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Amazon.co.jp ・本 (246ページ) / ISBN・EAN: 9784004319030
作品紹介・あらすじ
長い戦乱をへて平和がもたらされた近世とは、世代から世代へと〈知〉を文字によって学び伝えてゆく時代の到来であり、そうした「教育社会」こそが、個性豊かな思想家を生みだした。朱子学から、山崎闇斎、伊藤仁斎、荻生徂徠、貝原益軒、心学、そして国学まで、〈学び〉と〈メディア〉の視点から広くみわたす江戸思想史入門。
みんなの感想まとめ
江戸時代の思想家たちの学びや思想の変遷を通じて、知識の形成と伝達の重要性が浮き彫りになります。朱子学や心学、国学など多様な学問が、時代背景とともにどのように発展していったのかを、わかりやすく解説してい...
感想・レビュー・書評
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江戸時代の「知」は「書く」ことから始め、四書五経を素読(暗記)し、講釈・演説と出版物が「知」を広めた、とある。 その「近代の知」から現代のインターネット社会でのデータ・知の共有、AIとの関連など「未来の知」はどうなるのだろうか。教育では年齢別の授業も変化し、若い博士(10代でも)専門家が現れ、世の技術革新が数倍以上に加速し、人間の「知」がAIロボット支流の世になるかもしれない。
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貝原益軒、石田梅岩、中村敬宇、中江兆民、本居宣長
辻本 雅史
(つじもと まさし、1949年10月28日 - )は、日本の思想史家・教育学者。京都大学名誉教授、国立台湾大学教授。愛媛県出身。
「唐木がいう「型」を保持していた世代とそれを喪失した世代との断絶を、〈知のつくられかた〉という観点から考えてみたい。そもそも人間の知は、虚空に突如として湧き上がるものでもなく、神の啓示のように天から授かるものでもない。一般に、幼少期からの人間関係や自然・社会・文化などの環境下で得る情報や生身の体験によって、長い時間の経過のなかで形成されていくものであろう。そうしたプロセスの全体が〈学び〉であるととらえてもよい。 明治第一世代を唐木は「素読世代」とよんだ。素読についてはこれから本書で取り上げることになるが、六歳前後から始める儒学の基礎学習のことである。「句読」ともいう。江戸時代、多少とも学問に接する子どもは、例外なく四書五経などの経書を素読することから学習を始めた。テキストの意味理解は問わないままに、その全文が流れるごとく口を衝いて出るようになるまで暗誦する。この素読のことを、私は「テキストの身体化」ととらえている。テキストを見なくても、その文章が自在に口を衝いて出てくるならば、テキストをまるごと身体内部に取り込んだことと同じになる。素読とはまさに幼少期の、身体をともなった学びの体験である。ただし素読は、学問に向かう子どもに限った学習で、文字の学びを基本とする手習塾(寺子屋。第一章参照)では、素読は原則としておこなわなかった。」
—『江戸の学びと思想家たち (岩波新書)』辻本 雅史著
「ことは素読に限らない。仏教での写経や西欧中世の古典の筆写、寺院や修道院内での仏典や聖典の朗誦も、身体動作をともなっている。他方、大正教養派の読書は書斎での黙読、しかも「無個性な活字の黙読」であるため、すでに読むことの意味が変質してしまったという。学校教育も、「無個性な活字」を黙読することに通じる知にほかならない。ここで抜け落ちたのは〈知の身体性〉である。そのことは、近代科学に人間の内面の問題が抜け落ちていることと対応しているにちがいない。」
—『江戸の学びと思想家たち (岩波新書)』辻本 雅史著
「その結果、少数の研究者を除けば、前近代の日本の思想は、現代世界と縁遠い、まるで化石化した歴史の遺物であるかのようにみられている。知の伝統が、近代の学問のうちに正当に位置づけられているとは思えない。早い話、いま大学で語られる学問をみればよい。たとえば哲学で、前近代日本の思想に言及することはまずない。教育学で、伊藤仁斎や荻生徂徠、本居宣長の思想研究への言及も皆無に近い。他の領域でも大同小異であろう。 しかし、である。幕末きっての洋学通といわれた佐久間象山(一八一一─一八六四)や横井小楠(一八〇九─一八六九)の思想の枠組は、儒者のものであった。次の世代の中村正直(一八三二─一八九一)も、もと幕府の学問所の生粋の朱子学者。かれは、ロンドン留学中に素読を欠かさなかった。「東洋のルソー」といわれる中江兆民(一八四七─一九〇一)は、ルソーの思想にふれたとき、改めて経書を読み返した。その翻訳『民約訳解』は漢文で書かれた。儒学的思考型式を土台にしてこそ、欧米の知を自らのものとすることができたのである。洋学派の最右翼たる福沢諭吉(一八三四─一九〇一)も含め、いずれも唐木のいう「明治第一世代」よりも前の知識人。素読で知を育んだ世代であった。かれらが江戸期の学びをもとに、欧米近代の知を吸収していたことは、もっと重視されてよい。」
「思想は虚空に湧き上がるものではない。そう先に述べた。まず思想家たちの幼少期における〈知のつくられかた〉に着目する。子ども期に何をどのように学んだのか、その〈学び〉の在り方を重視する。近代思想の根っこには画一的な学校教育の学びがあるが、江戸時代は、素読という方法を除けば、ひとりひとりの学びの事情が異なっていた。その根本にある〈知のつくられかた〉のちがいが、その後に形成される思想に大きな刻印を残し、その刻印が思想の個性を形づくる要因となるだろう。」
—『江戸の学びと思想家たち (岩波新書)』辻本 雅史著
「たとえば、山崎闇斎は禅宗寺院で若年期を過ごし、伊藤仁斎は京都の上層町衆の文化世界の空気を吸って成長し、荻生徂徠は日記を漢文で書く訓練を受け、農村で独学自習をおこなった。貝原益軒は和文の出版書を独りで読み、商家の奉公人だった石田梅岩は町の講釈を聞き廻り、本居宣長は歌会の日常を生きた。こうした幼少・若年期の学び体験のなかで、知識や情報をどのような場で、どのようなメディアを通して得たのか、それが〈知のつくられかた〉に大きな意味をもっていた。」
—『江戸の学びと思想家たち (岩波新書)』辻本 雅史著
「文字を書くことは、他者と情報を取り交わす行為にほかならない。それゆえ「礼」を要する人倫間の行為と意識され、煩瑣な約束事や慣例が重んじられたのである。文字にも、漢字・カタカナ・ひらがなの三種があり、それに草書・行書・楷書の三書体が加わり、時と所と用途に応じた使い分けが求められた。貝原益軒についてはいずれ章を改めて論じるが、かれの『三礼口訣』を見れば、この書礼の体系がいかに詳細で煩瑣なものか理解できる。文字でのやりとりは、後々まで残るぶん、口頭よりも改まった緊張を要する行為であった。書かれた文字への信頼感がこの前提にあったろう。膨大な文書が書かれ、それらを捨てずに保存する心性が、近世人には確かに強かった。残された大量の近世文書群はそのことを物語っている。」
—『江戸の学びと思想家たち (岩波新書)』辻本 雅史著
「 出版は知の在り方に大きな変化をもたらした。中世までは、一字ずつ手で書き写す写本が大半であったが、版本(出版書)はコピーの量産。だから写本に避け難い誤伝もなく、流通量も飛躍的に増加した。その分、価格は安くなり、読書人口の増大に貢献した。知や情報が文字を介した商品となったのである。 まず、『平家物語』や『太平記』などが出版された。中世に琵琶法師や太平記読みによって声と身体で演じられていた「語り物」が、印刷された文字のメディアに変換されて流通し始めたのである。いずれも初版は元和年間(一六一五─一六二四)と早い。近世を通じて『太平記』は二十数版、『平家物語』は一五版を数えたという。 さらに、『徒然草』『伊勢物語』『源氏物語』『万葉集』『古今和歌集』『枕草子』『方丈記』など、いまでいう「日本の古典」の出版がこれに続いた。それまで公家や知識人の間で細々と伝写されてきた本が、語釈・注釈や解説、時に挿絵付きで出版されるようになった。一定の知識さえあれば独力で読解できるテキストとなって、人びとの前に姿を現したのである。」
—『江戸の学びと思想家たち (岩波新書)』辻本 雅史著
「 『徒然草』は歌学・俳諧とも深くつながっていた。俳諧の「付合」とは、前句に次々と句を付け足していく文芸だが、そのやり取りは、古典や故事を踏まえた言語遊戯の面が強い。俳諧に限らず、和歌・連歌・謡曲、浄瑠璃や歌舞伎なども、その着想や素材は内外の古典にあった。近世の諸芸は古典故事に依拠するものが多く、諸芸に親しむにはその知識が求められた。その点『徒然草』は、内外の古典や故事を豊かに踏まえており、さらに智恵や教訓に満ちていたので、魅力的なテキストであった。」
—『江戸の学びと思想家たち (岩波新書)』辻本 雅史著
「天明六年(一七八六)には『経典余師四書之部』が出た。著者は渓百年。このシリーズのほかにその名をみない無名の儒者である。経書本文を「平ガナニてざっと解」いた「師要らずの書籍」と銘うった自習用の学習書である。版を重ね、明治初期にも改版が出るほど、ベストセラー、ロングセラーとなった。『経典余師』シリーズはその後も陸続と続き、「尋常ならざる量の発行部数」であった(鈴木俊幸『江戸の読書熱』)。こうした学習書の刊行状況から、読書によって学問をめざす読者が、元禄以降に畿内を中心に現れ、やがて各地に広がりを見せ、その後も時代とともに裾野を広げていった。書籍の流通が〈自学する読者〉〈読書する民衆〉を生み出したといってよい。この点は第四章で、貝原益軒に即して改めて考えてみたい。」
—『江戸の学びと思想家たち (岩波新書)』辻本 雅史著
「東アジア儒教文化圏のなかで、日本には科挙がなく、学問が制度化されることがなかった。それは、日本の儒者には社会的身分の保証がなかったことを意味している。林羅山が幕府に仕え、貝原益軒が福岡藩に召しだされたように、儒者が政治世界に入った例がなかったわけではない。また、一八世紀半ば以降は、事情もやや変わってきた。藩校が普及したこの時代には、藩士に儒学を教える職業教師、とくに藩校の教師が増えたのである。しかし近世全体を見わたしたとき、政治制度のなかに儒者の居場所がつねに用意されていたわけではない。にもかかわらず、儒者として生きた知識人は少なからずいた。しかも時代とともにその数は確実に増えていった。」
—『江戸の学びと思想家たち (岩波新書)』辻本 雅史著
「ちなみに貝原益軒は、一日一〇〇字ずつ一〇〇回復誦すれば、四書の素読は、総計五万二八〇〇文字だから五二八日、一年半ほどでだれでも終えられるという。四書の素読が済めばいかなる漢文も自在に読める、そう益軒はいう。徂徠もほぼ同じことをいっているから、益軒の言は誇張ではなかったのであろう。近世に共有された考え方であったと思われる。」
—『江戸の学びと思想家たち (岩波新書)』辻本 雅史著
「漢文は知的言語、思考言語であると述べた。そもそも思考は言語によってなされるから、思考活動は言語活動の一種にほかならない。とすれば、どの言語で考えるか、それは思考する知の内容や形式と不可分に関わってくる。たとえば SNSで使う言葉と学校教科書の文字言語は、同じ日本語であったとしても、その思考の質と内容は大きく異なってくるだろう。笑いを強要するテレビの娯楽番組の口語によって、学校の授業の内容を正確に伝えることはむずかしい。「伝える知」と「伝えるメディア」とは不可分に関わる。いかなる言葉で考えるのか、それはその思考の質や内容と切り離して考えることはできない。」
—『江戸の学びと思想家たち (岩波新書)』辻本 雅史著
「 禅は「不立文字」が基本である。文字で書かれた仏典の教えより、自らの心によって直接に「悟り」をつかもうとする立場である。そこでは、瞑想して精神統一をめざす禅定(坐禅)がとりわけ重視された。また具体的な課題について当意即妙に応答する「公案」の方法も、臨済禅の重視するところである。ただ禅は、厳しい修行を通した己の内面への深い沈潜によって「仏性」の自覚(「開悟」)をめざす。そこでは、世俗的な人間の関係性は、開悟を妨げる迷妄として斥けようとする。この点、あくまで世俗の人間関係のなかでの己の確立をめざす朱子学とは、相いれない。土佐での禅体験で心の確立の重要性を学びつつも、他方で、谷寺中や野中兼山らと南学派朱子学を学ぶことで、闇斎は、禅との決別を選択するにいたった。」
—『江戸の学びと思想家たち (岩波新書)』辻本 雅史著
「朱子もかつては禅も学んでいたが、『中庸章句』序文において、横行する異端邪説、なかでも仏教と思想的に対決し、仏教と儒学とを峻別し、「道」の正統性を明らかにした。中国には古くから、儒・仏・道それぞれの優劣や三教の合一に関する議論があるが、朱子の場合は、儒教の立場から「道」の本源を論じた「原道」(唐の韓愈の論説)を継承するという意図があった。朱子は、堯舜ら古代の聖人たちが一筋に伝えてきた真理(天地自然にもとづく絶対の理法)の伝統を明確にし、それを定式化して「道統の伝」とした(『中庸章句』)。このように朱子学は、道の正統性を示す「道統」を、仏教との絶えざる格闘によって明確にすることで成立した思想である。ゆえに闇斎の『闢異』執筆は、朱子の後継たることの宣言だったのである。 仏教が盛んな時代に、儒学の意義を主張しようとすれば、仏教とのちがいを際立たせる必要があった。とりわけ禅は、朱子学と方法論が酷似している。だからこそ、自らの正統性を証明するために、禅仏教とのちがいを声高に主張しなければならなかった。『闢異』の著作は、「原道」を継承した朱子と同じ道をたどろうとした闇斎の思想的表現だったのである。」
—『江戸の学びと思想家たち (岩波新書)』辻本 雅史著
「漢文は素読を通して身体化されている。だから口と耳、リーディングとスピーキングを排し、目で原典に直接向かうだけで、そのテキストを正確に理解できる。闇斎の「講釈」とも、仁斎の「会読」(ほぼ訓読法によっていた)とも、よほど異なった方法である。闇斎と仁斎への方法論上の対峙が、徂徠学の形成につながったと先に述べたゆえんである。」
—『江戸の学びと思想家たち (岩波新書)』辻本 雅史著
「 貝原益軒(一六三〇─一七一四)は、近世社会が安定期を迎えた元禄期前後に活動した儒者、朱子学者である。丸山真男以来、「朱子学者」との見方を疑う見解も少なくないが、私見では、益軒はどこから見ても朱子学者である。 益軒は、福岡藩の祐筆役(一種の書記官)の五男に生まれた。京都留学の経験をもつ兄もいて、貝原家は藩内ではひとかどの学者の家であった。家庭環境は知的に恵まれていたのである。父が不遇であった一時期、幼い益軒は福岡城内から出て、福岡市中や山間部の田舎で暮らした。六歳の時に母が病死し、庶民女性に養育されたらしい。身の回りの世話を受けたのだろう。後にみる益軒の庶民生活への正確な理解と関心は、子ども期の民衆社会での生活経験が下地にあったからにちがいない。」
—『江戸の学びと思想家たち (岩波新書)』辻本 雅史著
「では、「天地につかえる」には、実際にはどうすればよいのか。それは、生命を生みだす大自然の「生々の心」に随うこと。具体的には「仁」の徳を実践することである。仁を実践する内容にも大きく二つある。第一は「人倫を愛する」こと。つまり「五倫五常」に随って、君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友の五つの人間の関係(五倫)において、正しくふるまうことである。第二は「物を愛する」ことである。「物」とは、自然界の命ある生き物すべて、要するに禽獣虫魚草木の総称である。それを、「礼」にかなった方法で適切に用いること。たとえば、鳥獣虫魚の乱獲は「礼」にかなわず、熟さない果実を採ることも「時」を失したことになる。 ここで注目すべきは、人倫世界だけでなく、自然世界も含めて学問をとらえていることである。〈天地─人─万物〉の三者のつながりのなかで、人間としての生き方を考える。ここに益軒儒学独自の特質がある。「天地の道」を規範として、われわれは他者(人)と自然界(万物)にいかに正しく関わって生きていくのか──それが、益軒の根本にある「問い」であった。」
—『江戸の学びと思想家たち (岩波新書)』辻本 雅史著
「 儒学が漢文による限り、大多数の庶民には縁遠い。しかし益軒本は、日常の読み書きさえできれば、だれでもがたやすく読める〈学問の書〉であった。第一章でふれたように、近世人は自らの生の拠り所を、宗教よりも学問に求める傾向にあった。近世はどこまでも「世俗の時代」である。一方に、漢文に親しむ少数の知識人層があり、他方に、手習塾で文字リテラシーを身につけた圧倒的多数の民衆たちがいる。そしてその中間に、漢文習得にはいたらないまでも、益軒本などの和文の本で教養をたくわえた文化的中間層が存在していた。それが、第一章で述べた「読書する民衆」である。かれらこそ、近世の学問を、すそ野のところでしっかりと支えていた人びとであった。」
—『江戸の学びと思想家たち (岩波新書)』辻本 雅史著
「益軒は、「読書する民衆」の学問への需要を感じ取り、それに積極的に応えた。そのための手段が出版メディアであった。これを反転して考えてみれば、益軒本の量産が「読書する民衆」をさらに創出することに貢献したにちがいない。「役に立ち、ためになる」という益軒本を目の前にして、それを読みたいと願う人たちの需要を新たに掘り起こしたと想定できる。 益軒自身、幼少時に就くべき師匠はおらず、日用的な和文の書物をひとりで読んで教養を身につけていたということを、もう一度思い起こしてほしい。長じて京都で学ぶうち、次第に勢いを増してきた上方の商業出版が、民衆のための新たな「知のメディア」であると、益軒の眼には映っただろう。元禄期はあたかも、西鶴の浮世草子が数千部も出版された時代である。本を読む人口が増え、出版が商売として十分に成り立つ時代になった。そのメディアの可能性を自覚して、益軒の旺盛な著作執筆の活動が始まったということになる。 本を読んで勉強し、必要な知識を得て教養を身につける。思えば、今のわれわれにおなじみの学びの風景が、このころすでにみられ始めたことになる。それは、三〇〇年あまり前のことである。」
—『江戸の学びと思想家たち (岩波新書)』辻本 雅史著
「梅岩はどのように学んだのか。丁稚あがりの奉公人に、特定の師匠に入門して学ぶ自由はなかった。だから素読や講釈などの正統的な儒学学習の機会はなく、梅岩の学びは独学自習でしかなかった。では、どのように独習したのだろうか。 まずは書物を読むことであった。ただ、和刻本によって廉価になったとはいえ、一介の奉公人が本を入手することがどの程度可能であったのか。簡単ではなかったにちがいない。奉公先の理解ある老母の助けもあったかもしれない。当時普及してきた貸本屋も利用しただろう。益軒が想定していた「読書する民衆」の姿が、梅岩に重なって見えてくる。 「益軒本」の量産は、益軒が七〇歳(一七〇一年)を過ぎてから没年(一七一四年)までの一〇年余り。いっぽう、梅岩の学が花開くのは、梅岩四〇代、つまり一七二〇─一七三〇年代であった。とすれば、梅岩の修学期間に、益軒本は十分に流通していたことになる。 懐に本をしのばせ、仕事の合間、顧客を待つすきまの時間などに、それを開く。四書五経も、そのようにして読んだのだろう。しかし素読の学びを経ていないから、漢文を原文で自在に読むことはできなかった。かれ自身「四書五経にさへ、仮名して読来れり」と認めている(『斉家論』)。また、後述のように享保四年(一七二九)に開講した当時も、「四書ノ素読モセザル〔無学の〕者」と世間からあざけりを受けた(『都鄙問答』)。四書の素読経験もないまま、せいぜい訓点付きの和刻本で読んでいた程度であったろう。たとえば第一章でふれた中村惕斎『四書示蒙句解』(一七〇一年序、一七一九年刊)くらいは読んだであろうが、毛利貞斎『四書集註俚諺鈔』(一七一五年刊)を読みこなすのはむずかしかったにちがいない。」
—『江戸の学びと思想家たち (岩波新書)』辻本 雅史著
「 梅岩は享保一四年に京都市中で開講した。しかしその講釈は、あんがい難解で、聴衆も少なかった。梅岩が講釈で「常に説きたまひし書」は、「四書・孝経・小学・易経・詩経・太極図説・近思録・性理字義・老子・荘子・和論語・徒然草等」(『石田先生事蹟』)であったと伝えられている。『都鄙問答』にもこれらの引用が少なくない。ここに列記された書のうち、「四書」以下『性理字義』にいたるまでは、いずれも朱子学の基本テキストである。」
—『江戸の学びと思想家たち (岩波新書)』辻本 雅史著
「堵庵は修行や教化の方法も革新した。梅岩が採った学問と教化の方法は、「読書、静坐工夫、会輔、講釈」の四つであった。文字や書物の学に懐疑の眼を向けていた梅岩だが、修行時代にはみずから積極的に本を読んでいたから、「読書」そのものを否定したわけではない。むしろしばしば書物から引用していた。またかれは、もともと内にこもる求道者タイプであったから、座して深い思索に浸り「静坐工夫」を凝らすことも少なくなかったにちがいない。それが堵庵になると、上記四つのうち、自力で学ぶ「読書」と「静坐工夫」が後退し、逆に共同学習としての「会輔」と不特定多数の聴衆に向けて語る「講釈」の比重が格段に高まってきた。」
—『江戸の学びと思想家たち (岩波新書)』辻本 雅史著
「堵庵はそのことを、伝聞で聞くのと自分の眼で見るのとでは「大きに違ふもの」としたうえで、そのちがいを比喩で説明する。安芸の厳島は江戸時代から「日本三景」のひとつ。厳島のことを伝聞で耳にし、本や絵図でも詳細に知っている人が、実際に厳島に参詣してみるとどうなるか。すでに承知しているのと寸分違わない光景を、たしかに目の当たりにする。が、「違はざるに似て甚相違あり」、ちがっていないようだが、とても大きなちがいがある。「本心をしりたるは往て直に見たると同じ」(堵庵『知心弁疑』)。絵図や物語は、知識によって厳島を理論的に理解する仕方。実際に現地に行って厳島を体験することは、梅岩の開悟と同じく、真に心を知る理解である。つまり心学道話は、絵図ではなく、直接体験させる語りなのであった。 このように、心学道話で重要なのは、聴衆にいかに体験させるかという一点にある。体験させるためには、心情的共感を誘発させることが肝要だろう。この意味で、心学道話は、聴衆に感動を体験させる「語りのメディア」であったといってよく、そのためには、劇場的な集団的空間が有効であった。」
—『江戸の学びと思想家たち (岩波新書)』辻本 雅史著
「宣長は、生涯に和歌を一万首以上詠んだという。和歌を詠むということは、かれには日々生きることの一部となっていた。ではなぜ、やみがたき人情を表現するのに和歌がふさわしいのか。 榎本恵理は宣長の言語観に注目する。「文字ハ異国ノ文字ニテ、仮用ヒルマデノ事」、文字(漢字)はもともと中国のものであり、それを使うとしても、わが国の言葉を表現するための「カリ物」(借り物)でしかない(『排蘆小船』)。後の歌論書『石上私淑言』(宝暦一三年〈一七六三〉ころ成立)では、「詞は本にして文字は末」、「言を主とし、文字を僕従としてみるべき事」という。文字(漢字)はあくまで声を表記するための手段(「末」「僕従」)であって、声のことば(「詞」「言」)こそが本体である。このように、音声言語の優位性を強調してやまない。ところが今の学者たちは、漢文という書記言語に依存している。そのため、文字と声の本末を逆に考えてしまっている。かれらはそのことに気づいてさえいない。宣長は、こうした言語観をもとに、儒者・漢学者を批判した(榎本「方法としての和歌」)。」
—『江戸の学びと思想家たち (岩波新書)』辻本 雅史著
「わが国にはもともと文字はなかった。漢字が伝わり文字を書き始めたが、当初は漢文で書くしか手立てはなかった。その結果、わが国の「心ばへ」も「漢意」になってしまった。宣長はそういう。裏からいえば、漢字以前のわが国(「天照大御神の御国」)は、心も行いも話す言葉も優雅ですなおなままであり、そのため天下は穏やかにおさまっていた。まことに「めでたく妙なる御国」であった(『石上私淑言』)。使うメディア(漢字)が人の心の在り方(「心ばへ」)まで規定してしまうという認識が、ここにみいだされる。現代メディア論に通底する認識といってもよい。」
—『江戸の学びと思想家たち (岩波新書)』辻本 雅史著
「 敬宇は、ロンドン滞在中、素読を日課としていた。毎朝、客舎で『唐宋八家文』『左伝』『史記』などを声に出して誦していたという。古典漢文は、かれには血肉化されていたから、テキストは不要であった。役に立つはずもない漢籍の素読を、しかもロンドンの地で日々行っていた。それはなぜか。生粋の朱子学者であったかれの知的思考は、漢文の枠組でなされていたにちがいない。とすれば、日課の素読によって、異質な知に向き合うかれの思考は、研ぎすまされより活性化したのではないだろうか。加えて、あとで中江兆民についてふれるように、漢文言語は西洋近代の思考様式と親和性があったと考えられる。」
—『江戸の学びと思想家たち (岩波新書)』辻本 雅史著
「さらに東京大学教授として教えた体験からも、「漢学の下地」がある学生は英学でも伸びしろが大きい。また洋行した留学生も、「漢学の下地」の有無でその後の成果に雲泥の差を生じる。その論説で、敬宇はそう断言する。漢学学習が後退する現実を目の当たりにして、みずからの体験をもとに、漢学の素養が(洋学学習の基盤としても)いかに重要か、確信をもって主張したのである。」
—『江戸の学びと思想家たち (岩波新書)』辻本 雅史著
「ドキッとした。もしかして、と思った瞬間、政志に両頰をつままれた。「えっ?」「うん、やっぱりつきたてのお餅」 政志は、クイズを当てた解答者のように頷いた。 この頃から、政志の撮り方は独特だった。被写体をちゃんと理解してからじゃないと、シャッターを切らないのだ。正確には、自分が本当に良いと思わないと、シャッターを切りたくなかった。「もうちょっとええ?」 呆気にとられている若奈を尻目に、政志は興味津々の顔で、髪に触れて質感を確認し、鼻を近づけてクンクン匂いを嗅いだ。「な、何なん?」「あ、メリットや。ウチの母ちゃんと一緒や」 若奈は、慌てて後ろを向いた。中二の女子にとって、使っているシャンプーを当てられるのは、寝起きのボサボサ頭を見られるよりも恥ずかしい。それも、好きな人のお母さんと一緒のシャンプーだなんて、なおさら恥ずかしい。 やっと納得した政志は、後ろ向きの若奈に、カメラを構えた。 浅田君に、私は、触られた。 胸のドキドキが鼓膜まで揺らしている。若奈は改めて確信した。 やっぱり、私は、浅田君が好き。 「……あのさぁ、ず ~っと聞きたかったんやけどさぁ、浅田君は、ウチのこと好きなん?」 一か八かの思いで政志に尋ねると、一秒、二秒、三秒、四秒、五秒後にやっと、返事が戻ってくる。「たぶん……好き」 若奈は、ゆっくりと振り返った。嬉しくて、嬉しくて、嬉し過ぎて、今、自分がどんな顔をしているのか、自分でもわからなかった。カメラを構える政志の顔もわからなかったが、口元はニヤッとしているように見えた。『カシャ』」
—『浅田家! (徳間文庫)』中野量太著
「学校の勉強は大の苦手だったが、運動神経がそこそこ良かった政志は、中学校のバスケ部でそこそこ活躍していたのが認められ、地元の工業高校ならスポーツ推薦で入学できることになり、両親を大いに喜ばせた。 しかし、入学後、そこそこの選手が、そこそこしか練習しなかったら、そこそこにも成れず、あえなく挫折。早々にバスケ部を辞め、写真部に転部した。 普通ならマネージャーになるか、学校を辞めてしまう生徒もいるケースだが、政志は、転部先で活躍し、高校生活を大いに謳歌。スポーツ推薦で入学して、写真部として卒業するという、学校史上かなり稀な生徒になった。」
—『浅田家! (徳間文庫)』中野量太著
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闇斎→仁斎→徂徠→益軒→梅岩→宣長→篤胤の順で、漢籍、倫理などの学びがどのように変遷していったのかを、簡潔にわかりやすく。素読百回か、カリスマ的な師の喝を受けるか、同好の士と談論風発が良いか、という軸と、経世の学を求めるのか、魂の沈静を求めるのかという軸が、くるくる回りながら江戸時代が流れて行く。
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江戸時代の思想家たちを、時代の流れとともに解説、考察された本。
歴史が全くわからない私でも、それぞれがどのような視点で学問を捉え、何を重視して広がっていったのかがよくわかった。
改めて昔の人は現代人よりも心を律することや心持ちを大切にしていたのだなぁと感心した。
取り上げられた人はそれぞれ置かれた立場やバックグランドから目の付け所は違えど、思想家に限らず民衆までもがより良い世の中のため、人生のため色々の思考を巡らせていたのだなぁ。
現代を生きる私たちにも、きっと必要なことなのだと考えさせらました。 -
『江戸の学びと思想家たち』を読んで、素読という学びの深さに強く感銘を受けた。
著者が「テキストの身体化」と表現しているように、言葉を声に出して繰り返し読むことで、知識が単なる情報ではなく、身体の一部として染み込んでいく。
その蓄積が、後に思想や哲学を生み出す土壌になったのだと思う。
貝原益軒のように、膨大な知識を整理し、誰にでもわかる形で伝える努力こそ、真の学びの到達点だと感じた。
私自身も、日々の読書や執筆を通じて学びを自分の言葉として体に刻み、社会に還元できるような人でありたいと思う。
江戸の学びは古くて新しい、生きた知の実践だった。 -
■一橋大学所在情報(HERMES-catalogへのリンク)
【書籍】
https://opac.lib.hit-u.ac.jp/opac/opac_link/bibid/1001198672 -
山崎闇斎、伊藤仁斎、荻生徂徠、貝原益軒、石田梅岩、本居宣長、平田篤胤、中村敬宇、中江兆民.一度は聞いたことのある名前だが、経歴や著書、さらに思想的な背景などを、これだけ詳細に読んだのは初めてだったが、非常に刺激を受けた.漢文の素読がある程度の家庭では子供たちに強制された江戸時代だとの論評もあるが、上記の人物ではそのようなステップに恵まれなかった人もいる.独学だ.それだけ書物が普及してい事も驚きだが、そこまでして知識を吸収していった人たちも素晴らしい.現代の学校の機能不全を「終章」で指摘しているが、非常に重要な観点だと感じた.
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型の喪失の近代化。
石田梅岩、マスローグ。
やはりデータと統計処理の意味を見出せるまでの、ほんの助走が近世からだった。
今はもう、単なるデータ抽出レベルでは、立ち行かない環境になってるか。 -
江戸時代の思想家の、特に教授法がよくわかる。時代のメディアとの関連で考察していることが興味深い。もちろん、各思想家の概略も説明されているが、より詳細には巻末の参考文献に頼りたい。今まで、あまり縁のなかった分野であるが、本書をきっかけに学んでいきたい。学び、そしてその身体化において、基本は、いつの時代においても読書(素読であったとしても)にあるを思う。索引があるとよかった。
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維新ものを読んでいて、改めて江戸社会における儒学者たちに興味が向いたので、知っている著者で手に取った一冊。
近世儒学者たちの思想が、論旨である学びの型という視点から分かりやすくまとめられており、詳しくないわたしにも一人一人の考えが概観できる内容だと思った。
個人的には最終章で取り上げている明六世代について、もう少し厚みがあると論旨が一層際立ったと思う。他の章で取り上げている人物たちと比べると、少し物足りなさを感じた。
しかし、近世の思想の潤沢さについて改めて気付かされたし、知の身体化という観点自体から学びを見つめ直したときに、考えさせられることは多い。
やはり、歴史を通じて生きている今を相対化するという活動は大事なのだと感じた一冊である。 -
東2法経図・6F指定:B1/4-3/Nakada
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<目次>
序章 知のつくられ方
第1章 「教育社会」の成立と儒教の学び
第2章 明代朱子学と山崎闇斎
第3章 伊藤仁斎と荻生徂徠
第4章 貝原益軒のメディア戦略
第5章 石田梅岩と石門心学
第6章 本居宣長と平田篤胤
終章 江戸の学びとその行方~幕末から明治へ
<内容>
日本の教育と儒学の関わり、そこから離れていく国学などを説いた本。儒学の教育の仕方=「素読」。貝原益軒はメディアを使って出版化し、儒学を易化。石田梅岩(それよりも手島堵庵か?)は音読に。国学は両者を取り入れて、明治になっても漢学の素養が、国家を牽引していった要素だったようだ。 -
著者プロフィール
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