを四ツ谷駅に向かって東に行くと、新宿御苑を南に見て過ぎたあたりに外苑西通りと交差する「四谷四丁目」の交差点がある(左図参照)。その近くに「四谷四丁目」のバス停があり、そこの細い道(田安通り)を北へ入ったあたりが四谷四丁目二十二番である。ここを四百メートルほど行くと、靖国通りにぶつかり、その先に成女学園中学・高校があるが、目的地はバス停から入って一区画を過ぎた田安通りの西側で、靖国通りの手前までである。静かな住宅地だ。最寄りの駅は、東京メトロ丸ノ内線の「四谷三丁目」である。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「ところで、田安通りは、途中から北へ向かって下り坂になるのだが、汚穢屋はこの坂を下りて来たのである。祭りの神輿もこの道を通り、平岡家に練り入って庭を壊したと『仮面の告白』にはある。幼年期にこの神輿を見て三島は神輿担ぎに執着し、後年自由が丘の熊野神社の神輿を担ぐことになる。幼児期に見て記憶にとどめた神輿は、生家近くにあった須賀神社の祭礼の神輿である。 奥野健男は、三島由紀夫には「原風景がない」(『三島由紀夫伝説』)と言うが、永住町の家とその前の坂は、行動が制限されていた平岡公威の小さな原風景ではなかったか。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「 「学習院に入れると決めてしまったのは、義母ですからね」と、村松剛は倭文重から聞いている(『三島由紀夫の世界』)。この言い方には、不満が籠もっていたようだ。公威が学習院中等科に上がるときに、両親は渋谷区大山町十五番地(現・渋谷区松濤二丁目四番八号)に家を借り、遅まきながら公威を引き取ることにした。祖母の家に週一回泊まりに行くこと、毎日電話をかけることを条件とし、夏子はそれをのんだ。その機会に、と思われるのだが、学習院初等科に通っていた弟の千之は、近くの区立大向小学校に転校した。通学を考えてのことだろうが、学習院に両親の愛着があったようには思えない。千之はその後、青山中学、浦和高等学校、東京大学法学部を出て外交官となる。公威の妹で千之の姉になる美津子は、三輪田高等女学校から聖心女子学院に通う。三輪田は倭文重の母校である。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「学習院初等科は、四ツ谷駅近くにあるので徒歩で通えた。それも理由の一つではあったのだろう。しかし、戦前の学習院は特別のスクールカラーを持っていた。宮内省管轄の国立の学校である。皇族や華族、上級役人、上級軍人の子弟が行く学校というイメージがあった。初等科一年の通信簿には、戸主の姓名と「族籍」という欄があり、そこには「平民」と書かれている。 あるいはここに、失意の祖父定太郎の協力があったことも想像される。公威が入学する二年前までの学習院院長は、東北帝国大学総長を務めた福原鐐二郎で、定太郎は東京帝国大学法科大学在学中に、この福原鐐二郎と共著『国際私法』(金港堂、一八九二年)を刊行していたのである。この繫がりが生かされた可能性はあっただろう。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「幼い頃は祖母から外出を厳しく制限されていたから、公威は外での遊びを知らなかった。運動は全く駄目で、走り方からしておかしかったと同級生の千家紀彦が書いている(「小説・三島由紀夫」)。これではいじめられるか、特別視されるのも仕方がなかった。 肌の色が目立って白かったので、ついたあだ名が「アオジロ」。食も細く太れない体質なので体力がなく、病気がちだった。初等科の頃は、詰め襟の中に湿布を巻いていたという。一年生一学期の授業日数は七十九日で、欠席は十三日だった。三島の肉体コンプレックスは、家庭での生育史から来ているが、学習院の教育環境がより強めたことは想像に難くない。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「学習院の校外運動や身体検査は、明らかに軍国主義を背景とした「規律訓練」(ミシェル・フーコー『監獄の誕生』)だった。むろんその傾向は全国の学校に広まっていたが、皇室の藩屛たる華族の子弟を教育する学習院は、その意味合いが直接的だった。公威の通信簿を見ていると、身体の訓育と監視を通して個人を国家に従属化する教育が、いわゆる学業よりも重視されていたことが分かる。 運動能力も運動経験もない公威にとっては、厳しい環境だったにちがいない。いわばその逆境に対し、公威は、持ち前のがむしゃらな克己心と反復練習によって自己を馴致しようとした。この規律訓練による活路は、後年のボディビルや剣道、そして自衛隊への体験入隊に繫がっている。三島由紀夫の訓練メニューへの従順過ぎるほどの熱意は有名だった。ボディビルは一時ブームにもなるが、単調なトレーニングの連続でやめていく人が多かった。しかし三島は、死の年まで続ける。高名な作家となった三島が、少年のように訓練に励み「肉体改造」に取り組む姿勢は、三島を戦中の〝服従の美学〟へ導く道筋でもあった。ともすればそれは権力との親和性を生むことになる。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「しかし三島は、それだけの人ではなかった。権力への接近の中で、その権力を破壊するほどの個別性を発揮するのである。三島由紀夫にとって、権力への抵抗や反抗は子どもじみたつまらぬ反発にしか映らなかったのではないか。三島の個別性は、一見権力に進んで近づきながら、その権力の最も核心的な部分、最も痛い部分を思い切り衝くことで、権力の脆弱さを鍛えようとするところにまで至るのである。それは、身体的に劣っていた少年期の「規律訓練」を内面化して取り組んだ果ての、権力側からすれば想定外の内部叛乱であっただろう。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「 「詩を書く少年」(「文學界」一九五四年八月号)という二十九歳のときの短編小説がある。十五歳の頃を振り返った、自分をモデルにした小説である。「詩はまつたく楽に、次から次へ、すらすらと出来た」「自分のことを天才だと確信してゐた」「言葉さへ美しければよいのだ」と書かれている。たぶんここには微妙な誇張がある。だが文学には、稀に誇張することで実態に近づくということがある。そして批評を生むのも微妙な誇張である。小説の最後に来て、語り手は突然批評の幅を上げるのだ。「『僕もいつか詩を書かないやうになるかもしれない』と少年は生れてはじめて思つた。しかし自分が詩人ではなかつたことに彼が気が附くまでにはまだ距離があつた」と。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「 公威の詩は、感動なり印象があってそれを詩のことばで表現しようとしたものではない。そういう詩もないわけではないが、現実世界への感情が表現を促したとしても、単語やフレーズの感触がことばの連なりを作り、詩の世界が見えてくるとさらにことばが繰り出されるといった具合に作られたものだ。そんなふうにして書かれた詩には、読み手を引き入れる力もなければ、次へと引っ張る駆動力もない。凝縮され鮮烈に現れる現象もなければ、ことばが世界を開放することもない。通俗性から逃れようとばかりしているから親しみが持てないし、急激な展開や連想の面白さもなければ、ポカリと空いた空白の充実もない。否定的な面を強調しすぎたきらいはあるが、まずは妥当な評価であろう。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「三島由紀夫の詩は、短歌俳句も加えると六百五十七編にもなるが、こういう率直な詩の発表を控えたことと、三島少年が詩人でなかったことの認識には通じるものがあるように思える。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「しかしこれが、初等科一年ではなく三年のことだとすると、単なる読書好きの少年の夢見がちな〝作文〟だとは考えにくい。教案簿には、他の生徒の作文について「西瓜とりの実感があらはれている」「見たままよくかけてゐる」という寸評があるが、これは先生の規範に合致する文章作法の訓練といった意味合いが強そうである。公威がこの学習目的を大きく外すとは思えない。穿った見方をすれば、公威は、故意に作文の「規律訓練」から批判的に逃れたのではないだろうか。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「のちの公威の詩を見ていくと、彼にとっての詩とは、〝自己の美意識や理念を生かすことのできる世界〟とでもいった作物のように思える。面倒で不如意な現実とは別の自己の世界を作るのだから、一人遊びとしてはこの上なく面白いはずだ。しかもそれが上級生の文学青年に褒められれば、勉強好きな公威のこと、さらに磨きをかけようと精進したのは想像に難くない。 この〝自己の美意識や理念を生かす世界〟を前提とするかぎり、彼には〝絶対文学言語感〟とでもいった揺るぎない価値軸が存在することになる。自他の作品への自信に満ちた鑑賞眼や批評眼は、東文彦宛の書簡に見ることができる。「自分のことを天才だと確信し」「先輩にうんと生意気な口を」(「詩を書く少年」)きくことにもなったのである。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「 前年の一九四一(昭和十六)年十二月八日、日本海軍はハワイの真珠湾を攻撃し、米英との戦争に突入する。十六歳で、すでに「三島由紀夫」という筆名を使い始めていた公威の青春は、アジア太平洋戦争の真っ只中で過ごされる。二十歳になれば兵隊に取られ、運が悪ければ死ぬことになるだろうと、青年がそう思うようになっていった時代である。翌年、学習院中等科を卒業する。五年次の席次は二番だった。そのまま高等科に入学、文科理科に分かれ公威は文科乙類に入る。高等科での成績は、常に文科の首席だった。文芸部の委員長に選ばれ、輔仁会の総務部総務幹事になった。学内の文化活動の中心的存在である。この頃から頻繁に歌舞伎を見るようになり、のめり込んで「芝居日記」をつけ出す。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「山梨県山中湖村の三島由紀夫文学館には、幹部候補生の志願書(あるいはその下書き)があり、書類は書いたものの提出しなかったと思われる。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「夏休み前の七月二十日には、東京帝国大学法学部に合格した。高等科卒業生六十名のうち、東京帝大十九名、京都帝大十二名、東北帝大十名、九州帝大二名、大阪帝大一名、名古屋帝大二名、千葉医科大四名、東京工業大八名、その他の大学二名で、全員が高等科からの推薦による合格で、試験も何もなかった。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「この初恋と失恋はすでに知られていたものの、村松剛が『三島由紀夫の世界』で大きく取り上げて以来、三島のセクシュアリティの問題として注目されてきた。『仮面の告白』では、女性に性的な欲望を感じないことが結婚を躊躇した理由になっていたが、「ぼく自身がもつ若干の知識に照らしても、まさに(初恋の―引用者注)経緯はそこに書かれているとおりだったと思われる」と述べ、「ただ一点、主人公を同性愛に仕立ててあるということを除いては」と言い添えたのである。三島と個人的にも親しかった村松のこの評伝の軸が、三島についての「誤解」を正すというものだったので、三島が「同性愛」ではなかったというこの記述は一定の信憑性を持ったのである。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「ジョン・ネイスン『三島由紀夫──ある評伝』(野口武彦訳、新潮社、一九七六年)には、リオデジャネイロでの三島の少年愛的な振る舞いが少しだけ書かれていたが、福島次郎と堂本正樹によって、それ以前から三島の同性愛行為のあったことがはっきりしたのである。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「同性愛を描いた『仮面の告白』『禁色』は、今世紀になってみれば、性の多様性という題材によってむしろ高く評価される。異性愛を「正常」とする作品の規範性に時代的な限界はあるものの、日本の近代文学が男性同性愛文学の傑作を持ったことは、誇れることである。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「では、 K子への初恋はどういうことなのか、という疑問は愚問と言わざるをえない。『仮面の告白』や『わが思春期』を読む限り、間違いなく三島は K子への愛情を抱いていた。 LGBT概念が普及した現代では、この点の理解は容易であろう。同性愛傾向のある人が異性を愛するのは、ごく普通のことである。しかし三島が二十歳だった時代では、そうはいかなかった。三島は K子を、強制的異性愛イデオロギーとロマンチック・ラブ・イデオロギーの規範でしか見られなかったのである。愛している以上性愛に至らざるをえず、そして結婚へと向かうのが当然だという規範に不可能を感じ、離れざるをえなかったのだ。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「 『金閣寺』の最後は、金閣に火を放って裏山に逃れた主人公の、「一ト仕事を終へて一服してゐる人がよくさう思ふやうに、生きようと私は思つた」という一句で結ばれる。二十代初めまでの、作品を書くことに生きる喜びが見出されるのではなく、「彼が書いている小説は、彼自身の生きることと何の関係もない」(高見順)ということではない、ということを明確に示した結語である。 『仮面の告白』を書いてしまった後の三島由紀夫は、人間の不可解な欲動を表現するのに躊躇しなくなった。それまでの作品は、前意味論的欲動の表現を抑えるためか、登場人物の心理や行為の根の部分を、文飾し朧化する作法を採っていた。 未亡人杉本悦子が素朴な園丁三郎を愛し殺害してしまう『愛の渇き』や、女を愛せない美青年南悠一が高名な小説家檜俊輔と組んで、異性愛社会と同性愛社会とを渡り歩く『禁色』は、生き辛さをストーリーの中に溶かし込んだ意欲的な小説である。オリジナルの構想で作られたこれらの作品とは別に、「親切な機械」『青の時代』『金閣寺』のような実際の事件をもとにした「社会ダネ小説」と呼ばれた小説があり、それらは事件の要因となる不可解な欲動を掘り下げた作品であった。必然的にそれらは、鬼面人を驚かす題材や内容のものとなる。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「三島は古典主義を目指していた。これらの作品には、超越的視点はなく超越性を目指す人物もなく、すべては此岸の出来事であり問題である。美の絶対性を扱った『金閣寺』でさえ、最終的には主人公は建築物としての金閣に対峙する。そして以前のような感覚や感受性に頼った文体ではなく、抑制された理知的な文体が求められた。「鷗外のあの規矩の正しい文体で、冷たい理智で、抑へて抑へて抑へぬいた情熱で、自分をきたへてみよう」(『私の遍歴時代』)と決意したのである。古典主義は作品の傾向であるとともに、創作者としての三島の生きる指針でもあった。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「ハワイに向かう船上では「太陽」(『アポロの杯』)との出会いがあった。「終日、日光を浴びてゐることの自由」を知り、健康への意志を固めた。ギリシャの陽光と遺跡にも惹かれた。「私は今日つひにアクロポリスを見た! パルテノンを見た! ゼウスの宮居を見た!」と興奮に酔い痴れている。人間の内面に向かう芸術ではなく、外面に現れ出る美を捉えようとしているようだ。「私は久しく自分の内部の感受性に悩んでゐた。私は何度かこの感受性といふ病気を治さうと試みた」と三島は『アポロの杯』に書いている。「病気」とまで呼んでいるのだから、「感受性」が三島を苦しめたのは想像に難くない。古典主義―鷗外の文体―理知―太陽―ギリシャが一繫がりの糸となって、感覚や感受性に頼った文体を変革し、身体の健康を重んじ、生活と創作の均衡を図る生き方を目指すようになっていった。そこから生まれたのが『潮騒』である。 『潮騒』は、伊勢湾に浮かぶ歌島で漁師をしている新治と海女の初江との初恋の物語である。古代ギリシャのロンゴスが書いた『ダフニスとクロエ』を下敷きにした素朴な純真さが、感受性の病から癒えようとする三島の生の方向を表している。繊細な感受性と心理の綾なす劇とはかけ離れた、肉体と生きる知恵との均衡が描かれる。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「とはいえ、相変わらず痩せて顔色も青白かった三島は、体力もなく胃痛にも悩まされていた。そこに出現したのが、ボディビルという「福音」だった。三島由紀夫がボディビルを始めたのは、一九五五(昭和三十)年、満三十歳のときである。効果は抜群であった。体力もつき、胃弱も解消した。 その一年前には、もう一つの「自己改造」があった。女性である。十九歳の豊田貞子に恋し、性的な関係を持つようになったのである。それはおそらく(たぶんほぼ間違いなく)、三島にとって初めての女性との性関係である。この女性との交際はしばらく続く。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「さらに言えば、『仮面の告白』に書かれた性指向は、オスカー・ワイルドや谷崎潤一郎などの「悪魔主義」的な逸楽や背徳と重なっていたが、作品はその傾向を讃美しなかった。「私」にとって血や死は、〝耽溺をそそるからこそ距離を置く愛着の対象〟として語られる。いや、むしろ自己嫌悪さえ感じられ、苦痛に歪んでもいる。三島由紀夫は、ビアズレーや歌舞伎の悪への愛着をも語ったが、三島には耽美主義に含まれる邪悪さが稀薄だったように思える。ふてぶてしい居直りがないのである。それは三島が市民社会の一員として、「皆と同じだ」ということに強い憧れを抱いているからだ。そこから自身の性指向への批評は生まれる。だから文学史的に見れば、歌舞伎、草双紙、泉鏡花、谷崎潤一郎と続く耽美派の伝統に接近しながら、『仮面の告白』はそれらとは一線を画するのである。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「LGBTとエロチシズムの問題についても、三島の時代とは変化している。今世紀に入る前頃から、 LGBTは、法的整備は遅れているものの、少なくとも社会通念においては人権問題として市民権が得られるべきだと考えられるようになった。二〇世紀後半の性の解放によって、性の〝禁制〟が稀薄になり、秘するがゆえの性の充足感は減退した。 LGBTの存在を社会的に認知することになった状況では、『仮面の告白』や『禁色』の緊張感は弛緩せざるをえず、この方向は巻き戻せない。かつて抑圧され孤絶することで秘匿されていた性は、エロチシズムの昂進を促していたが、それが一般的な平板さを纏うことになったのである。人権意識の浸透は歓迎されることではあるが、エロチシズムが平板さに解消し、あるいは狭小な隘路に逃げ道を探すことになるのも人間のなすところであろう。 しかし、 LGBTの社会的認知が進んだことで、『仮面の告白』のセクシュアリティはより明瞭になった。かつては「同性愛者」の告白と受けとめられていたが、それでは園子への愛を諦めきれずにいる主人公の心情が摑みきれなかったのである。異性愛者/同性愛者という対立構造としてしか理解されてこなかった『仮面の告白』の主人公を、固定的同性愛者の枠組みから外し、セクシュアリティに不安定な主人公の迷いと社会的不適応の状態を分析的に記述した小説と見るようになったのである。ただし、社会的不適応をもたらす社会へのプロテストの意識は強くない。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「 『青の時代』(「新潮」一九五〇年七 ~十二月号、新潮社、同年)は、東大法学部学生の起業家山崎晃嗣をモデルにした小説である。三島は、同窓の山崎と面識があったのではないかと保阪正康は推測している(『真説 光クラブ事件』)。一九四八(昭和二十三)年、山崎晃嗣は仲間の学生たちとヤミ金融「光クラブ」を設立し、高利を謳い文句に一般の人から資金を集め、商店主や事業主に貸して利ザヤを稼いだ。東大の学生社長という知的なイメージと派手な広告でマスコミの寵児ともなり、たちまちのうちに会社組織に成長した。当然、物価統制令と銀行法違反で警察に検挙される。闇行為の横行と法整備ができていない時代なので、お灸をすえる程度の罪で不起訴になった。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「 『愛の渇き』の悦子も、『青の時代』の誠も、生き辛い生を負っており、生き方にこわばりを感じざるをえない。『禁色』の美青年の主人公南悠一も、こわばった生き方を強いられている人物である。悠一は女を愛せない。 『禁色』は、男しか愛せない美貌の学生南悠一が、六十代半ばの小説家檜俊輔と組んで、俊輔の復讐に加担するという話である。明治期から小説を発表しいまや大家となっている檜俊輔は、彼を袖にした女三人に、女に欲望を感じない悠一を使って恨みを晴らそうとする。まずは俊輔の欲望を弄んだ康子を悠一と結婚させ、不幸に陥れる。次に、美人局を働き愚弄した鏑木伯爵夫人と、俊輔を斥けて別の男と結婚した穂高恭子を、悠一を使って競わせ嫉妬させ翻弄する。一方、悠一はホモセクシュアルの男たちが集まる銀座の喫茶兼酒場ルドンに出入りするようになり、男色の裏世界に通じるようになっていく。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「一方、悠一はホモセクシュアルの男たちが集まる銀座の喫茶兼酒場ルドンに出入りするようになり、男色の裏世界に通じるようになっていく。 日本文学でこれほど具体的にホモセクシュアルの風俗を描いた小説はなく、同性愛をタブー視する偏見がよりきつかった欧米でもなかったであろう。マルグリット・ユルスナールは、ゲイ社会の秘密結社めいた描写を「ルポルタージュ小説」と呼んだ(『三島由紀夫あるいは空虚のヴィジョン』澁澤龍 訳、河出書房新社、一九九五年)が、すでにこの世界に通じていた三島には、この種の「ルポルタージュ小説」はお手のものだった。『禁色』に描かれたゲイの風俗描写は、世界の近代文学において最も新しく熟れたものだったにちがいない。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「 『アポロの杯』(朝日新聞社、一九五二年)は初の海外旅行の紀行文である。旅行から帰って二カ月経ち、三島由紀夫は出発前に語ったことばを思い出し最終節に書く。「もつてゆく金は十分ではない。金を濫費することは僕にはできない。しかし僕は感受性を濫費してくるつもりだ。自分の感受性をすりへらしてくるつもりだ」と。見聞を広げ何かを得ようというのではなく、「すりへらしてくる」というのだ。富豪が旅先で散財するように、「感受性」を全開にし、思うさま使ってくるということなのだろう。その姿勢がはっきりと表れているのはリオデジャネイロである。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「 『潮騒』は青春小説として成功した作品である。感じやすく繊細な心身ではなく健康で逞しい心身を持ち、都会の便利さに慣れた懶惰な生活ではなく質素で堅実な生活を築こうとする若者が描かれた。観的哨での、裸で抱き合いながら既成道徳に従うもどかしさを含めても、輝かしい青春小説として後世に残る作品となった。この小説の〝甘さ〟を批判することは容易いが、その批判が逆に薄汚れた人間観を露呈させることになり、その反照として作品が輝いてしまうのである。若者はいつも青春の反逆を好むから、『潮騒』を鼻にもかけぬかもしれないが、若者にも年齢が加われば、人間にとって何が安定した強さをもたらすのかが見えてくる。そういう鑑としての青春を作ったところに、二十代後半の三島の知恵が感じられる。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「もう一つの『潮騒』の成功の秘訣は、伊勢湾の神島を舞台としたことである。もし作中の「歌島」が、北方の小島の寒漁村をモデルにしていたり、架空の島を想像で描いたとしたら、あのような大らかな温かみにリアリティは生まれなかっただろう。村松剛やユルスナールや松本徹は、三島作品の基本は「童話」だと言うが、作品の主題に合致する実在の島を探し、滞在し取材して書いたことが、この作品を〝ありうる「童話」〟にしているのである。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「当時は民宿がなかったから、漁業組合長の寺田宗一宅に滞在し、島の生活を隈なく取材した。タコ漁の舟にも乗った。三島は舟に強いのである。灯台長の妻山下當江が知的好奇心の旺盛な話し好きの人だったので、たびたび寄っては話し込んだ。息子の山下悦夫は「かなり正確」に母のことを書いていると述べている(「小説『潮騒』の灯台長夫妻と娘手紙に見る三島由紀夫と私の家族」)。してみると、新治と初江の仲を裂いた初江の父照吉に、奥さんが強談判で臨む筋は、神島に来て思いついたものであろう。東京の大学に通う千代子のモデルも灯台長夫妻の娘の文代で、自分を醜いと思い詰める娘という損な役回りを思いついたのも神島に来てからのことにちがいない。三島はそれを気にして謝りに来たと文代は語っていた。取材は島の環境を取り込んだだけではなかったのだ。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「精神的に安定している様子が表され、それに戸惑っている気持ちも窺える。これは豊田貞子と熱海ホテルに泊まったときに書かれたものだ。もちろんそんなことは書いていない。貞子は三島をそういう気持ちにさせる人だった。この引用文の後には「大体において、私は少年時代に夢みたことをみんなやつてしまつた。少年時代の空想を、何ものかの恵みと劫罰とによつて、全部成就してしまつた。唯一つ、英雄たらんと夢みたことを除いて」とあり、そのすぐ後に「やがて私も結婚するだらう」とある。「結婚」は、三島の方が熱心だったようである。「全部成就してしまつた」という断定にも驚かされるが、これを書いた部屋に貞子がいたことを思えば、二十歳の貞子がもたらしたものの大きさが窺える。「唯一つ、英雄たらんと夢みたことを除いて」とは、〝生活〟の満足に前意味論的欲動が埋もれていることをいう。ここには諦めとそれに伴う未練とが感じられるが、未練は大きくない。このときの三島は、まだ痩せて体力のない、「英雄」とはほど遠い著名な青年作家でしかなかった。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「週三回の練習を生真面目に続けた。十一月には『金閣寺』の取材で京都に滞在したが、東京からバーベルを送って旅先でもトレーニングを続けた。翌年三月には、体育指導者の鈴木智雄が自由が丘にボディビルジムを開き、そこに通った。九月にはボクシングも始めた。鈴木智雄の紹介で、日本大学拳闘部の小島智雄監督の下で練習し、一年ほど続けた。『鏡子の家』で日大拳闘部は描かれることになる。顔面を強打されると脳にダメージがあるというのでやめたが、もともとボクシングができるほどの体力と反射能力は持ち合わせてはいなかった。それでも、ボクシングをやろうというだけでも法外な進歩であった。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「 『金閣寺』は、「新潮」連載中から評判が高かった。連載終了月の一九五六(昭和三十三)年十月に新潮社から単行本として刊行されると、兎見康三、臼井吉見、河上徹太郎、中村光夫、中島健蔵、安部公房、平野謙、山本健吉らが賞賛した。とりわけこれまで三島には点の辛かった中村光夫が、素材にもたれかからず「作家の思想と文体の力で独自な世界を築きあげる」ことに成功した作品だと評価した(「『金閣寺』について」)。「読売新聞」の「 1956年ベスト・スリー」)では、十人の批評家すべてが『金閣寺』に一票を投じ、第一位となった。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「何が起こったのか。読者に〝飽き〟が生じたとしか考えようがない。デビュー作から熱心に追いかけてきた読者がある時期から離れてしまうというのはよくあることだ。多彩な活動がマスコミへの露出度を高くし、特段の理由もなく熱心な読者が離れていく。作者には責任のない凋落である。 この時期の三島作品に見られる特徴は、意識的に社会事象を取り込んでいこうとする態度である。現実の政治や経済、社会状況を自己の文学の中に引き入れ、それと向き合う人間を描くようになっていった。「「金閣寺」で私は「個人」を描いたので、この「鏡子の家」では「時代」を描かうと思つた」(「「鏡子の家」そこで私が書いたもの」)という意図は、『金閣寺』についての中村光夫の「観念的私小説」という批評が残響していたからとも思える。三島が『仮面の告白』『金閣寺』から異なる地平に出ようとしていたのは明らかである。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「 「憂国」(「小説中央公論」一九六一年一月号)の前に、三島は「愛の処刑」を書いている。男性同性愛のアドニス会の機関誌「 ADONIS」の別冊「 APOLLO」五号(一九六〇年十月)に、「榊山保」の筆名で発表した短編小説である。愛する教え子を死なせてしまった体操教師が、別の教え子からその過失を責められ切腹する話である。血まみれの切腹の最中に交わされる教え子との愛のことばと苦痛の描写が、この小説を特異なものとしている。「愛の処刑」の存在は話では聞いていたが、変名を使っていること、原稿に複数の人の手が入っているらしいこと、発表誌が稀書であることから扱いが難しかった。『決定版三島由紀夫全集』の編集過程で、ノートに書かれた三島のオリジナル原稿が出てきたのだが、その意義は小さくない。作品の存在自体もさることながら、切腹という行為に、三島の前意味論的欲動が具体化していることがはっきりしたからである。「憂国」で想像されたことが補われた形である。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「少年時代は剣道のかけ声が大嫌いだったと三島はあちこちで述べている。それが、『宴のあと』の二年ほど前の一九五八(昭和三十三)年十一月からボクシングに替わって剣道を始め、死の年まで続けることになる。あのかけ声には暗い「日本」があって、なんとも言えず好きになったと言うのだ。スマートな海軍より泥臭い陸軍の方が好きだとも言うようになるが、同じ理屈である。この時代は、小島信夫の「アメリカン・スクール」(一九五四年)のような、あるいは三島が初めてアメリカに渡って日本料理店で啜った味噌汁のような日本の〝みじめさ〟は薄れていたが、〝日本的なるもの〟は恥ずかしいという気分はまだ人々の中にはあった。だから戦後の日本社会は、古い因習的な〝日本〟を忘れようとしていた。三島は逆にそういう「日本」に進んでのめり込んでいくのである。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「一九六二(昭和三十七)年にノーベル文学賞の選考委員であるハリー・マーチンソンが来日し、日本人三人が候補に挙がっていると発言したことで、にわかに日本文学からの受賞が現実味を帯びた。川端康成が三島にノーベル賞の推薦文を依頼したのは一九六一年で、この時点ではまだ雲をつかむような感覚しかなかったはずである。六三年には候補者の報道はなかったが、二〇一三年にノーベル財団が公表した審査過程によると、三島が候補六人のうちに入っていた。その後六五年と六七年に、三島が有力候補に入っているとの報道があった。ノーベル財団によれば、六七年には有力候補七人の中に川端康成と三島が入り、最終候補には川端が残り、三島は選ばれなかった。そして一九六八年に、川端康成の受賞が決まったのである。三島は、これで十年は日本文学の受賞はなく、次は大江健三郎だと洩らした。すでに『太陽と鉄』に「われわれは等しく栄光と死を望んでゐた」と書いていたから、「次」への望みはなかった。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「自衛隊体験入隊は、最初は一人だけの入隊だった。一九六七(昭和四十二)年四月半ばから五月下旬まで、約一カ月半家を留守にした。帰宅後、「サンデー毎日」の徳岡孝夫のインタビューで、「体験入隊の動機は?」と聞かれた三島は、「これは、まつたくご推察にまかせます。どうとられようとかまひません」と答えている(「三島帰郷兵に 26の質問」)。インタビューは一九六七年五月二十八日になされたが、この頃にはすでに民族派の雑誌「論争ジャーナル」の万代潔や中辻和彦、日本学生同盟の持丸博らと親交を結んでいた。入隊の動機について後知恵で言うならば、三島は自衛隊員の憲法改正運動を考えていたと思われる。三島事件後、自衛官だった人がそのことを書くようになった。三島は、見込みのあるとみた自衛隊員に改憲のためのクーデターを教唆していたのだ。もっとも三島の誘いに乗る人はいなかった。職業倫理としても組織管理としてもありえない話だった。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「ここには、悪徳を突き詰めることで神ならぬ神、「別の方角からさして来る光り」の光源、もう一つの創造主としてのサド侯爵が立ち上がっている。そしてその堕落が告げられるのと行き違いに、ルネが修道院で、アルフォンスの超越性に額ずくのである。三島由紀夫は、性的にスキャンダラスな男をめぐる六人の女性たちの会話を通して、人間性の極北にある聖性を描き出した。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「人間である天皇は、神の役割を果たすときは神としての天皇を演じなければならない、というのが三島の天皇論だ。天皇は天皇として存在するのではなく、人間として、即位礼正殿の儀や大嘗祭によって、皇位継承を宣明し天照大神と直結したことを示し、日本文化の伝統に連なることを意識し意識させなければならない。人間と天皇を一旦分離するシアトリカルな天皇論である。 この発想があったからこそ、天皇個人と天皇のあるべき姿とを分けて見ることができたし、天皇個人への批判が可能になったのである。菅孝行が『サド侯爵夫人』に指摘した「敗戦後の天皇の実像」と「理想の天皇」との差異も、三島のこの発想から来ている。天皇の存在が天皇制そのものであると無意識に結びつけていては、この地平は開けなかった。生前退位をした平成の天皇はこのことを意識していたように思われる。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「第三巻『暁の寺』のジン・ジャンは、松枝清顕や飯沼勲のような激しい生の燃焼を生きた人のようには思えない。「少くともジン・ジャンの魂は、光りかがやく美しい肉にこもつてゐたわ」と、ジン・ジャンとレズビアンの関係にあった久松慶子は第四巻の『天人五衰』で言う。彼女の「美しい肉」は、壮年の本多を惑わしたものの、それだけでしかなかった。そしてジン・ジャンの死も、コブラに嚙まれた事故死でしかなかった。二十歳での死、過去生の記憶、前世の夢の実現、左脇腹の三つの黒子などの条件は揃っていながら、本多を寄せつけないような、あるいは自らを滅ぼしてしまうような若さの激しさがジン・ジャンには見られない。テキストはそれでもジン・ジャンを一連の転生者として扱っているが、『暁の寺』に至ると、主人公の生から急速に前意味論的欲動が遠のいてしまうのである。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
「 『豊饒の海』の結末を、三島由紀夫は死ぬ三カ月前の夏には書き終えていた。残りの月日は、結末に至る部分の執筆にあてた。死を覚悟しその準備に明け暮れながら小説を書くとは、凄まじい精神力が要ったはずである。約束墨守。三島は約束の時間を守り、締め切りに遅れない。原稿の末尾には「「豊饒の海」完。/昭和四十五年十一月二十五日」と書いた。」
—『三島由紀夫 悲劇への欲動 (岩波新書)』佐藤 秀明著
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「前意味論的欲動」を軸に三島を読み解く
三島の作品には、人間の中身へのゾッとするほど透徹した視点と、そこから見えるものを、鮮やかに写しとる格調高い文章があって、自分の手の届かない、高みにある芸術を眺めているような気分になる
でも、その三島の中に、パラドックス的な、破滅的な人間らしさのようなものも感じられて、そこにどうしても惹きつけられてしまうんだよな -
前意味論的欲動という概念を掲げて、三島由紀夫の生涯をバランスよく捉えていると感じた。
没後50年経っても三島が色褪せないどころかますます存在感が増している理由が、この本を読んでよくわかった。 -
今年三島由紀夫没後50年を迎えるから
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三島由紀夫の概説書。三島の「前意味論的欲動」を軸に、それが文学作品をどのように表現され、他の活動に結びついていったのか考察。「前意味論的欲動」は本書では、『仮面の告白』に出てくる汚穢屋について書かれた「悲劇的なもの」「身を挺している」という感覚を指しており、この「前意味論的欲動」が三島のなかで人生にどう作用していったか見ていくことになる。作品の解説や、三島の人となり(かなり真面目な人の雰囲気…)などがわかって面白かった。「死後に成長する作家」とも言われる三島由紀夫。生誕100年の年になってもなお印象に残る人物だよなぁ…
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きっとそういう見方もできるのだろう。
きっともっと芯は別にあるのでは。
といった感じ。
館長だとこうなのかな。
こうだから館長なのかな。
とも感じた。
かと言って自分には芯が何なのかはっきりとはわからないが、精神心理学的な切り方が有効ではなかろうかと控えめには思う。 -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/745758 -
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一冊だけで理解したかったら、現代ではこの一冊。
文筆以外にこれだけ色々な事に手を出したのは、自分への劣等感の現われか?
昭和天皇が人間宣言をし、アメリカの配下に下ったことに憤慨し、天皇殺戮を計画するもかなわず、自衛隊決起を促して自死に至った。今後全集を読み解くのに必要な知識が得られた一冊。 -
筆者は近畿大学文芸学部教授
三島由紀夫文学館館長 -
一次資料・二次資料を元にした三島由紀夫評。
作品というよりも、三島由紀夫その人の全てが身ぐるみ剥がされて見聞されるような印象を持った。
辛いし恐ろしい。少しだけ憧れる。 -
三島由紀夫の作品と人生を、「前意味論的欲動」というキーワードを軸に辿る。このキーワードで十分に論じ尽くされていたかには少し疑問も残るが、新書の限られた紙幅の中で、コンパクトでありながら深く三島の仕事と生き方を語って説得力があり、とても面白かった。
著者は三島由紀夫文学館の館長で、全集の編纂にも携わった三島研究のエキスパート。その知見と考察が短い中にぎゅっと詰まっていて、読み応えのある新書だった。 -
著者の言う「前意味論的欲動」の概念がよく分からない。なぜわざわざそんな概念を立てねばならなかったのだろうか。引用する三島の言葉、「悲劇的なもの」「身を挺している」は、なるほど三島理解のキーワードになると思える。
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「前意味論的欲動」はともかく、没後50年で出た三島本としては、手軽に読める一冊。
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三島由紀夫がなぜ自死に至ったのか
その深い理由等に興味があった
本著は、彼の作品の解説と三島自身のことについて主に書かれていた
もっと他の本も読んでみようと思う
知りたかったことは、よく分からなかったが、作品についてなかなか内容が濃く面白かった -
著者・佐藤が言うように三島の行動の軌跡を「前意味論的欲動」を軸として描くことに成功しているかどうかはともかく、幅広い爪痕を文学と社会に残した三島のコンパクトな評伝として受け取ることができる。新書というコンパクトな形にこれだけの史料内容をよく収め得たな、とその編集力(編集者の力量かもしれないが)にまず感嘆する。
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やはり三島は痛い、可哀想なひと
学生時代は熱狂したが、今は憐れにしか思わない
輪廻転生にすがるのは最後の最後にしたい
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