東南アジア史10講 (岩波新書 新赤版 1883)

  • 岩波書店 (2021年6月22日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (298ページ) / ISBN・EAN: 9784004318835

作品紹介・あらすじ

ASEANによる統合の深化、民主化の進展と葛藤。日本とも関わりの深いこの地域は、歴史的にさまざまな試練を経ながらも、近年ますます存在感を高めている。最新の研究成果にもとづき、世界史との連関もふまえつつ、多様な民族・文化が往来し東西世界の要となってきた東南アジアの通史を学ぶ。「歴史10講」シリーズ第五弾。

みんなの感想まとめ

多様な民族や文化が交錯する東南アジアの歴史を、最新の研究成果をもとに理解することができる一冊です。特に、東南アジアの共通性として「稲作農業」と「交易ネットワーク」が挙げられ、地域の特性を深く掘り下げて...

感想・レビュー・書評

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  • 古田 元夫
    (ふるた もとお、1949年10月4日 - )は、日本の歴史学者、ベトナム現代史研究者、東京大学名誉教授・客員教授。学術博士(東京大学・1990年)(学位論文「ベトナム人共産主義者の民族政策史-革命の中のエスニシティ―」)。日本ベトナム友好協会会長[1]。2016年に日越大学学長に就任した[2]。1949年東京生まれ。1968年麻布高等学校卒業。1974年東京大学教養学部教養学科アジア科を卒業し、同大学大学院に進む。1978年、東京大学大学院社会学研究科国際関係論専門課程博士課程を中退し、東京大学教養学部助手となる。1983年より助教授、1995年より教授。1996年より東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻教授(多元世界解析大講座現代民族動態論専攻)、2001-03年総合文化研究科長・教養学部長、2004-05年副学長、2009年東京大学附属図書館長。2015年に定年退任し、名誉教授・客員教授。2016年に日越大学学長となった。

    受賞・栄典
    編集
    1992年、アジア経済研究所発展途上国研究奨励賞
    ベトナム国家大学ハノイ校名誉博士号授与。
    ベトナムの旗 ベトナム: 友好勲章(英語版) - (2013年9月20日)
    2020年度、大同生命地域研究賞



    「東南アジアは、今日の国家でいえばミャンマー、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナム、マレーシア、シンガポール、インドネシア、東ティモール、ブルネイ、フィリピンの一一カ国で構成される地域である。  このうち東ティモールを除く一〇カ国は、 ASEAN(東南アジア諸国連合)の加盟国で、 ASEANは、東南アジアとしてのまとまりを国際政治の舞台で誇示している。しかし、この ASEANが東南アジア全域を包摂するようになるのは、一九九〇年代のことで、それまでの東南アジアは、まとまりを欠く地域だった。  東南アジアは、自然地理上は、大陸部(ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナム)と島嶼部(マレーシア、シンガポール、インドネシア、東ティモール、ブルネイ、フィリピン)に区分される。大陸部には、ヒマラヤ山脈に連なる五筋の山脈が走り、その間を、エーヤーワディー川、サルウィン川、チャオプラヤ川、メコン川、紅河(ホン川)という大河が流れている。これらの大河は、豊かな平野をつくり、それを基盤とした国家を成立させるが、山脈を越えた統一的な国家は生まれにくかった。」

    —『東南アジア史10講 (岩波新書)』古田 元夫著

    「農業国家が港市の取り込みをはかったり、逆に港市国家が農業空間の支配に乗り出したりすることもあったので、両者を峻別することはできないが、東南アジア史では、この陸域に基盤を置く国家と、海域に基盤をもつ国家の盛衰が、そのダイナミズムを形成しているといってよいだろう。やや単純化すると、中国やインド、そしてのちにはイスラム世界やヨーロッパといった外部の大きな市場が繁栄すると、「海の東南アジア」 =交易国家が発展し、戦乱などで外部の大市場が停滞すると、「陸の東南アジア」 =農業国家が台頭する。こうしたプロセスが繰り返され、東南アジアの歴史を形づくっていった。また、農業と交易を支える稲作技術と船舶技術の進化は、東南アジア史に大きな影響をもった。」

    —『東南アジア史10講 (岩波新書)』古田 元夫著

    「ドンソンの銅鼓は、河川、港湾、内陸道路などの交通の要衝にある有力者の墓から、多く出土している。このことは、二つの意味をもっている。一つは、銅鼓が、富と権力の象徴 =威信財であったと考えられ、それを使用した社会には、首長制が成立していたと思われるということである。今一つは、東南アジアは、すでにこの時期から交易のネットワークで結ばれていたということである。これを土台として、東南アジアの初期国家が展開していく。」

    —『東南アジア史10講 (岩波新書)』古田 元夫著

    「東南アジアの「インド化」といわれる現象は、インド的な王権概念を基礎としたヒンドゥー教・大乗仏教の信仰、『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』というヒンドゥー叙事詩やプラーナ神話の受容、古典インド法典(ダルマシャーストラ)の遵守、サンスクリット語による表現などからなる文化複合を受け入れることだったが、こうした「インド化」は、ほぼ同時期にグプタ朝のもとで進展していた文化現象だった。つまり、インド亜大陸内部の「インド化」と、東南アジアの「インド化」は、同時並行的に進んだのである。」

    —『東南アジア史10講 (岩波新書)』古田 元夫著

    「前期アユタヤの交易相手としては、中国や琉球が重要な位置を占めていた。明が海禁体制をしき、中国人の対外交易を制限していた一六世紀前半までの時代、積極的な中継交易を行っていた琉球にとって、アユタヤは重要な交易相手だった。琉球船は、中国産の陶磁器をアユタヤに運び、かわりにタイ産の蘇木や胡椒を調達した。蘇木や胡椒は、琉球の明への朝貢のために使用された。琉球の外交文書をまとめた『歴代宝案』には、アユタヤの王室による独占的な交易管理が行われていたことが記されており、一五世紀前半までに、アユタヤでは、交易のもたらす利潤を王室のもとに独占するための行政機構が存在したことが知られている。」

    —『東南アジア史10講 (岩波新書)』古田 元夫著

    「 一七世紀頃にはポルトガル、オランダ、フランス、日本など世界各国からの商人が渡来し、アユタヤはヨーロッパと東アジアを結ぶ国際交易港として隆盛を極めた。アユタヤに日本人町が形成され、山田長政が活躍したのもこの時代である。一七世紀後半のナライ王(在位一六五七〜一六八八)の治世には西洋との関係も深まり、イギリスの通訳として来訪したコンスタンティン・フォールコンは、王の信任を得て権勢をふるい、フランスもフォールコンを通じて宮廷に進出した。しかし、ナライ王の死後は、フォールコンも処刑され、外国商人団のなかではオランダが一時優位を占めるが、その後は、タイ米の輸入で結びつきを強めた中国との関係が強まった。末期は内乱が続き、一七六七年にはついにビルマのコンバウン朝の攻撃を受けて、四〇〇年あまりにおよぶ長い歴史に終止符が打たれた。」

    —『東南アジア史10講 (岩波新書)』古田 元夫著

    「広南阮氏一族の生き残りの阮映(グエン・アイン)は、シャム、カンボジア、ラオス、華人、フランスなど、当時のシャム湾交易に関係していた諸勢力の支援を得て勢力を回復し、一七九二年に西山の光中帝が死去すると、本格的な反攻に転じ、西山朝を滅ぼして、一八〇二年に阮映が嘉隆帝(ザーロン、在位一八〇二〜一八二〇)として即位して阮朝をたて、フエを都とした。今日のベトナムの版図に近い、南北に細長く伸びた国土を統一的に支配する政権が誕生した。」

    —『東南アジア史10講 (岩波新書)』古田 元夫著

    「③英領ビルマ    一八二四〜一八二六年の第一次英緬戦争は、インド支配を固めつつあったイギリスと、アッサムへの進出をはかったコンバウン朝との衝突という意味合いが強かったが、一八五二〜一八五三年の第二次英緬戦争は、イギリス側が、インド洋交易の要衝であるペグーを含む下ビルマをその支配に置こうとしたものだった。敗北によって下ビルマを失い内陸国家となったコンバウン朝は、ミンドン王(在位一八五三〜一八七八)のもとで近代化の施策を推し進めたが、フランスの影響力拡大を警戒するイギリスは、一八八五年の第三次英緬戦争でコンバウン朝を滅ぼし、ビルマは英領インドに組み込まれてビルマ州(英領ビルマ)となった。ビルマが、英領インドから切り離されるのは一九三七年のことである。」

    —『東南アジア史10講 (岩波新書)』古田 元夫著

    東南アジア史10講/古田元夫
    岩波新書 #読了
    ASEAN諸国については、つい十把一絡げにしてしまいがちで、歴史からもう一度おさらいしたく、手に取りました。

    欧米中心の世界史からは見えてこない独自の歴史(日本との関わりも)について知ることができ、現在の東南アジアを見る上で大変参考になりました。


    「ここに登場する「インドネシア」という言葉は、現在のフィリピン、マレーシア、インドネシアの島々を指す地理用語だったが、これが、二〇世紀に入ると、蘭領東インドの代名詞として使われるようになる。ただし、現地の人々の団体名という点からみると、東インドという場合には、オランダ人や欧亜混血児などを含めた、東インドに居住する人々全体を包摂するというニュアンスがあるのに対して、インドネシアのほうは、より人口の大多数を占める「原住民」を中心としたまとまりというニュアンスがあった。一九二〇年代になって、オランダ植民地支配を覆してつくる新しい国家の名称にふさわしいとして、ナショナリストに使われるようになるのは、インドネシアのほうだった。」

    —『東南アジア史10講 (岩波新書)』古田 元夫著

    「現在のマレーシアとシンガポールにあたる地域においては、マレーシアやシンガポールとしての国家形成につながる政治運動が本格化するのは、第二次世界大戦後のことである。  運動が遅れた理由の一つは、この地域が、海峡植民地、連合マレー諸州、非連合マレー諸州、英領ボルネオという異なる行政単位に分けられており、これら四地域を包含した運動は形成しにくかったという事情である。今一つの理由は、この地域には、華人、インド系移民が多数流入したが、フィリピンのメスティーソと異なり、これらの人々の居住地マラヤに対する帰属意識は希薄だったという事情である。」

    —『東南アジア史10講 (岩波新書)』古田 元夫著

    「英領インドの自治州になっていたビルマでは、植民地支配で衰退していた上座部仏教文化の再興を掲げて、一九〇六年に青年仏教徒連盟が結成された。一九一七年、イギリスはインドの独立運動への対応として、植民地住民に立法・行政権限の一部を委譲する計画(両頭制)を発表したが、ビルマはその適用から除外されていたため、青年仏教徒連盟は、インドからの分離とビルマ人の統治参加を求めるようになった。この動きは、一九二〇年に結成された全ビルマ団体総評議会( GC B A)に継承された。当時のビルマにはインド人移民が多数流入し、ビルマ人農民がインド人金貸し(チェッティヤー)への借金で土地を失う事態が広がっていたため、 GCBAは、両頭制の実施によるビルマ人の統治への参加とともに、非ビルマ人の土地所有の制限なども呼びかけた。 GC B Aでは、ラングーン大学の学生や仏教僧が大きな役割を果たした。」

    —『東南アジア史10講 (岩波新書)』古田 元夫著

    東南アジア全体がヒンドゥー文化圏だったとは知らなかった。いろいろ目からウロコの一冊でしたー【読んでみましたアジア本】東南アジアを青銅器時代から21世紀までをくまなく網羅した一冊:古田元夫『東南アジア史10講』(岩波書店)

    「中国の民族解放戦争のように、侵略者が日本というファシズム勢力であり、それに対抗する解放戦争が必然的に反ファシズムという性格を帯びたケースを、そのまま東南アジアにあてはめるには問題がある。なぜならば、東南アジアの多くは、反ファシズム連合国の植民地であり、中でもイギリス、オランダは、自らの植民地を手放す用意はまだなかったからである。こうした情勢下では、東南アジアのナショナリストにとって、三つの選択肢があった。  第一は、反ファシズムが人類的な最重要課題であると考え、反ファシズム陣営に属する宗主国への戦争協力を行い、そのなかで自己の地位向上をはかる道である。各国の共産党がとったのは、おおむねこの道だった。この選択は、独立闘争への「裏切り」とされる危険があった。  第二は、植民地宗主国に対する独立闘争を重視し、宗主国および植民地政権に戦争をしかけている日本というファシズム勢力と手を組む道である。東南アジアのナショナリストの少なくない部分がとったのはこの道だった。この選択は、「ファシストへの協力」と非難される恐れがあった。  第三は、ファシズム勢力への協力もしないが、反ファシズム陣営に属する宗主国の戦争にも協力しないという道である。インドの国民会議派がとったのはこの道だったが、実際の戦場となった東南アジアでは、これは選択しにくい道だった。」

    —『東南アジア史10講 (岩波新書)』古田 元夫著

    「フランスは、第二次世界大戦が勃発した時点で、ベトナムを含むインドシナの自治や独立に関して、いかなる譲歩の姿勢も示さず、ナショナリズムを抑え込もうとしていた。この点では、すでに強力な民族運動が存在したベトナムには、日本への期待が存在しても不思議ではなかった。  しかし、その日本がフランス植民地政権の存在を容認し、ベトナム史で日仏共同支配と呼ばれる状況が出現したことは、ベトナムの政治に二つの重要な影響を及ぼした。第一に、フランス植民地政権と日本が手を組んだために、それらと闘うことは反ファシズム闘争であると位置づけられた。インドシナ共産党は、連合国の側にたつ植民地政権と協調するかどうかという難問に直面することなく、反ファシズムの立場から日仏共同支配を打倒するという目標を掲げることができたのである。第二に、ベトナムの独立を支援することを期待されていた日本がフランスと手を組んだことは、ベトナム人の間で親日派が力を増すことを妨げた。この二つの事情はいずれも、一九四一年五月にホー・チ・ミンが結成した、日仏共同支配を打倒してベトナムの独立をめざすベトミン(ベトナム独立同盟)が、有力な政治勢力として台頭するのを助けることになった。」

    —『東南アジア史10講 (岩波新書)』古田 元夫著

    「 タイでは、ピブーン首相がフランスやイギリスからの「失地回復」を唱え、まず一九四〇年にはフランス領インドシナとの間に戦争を起こした。日本は、この戦争をタイに有利な形で調停し、ラオスのメコン西岸と、カンボジアの西部がタイに割譲された。アジア・太平洋戦争が勃発すると、一九四一年一二月二一日には日タイ同盟条約が結ばれ、タイは日本の同盟国として連合国に宣戦布告するとともに、日本軍の駐屯を認めることになった。日本軍の駐屯は歓迎されざる出来事だったが、タイは、同盟条約を「活用」し、日本の消極的姿勢を押し切ってビルマにタイ軍を送り込み、「失地回復」の対象だったシャン州に軍を駐留させた。タイは、タイを味方にすることの価値を巧みに日本にアピールし、このシャン州に加えて、第 5講で述べた一九〇九年のイギリスとの条約で英領マラヤに組み込まれていたマレー半島の四州の「失地回復」も実現した。」

    —『東南アジア史10講 (岩波新書)』古田 元夫著

    「今一つ、この時代を特徴づける世界史的な動きは、宗教復興であろう。かつては、近代化によって宗教の役割は低下すると予測されたこともあったが、実際には、世界的な工業化・近代化の進展の中で、宗教の果たす社会的・文化的な役割を見直し、強化しようとする動向が広がることになった。これは、キリスト教でも、イスラム教でも、仏教でも、ヒンドゥー教その他の宗教でも共通して見られる現象だが、一九七九年のイラン・イスラム革命を契機とするイスラム復興運動は、東南アジアにも大きな影響を与えた。」

    —『東南アジア史10講 (岩波新書)』古田 元夫著

  • 所謂「グローバルヒストリー」の文脈で注目されつつある?ように思える東南アジア史だが、やはり西欧史観的に語られる部分は否めない。よって、こういった書籍で「エリアヒツソリー」的に詳細を把握し、「グローバルヒストリー」と相互補完的に理解するのは有益である。

  • 面白い話が多いけど、テーマが幅広すぎてまとまりに欠く。
    ・東南アジアを結ぶ共通性は「稲作農業」と「海域に形成された洋の東西を結ぶ交易ネットワーク」
    ・東南アジアは中国とインドという2つの巨大な国の間で立ち回ってきた

  • 10講といっても歴史を順番に辿っていく形式。前半は史実が淡々と延べられるだけの箇所も多くて(=その意味合いが読み取れなくて)読むのに苦戦した。ただ、全体としてはわかりやすい。このボリュームで、あれだけ多様な東南アジア史をきれいにまとめたのは素晴らしいと思う。

  • 読書レビュー⑤『東南アジア史10講』(古田元夫)
    https://note.com/snashi/n/nffa132c3d01b

  • ぼんやりと東南アジアの古い時代のことが知れた。近現代のボリュームが大きかった。範囲が広くて民族や宗教も多様なので国ごとに読んだ方がもう少し踏み込めそう。

  • 古い本なのかと思ったら、意外とコロナ禍の頃まできちんと改訂されていて驚いた。
    日本人はどうしても東南アジアで一括りにしがちだが、インドシナ三国、タイ、ミャンマー、マレーシア、インドネシアで気候、国際関係、宗教など全く違う。それ故に高校世界史程度の予備知識がなければ読み進める事も厳しいのではないだろうか。
    また東南アジアの通史を10講に分けた形だが、その内訳はここ5〜600年に7割を割く構成になっており、古代〜中世における東南アジア史の追いづらさをひしひしと感じる(絶対的な資料が少ないだろうし)。
    この本で新たに得た知見としては、植民地期においても短い期間で植民地にされた訳ではない事だろうか、タイのアユタヤ王国などはヨーロッパ人が進出したのちも有力であったし、ベトナムに至っては19世紀後半に至るまで脅威をヨーロッパより中国に置いていた節すらある。またナショナリズムの起こり方も様々であり、決して日本が植民地解放を積極的に行なった訳ではない事は肝に銘じておきたい(ただ、きっかけを作った事は間違い無いが)
    現代においても、東南アジア内での経済格差や政情格差はなお激しく、ASEANもEUと違い緩やかな連合体の為決して一枚岩ではない。日本はどのように対応していくべきだろうか。

  • 新書というと、入門編・ビギナー向けのきらいがあるかと思います。とはいえ、例外だって往々にしてあります。

    そして本作はその例外にあたるかと思います。

    古代から現代に至るまで、歴史の縦糸を10の講(章)で区分します。そして同時代の東南アジア諸国の出来事や歴史を横糸でつなぎます。

    ・・・
    ということで、まずもって中上級者向け、と書いたのですが、その理由は、非常に情報が細かいからです。

    ですので、よほど東南アジア史に興味のある方、あるいは基礎的な流れが頭に入っている方は楽しいのだと思います。事前にあるベースで、本書のトリビア的な蘊蓄を知ることができて。しかし、東南アジア史初心者にとっては、古代・中世のカタカナ王朝の袋小路に迷い込み、何だか良く分からん=東南アジア史詰まらん、となりかねません。

    私も先日読んだばかりですが、超初心者は池上彰氏による『池上彰の世界の見方 東南アジア』で、東南アジアがフィットするかどうか確認いただくのが良いかと思います。

    ・・・
    で、ある程度世界史も分かる方にとっては、以下のようなトリビア的な知識は、さらにあなたの東南アジアライフ(なんだそりゃ)を豊かにしてくれるかもしれません。

    ・18世紀、交易の中心は稀少性を武器にした商品(スパイスとか)から、中国や欧州での大量消費作物(米・コーヒー・紅茶)へと変化してゆく。『海の時代』から『陸の時代』へ(第四講)。

    ・そのようなオランダ東インド会社の『陸上がり』により、スパイス栽培からコーヒー栽培へとインドネシアの重点作物が変化。ジャワコーヒー(第四講)。

    ・マレーシアの現在のペルリス、ケダ、クランタン、トレンガヌの諸州は1909年まではタイ(旧シャム)であった(第五講)。

    ・タイのビーチリゾートのパタヤは、ベトナム戦争の前線ウータパオに近いことから開発された(第五講)。

    そのほかにも、インドネシアの暴れ者っぷりや、ASEANのまとまりのなさの歴史等々についても良く書かれており、へー、の連続でした。

    ・・・
    ということで、新書ながらまったく侮れない東南アジア史の書籍でした。

    個人的にはある程度東南アジア史をご存じのかたにお勧めします。そのような方は、色彩豊かな東南アジアが本書で味わえると思います。

    世にEUというクリスチャン世界の統一性と比較すると、東南アジアは多様だ、なんていたりします。そんな多様性という単語では表現できない色彩豊かな東南アジアが本作にはあります。是非お楽しみください。

  •  2021年に書かれた本で、コロナ禍での状況にも触れられている。東南アジア地域の通史。10章に分かれていて、始めにそのテーマの全体的な状況の説明の後に、各国史がついている、という感じの構成。
     一冊前に読んだ『海の東南アジア史』が近世以降だったので、古代も含めてもう一度東南アジア史の本を読んだら理解が深まるかなと思って、もう一冊読んでみた。少し教科書的な事実の列挙も覚悟の上だったが、思っていたよりも読みやすく、興味深い内容が多かった。現在ではその歴史がどう解釈されるか、どういう位置付けにあるのか、という話もあって、面白い。以下にメモしていく。
    まず『海の東南アジア史』にも出てきた「港市」という言葉は東南アジア史では基本用語なのか、と思った(というかもしかして歴史全般での基本用語?)。「港市は、河川を通じて後背地の熱帯産物を集積し、海を利用した東西の交易に結びつけていた。ここに『港市国家』と呼ばれる交易に基盤を置く国家が形成されていく。」(p.5)、そして「中国やインド、そしてのちにはイスラム世界やヨーロッパといった外部の大きな市場が繁栄すると、『海の東南アジア』=交易国家が発展し、戦乱などで外部の大市場が停滞すると、『陸の東南アジア』=農業国家が台頭する。こうしたプロセスが繰り返され、東南アジアの歴史を形づくっていった。」(p.6)という、東南アジア史の大枠の捉え方が初めに解説されていて、分かりやすい。「古代の東南アジアは、交易路の点や線を支配した外向型国家の歴史だったが、唐が衰退し南海交易が一時的に交代した九〜一〇世紀には、ベトナムの紅河デルタ、カンボジアと東北タイ、(略)といった、比較的人口が多い農業地帯を基盤にした内向型の国家が興隆し、これらの国家が、その後の交易の発展の時代に対処していく。」(p.20)ということで、当たり前なのだろうけど中国の盛衰が直接影響する地域、ということらしい。他にも、「今日では、モンゴル帝国の世界史的意義は、破壊よりも、ユーラシア大陸に大帝国が出現したことによる東西交易の活性化、特にユーラシア全域を結ぶ海路の交易・交流圏が完成し、それが『近代世界史』を切り開くことにつながったという面が重視されるようになっている。」(p.36)、という時代とともに国の歴史観というのも変わるらしい。「東南アジア史においても一三〜一四世紀が分水嶺であり、内陸部にある内向型の農業国家の都に、政治権力の力で物資を集積する中世的国家は終焉を迎えた。そして、マジャパヒトや後述するアユタヤのように、河口近くの海へのアクセスのよい所に都を起き、農作物を輸出しうる農業基盤と、工芸作物や手工業製品などの輸出産業をもった、『交易の時代』への経済合理的な対応ができる近世国家へと、東南アジア市の主役が交代していった。」(p.37)ということで、中世から近世へ、という大まかな流れも分かる。18世紀のベトナムの話で、「ベトナム人、カンボジア人、華人、チャム人などが入り混じった、開放的でコスモポリタンな新しい世界が、メコン・デルタというフロンティアに誕生した」(p.71)という、今の世界では「コスモポリタン」というイメージから遠いような地域が、当時は栄えていた、というのがちょっと驚いた。といっても今はどこもここもグローバル化しているから、コスモポリタン、という言葉自体が機能するのだろうか、とも思ってしまうけど。そして同じ当時のベトナムの話としては、「『交易の時代』が猿と、ベトナム北部は、農業以外に頼るものがない状況に再び直面した。いったん天災が発生すると、大量の流民が発生する。村落は、村で養いきれなくなった人々を流民として切り捨てつつ、これらの人々の土地を集積し、公田に対する管理権を掌握して、国家に対する自立性を強めていく。中央政府にとっても、地主や武人などの中間権力を抑えられる村落の権限強化は都合がよかった。ここに、現在まで北中部ベトナムに見られる強固な村落共同体が形成されたと考えられ、東南アジアでは珍しい、国際商業性に乏しい小農的自給社会が紅河デルタを中心に形成された。」(p.77)という流れがあるらしい。天災に左右される農業を中心にするとこういう国家が出来るのか、というモデルのようにも思えて興味深い。その時代の「シャム」では、「清朝がタークシンを『アユタヤの王』として公認する姿勢をみせた一七八二年、タークシンを『精神異常』と主張する勢力の反乱で処刑され、かわってチャオプラヤー・チャクリが、ラーマ一世として即位し、トンブリーの対岸のバンコクに新しい王朝を開いた。これが、今日まで続くラタナコーシン朝(チャクリ朝)である」(p.82)という、タイの今のルーツがここに来るのか、ということとか、今の王朝にもやっぱり名前があるのか、とかそもそもそういうところが勉強になった。もう少し後の時代で、タイはなぜどこにも侵略されないのか、という疑問がずっとあったけど、「独自の近代化施策と、イギリスとフランスの緩衝地帯となったという地政学的要因によって、シャムは、東南アジアでは唯一、その独立を保全できた」(p.103)ということらしい。そのまま現代までのタイの話を続けると、タイが今のように発展しているのは、ベトナム戦争でアメリカを積極的に支援したから、という、「永世中立」のイメージが勝手にあっただけに意外だった。「米国による北爆が本格化すると、タイは米軍基地の設置を認め、地上軍の派兵にも踏み切った。タイは、一九六〇年代に平均して六.八%という高い経済成長をとげたが、これは反共の姿勢を明確にしてベトナム戦争参戦国になったタイに対する、米国や世界銀行からの支援が大きな意味をもった。軍事的な要請もあってインフラの整備が進んだのに加えて、ベトナム戦争参戦米兵の休養地としてタイの観光開発が進み、ベトナム爆撃の米軍吉となったウータパオに近いパタヤが開発され、後にタイを代表するリゾート地となる礎が気づかれた。」(p.201)という、全く知らなかった。そしたら今はタイとベトナムの関係って、どうなんだろう、と思う。近世の話に戻って、この地域で本当に全く知らなかったこととしては「ゾミア」という「東南アジアの大陸部およびそれに境界を接する中国南部の、山地民が居住する地域」(p.88)があって、「あえて国家を持たず、国家を拒絶した人々が、その自由な意思で暮らす『避難場所』であるという意義づけを行い、近代的な領域国家に収斂するような社会論・歴史論を批判して、大きな話題を呼ぶ研究が出されている。」(同)という、その地域は今どうなっているのか、気になる。いよいよ19世紀に入ったところで年表を見ると「第一次英緬戦争」と書いてあって、緬っていったいどこの国なんだ、とうろたえてしまったが、ビルマのこと?らしい。途中ナショナリズムの話で、フランス革命の話が出てくるが、「しかし、この新しい共同体がその結束を高めるためには、排除されるべき他者=『やつら』が必要となる。言語でみると、国民議会という民主主義的な立法府が機能するには、議員が共通の言語を使用しなければならない。その言語は、いまや国家の行政言語にとどまらない、国民の言語=国語と見なされるようになったフランス語であり、フランス革命当時、フランス人口の半数以上が話していた非フランス語は『前世紀の名残り』とみなされ、その話者のフランス語世界への同化が、国家権力を背景として求められる」(p.116)という、半数以上がフランス語を話していなかった、という事実が驚いた。というか日本も明治時代に「共通語」がなかった時代と同じ話なのか?それからこの地域の歴史を勉強すると、今の地名とは違う地名、国名が使われているから難しいのだけど、例えば「東インド」については、「『インドネシア』という言葉は、現在のフィリピン、マレーシア、インドネシアの島々を指す地理用語だったが、これが、二〇世紀に入ると、蘭領東インドの代名詞として使われるようになる。ただし、現地の人々の団体名という点からみると、東インドという場合には、オランダ人や欧亜混血児などを含めた、東インドに居住する人々全体を包摂するというニュアンスがあるのに対して、インドネシアのほうは、より人口の大多数を占める『原住民』を中心としたまとまりというニュアンスがあった。」(p.125)ということで、その名前にこめられている意味の違い、というのも歴史を勉強しないと分からないことかもしれない。あと20世紀の話で、この地域で共産党が力を持つ背景には、「ナショナリストの一部が共産主義に接近したのは、第一次世界大戦の講和に際して『民族自決』が提唱されたにもかかわらず、それはアジア・アフリカの植民地には適用されないことが明らかになり、ソ連だけが植民地解放運動の一貫した支援者に見えた」(p.138)ということがあるらしい。そしてここで日本が出てくるが、「日本が東南アジアを占領した最も基本的な意図は、石油をはじめとする『重要国防資源獲得』のためだったが、日中戦争を継続しつつアジア・太平洋戦争を起こし、少数の兵力で東南アジアを支配しなければならなかった日本にとって、東南アジアのナショナリストを通じて現地の人々の協力を確保することは必須の課題であり、そのためには『大東亜解放』とか『独立付与』を掲げざるをえなかったのである。日本にとっても、東南アジアのナショナリズムにどのように向き合うかは、重要な課題だった」(p.145)という、そうせざるを得なかった事情、というのが分かった。あとベトナム戦争はベトナムでは「抗米救国戦争」(p.189)と呼んでいる、ということで視点が変わると戦争の名前も変わる、という例だった。21世紀の歴史のところではインドネシアのことが色々書いてあるが、さらっと読んだだけでは頭に入らず、インドネシアの歴史も整理してみたいと思った。
     マレーシアに夏に旅行に行ったことから興味を持った東南アジア史だったけど、インドネシアとか、タイの歴史という各国史を見たらまた面白いのかな、とも思ったりして、色々興味が広がった一冊だった。(23/08)

  • FM4a

  • 東南アジア各国について先史から現代までバランスよく記述。興味深い点は以下のとおり。
    ・13〜14世紀頃に農業国家は終焉を迎え、海へのアクセスの良い場所に都を置く交易の時代に移行。
    ・日本軍の東南アジア支配は、工業製品供給という対価無しでの資源略奪という「最悪の植民地統治」
    ・米国の東南アジアにおける冷戦政策の課題は中国封じ込めであり、その最良の防波堤は、統一され自立したベトナムの存在であったが、それを無視した政策をとった。
    ・米国は朝鮮戦争の反省から、地上軍による戦闘は南に限定した。その結果限定戦争の強度を高めた。弾薬総量は第二次世界大戦の2.4倍
    ・2010年に越の国会では南北新幹線計画の審議をしたが、共産党指導部が承認したにもかかわらず政府案は否決

  • 洋の東西を結ぶと言うとシルクロードが連想されるが、それと同等以上のバリューを持つ海の道に目を向ける。東南アジアは航海技術が発達するほど要衝の地位を高めた。その地勢上、文明を発信するよりは、受容する側に位置づいてきたが、中華文明、インド文明、仏教、イスラム教、キリスト教が、各国にこれほど様々混在した地域もない。近代にかけて殆どのエリアが帝国主義の支配に屈したが、ASEANとなった今日、各国の独自性が色濃い分、紐帯が緩やかなスタイルは、離散しにくいという強みとなり、年月を経るに従ってプレゼンスを益々高めていくように思う。古代から現在までの東南アジア各国事情が網羅され概観を知るのに適した一冊。

  • 第二次世界大戦後も東南アジアは苦難の道を歩んでいたのだな、としみじみ。古代から近代、現代にかけての東南アジアの世界を俯瞰できる良書。読みやすく、わかりやすい。世界史の勉強のおともにすればより深い理解が得られると思う。大変おすすめ。

  • 223||Fu

  • 東2法経図・6F開架*B1/4-3/1883/K

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/757483

  •  先史時代から現代までの通史。各国史個別の記述もあるが、各章の冒頭でその時代の総論を解説しているため、各国横串でも把握できる。
     近代より前は、「海の東南アジア」=交易国家と「陸の東南アジア」=農業国家のプロセスの繰り返し、と表現される。古代は外向型国家の歴史だったが、唐が衰退した9〜10世紀には内向型国家が興隆。13〜14世紀にはモンゴル帝国による東西交易の活性化などによる分水嶺。そして、15世紀後半〜17世紀前半には世界的景気拡大に伴い東南アジアでも「交易の時代」を迎える。
     近代からは植民地期、大戦、冷戦と外部勢力に左右され続けたが、本書ではそんな中でもこの地域の主体性に注目している。欧州との経済関係を前提としつつも、19世紀末からは域内交易も活性化。植民地下でのナショナリズム勃興。WWIではまだ受動的に動員されたが、WWIIでは民族解放闘争としての面もあった(それ故に民族解放と、ファシズム対反ファシズムという対抗軸が一致しない面もあった)。
     冷戦下、特にベトナム戦争では、越は中ソの支援を「勝ち取る」自覚と「中国の周辺」から脱却する戦い。冷戦から距離を置くスカルノなどの反米的な中立主義も、冷戦への1つの主体的対応。ASEAN結成も、反共軍事同盟ではなく善隣関係構築、東南アジアの自律性と著者は位置づけており、それが後のASEAN10に繋がったとしている。
     現代は、対中関係にみる足並みの乱れや、民主主義や人権が重視される潮流の中での原則のあり方をASEANの課題として挙げているが、一方でBrexitといった事態との関係でむしろ緩やかな共同体であることが注目されているというのが面白い。
     主体性は、WWII中の日本との関係においてもそうだろう。本書では、1)「日本を利用しての独立」から「自力による独立」へ(緬と印尼)、2)反日と「日本を利用しての独立」の交錯(越)、3)敵意に囲まれた日本(比と泰)、4)民族集団ごとに異なる対日感情(馬と星)、と区分している。

  • 2021年7月読了。

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著者プロフィール

古田元夫(ふるた・もとお)1949年生まれ。東京大学名誉教授。日越大学学長。
専門 ベトナム現代史
主要著書 『歴史としてのベトナム戦争』(大月書店、1991年)、『ドイモイの誕生:ベトナムにおける改革路線の形成過程』(青木書店、2009年)、『ベトナムの世界史――中華世界から東南アジア世界へ』(増補新装版)(東京大学出版会、2015年)など。

「2021年 『ベトナム戦争の最激戦地中部高原の友人たち』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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