民俗学入門 (岩波新書 新赤版 1910)

  • 岩波書店 (2022年1月24日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (252ページ) / ISBN・EAN: 9784004319108

作品紹介・あらすじ

普通の人々が営む日々の暮らしを深く知り、驚く。人生と生活の細部に直に触れ、世界の奥行きに畏怖しながら、複数の歴史を「私(たち)」からつかみ出す。繰り返される過ちから目をそらさず、よりよい未来を考えたい。これが民俗学のエッセンスである。「人間にかかわることすべて」に開かれた、野心的な「共同研究」への誘い。

AIがまとめたこの本の要点

プレミアム

みんなの感想まとめ

日常生活や人々の営みを深く探求する民俗学の魅力が、平易な言葉で紹介されています。入門書として、難解な印象を与える序論から始まりますが、各論では身近なテーマに触れながら、興味を引きつける内容が展開されま...

感想・レビュー・書評

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  • 254P

    SNSは承認欲求とかって批判されがちだけど、私は民俗学的な視点でSNSを観てるからSNS結構好き。人の暮らしとか食、子育て、色々なのが観れるから。悪い面しかないものなんて無いと思う。

    「民俗学とは人々の「せつなさ」と「しょうもなさ」に寄り添う学問である」という『民俗学入門』(菊地暁・岩波新書)の書き出しは素敵

    民族学=今(または近代)の人間文化を観る学問

    考古学=モノから過去の人間文化を読む学問

    菊地 暁(きくち あきら)
    1969年北海道生まれ。京都大学文学部卒業、大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。身長186cm
    現在―京都大学人文科学研究所助教
    専攻―民俗学
    著書―『柳田国男と民俗学の近代――奥能登のアエノコトの二十世紀』(吉川弘文館)、『身体論のすすめ』(編、丸善)、『今和次郎「日本の民家」再訪』(共著、平凡社)、『日本宗教史のキーワード――近代主義を超えて』(共編著、慶應義塾大学出版会)、『学校で地域を紡ぐ――『北白川こども風土記』から』(共編著、小さ子社)

    ヒトは言葉がある事で他の動物より賢いが、言葉がある事で中途半端に賢いって本当に分かる。言葉って本当に中途半端な賢さのツールだなといつも思う。

    『民俗学入門 (岩波新書 新赤版 1910)』 菊地暁 #ブクログ #KindleUnlimited #読書@Iwanami_Shinsho
    https://booklog.jp/item/1/4004319102

    「民俗の内容が以下のように列挙されている。 ①衣食住に関するもの   ②生産・生業に関するもの ③交通・運輸・通信に関するもの   ④交易に関するもの ⑤社会生活に関するもの   ⑥口頭伝承に関するもの ⑦信仰に関するもの   ⑧民俗知識に関するもの ⑨民俗芸能・娯楽・遊戯・嗜好に関するもの ⑩人の一生に関するもの   ⑪年中行事に関するものところどころ特殊な用語が含まれているので、正確には理解しがたいかもしれないが、およそ人間の一生にまつわる一切合切が網羅されているということは伝わるだろうか。そうなのだ。民俗学とは、人間の一生を一通り考えてみようとする、よくいえば野心的、悪くいえば無謀なガクモンなのだ。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「ここで、ガクモンにおける「概念」「方法」「理論」は「道具」である、ということを確認しておきたい。というのも、ガクモンにとって方法論が大切なのは勿論だが、方法論を無闇矢鱈と振り回すことがガクモンというわけでもないからだ。方法論の領域を正しく定位することが肝要となる。  さて、「方法論とは何か」だが、文字通り「方法を論じること」である。拍子抜けするかもしれないが、そうなのだ。そしてより重要なのは「方法とは何か」であり、それは「素材 =対象の扱い方」である。つまり、対象の扱い方 =方法を論じることが「方法論」だ。この「方法」と「方法論」の区別が大切なのだが、これができていない論者は意外にも多い。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「能力の有限性という問題に立ち入ったので、本書が前提する人間観について一言しておこう。それは、「中途半端に賢い生き物」というものだ。ホモ・サピエンスと呼ぼうが万物の霊長と呼ぼうが、ヒトが自然に属する生命の一つであることは間違いなく、自然法則は人間存在を貫いている。呼吸も摂食も排泄も、なしですませるわけにはいかないのが人間という存在だ。  その一方、ヒトは神のごとき全知全能ではないものの、無知無能というわけでもなく、相応の認識力と実践力をもって世界と対峙できる。ヒトは「中途半端に賢い」。わけても、「ことば」という能力を媒介として世界を認識し、経験を蓄積し、他者と交渉できることは、ヒトという存在のユニークな特徴だ。このことが、人の世の法や秩序をもたらし、芸術や宗教や思想を可能にしたわけで、人類文化史は「ことば」と共にあるといって過言ではない。だが、そこに落とし穴もある。「ことば」は本質的にゲームの規則のようなヴァーチャルな存在で、その「ことば」に基づいて産み出された人間のルールには、自然法則のような客観的根拠が存在しない。これが大問題なのだ。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「人の世のルールは、「自然」に制約されないが故に自由に展開するが、人々に進歩をもたらすばかりでなく、時に、その生存を疎外してしまう。先を急ぐと、その最たるものが「資本主義 capitalism」であり、それは人類に数多の利便をもたらしたと同時に、無数の「生き辛さ」を引き起こしてもいる。ヒトは中途半端に賢いので、それなりの変化には対応できるのだが、それも「生き物」という「自然」の制約の範囲内でのこと。それに対して、「資本」は「自然」に制約されない仕組みであるため、ヒトのコントロールを飛び越えて際限なく暴走してしまう。そして、「資本」がもたらす果実の甘さを忘れられないヒトは、「生き物」としての自己を犠牲にして、「資本」に邁進してしまう。「生き物の時間」と「資本の時間」、二つの時間の分裂に、ヒトは「中途半端に賢い生き物」として迷い続けるほかない。これが、私たちの現在をとりまく根本問題なのだ。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「民俗学は、単に古き良きを愛玩する好事家の営みなのではない。生活事実を手がかりに、「現在」を照らし出し、その上に「未来」を展望する、市民としての私たちに不可欠な基礎教養なのだ。  このような初志を、その後の民俗学がどれほど貫き通せたかというと、まだまだ不十分だと筆者は思う。ただ、人々の来し方行く末を、身の回りの生活事実から見つめ直すという民俗学のスタンスは、悩み多き現代を生きる私たちにとって、今なお大切な一つの「迷い方」かもしれない。この意味で、じつは民俗学は、歴史学や社会学や経済学や法学や……といった諸学が「学問分野 discipline」すなわち個別専門分野として存在するというのとはちょっと違った位相に存在する。むしろ、「資料としての私(たち)」を起点に、個別専門分野化するガクモンを問い返し、問い改め続けようとするところに、人々の生活の「まるごと」を引き受けようとする民俗学の本願があるのだと考えたい。民俗学はガクモンだがガクモンブンヤではないのかもしれない。多分、それでかまわない。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「専門用語は、新たな視界と思考を開くカギであり、先人が膨大な時間と労力を費やして産み出した得難い遺産である。このおかげで、後世は、先人の観察と思索の成果を踏み台として、さらに先に進むことが可能になる。ガクモンという営みにとって、とても大切な存在だ。  とはいえ、そうしたカギを最初から全部揃えておかなければならないとすれば、いささか煩瑣だ。次の部屋、次の問題系へレベルアップしなければならない、そう感じた瞬間にカギを調達するということでもかまわないのではないか。そんなわけで、民俗学の「ファースト・キット」を目論む本書は「最初の部屋」への「最初のカギ」を置いておくことに終始している。「次の部屋」への「次のカギ」を手に入れるには、また別の機会があるだろう。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「[日本的]ある時点で日本社会において主要である、という意味で用いる。それが肯定的なものか否かは問わない。さまざまな例外の存在を否定するつもりはないし、超歴史的な存在として措定するつもりもない。

    [伝統的]前近代において成立していた様式、という意味で用いる。一般には「伝統」はプラスの価値を持つとされ、「過去の中から発話者が肯定的に選び取ったもの」というのが「伝統」という用語の内実かと思われるが、本書では価値中立的であろうとしている。伝統的だからといって良いものだとは限らない。ただ、そのような様式が成立した歴史的意義は確認する必要があろう。  

    この二つをあえて確認しておいたのは、民俗学が「日本の伝統」を扱うガクモンだとみなされがちだからだ。じじつ、民俗学にその蓄積はあるのだが、じっさいのところそれは副次的な結果であり、民俗学というガクモンの本願はそこではない、というのが筆者の考えである。以下、追い追い説明していくこととしよう。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「去年[一九六三年]の一〇月、西イリアン中央高地の東玄関口に当るワメナに、二〇歳のドイツ人と二四歳のオーストリア人が来た。ドイツ人は哲学、オーストリア人は美学専攻の学生。二人の青年は、パプアの〝哲学〟を研究するとかで、ワメナから三時間ほど離れたダニ族の部落に一週間住みこんだ。/哲学を知るには、現地人同様ハダカで生活しなければならんと、青年たちは考えた。二人は一糸まとわず素っぱだかになり、部落をうろついた。男たちはぶったまげ、女たちは家に逃げこんだ。この部落のチーフは、四八人の妻を持つ〝大富豪〟だった。青年たちの奇怪な行動をたしなめ、「せめてこれでも着たら」とゴサガ(モニ語)を与えた。ゴサガとは、男性の象徴のみにかぶせる円筒形のケースである。だが、二人はそれさえ拒んで、ハダカの生活による哲学研究をつづけた。ワメナ駐在のインドネシア警察は、二人を逮捕し、西イリアンから強制送還した。/これは、ワメナの警察からきいた実話である。(二九 ~三〇頁)」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著


    「このエピソードには「裸」と「衣」の根源が示されているといえよう。股間を筒で隠すだけの男性、下半身を腰蓑で隠すだけの女性は、常識的には「裸族」と称して差し支えないのかもしれない。じじつ、西欧から来た青年二人はそのように考え、自らも「裸」になることでその中に飛び込もうとする。しかし、当のニューギニア人の感覚は違っていた。彼ら自身は自らが隠すべき部分を隠した「着衣」であることを疑わず、文字通り一糸まとわぬ青年二人は、彼らを困惑狼狽させる「裸」でしかなかったのだ。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「というのも、女性が作り出した糸や布や服に、女性に由来する呪的な力が宿るとする観念が広範に見出されるからだ。女性の織った布が恋愛や婚約の証となり、あるいは婚礼の贈答品となる慣行は各地にあり、また、女性の作った布がその夫や子、父や兄弟を守るというモチーフも伝説や昔話に広く伝えられている(柳田國男『妹の力』創元社、一九四〇)。手編みのマフラーやセーターを想い人に贈る女性にまで、その心意は通底しているのかもしれない。  「千人針」もそうした慣行の一つである。それは、千人の女性が一針ずつ縫った手ぬぐいが、戦地の男性を敵弾から守るとする俗信であり、戦中、街頭や学校で多くの女性が出征する兵隊のために赤い糸を縫った。虎に因むと効果が高まるとされ、寅年生まれの女性の一針が喜ばれたり、虎の柄が刺繡されたりもした。こうした千人針の遺品を手がかりに、その縫い手や貰い手の数奇な人生を訪ね歩いた服飾デザイナー森南海子は、次のように述べている。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「千人針というのは確かに作り手は女です。布と針と糸がつくりあげた世界です。女から男への心をこめた贈りものであったことも確かです。しかし、女のつくったものでありながら、それはいつしか男たちの心に女たちの想像の及ばない灯をともしつづけることになってしまった、ということを私はいま知らされようとしているのです。/あるいはそれは女からの贈りもののおそろしさともいえましょうか。あるいはそれは生と死の極限の状況の中で男たちがつくりあげていった、生への希望であったのかもしれません。(森南海子『千人針は語る』海竜社、二〇〇五、一九頁)」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「さらに、生産流通という側面からも考えておこう。日本全国一万余の市町村、行ったことのない土地はないという伝説的フィールドワーカー宮本常一(一九〇七 ~八一)は、各地に暮らす人々の調査に際して「洗濯物」に着目したことでも知られている。確かに洗濯物は、家族構成、性別、年齢、経済状態、服飾の嗜好など、様々な情報を読みとることのできる豊饒なテクストだ(じっくり観察すると現代日本では通報されかねないが)。戦前戦後の日本を歩き続けた宮本は、下着をめぐる転換を次のように述べる。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「干してある洗濯物を見てもいろいろのことを考えさせられる。干されているものを見ると手縫いのものはないようである。いつの間にかわれわれが身につける下着はすべて購入品にかわってしまった。昭和三〇年頃までは干されているものを見ると手縫いのものが多かった。ミシンで縫ってあっても、自製のものが少なくなかった。ということは下着に一定の型がなかった。と同時に、つぎのあたっているものが少なくなかった。つぎのあたったものを着なくなったのは昭和三五年頃が境であった。そして多くの女性たちはあまりミシンをつかわなくなって来た。その頃までいたるところに見られた洋裁塾や洋裁学校が姿を消していった。/そしてその頃から流行が、自主的な意志によっておこなわれるよりも商業資本の企画によって左右されるようになって来る。今年は何がはやるかということが、前もってわかることになった。いつの間にか人間の意志がかすんだものになってゆきはじめた。(『空からの民俗学』岩波現代文庫、二〇〇一、一六五頁)」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著


    「 「寄せて上げるブラ」に即していえば、その存在の不思議さは容易に語り尽くされるものではない。なんとなれば、乳房の揺れやズレを防ぐといった機能的必然性は存在するかもしれないが、それをフォルムとボリュームを整えて美しく魅せなければならないという必然性は、客観的には存在しないからだ。そのような必然性が存在しているかのように感じられるとすれば、それは、女性の自らの身体に対する欲望、女性の乳房に対する男性の欲望、あるいは、男性が女性の乳房を欲望しているということに対する女性の予期……そういった欲望と予期が複雑に交錯し堆積する中から立ち現れる間主観的、社会的リアリティの結果にほかならない。私たちの身体は、どこまでも物理法則に従属する自然的事実でありながら、その実在をめぐる知性や感情や意志が幾重にも浸透した社会的事実でもあるのだ。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「男子の場合、下着の社会性はブリーフからトランクス/ボクサーパンツへの移行という形で現れる。小学校高学年や中学校の体育の着替えで白ブリーフをバカにされる、というのが共通パターンで、そこから先は解放感重視のトランクス派と安定感重視のボクサー派に分かれることとなる。身体的な変化とはほぼ無関係な点が、女子と異なるところだろう。次の韓国からのレポートも徴兵という社会的な変化だ。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「食べることは不可欠だ。しかも、その食べ物は、塩などごく一部を除くほぼ全てが「生き物」であり、「殺生」は不可避となる。おまけに、「殺された」生き物は「腐敗」を免れない。つまり、生き物を殺生し、腐敗する前に摂取するという営みを、命の続く限り繰り返さなければならないこととなる。ヒトを含めた多くの生き物が、食糧確保に多大な時間と労力を費やすのも当然といえよう。  ここまででも充分に煩瑣だが、ヒトの食はこれに輪をかけて煩瑣だ。というのも、ヒトが摂取する「食べ物 food」は、ヒトの生物学的身体が許容する「食べられる edible物」のごく一部に過ぎないからだ。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「食器にも言及しておくと、箸や茶わんや湯飲みが「個人用食器」とされる慣習に着目したのは民俗学者・高取正男(一九二六 ~八一)だった。老若男女全てに個人の食器が与えられ、他人(といっても家族なのだが)が誤用すると何とも言いがたい違和感が生じかねない。そこに西欧近代の個人意識とは異なる日本独自の呪的ないし前論理的ともいえる「個」のあり方が摘出される。個人用の食器とか寝具というのは、近代以前の社会におけるこのようにきびしい家族の共同生活、いつも飢饉の襲来を念頭において食糧の備蓄につとめ、乏しきを分けあった生活のなかで、なおかつ個人のもの、ワタクシとして主張され、その存在を公認されてきたものである。おのずから、近代人の自我とか、それにもとづく私権、プライバシーの主張といったものとは次元を異にするものであり、それらが成立する以前に、すでに存在したものである。だからまた、近代的な自我とちがって簡単に言葉にならず、理屈でも表現できない、ないしは理屈とか論理以前の、もっと根源的な人間の心のもちかたの直截な発現というほかないような、そういう意識にもとづいていると思われる。(『民俗のこころ』朝日新聞社、一九七二、八六 ~八七頁)」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「個人主義の西欧と集団主義の日本という粗雑で不正確な二項対比を退け、日本的な「個」の表現型と近代的な自我意識との差異を救い上げる高取のしなやかな観察に、あらためて敬意を表すべきだろう。そしてその視線の先に、伝統と近代の狭間で迷い続ける日本の隘路が見据えられていることに、今一度瞠目しなければなるまい。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「ハレの食事がそうであるように、同じ火で調理された料理を人々が共食することが、本来のあり方だった。いわゆる「同じ釜のメシ」というやつだ。裏を返せば、一人だけのために調理し飲食することは、共同に反するふるまいとして非難の対象となった。だが、近代化にともなう生活スタイルの多様化は、人々が日常的に共食することを困難にし、一人一人がそれぞれのタイミングで個食する状況をもたらす。一人分を調理する加熱器具はその過程で工夫されたものだが、それ以上に、「火の神道の譲歩」すなわち「同じ火で調理された料理の共食」という規範に人々がとらわれなくなったことが、変化の根底にあるというのだ。慧眼といえよう。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「 「ハレ」とは、日々の暮らしとは異なる特別な機会のことで、伝統的な庶民生活にあっては、年ごとに繰り返す「年中行事」と人生の節目に行われる「人生儀礼」が主なものとなる。ハレの機会に装いやしつらいを改め、めったに口にできないご馳走を食べることが、平常の質素な生活と対比されて特別な印象をもたらすわけで、こうしたハレ(非日常)とケ(日常)の織りなすリズムが庶民生活を形作った、というのが民俗学の通説である。  そうしたハレの中でも真っ先に思い浮かぶのが正月だ。大晦日の年越しそば、元旦のお屠蘇やお雑煮やおせち、ご馳走を食べ飽きた頃の七草粥など、正月は日程が長く、関係する食物の種類も多い。なかでも欠かせないのが「餅」だ。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「私の母校長野高校は、全国経験もある吹奏楽の強豪校で、県大会を勝ち抜けて東海大会に進出すると、必ず大会会場へ向かう途中にわざわざ南信の伊那に寄り、ソースカツ丼を食べる。何故ソースカツ丼なのか、また、何故わざわざ伊那に行って食べるのか、顧問の先生に聞いてみると、ソースカツ丼の発祥の地が伊那であるそうで、東海大会という、県を越えた大会において長野県の代表として、長野県の代表らしい音楽ができるように、という想いが込められているのだそうだ。その話を聞いてから、当たり前のように受け継がれている伝統にもちゃんと意味があるのだと、ソースカツ丼を食べるたび、身が引きしまる思いがする。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「最後に、自称「台所探検家」のクックパッド社員・岡根谷実里『世界の台所探検――料理から暮らしと社会がみえる』(青幻舎、二〇二〇)が秀逸。言葉も通じない見知らぬ土地で、出合った人々の台所に飛び込む著者の果敢さもさることながら、そこで作られているメニューが親から子へと伝えられた一家団欒を彩る料理であることに感銘を受ける。食は、昔も今も、良くも悪くも、人と人をつなげる営みであることが、改めて思い起こされる。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「戦災後の仮住まいであれ、そこに住み手の創意工夫がある限り、それはアットホームたり得るというわけだ。かくも、ヒトの「安心」には住まいが必要である。それは、荒野を進む幌馬車や海に生きる人々の家船のようにモバイルなものであってもかまわないのだが、ともかく、自分の居場所と感じられる空間が用意されなければならない。生き物としての人が許容しうる物理環境のみならず、心の巣ともいうべき内面を解放できる場所を確保することが不可欠なのだ。  もとより、住まいをどのように実現できるかは、古今東西さまざまな差異がある。民俗学では「常民」すなわち(貴族、武士、僧侶以外の)農民、職人、商人といった人々の住まいを「民の家」すなわち「民家」として研究を積み重ねてきた。その蓄積の原点となったのが、今和次郎『日本の民家』だった。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「日本の建築が畳という単位によって構成されていることも非常に重要だ。畳が庶民に普及するのは相当新しいことであり、また、畳が「たたむ」に由来することからも推測される通り、ある時点まで実際にたたむことができた敷物が、後に常設され固定されるようになったわけだが、ともあれ、イグサという植物の長さに規定された「一畳」という単位に則って建物が出来上がっていることの意味は大きい。パーツの交換、移設、転用が容易であることから、建物の柔軟性( flexibility)や移動性( mobility)は極めて高いものとなっている。日本の住まいの特色として確認しておきたい。  建物の外に目を転じると、手洗いや牛馬舎は母屋と別であることが通常であり、井戸も屋内にはないほうが普通だ。屋敷地を取り囲む垣や塀、門にしても、対応すべき風土と入手可能な素材によって、石垣になったり生垣になったり防風林になったりと、これまた多様だ。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「床材と神仏の関係から民家の歴史を読み解いた今和次郎に倣い、スピリチュアルなるものと家屋の関係を眺めてみよう。神仏その他、ヒトならざる存在を想定する空間を「スピリチュアル・スポット」としておくと、民家では、 ①神棚と仏壇、 ②火まわり・水まわり、 ③玄関と敷地まわり、 ④屋敷神、といった場所が主な出現ポイントとなる。  神棚と仏壇は、伝統的な民家にあっても最もスタンダードな宗教装置だった。神棚や仏壇はしばしば屋根がついているので、社殿や持仏堂がミニチュア化した結果だとする説もあるが、庶民にあっては、御札や位牌をまつる棚がデラックス化した、という経路を想定するほうが蓋然性が高そうだ。いただきものを仏壇に供えたり、賞状や通知表を神棚に置いたり、という経験のある人も少なくないだろう。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「最初に、藤森照信『人類と建築の歴史』(ちくまプリマー新書、二〇〇五)を推したい。古今東西の建築と対峙した著者は、そのユニークな構想を原稿用紙でたかだか二〇〇枚に満たないジュニア向け新書に凝縮させた。始点(原初の竪穴式住居)と終点(二〇世紀のモダニズム建築)に統一性があり、その中間に多様性が存在するという〈紙に包んで捻ったアメ玉〉モデルは、抜群に見晴らしの良い人類建築史だ。個々の建物のディテールに寄り添う「建築探偵」シリーズも併せて読みたい。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    “民俗学とは人々の「せつなさ」と「しょうもなさ」に寄り添う学問である” ──書き出しからジワっとやられる菊地暁『民俗学入門』(岩波新書2022)。2回めの通読。味わい深くかつ体系的。多彩な事例を散らしジェネラルな骨組を示唆。ブックガイド独自。すばらしすぎる・・・。


    「日本の伝統的な住まいについては、森隆男編『住の民俗事典』(柊風舎、二〇一九)が最新の研究成果をコンパクトに俯瞰できる。日本民俗建築学会編『写真でみる民家大事典』(柏書房、二〇〇五)も同様に便利な一冊。民家研究は、民俗学のみならず建築学、地理学、歴史学、家政学などにも関わる複合的なフィールドであり、他分野への目配りは欠かせない。その点で、関連分野を集合する日本民俗建築学会は有意義だ。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著



    「民俗学はどうか。「いま・ここ・わたし」から出発できるのが民俗学であり、自分自身の日常の観察がそのままガクモンの第一歩となる。とはいえ、そこから自分以外、自分の家族以外、自分の地元以外…と対象を順次拡大し、見聞を深めることは当然求められる。「採訪」と呼ばれる作業――訪問して採集する――がそれだ。もっと平たく、「あるく・みる・きく」といっても良い。  そもそも、「あるく・みる・きく」は私たちの日々に不可欠な生活実践でもあるわけで、その日常的能力を少しずつ工夫することによって、より高度な分析と思索に耐えられるガクモン的作法へ鍛え上げようという目論見だ。なので、最初は日常的動作へのちょっとした積み上げから始めて、徐々にトレーニングの負荷を増して行けば良い。たとえば、通勤通学で毎日通る道も、意識的にコースや時間をずらすことで、いつもとはちょっと違った様子を観察できるだろう。寄り道も有効で、新鮮な発見が待ち構えているはずだ。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著


    「歩くこと――歩きながら五感を総動員して空間を感じること――は、世界を知ることの初歩にして極意であり、注意すべきポイントは無数にあるかと思われるが、ここはミニマルに二つだけ挙げておこう。  一つは、地図を見ること。自分が五感で体感している空間がいかなる空間であるか、折に触れて、体感とは異なるレイヤーの情報を確認しておくと、経験の整理や後日の参照に役立つ。なので、地名というタグの確認は大切。近年は誰もがスマホで G P S機能を使えるので、地図の参照はいたって簡便なものとなっているが、受動的利用にとどまらず、アプリの選択を含め、積極的に工夫してみて欲しい。地質図や歴史地図といった特殊なレイヤーの参照も、経験の立体化に有効だろう(「地理院地図」や「今昔マップ」などネットで閲覧できるものがたくさんある)。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「もう一つは、記録を取ること。歩いて出会った発見を、事情の許す範囲で記録に留めておくと、後々の参照比較に役に立つ。写真、録音、メモ等々、何でも良い。これもスマホが強力なツールであり、移動経路その他の情報を記録する専用アプリまであるが、一方、紙と筆記具によるメモ、スケッチなどの汎用性も侮りがたい。こうした記録を後から参照することで、歩くことの楽しみは二倍にも三倍にもなるだろう。  ともあれ、継続は力なり。歩き続けることが大切なので、無理なく楽しめる範囲で工夫して欲しい。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「いずれにせよ、この奇妙な巨大洗浄機に食器をセットすることが洗い場最大の眼目であり、そのために作業は分担される。食器を分別する「最前列」、食器を洗浄機にセットする人、洗浄機から受け取る人、ポジション不定で臨機応変に動く人(二名)など、作業は五人チームで進められた。それは、産業文明を揶揄した映画『モダン・タイムス』(一九三六)におけるチャップリンそのままに、ベルトコンベアと巨大洗浄機の狭間で怒濤の食器と格闘する仕事だった。  エースポジション「最前列」の技能について述べてみよう。コンベアに載せられたトレーは右から左へと流れていく。トレーを返却する利用者にとってかったるいことこの上ないその速度も、それを処理する側にとっては決してあなどれない。トレーが自分の前を通過するおよそ数秒の間に、可燃ゴミは前方のくず入れへ、生ゴミはコンベア手前の流水槽へ、箸・スプーン類は右側のカゴへ、その他の食器は左側のトレーもしくは可動シンクへ、汚れのひどい食器は右側のお湯をはった可動シンクへ、それぞれ分別することが「最前列」の役割である。普通、初心者はトレーが五枚も続けばスピードに負けてしまうが、ピーク時には百枚以上続くこともある。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「技能とは、学校教育のように教師から生徒へと一方的に伝達されるものではなく、むしろ徒弟制のように、特定の目標に向けた共同作業を通じて状況的に獲得されるものであり、その「場」における道具立てや人間関係といった環境と密接に結びついている、というわけだ。  まとめると、技能とは、実践者の身体が周囲の人的・物的環境にシンクロしてはじめて成立する、きわめて状況的・文脈的・インタラクティヴな作用にほかならない。そして、「はたらく」ということの「半分」は、こうした技能の獲得と革新の連続なのだ。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「【聞き上手】  私の一番のテクニックは人の話を熱心に聞いているフリをすることです。中高時代、興味のない恋愛話を延々と一対一で聞かされているうちに習得しました。はじめは能面のような顔で聞いていると第三者から言われていましたが、今では、表情を変えつつ、ときおり聞き返しの言葉を入れながら、自分の考えごとをできるようになりました。この技術によって、どうでもいい話を、相手にバレずに聞き流すことができ、ストレスと人間関係の摩擦を軽減することが可能です。ちなみに、私が思うコツは、ときおり否定的な返事と悩むそぶりを挟むことです。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「世界が無数の「はたらく」で出来ていることを考えると、語るべきことがありすぎて、どんな本を選んだものか、ただただ途方に暮れる。まず、仕事の種類の紹介なら村上龍著・はまのゆか絵『一三歳のハローワーク』(幻冬舎、二〇〇三[新版二〇一〇])。平易な語り口(そしてほがらかなイラスト)で子どもたちに将来の職業を紹介した快著。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「最後に、あらゆる業界で肥大化する煩瑣な手続き業務について、文化人類学者デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』(酒井隆史他訳、岩波書店、二〇二〇[原著二〇一八])を見ておこう。経済的合理性に従うなら淘汰されてしかるべき不毛な会議やムダな書類――クソどうでもいい仕事――が、それでもなお存在し続けるのは、実のところ経済ではなく政治の要請だと著者はいう。それらは単にキツい仕事ではなく、一見リスペクトされる仕事でありながら、実のところ、従事する本人すら何の役に立つのか不安にかられ、にもかかわらず、それを人に見せないよう強いられる雇用形態であり、その拡大が、世界の一%足らずの「持てる者」が地位を守るために有効に作用しているのだという。  なんともやりきれない話だが、ブルシット・ジョブはますます私たちの身の回りにあふれ出している。働くことの自己決定を取り戻すのは、なるほど難儀な仕事なのだ。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「ここで語義の確認をしておくと、ヒトを運ぶのが交通、モノを運ぶのが運輸、情報を運ぶのが通信で、文化財保護制度の細則、通称「アチック・文化庁分類」と呼ばれる民俗分類では「交通・運輸・通信」と一括されている。じっさい、電気通信技術が確立される以前、情報がヒトやモノを離れて運ばれることはなく(狼煙、旗、鐘などの視聴覚通信手段もあったが、伝達距離も情報量もきわめて限定的だった)、交通・運輸・通信の三者は現実に一体だった。逆にいうと、通信が交通・運輸から自立して展開することが、通信の近代そして現代だといってよい。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「こうした事情を考えると、身体と自然に制約された交通運輸が、水運に依存することになるのは当然だろう。水に荷物を浮かべればヒトが保持する必要はなく、しかも、移動に必要な力は極度に低減される。風力の利用も可能になり、また、水流に逆行する場合でも、人や牛馬が曳く「曳舟」によって河川の遡上が可能になる。河が多く、海に囲まれた日本列島でこれを利用しない手はないわけで、京の都が淀川と琵琶湖の水運で支えられたように、前近代、大量輸送を担い得る水運が物流基盤となったのだ。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「それだけではない。時間感覚も大きく更新された。前近代、旅する人や牛馬は、各々のペースで進めば良かった。ところが、鉄道はそうはいかない。開業当時は単線だった新橋―横浜間で、新橋を出る下り列車と、横浜を出る上り列車が同じ時間を共有しないことには、衝突などの事故を避けられない。鉄道は、すべての列車とレールが一つに結ばれた巨大なシステムであり、安全運行にとって時間の共有は必須なのだ。こうして、ときに「時計より正確」とも称される日本の列車運行は、時間の均質化を推し進める一因となった(三戸祐子『定刻発車――日本の鉄道はなぜ世界で最も正確なのか?』新潮文庫、二〇〇五[原著二〇〇一])。  空間の変容も重要である。当初、蒸気機関車が出す煙や火の粉の危険性から、鉄道は都市部への乗り入れを忌避されたが、やがて、その輸送力が都市を支えるインフラとなるに従い、駅は都市の玄関口として都市の中心に位置付けられる。また、列車という運動体の性質から可能なかぎり直線的に敷設されることを良しとする鉄道は、都会と田舎とを問わず、その景観に直線的な構造物を出現させることとなった。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「移動は、戦略の実行であり、空間の発見であり、関係の構築である。極言すれば、人生の全てがそこにある。なるほど、人生は旅だと古人も語ったわけだ。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「また、「移設から常設へ」という流れも認められる。市が臨時であれば、どこかから運びこむことになるのは当然だろう。「はこぶ」と「とりかえる」は深く結びついている。移動しながらの商い、すなわち行商は古くから行われ、イタダキ、ボテフリといった行商人の呼称は、それぞれ頭上、担い棒といった運搬方法にもとづく名称である。商品の到着をアナウンスすべく、独特の呼び声や囃子も工夫された(その末裔がさおだけ屋か)。薪炭を届ける大原女、川魚を届ける桂女など、近郊農漁村からの物資供給が京の都を支えていたわけで、市中の寺院に仏花を届ける白川女は、二一世紀初頭でも大八車を曳く姿を見ることができた(さすがに今は軽トラを使うようだが)。富山の薬売りが、使った分だけ補充して代金を取る「置き薬」という仕組みで販売網を全国的に広げたことは、よく知られているところだろう。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「日本最初のデパートは、一九〇四年、東京日本橋に開業した三越呉服店であるとされている。よく知られているように、三越はもともと江戸時代に創業した呉服屋であり、ほかにも伊勢丹、大丸、松坂屋など、呉服屋を前身とするデパートは少なくない。一方、小田急、近鉄、西武、東急、阪神など、鉄道会社が創業したデパートも多く、そのモデルを形作ったのが阪急である。一九一〇年に開業した箕面有馬電気軌道(後の阪急電鉄)は、社長・小林一三(一八七三 ~一九五七)の構想により、沿線住宅地の開発、終点・宝塚に遊園地を開業するなど(一九一四年に後の宝塚歌劇団を創始)、鉄道利用者を積極的に生み出すユニークな事業を打ち出していった。デパートもその一環であり、一九二九年、ターミナルとなる梅田駅に阪急百貨店を開業、最上階に設けられたモダンな食堂は、庶民の憧れの的となった。こうした鉄道ターミナルにデパートを出店する手法は全国に波及し今日に至っている(津金澤聰廣『宝塚戦略――小林一三の生活文化論』講談社現代新書、一九九一)。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「こうした状況で新たに登場したのがコンビニ(コンビニエンス・ストア)である。すでにアメリカで展開しつつあった同種のスタイルに学びつつ、「大店法」対象外の小規模な店舗に、さまざまな商品やサービスを凝縮した多機能商業空間を実装した。一九七三年にスタートしたセブン-イレブンがイトーヨーカ堂資本、一九七五年にスタートしたローソンがダイエー資本であったことは、コンビニがスーパーの進化形であることを端的に物語っているだろう。  今日、コンビニは全国を席捲し、すでに地域のインフラとなっているといって良い。全国展開する店舗から集積される消費者動向の蓄積は、ニーズに応えた的確な新商品の開発を可能とし、消費トレンドをリードする存在にまでなっている。消費者へのアクセスポイントとしてのコンビニの地位は、他の実店舗を寄せ付けない盤石なものといえよう。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「ただ、「見えている」が「分かっている」と同じではないことを忘れてはならない。いつも見ていたはずの建物が建て替えられた途端に思い出せなくなることがあるように、「見えている」のに「気づいていない」「分かっていない」ことは案外多いのだ。なので、目玉をみがく訓練が必要だ。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「たとえば、見えているモノの名前をできる限り挙げていくこと。民俗学のパトロンとして名高い渋沢敬三は、宮本常一ら同志と共に絵巻物に描かれたモノの名前を書き上げる「絵引き」を試みているが(渋沢敬三編著『絵巻物による日本常民生活絵引』全五巻、角川書店、一九六四 ~六八)、これは現実の風景にも拡張可能だ。目の前のモノを「家」と呼ぶか「民家」と呼ぶか「町家風の商家」と呼ぶか、その解像度は目玉の鍛え方によって変わってくる。見えているモノをリストアップしていくことは、砂漠や雪原でなければ相当煩瑣な作業になってしまうが、余裕のある時にチャレンジしてみると面白い。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「もう一つ有効なのが「テーマ」を決めること。窓でも看板でも街路樹でも、自分なりのテーマを持って見て歩くと、風景の解析力は格段に高まっていく。工場や団地をモチーフとした作品で有名な写真家・大山顕は、特定のテーマの採集を重ねることを推奨している。目玉の千本ノックだ。筆者は、軒下の御守りや路地の小鳥居(立小便除けのアイテム)や街角の地蔵祠といった物件の採集を試みているが、数を重ねるにつれて、出現ポイント予測ができるようになるなど、まち歩きの精度が向上するのを実感したことがある。遍在しつつ変化のあるテーマを設定するには若干の工夫が必要だが、テーマができるとたいていの場所は楽しく歩くことができるのでオススメだ。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「これを別の角度からみれば、「自然」と「文化」の媒介ということができる。あらためて考えてみると、家族はヒトの「生き物」としての側面により深く関わっている。たとえば、人前でオナラをするのは恥ずかしいが、家族の前でする分にはそれほどでもない。指摘されたら逆ギレすることだってあるだろう。また、私たちは自分自身が物心つく以前のことをすっかり忘れているが、赤ちゃんは、泣くわ、わめくわ、熱は出すわ、ゲロは吐くわ、おもらしはするわで、育児とは糞尿にまみれて「生き物」としての新生児を受けとめることといって良い。それを引き受けてくれたのは、おそらく家族の誰かだったはずだ。そもそも、カップルが営む性行為からしてそうなのだが、生殖も、排泄も、生き物に不可欠な営みでありながら、人前ですることは憚られる。それでは「社会」が成り立たない。その一方で、「生き物」であるヒトはそれを止められない。これを媒介するのが「家族」であり、ヒトの「生き物」としての側面を「家族」に留め置くことで、それを「社会」の側に持ち込ませず、「社会」が「社会」であることを可能にする。ヒトの「自然」を安全に囲い込むことによって「社会」を可能にするシェルターないし安全弁、それが「家族」という社会組織の根源的な役割なのだ。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「近年、日本のみならず先進諸国に共通する人口問題となっているのが、いわゆる少子高齢化だ。その原因は晩婚化・非婚化であり、さらにその原因は、極論すればグローバル化が引き起こす産業構造の転換である。労働市場がグローバル化にさらされた結果、労働者に求められるスキルの際限がなくなり、自分のスキルで安定して食べていけるという見通しを得ることが困難となった。伝統的なイエは成員の労働と引き換えに暮らしを保障し、近代家族も「日本的雇用」と結びつくことによって定年までの人生設計を可能にしたが、昨今の流動化し非正規化する労働市場はそのような「安定」を保障しない。こうしたなか、結婚そして子育ては、生活の安定要因から潜在的リスクへと反転した。これが晩婚化、非婚化の根本的な原因であり、伝統的なイエはもちろん、近代的な核家族すら存立基盤を掘り崩されたのが現在なのだ。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「にもかかわらず、というより、であるがゆえに、イエ復活を説くバックラッシュも登場することとなる。保守派による「古き良きイエ」への回帰願望は各方面に現れているが、端的なのは「夫婦別姓」をめぐる混乱だ。いわゆる「夫婦別姓選択制度」は法案が作成されてからすでに二〇年以上になるが、いまだに施行されていない。法案の意図するところは「夫婦が希望すれば別姓を名乗っても良い」ということであり、希望しない夫婦はこれまで通りでかまわない。にもかかわらず、法案に反対するのは、自分以外の誰かが夫婦別姓となることを認めたくない、ということである。「余計なお世話」というほかない。反対派の論拠は「日本の伝統に反する」「別姓では家族の一体感が失われる」ということらしいのだが、そもそも日本の庶民が名字を名乗るのはそれほど伝統的ではない、夫婦別姓と家族の一体感はあまり関係がない(「同姓不婚」を原則とする中国、韓国などでは結婚しても夫婦の姓が異なるのが普通だが、そのことが家父長制を妨げているわけではない)、等々の事実関係に基づく反論が可能である。だが、反対派はそもそも事実ではなく感情に根ざしているので、議論は暗礁に乗り上げてしまう。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「その一方、家族の新しい形を求める動きは着実に広がりを見せている。『浅田家』(赤々舎、二〇〇八)は、写真家・浅田政志が自身と兄と父母を被写体に、家族で消防士やラーメン屋やサッカー日本代表に扮したコスプレ写真を制作し、いわゆる「家族写真」のイメージをひっくり返した問題作である。その浅田の写真による『家族新聞』(共同通信社文、幻冬舎、二〇一〇)には、さまざまな家族の「今」がレポートされている。主夫業の夫が家事を支える家族、養子で血のつながらない家族、同居できないが S N Sでつながる家族、等々。ジェンダーが逆転しても、同居できなくても、血がつながらなくても、 L G B Tでも、家族は一つでいられる。家族の「最適解」は一つではないのだ。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「地縁すなわち生活空間の近接性に基づく社会関係も重要である。ただし、これは人間に固有というわけでもない。多くの動物にとって同種個体の空間的近接は、食物や安全の確保、配偶の獲得などにおいてトラブルを引き起こしかねないもので、それを回避するルールといって良いものが存在する。モンゴル、ヒマラヤ、アフリカでの学術探検に基づく独自の進化論で知られる生態学者・今西錦司(一九〇二 ~九二)は、卒業研究で取り組んだ京都・賀茂川での水生昆虫分布調査から、カゲロウが流速の異なる水域に分かれて生息していることを確認、これを「棲み分け」と命名し、同種個体のトラブルを抑止する社会的行動だと評価した。こうした社会性はさまざまな種で観察され、人間のルールの初発も、生き物のこうしたふるまいに淵源することが想像される。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「なお、アメリカの社会学者レイ・オルデンバーグは、自宅でも職場でもない居場所を「サードプレイス」と呼び、その重要性を訴えている。楽器を練習する人、ジョギングする人、魚や虫を捕る人、ひなたぼっこする人、そして等間隔カップルと、さまざまなアクティビティが雑然と併存する京都の鴨川河畔は恰好の「サードプレイス」といえるだろう。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「まとめると、時を超えて伝わる資料は、文字(記号)、モノ、(身体的)記憶の三種に大別できる(そして、この三種の記録の一部分あるいは一側面は、テクノロジーによってデジタル情報に変換され、デジタル固有の強度と脆弱性を持つことも可能であるが、その問題はひとまず措いておこう)。さらに先を急ぐと、文字(記号)を扱うのが文献史学(歴史学)、モノを扱うのが考古学、(身体的)記憶を扱うのが民俗学、ということもできる。  さてそれでは、さまざまな資料のうち、「普通の人々」の「日々の暮らし」を考えるのにふさわしいのはどれか、ということが問題となる。通常、歴史を調べる際に用いられるのは、史料すなわち文字資料だろう。なるほど文字資料は、文字を読むことで過去の出来事を知ることができ、しかも、往々にして年月日まで記され、過去を知るにはすこぶる便利な素材である。歴史学が実質的に文献史学すなわち文字資料の学であることも、故なきことではない。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「だが、本当にそれだけで良いのか。そこから「普通の人々」の「日々の暮らし」を辿ることができるのか、というのがここでの問いだ。そして柳田國男は、これに「否」と答えたのである。  「愛すべきわが邦の農民の歴史を、ただ一揆嗷訴と風水虫害等の連続のごとくしてしまったのは、遠慮なく言うならば記録文書主義の罪である」(『国史と民俗学』一九四四[ちくま文庫版全集 26、四一八頁])。柳田はそう喝破した。「天災に苦しみ、一揆に荒れ狂う」という農民像は、あくまで文字資料の産物に過ぎない。なぜか。文字は、リテラシーすなわち文字を読み書きする能力のある者のみが残せる資料であり、その能力は時代を遡れば遡るほど「特別な人々」に限られていく。しかも、書き記される内容は、当たり前に繰り返される「日々の暮らし」よりも、書き残そうとする意志のはたらく「特別な出来事」に傾いていく。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「誤解のないように付け加えておくと、こうした柳田の史学批判は、その後、文献史学においても真摯に受け止められることとなった。近世農民についていえば、多様な文献資料の多角的な読解から歴史的実態の解明が進み、「一揆嗷訴」と「風水虫害」に終始する農民像は、もはや過去のものといって良い。こうした文献史学の進展は、民俗学にとっても喜ぶべきことであり、かつ、その進展にどう応えていくのか、民俗学の側のさらなる工夫が求められるところだ。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「なにゆえ私たちが「資料」なのか。順を追って説明しよう。私たちは「日々の暮らし」を営んでいる。この日常生活は、無数の作法の組み合わせで出来上がっている。朝起きて、顔を洗って、歯をみがいて服を着る。こうした一連のふるまいは生物学的本能ではなく、後天的学習によって獲得される。しかも、こうした所作は、いま現在の行為でありながら、確実に「歴史的深度」を有している。たとえば、「箸を使う」という日々繰り返す当たり前の所作も、決して今この瞬間に自ら発明したものではなく、周囲の年長者たちに教えられたものであり、その年長者たちもそのまた年長者たちに教えられたものであり、という具合に、はるか以前に遡ることができる。言葉もそうだ。私たちは、いまこの瞬間に語りながらも、その大部分は自分ではない過去の人々が作り、使い、伝えてきたものだ。このように、私たちの日々のふるまいは、いま現在の出来事でありながら、本当に自らの発明発見である部分はごくわずかで、その大部分を過去の人々に依拠している。私たち自身が「歴史」を宿した「資料」であるというのは、このような意味においてのことだ。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「まとめよう。民俗学は、「普通の人々」の「日々の暮らし」が、なぜ現在の姿に至ったのか、その来歴の解明を目的とした学問である。「これまで」の十全な理解なくして、「これから」の豊かな未来はありえない。学問によって社会改良に貢献することこそ、柳田國男が民俗学に託した願いだった。  ただ、民俗学が真にユニークなのは、そのための対象の設定とその操作方法においてである。文字資料の本質的限界を乗り越えるべく、日々の暮らしを営む私(たち)自身を、「歴史」が刻み込まれた「民俗資料」と見なし、その飽くなき採集と比較から、歴史/社会/文化理解の新生面を切り拓こうというのだ。この「私(たち)が資料である」という資料観のコペルニクス的転回、そしてその存在形態に即した、観察する感覚と主体の起ち上げ方こそが、民俗学という学問の最重要な方法論的貢献だろう。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

    「 「入門書は研究できなくなった人が書くものだ」。そんな言葉を聞かされたことがある。第一線の研究ができなくなったから入門書に逃げるのだ、と。一理あると思っている。自分自身、入門書を書く時間と労力を、別の研究に回したほうが良いのではと考えないではなかった。入門書を書くのはひとかどの業績を挙げてからのほうが相応しい気がしたからだ。にもかかわらず、執筆に挑む気になったのは、他に適当な入門書が見つからなかったからだ。既存の入門書が不満だったといっても良い。」

    —『民俗学入門 (岩波新書)』菊地 暁著

  • 暮らし・なりわい・つながりといった民俗学的テーマを平易な言葉で紹介。気楽に始めるための入門書となっています。何より面白いのは大学の講義アンケートと深く知りたい方へのブックガイド。民俗学に限らず様々な分野への興味を広げたい方におすすめの本です。

  • 序論で少し「難しい話なのかな」となってしまったが、各論でわかりやすさ、身近さを感じるにつけこれは面白い…と。最後にもう一度序論の内容を読み直すと、すっと頭に入ってきた。
    とにかくレンジの広い学問で、その辺にあるもの全てが対象となり、特に普通の人々の暮らしの変遷を追いかけるという性質上、隣接する学問分野も多岐にわたっている。各章のブックガイドも人類学から歴史学から社会学、建築、経済史、政治などなどさまざまなジャンルの本が紹介されている。なので楽しそうな学問だな、と思うと同時に概論としてまとめるのにとんでもない労力がかかるぞ…と勝手に慄いている。

  • 「新書」というモノは、或る分野の研究等や関係事項に関して、或る程度一般読者に判り易いように、適当な分量に纏めて示すという性質が在ると思う。そういうことなので「新書」という存在自体が「入門」という性格を帯びるかもしれない。本書は題名そのものに「入門」を冠している。
    本書を読んでみて「大学の少し大きな教室での講義」を拝聴しているような気分になった。大学講師を務めている著者の声や話し口調を知る訳ではないのだが、読んでいて「声音が聞こえるような…」という気もした。時に淡々と、時に少し力が入り、時には笑ってしまうような、そういう空気感が在った。
    実際、本書は著者が大学で担当している講義の内容を整理して、読むための本に仕上げているということのようである。読んでみての感じたことは間違ってはいなかった訳だ。
    「“民俗学”って何?」という扉を開いてみて、更に在る多数の扉を指し示すような感だ。民俗学の研究で論じるような事柄、「くらし」、「なりわい」、「つながり」というような人々の営為を考える扉の鍵になり得る話題を提示しているというのが本書であると思った。
    “民俗学”というのは「成果を挙げている営為」から「失敗を繰り返してしまうような営為」に至るまで、人の在り様「そのもの」を論じてみようとするようなモノなのかもしれない。
    それは「過去から積み上げられた何か」を追うことにもなろう。が、「記録」を紐解く「歴史学」、「発掘されたモノ」を分析する「考古学」とは少し違う。そこには「人々の記憶」とか、「記録」や「発掘されたモノ」とは一味違うかもしれない、「人々の営為が在った何らかの証」を探ってみようとする活動が入り込むのだと見受けられる。
    そういうような事柄に関して、著者御自身の想い出のような手近な所から、よく在りそうな、多くの人が想起し易い何かを引き合いに、実に巧みに語っているのが本書だと思う。
    「つながり」という部分の終盤に、「現在」の論点が示されていた。所謂「ネット社会」というような状況で、最近20年程の様子が巧く纏められていたと思う。(この部分を分冊にするか、少し加筆しても、非常に面白いモノになるような気がした。)
    結局、“民俗学”が見詰めようとする「人々の営為」そのものは、遥かな大昔から延々と現在に至り、未来へと続く。それに寄り添ってみようとするのが“民俗学”だと思った。だから昔の何かの慣行の変遷のようなことから、近年のネット社会の変遷のようなことに至るまで、何でも論じられるという側面も在る“民俗学”だと思った。
    そして面白いのは“民俗学”が「人々の営為」そのものを見詰めようとする以上、「私の人生」もまた「資料?」になり得るのかもしれないという話しだ。何も、少し先の時代に自身の遺した何かが資料になるというような妙な事は意識する必然性が低いとは思う。が、「後世に誰かが注目するかもしれない、自身が生きた証を…」という程度に時々思い出すのも悪くはないと、本書を読みながら思っていた。
    本書は、色々な物事を考えて行く上でのヒントのようなモノを多々与えてくれていると思う。
    扱う事柄が多岐に亘る“民俗学”というような事柄に関して「入門書」ということにでもなれば、複数の筆者が綴った様々な論点の文章を集めたモノになる傾向が在るのかもしれない。対して本書は「単著入門書」という方式だ。自身としては、このスタイルで好いと思う。本当に、時に淡々と、時に少し力が入り、時には笑ってしまうような「教室で語る講師の話しに見入を傾ける」という感で、少しだけ力が入りながら熱心に読了出来たのだから。
    一寸愉しいので広く御薦めしたい。

  • かの有名な柳田國男が、その礎を築き上げた学問である。

    本書は、衣・食・住・働く・運ぶ・取り替える(交換する)という、極めて現代人的な、「営み」を背骨として、平易な言葉と、広範にわたる実例を元に「民俗学」を解説した入門書である。

    筆者のプロフィール欄に、身長186センチと記されているのは、不思議に思うが、北海道出身の中年の大男が、関西で四苦八苦しながらも、民俗学を教えてきた集大成がここにある。

    筆者は冒頭で「民俗学とは、人々の「せつなさ」と「しょうもなさ」に寄り添う学問ではないかと思っている。《中略》「せつなさ」とは、人々がそれぞれ生きる時代や地域や状況のなかで、ひたむきに忍耐と工夫を重ね、一生懸命に「日々の暮らし」を営んでいることへの感嘆と賛辞である。その一方、そうした人々が、しばしば心無い差別や抑圧や暴力の被害者となり、逆に加害者となり、あるいは無責任な傍観者となる。そして、その過ちに学ぶところなく、あるいは、学んでもすぐに忘れてしまい、また同じ過ちを繰り返す。そういった人々が抱え込む「しょうもなさ」も残念なことに認めざるをえない私たちの世界の一面である。(i頁より引用)」と述べる。

    それこそ、今現在、世界を揺るがしているプーチン大統領によるウクライナ侵攻はまさに、「歴史に学ぶことなく、あるいは忘れた帰結として」起こっているといえる。

    そんな人間社会を生きることは、迷いや不安、恐怖に溢れたものであると同時に、喜びや感動、そして希望も多分に含んだものだと思う。

    そうであればこそ、「私たち一人一人のささやかな生きざまそのもの」を「資料」=「研究材料」とする民俗学の入り口に立ってみることは非常に有益である。

    本書を読むことで、普段何気なく見たり聞いたり味わったりしていることから、驚くほど深淵な世界が垣間見える。

    さて、ここで大学について感心する記述が後半にあったので、やや唐突な感はあるものの、引用しておきたい。「役に立つ研究を志すことが間違いとはいわないが、役に立たない研究が必ずしも悪いわけでもない。そういった役に立つ/立たないという区分を一旦棚上げして、事実と論理の前に跪いてみる。そうやって、森羅万象(universe)に対する普遍的な(universal)知識を生産し、公開し、更新し、蓄積する。そのことを通じて、結果的に一定の確率で「役に立つ知識」を提供することが、「制度」としての「大学university」ないし学問の存在意義であると筆者は思っている。(220~221頁より引用)」
    という記述だが、「世の中にある多くの物事」もそうであると改めて思わされる。

    一見、なんの意味も持たないような経験が、たちどころに思い出され、思いがけない出会いや解決策に繋がった経験が皆さんにも私にもあると思う。

    何事にも、効率やスピードが要請される現代であればこそ、本書のように「答えの出ない議論を、答えはありませんが、興味深いですよね?」と馬鹿正直な姿勢で我々に語りかけてくれる本は、なおのこと価値を帯びる。

    帯にもあるように、答えをくれる本ではないが、きっと皆さんの期待を裏切らないと思う。オススメする。

  • 【書誌情報】
    『民俗学入門』
    著者:菊地暁
    通し番号 新赤版 1910
    ジャンル 社会
    刊行日 2022/01/20
    ISBN 9784004319108
    Cコード 0239
    体裁 新書 ・ 252頁
    定価 968円

    普通の人々が営む日々の暮らしを深く知り、驚く。人生と生活の細部に直に触れ、世界の奥行きに畏怖しながら、複数の歴史を「私(たち)」からつかみ出す。繰り返される過ちから目をそらさず、よりよい未来を考えたい。これが民俗学のエッセンスである。「人間にかかわることすべて」に開かれた、野心的な「共同研究」への誘い。
    https://www.iwanami.co.jp/book/b597625.html

    【簡易目次】
    はじめに――「せつなさ」と「しょうもなさ」を解きほぐす

    序章 民俗学というガクモンが伝えたいこと
     コラム① 「日本的」と「伝統的」

    第一章 暮らしのアナトミー
     きる 【衣】
     たべる 【食】
     すむ 【住】
     コラム② 「いま・ここ・わたし」から「あるく・みる・きく」へ

    第二章 なりわいのストラテジー
     はたらく 【生産・生業】
     はこぶ 【交通・運輸】
     とりかえる 【交換・交易】
     コラム③ 目玉をみがく

    第三章 つながりのデザイン
     つどう1 血縁
     つどう2 地縁
     つどう3 社縁
     コラム④ 聞くことの絶望と愉悦

    終章 私(たち)が資料である――民俗学の目的と方法
     コラム⑤ リミナル・エスノグラファーズ

    あとがき――「墓穴」としての入門書、あるいは、本書を書いてしまった理由

    図版出典一覧

  • ふむ

  • 身近な暮らしも収集して比較するとおもしろい。

  • むちゃくちゃ面白かったー!
    興味はあるものの何を学ぶ学問なんだろうと漠然としていたが、学びの終着点も分かったし追求する方法が他の分野とは異なると知れたのも大きかった。私だったら何にフォーカスするだろうなぁと考えながら読んだ(今は苗字について調べたい気分)。それが出来るのも、今を生きる私たち自身が資料となるからだろう。

    菊池先生の他の本も読みたいし、宮本先生の「忘れられた日本人」も読みたいし、興味のある事柄にフォーカスしてみたいし。学びの幅が広がって嬉しい。

  • 書庫らでん

    民俗学って言葉は知っていたけど
    初めて読む入門書
    配信のおかげでタイトルを知って
    らじお内でも紹介されていた一冊も
    時間を作って読んでみたいと思い始めた一冊

    こう言う学問だったんだねって
    字面通りには読み取れたけど
    それを自分のもののように
    生かすことはできるのか
    できないのか

    知らなかった
    学問の入り口を教えてくれて感謝
    世界を見るための
    解像度が少しだけクリアになることほど
    幸せなことってない

    歴史の中にある
    民族の中にある
    資料のすべて

  • 読んだ、面白かった

  • 民俗学に興味があり手に取った。中のジャンルによっては興味が足りず、さらっと読んだところもあるけれど、こういうことをやるんだな、学ぶんだなという、本当の入り口にはちょうど良い気がした。
    個人的には、ところどころに挟まっている、筆者の講義の受講生に取ったアンケート内容がとても楽しく、身近な話でもあるのでとっつきやすくて良かった。この部分をもっとまとめて載せた本が読みたいと思ってしまった。

  • 柳田國男著『遠野物語』を興味本位で読み、民俗学をかじってみたいな〜と思いこの本を手に取りました。

    読む前は、そもそも民俗学ってなんだろう?とふわふわしていたのですが、おすすめの本や、実際にアンケートという形でいわゆる各地方の風習などを知ることができ、次に読みたい本と具体的な実践方法を知ることができました。

    また、あまり学問本を読み慣れてない私でも読みやすく分かりやすい説明がなされていたので助かりました。

  • 普通の人々の日々の暮らし、その来し方行く末

  • 近代化において形が変化しつつも、日本のなかでいきづいているものもあれば、崩壊していってるものもある
    昔がよかったのか
    今がいいのか
    この本に紹介されいる本は目を通したい

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/770563

  • 民俗学の本は対象に関して書かれることが多い様に見受けられる。が、この本は民俗学の骨組みについて繰り返し書かれている。そこがこの本の特徴ではないか。

    終章の「私(たち)が資料である」という言葉に膝を打つ。

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著者プロフィール

京都大学人文科学研究所助教。
1969年北海道生まれ、京都大学文学部卒業、大阪大学大学院文学研究科博士課程修了、博士(文学)、身長186cm。
著書『柳田国男と民俗学の近代―奥能登のアエノコトの二十世紀』(吉川弘文館)、『身体論のすすめ』(編著、丸善)、『今和次郎「日本の民家」再訪』(共著、平凡社)、『日本宗教史のキーワード―近代主義を超えて』(共編著、慶應義塾大学出版会)、『学校で地域を紡ぐ―『北白川こども風土記』から』(共編著、小さ子社)、『民俗学入門』(岩波新書)。

「2024年 『書いてみた生活史 学生とつくる民俗学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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