古代ギリシアの民主政 (岩波新書 新赤版 1943)

  • 岩波書店 (2022年9月24日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (268ページ) / ISBN・EAN: 9784004319436

作品紹介・あらすじ

およそ二五〇〇年前、古代ギリシアに生まれた民主政。順ぐりに支配し、支配されるという人類史にかつてない政体は、いかにして考え出され、実施されたのか。公共性を、一人ひとりが平等にあずかり、分かちあうことを基本にして古代の民主政を積み重ねた人びとの歴史的経験は、いまを生きる私たちの世界とつながっている。

みんなの感想まとめ

古代ギリシアの民主政の誕生とその評価を深く掘り下げた本書は、現代の民主主義の課題を考える上で非常に示唆に富んでいます。アテナイにおける民主政の形成過程や、その盛衰の歴史を具体的な人物や出来事を通じて描...

感想・レビュー・書評

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  • 社会保険料と社会保障費を混同している立候補者、食料自給率が何なのかも分からない政治家、外国人問題の本質が理解できていないまま危機感を覚えて立ち上がったという、付け焼き刃な出馬。政治家には無教養であって欲しくないが、しかし、教養の比較的高い層は既に抜けられない社会的立場にあって、立候補のコストに見合う人たちは「無敵の人(選挙版)」である事が比較的多い。あくまで傾向の話で、全てを否定するものではない。

    古代ギリシアでの民主制を衆愚政治だと揶揄する声もあるが、それは、識字率の低さによる教養が行き渡らぬ層も影響しているのではないか。更に、演説の印象がそれを誇張させる。著者は、この衆愚政という評価について、下記のように述べている。

    ― ギリシア民主政を愚支配とする固定観念が、どのように生まれ、後世に継承されたのかは、本書の重要なテーマの一つである。だがさしあたって指摘したいのは、「衆愚政」ということばが、もともと民主政を非難するためのレッテルであって、ものごとを客観的に記述するためのものではないことである。

    ― ギリシアの民主政は、ローマによる征服とともに姿を消した。一方、民主政を批判したプラトンやアリストテレスの理論は、その後長きにわたり権威ある古典として伝え受けつがれた。歴史的現実としての民主政が忘れ去られるとともに、「衆愚政」のレッテルだけが残った。衆愚政という語をはじめて著述に用いたのは、ローマのギリシア制覇を目の当たりにしたギリシア人歴史家ポリュビオス。ローマの興隆に新時代のうねりを見てとった彼にとって、民主政が衆愚政に堕するのは歴史の必然であった。

    民主政はなぜ、どのようにしてギリシアで生まれたのか。どのような骨格で、どのような評価を受けたのか。何を修正すべきだったのか。本書を読むことで、現代の民主主義の課題を考えさせられる。最後にこう結ばれる。非常に有益な著書であった。

    ― 個人であれ集団であれ、自分の生き方を自分の意思で決めるということには、かけがえのない価値がある。そのことに、はやくから気づいたのがギリシア人であった。彼らがエレウテリア(自由)と名づけたその価値は、今も色あせることがない。

  • また最高に良い本に巡り会えた。
     ソクラテス、プラトンそしてアリストテレスなど、教科書的には伝説の哲学者のように扱われるが、アテナイにおいて政治に経済に深く関わり、血の通った姿が鮮やかに現れてくる。アテナイの民主政を現代の代表制の民主政は認めていないようだが、いかがなものか?少なくとも、情報の透明性を強く訴えた時点で、現代より素晴らしかったのではないか。文明、科学ではまだ未熟で、奴隷制のような非人道的な部分もあるが、民力としてはアテナイのほうが成熟していたように感じる。
     碑文習慣が発達していたというくだりでは、「そんなに識字率が高かったのか?」という私の疑問にも、成人男性で15%ほどで、理解した人が口伝で伝えていたと、すぐに答えをくれた。
     ソロン、ペイシストラトス(僭主)を経てクレイステネスで民主政は萌芽を見て、ペリクレスで確立したが、じつはペロポネス戦争でスパルタに敗北した後の方が、アテナイの民主政は絶頂期であったとは驚きだった。

  • 古代ギリシアの民主政について、最新の知見に基づいて書かれた概観書である。古代ギリシアにまったく詳しくないため僭越ではあるが、とてもよくまとまっており、おもしろく読めました。

    古代ギリシアにおけるポリス群も出てくるが、本書における主役はやはりアテナイである。アテナイにおいて、どのように民主政が生まれ、盛衰を繰り返しながら、歴史のなかに溶暗していったかが書かれている。
    本書の終盤でも触れられているが、思想史にすこし詳しい方なら、いかに民主政が嫌われてきたかを知っているかと思う。それは、民主政を衆愚政治と捉えたり、君主制や貴族制が支配的であったり、最終的にアテナイがローマに支配されたこともあってアメリカやフランス革命がローマ共和政を範としたり、ソクラテスの処刑やプラトンの民主政批判が影響していたり、理由は様々である。現代の民主主義は恐ろしく歴史が浅い。

    われわれが馴染みのある民主主義は間接民主主義だが、アテナイの民主政は直接民主主義である。代議制などといったまだるっこしいことはせず、抽選で選ばれた民衆たちが政治の意思決定をし、権力の行使をする。
    そのため、本書でも個人名が頻出する。陶片追放(現代でもなぜ行われていたのかはっきりとはわからないようだが、特定の人物を投票によってアテナイから10年間追放する制度である)の話では、追放された人物たちもほぼ判明しているらしいが、なかにはなぜ追放されたのかわからない人物もいる。(おひとよしのメノン。特に有名人でもないらしく、いくつもの陶片にわざわざ「おひとよし」と書かれているらしい。おひとよしなのに、なぜ追放されたのかもよくわかっていない)

    民主政とタイトルにあるが、抽象的な概念の話は少なく、固有名詞で話が進んでいくので具体性をもってイメージができ、わかりやすいと思う。

  • 古代アテナイについての優れた概説書。
    塩野七生氏の物語や伊藤貞夫氏の概説書をとおして、古代ギリシア史についてある程度知っている方が読むことにも耐えると思う。
    (むしろ、そういう方こそ、今まで馴染んできた話との違いをとおして楽しめるかもしれない)


    古代ギリシア史は、圧倒的な文字資料が残っているアテナイを中心にした記述にならざるをえない。その状況は、ここ数十年で考古学的知見が大量に取り入れられるようになっても変わらない。

    そして、アテナイは、土地や人口の規模が類を見ないほど大きな都市国家であった。そんな例外的な存在をもとにして、古代ギリシアの全体像を描かなければならない。そのため、アテナイと古代ギリシア全体とをバランスよく見通すことは難しい。

    しかし、本書は、古代ギリシアの民主政というテーマにおいて、それに成功しているように思える。

    アテナイ民主政の成立にも影響したアテナイの特殊的例外性を考慮する一方、
    アテナイにおける民主政のノウハウが他の都市国家に影響した考古学的な痕跡に言及して、古代ギリシアの他の民主政との関連も視野に入れている。

  • 橋場 弦
    (はしば ゆづる、1961年1月 - )は、日本の歴史学者。専門は古代ギリシア史。東京大学大学院人文社会系研究科・文学部教授[1]。北海道札幌市生まれ。北海道札幌西高等学校を経て、1984年東京大学文学部西洋史学科卒業、1990年同大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学、同助手、1991年「アテナイ公職者弾劾機構の研究」で、文学博士(東京大学)。1993年大阪外国語大学助教授、2006年東京大学助教授、2007年同准教授、2010年同教授。日本西洋古典学会常任委員。

    「まずそれは、想像以上にこぢんまりした「国家」である。標準的なポリスの領土面積は二五 ~一〇〇平方キロメートル、人口は三〇〇〇人ほど。面積だけなら東京の世田谷区くらいと思えばよい。いわば町村規模の都市国家が、エーゲ海を中心に、北は黒海沿岸、西は南イタリア・シチリア島、さらには南仏やイベリア半島にいたる地中海沿岸に、常時一〇〇〇ほど散らばっていた。  大河や大平野がなく、せまい土地が山々のあいだに散らばるギリシアには、もともと巨大な権力の育ちにくい風土があった。プラトンの表現を借りるなら、「ちょうど池の周りに蟻や蛙が住んでいるように」(『パイドン』一〇九 B、納富信留訳、以下同)地中海周辺に散在するポリス諸国は、つねに小国分立して戦争状態にあり、政治的にはついに統一されることがなかった。ギリシア人は、たがいに争いながらそれぞれの小さな都市国家に平和と秩序を築きあげるという課題を、最初から負わされていたのである。」

    —『古代ギリシアの民主政 (岩波新書)』橋場 弦著


    「 とはいえ、ポリスは最初から民主政だったわけではない。生まれたばかりのポリスは、貴族が参政権を独占する貴族政から始まるのである。  貴族とはエウパトリダイ、すなわち「善き父祖をもつ人びと」と呼ばれ、神々や英雄の血を引く(と称する)家柄のエリートである。生まれながらに特権を許された門閥貴族とも言える。貴族は高価で重い青銅製の武具を身につけて騎馬で戦場まで移動し、一対一で戦闘する主力戦士であった。血統と富、そして軍事力が、貴族の支配を正当化していた。  政治と裁判をつかさどる役人組織、それに助言する長老会は貴族に独占され、市民全員が集まる民会は無力であった。つまり貴族政とは、血統によって定義された出生エリートが多くの平民を支配する体制だった。」

    —『古代ギリシアの民主政 (岩波新書)』橋場 弦著

    「ギリシア最古の文学であるホメロスの叙事詩(前八世紀後半)には、支配者層としての貴族の自意識を、あからさまに物語る場面がある。トロイア戦争を題材にした『イリアス』第二歌では、民会でテルシテスという一人の平民が立ちあがり、遠征の中止を求めて大声でわめく。だがたちまち彼は、身のほど知らずの愚か者として、王侯の一人オデュッセウスに笏杖でしたたかに打ちすえられる。そして「恐れをなして坐りこみ、痛みを堪えつつ途方にくれた面持で涙を拭う」(松平千秋訳、以下同)。しかも同席する他の平民たちは、同情するどころか、そのあわれな姿をあざけり笑うのである。」

    —『古代ギリシアの民主政 (岩波新書)』橋場 弦著

    「改革の時点で各区に代々居住していると認められたすべての自由人は──つまり外国人や奴隷ではなく、その村や町の正式な住民と認められた人は──ここであらためてアテナイ市民であると認定された。以後その地位は、男系をとおして子孫に継承された。つまり区民として認められれば、自動的に市民としての身分、すなわち市民権を得ることになったのである。  これ以後アテナイ人は、区に所属することで直接に国家の一員、つまり市民となったから、地元の貴族の権威に服することなく国政に参加できるようになった。中間権力だったピラミッドによる人身支配の鎖は、まずここで断ち切られたのである。」

    —『古代ギリシアの民主政 (岩波新書)』橋場 弦著

    「だが、こうした数量的な問題に対し、古典史料はあまりに無力である。貧乏学者のソクラテスは、家計のことでいつも妻から小言を言われていたというが、では彼のような市民が全体の何パーセントを占めていたのか。また彼は、弟子で裕福な貴族のアルキビアデスが三〇〇プレトロン(約二九ヘクタール)たらずの土地の持ち主だと述べているが(プラトン『アルキビアデス』一二三 C)、この程度の資産家はどのランクに属したのか。あるいは民会の多数を占めたとされる、いわゆる無産市民の割合はどれほどだったのか。こうしたことについて、古典史料は何も語ってくれない。」

    —『古代ギリシアの民主政 (岩波新書)』橋場 弦著

    「侵入したスパルタ軍は、市民たちが城壁の上から望見するなか、愛する故郷の耕地をこれ見よがしに破壊しはじめた。オリーブやブドウの木は切り倒され、刈り取るばかりになっていた麦は火を放たれた。ペルシア戦争の痛手からようやく立ち直ったばかりの農民たちには、胸をえぐられる光景であった。  城外に撃って出るべしという市民たちの悲痛な声を、ペリクレスはかろうじておさえ、逆に敵方の留守をついてペロポネソス半島沿岸を一〇〇隻の軍船で攻撃した。侵入から五週間後、破壊略奪の限りを働いたスパルタ軍は、糧食が尽き、引きあげていった。」

    —『古代ギリシアの民主政 (岩波新書)』橋場 弦著

    「数ヶ月の後、メロスは無条件降伏した。アテナイ人は、一〇年前にミュティレネ市民に対し思いとどまった処置を、今度はためらいもなく実行した。捕虜となった成年男子市民全員を処刑し、婦女子を奴隷に売ったのである。のちにヘレニズム彫刻の傑作「ミロのヴィーナス」を生むことになるこの島も、こうして全島がアテナイの領有下におかれた。」

    —『古代ギリシアの民主政 (岩波新書)』橋場 弦著


    「ゆがんだ歴史像と言えば、それはアルギヌサイ裁判を記録したクセノポンにもあてはまる。彼は騎士級の富裕市民で、二〇代のころソクラテスに出会って影響を受けたのち、何らかの理由でアテナイを追放となり、生涯を外地で過ごした。スパルタの熱烈な賛美者であったことから、その歴史記述『ギリシア史』は、トゥキュディデスよりもさらに独善的な価値判断に偏り、教訓的性格が強い。  アルギヌサイ裁判での民衆を「衆愚(オクロス)」という強いことばで非難していることからも、クセノポンが確信的な寡頭主義者であることがわかる。刑死した師ソクラテスを正義の闘士として弁護する立場からも、この裁判をことさら異常なものとして描き出したかったのであろう。  多くの将兵が海の底に消え、故国の土に適切に埋葬されないことへの市民たちの憤りは、ギリシア人の宗教観に照らせば、けっして不条理とは言えない。彼らを突きうごかしたものは、遺族の被害者感情以上に、「埋葬されない死」が神々の怒りを買い、国家を破滅に導くことへの恐れと不安であった。クセノポンは、こうした背景には口をつぐんでいる。」

    —『古代ギリシアの民主政 (岩波新書)』橋場 弦著

    「ギリシア人にとって信仰とは、個人の内面にとどまる問題ではない。それはポリス全体の安危にかかわる公的問題であった。不敬神という宗教上の罪が、国家共同の利害にかかわる「公訴」で訴えられた理由もそこにある。」

    —『古代ギリシアの民主政 (岩波新書)』橋場 弦著

    「ところがこのスキタイ人弓兵は、市民から恐れられるどころか、むしろ軽侮すらされる存在だった。  同じくアリストパネスの『女の平和(リュシストラテ)』(前四一一年上演)では、アテナイの女性たちがスパルタとの和平を要求してアクロポリスに籠城するという、驚天動地の非常事態が起こり、聞き付けた役人が弓兵たちを連れて現場に駆け付ける。彼は必死に弓兵を 咤督励し、謀反人の女たちを逮捕しようとするが、弓兵どもはまったくもってたよりない。役人は二人の弓兵に向かってどなる。」

    —『古代ギリシアの民主政 (岩波新書)』橋場 弦著

    「では、市民にひろく情報を公開するためには、どのような手段があったのか。まず口頭による情報伝達が主であったこの時代、市民たちが国内外の情勢について知識を仕入れるもっとも身近な場は、民会であった。彼らは民会で見聞きしたことを、帰宅すれば家族や隣人にも話したことだろう。だが民主政アテナイに特徴的であったのは、口頭の伝達に加えて、文字による情報伝達と記録の保存にきわめて熱心であったことである。  アゴラの西縁には、長い基壇の上に一〇部族の名祖像が並んでおり、全体が柵で囲まれていたが、これは公的な告示を一般市民に知らせる掲示施設でもあった(本章扉)。長さ一六メートル以上高さ一八七センチもある大きな基壇の前面には、白い木板に文字が書かれた掲示板が何枚も掛けられていた。たとえば次回民会の予告と議題の掲示は、市民たちがあらかじめ政策について熟慮し議論するために必須の情報であったし、また遠征に際しては部族ごとに召集兵名簿がかかげられた。民衆裁判所の公判日程も掲示されたから、裁判員はもちろん、傍聴を希望する一般市民もかならず足を止めたことであろう。テレビもネットもなかった時代に、文字媒体を使って効率よく多くの市民に情報を伝達する方法であった。」

    —『古代ギリシアの民主政 (岩波新書)』橋場 弦著

    「 ギリシアの民主政は、ローマによる征服とともに姿を消した。古代民主政の系譜は、そこで途絶えた。ふつうの人びとが積み重ねた民主政の経験は、体系的な政治理論を残さず、それゆえその記憶は急速に失われた。  他方、民主政を批判したプラトンやアリストテレスの理論は、その後長きにわたり権威ある古典として伝え受けつがれた。歴史的現実としての民主政が忘れ去られるとともに、「衆愚政」のレッテルだけが残ったのである。  衆愚政と言えば、この語をはじめて著述に用いたのは、ローマのギリシア制覇を目の当たりにしたギリシア人歴史家ポリュビオス(前二〇〇~一一八年ごろ)である。ローマの興隆に新時代のうねりを見てとった彼にとって、民主政が衆愚政に堕するのは歴史の必然であった。  ギリシア民主政とローマ共和政は、ひとくくりに理解されることがあるが、両者は似て非なるものである。ギリシアでは一人に一票の投票権が与えられたのに対し、ローマの民会は財産別に分けられたグループ(ケントゥリア)ごとに投票し、しかも貧富の差によって投票権の重みにいちじるしい格差があった。無産市民は人口の上で最大多数を占めるにもかかわらず、たった一つのグループ枠、つまり一票しか与えられなかったのである。その上、国政の実質的な主導権は、一部の最富裕市民からなる元老院が握っていた。あらゆる意味でローマは富裕者による寡頭政であり、古代民主政の系譜には連ならなかった。」

    —『古代ギリシアの民主政 (岩波新書)』橋場 弦著

  •  ”近代民主主義の基本が「代表する」ことにあるならば、古代民主制の基本とは何か?それは「あずかる」、あるいは「分かちあう」ことであると思う” p237
    と本書で強調される古代ギリシャ人の政治参加のあり方に、とても共感しました。

    「基本的人権」「個人主権」「自由意志」といった観念が形成される以前の人類社会のあり様を、近現代の視点から断じることが、いかに視野狭窄であるか。
    ”意思”や”権利”が個々人に根差すのではなく、世界全体(cosmos)のなかに根差しているという思想(理論的体系的にはその後のストア派の思想が参照される)が、今日の公共性、社会倫理を考えるうえで十二分に参照されてよいと思います。

    本書で知った「アムネステイア」(「記憶の抹消」の意、英語アムネスティーの語源)という言葉が、とても印象に残りました。30人政権の恐怖政治の後、改めて共生の道を模索するなかで「大赦玲」に踏み切ったアテナイ。復讐の連鎖を断ち切るという非常な困難をともなう方法へ向かう人々の勇気を見いだせた。

  • 古代ギリシアの民主政に関する最新の入門書。最近の成果も反映し、時代の幅や地域の広がりにも目が向けられている一冊。これをまずよみましょう。

    https://historia-bookreport.hatenablog.jp/entry/2022/09/27/084528

  • ■ この本を読んで知った古代民主政の実像
     ⚫︎古代ギリシアの直接民主政のイメージは、アルギヌサイ裁判をはじめ、トゥキュディデスやクセノポンが書く衆愚政治の描写や、プラトンやアリストテレスによる民主政批判に基づく未熟な国制というものであった。この本を読み、それがペロポネソス戦争による市民の異常な心理状態を背景とした限られた時期に起こった現象を切り取って形作られたイメージであり、現実のアテナイ民主政は、市民の誇りとしてその理念がよく制度化され、クレイステネスの改革から始まりマケドニア軍による廃止まで間だけでも185年間、上記のような混乱があったものの、ほとんどの期間は安定して存続し、成熟していったものであったことを知った。また、プラトンの民主制批判は、このペロポネソス戦争敗北後の混乱期に民主政で露呈した民主政の孕む危険性(危機において意思決定者である市民団が、扇動されやすい等の性質)への危機感からきたものであったことを理解した。
    ■ 民主政を支えた制度・条件
    【制度】
    ⚫︎民会(エクレシア):民主政の最高意思決定機関として、市民権のある者全てに出席・発言・投票の権利が平等に分配され、1人1票の多数決で国家の意思決定に参加できる事で、市民が政治に直接関わっているという自覚と矜持を涵養
    ⚫︎500人評議会:行政の中枢機関であり、500人が任期1年で交代し、ほぼ全ての市民が一度は評議員に就任し、政府当局の実務を経験する事により、「順ぐりに支配し、支配される」という直接民主政の本質を実現して、市民が政治に直接関わっているという自覚と矜持を涵養
    ⚫︎日当支払制:民会等の政治参加に日当を支払い、休業して政治参加する下層市民への経済的補償を行うことで、民主政維持のため、市民の無関心や経済的理由による不参加を防止
    ⚫︎ 公職者の不正を摘発・訴追・処罰する制度:公職者の不正を厳格に監視し、不正があれば摘発・訴追・処罰する制度を整備、公職者がデモス(市民団)に責任を負うシステムにより、民主政変動の原因となる公職者の権利の濫用を防止
    ⚫︎制文法主義の確立:法の規定が民会の判断に優越する原則を確立、民会が多数の横暴により恣意的な決定をしないよう法により制約し、民主政の安定化を図る。
    ⚫︎無頭性の原則:評議会その他の実務組織や役人同僚団に長や代表者を常設しない事で、僭主発生の原因となり得る特定の個人への権力の集中を防止
    ⚫︎情報の公開:碑文建立、公文書館において体系的に整理・保管された公文書の全市民への閲覧許可等の情報公開により、民主主義の成立条件である市民が政策の選択とその結果を知ることのできる環境を構築
    【条件】
    ⚫︎民主政の成立条件
    ① 部族制:各地に古くから形成されていた集落を区(デモス)とし、区・トリュッテュス・部族の3層構造の10部族に再編成し、貴族支配の基盤であった旧来の4部族制を廃止することで、民主政の成立に障害となる貴族の支配構造を解体
    ②海軍国家化:ギリシア随一の海軍力の整備により、漕ぎ手としてペルシア戦争に参加し、勝利に貢献した下層市民の政治的発言権が増す事により、民主政発展の原動力に。
    ③アレオパゴス評議会の無力化:保守的な貴族派の牙城である「アレオパゴス評議会」からの政治的実権の剥奪により、民主政成立の障害となる貴族の国政への影響力を無力化
    ⚫︎民主政の維持条件
    ① 政治参加を名誉とする価値観:政治への参加を名誉とし、民主制を自らのアイデンティティとするアテナイ市民の価値観
    ②アテナイの帝国主義的支配機構:ギリシア随一の海軍力に基づき、デロス同盟の盟主として莫大な同盟資金を集め、その富で海軍を維持するとともに、民主政の維持に必要な公共事業や日当支払制等の財源を確保
    ③市民の多数派が自営農民:大多数の市民が土地を持つ自営農民であったため、経済的に民主政のために考え、行動できない状態ではなかった。
    ④区(デモス)における地方政治:市民が自らの区(デモス)における地方政治を経験することにより、田舎の市民であっても、中央での民会や評議員といった公職へのスムーズな政治参加が可能な環境を維持
    ⑤ 小規模共同体:最盛期でも5〜6万人とポリスとしては巨大だが、現在の国家規模(数千万〜数億)に比して小規模であるが故に可能であった直接民主政の実現・維持
    ⑥軍事参加:市民は政治共同体の構成員であると同時に、重装歩兵や海軍の漕ぎ手として国家防衛を担い、政治的権利と軍事的義務が結び付いていた事が市民の真剣な政治参加を促進
    ⚫︎民主政を支える基盤
     市民以外の存在に支えられた民主政:市民が政治参加を可能にするため、奴隷、女性、居留外国人(メトイコイ)等が社会や家庭でのさまざまな労働により、民主政を支えていた。

    ■ プラトン/アリストテレスとの接続
    【プラトン】
    ⚫︎プラトンにとって30人政権への失望の経験は、統治者には知識や能力だけではなく、魂の秩序が必要であるとの認識を強める契機になったと思われる。また、愚かな暴徒ではなく、アテナイの普通の市民達が、法に基づく手続きを経てソクラテスを処刑した事は、集団としてのデモス(市民団)も判断を誤り得るという問題認識を強くしたと思われる。これらの経験は、プラトンが「人間はなぜ判断を誤るのか」、「何が正しい判断を可能にするのか」について考える重要な背景になったのではないかと考える。そして、プラトンは『国家』において「正義とは何か」を探究し、その過程で「善とは何か」についての考察に至る。そして、その帰結として、魂の秩序を保ち、かつ、善そのもの(善のイデア)を認識する哲人による統治という構想を展開していったと考えられる。
    【アリストテレス】
    ⚫︎アリストテレスにとって、アテナイの民主政は、「順ぐりに支配し、支配される」公職の就任制度や、制文法主義の確立、多数派としての中間層の政治参加等、自身の考えと合致する部分も多く、プラトンほど批判すべき対象ではなかったと考えられる。ただし、正義の徳や思慮を持たない支配者や市民達が部分利益を追求する危険性についての問題認識は、ある程度プラトンと共通していたと思われる。
    プラトンは、支配者や市民達が、魂の秩序の乱れや善の認識の欠如により、判断を誤ってしまうという問題認識を背景に、「どうすれば正しい判断が可能か」という判断の成立条件を焦点として探究し、最終的に哲人統治の構想に至った。
    一方、アリストテレスは、アテナイ民主政の経験を踏まえ、より普遍的な国家論として、「より善い国家共同体を構築・維持するための条件は何か」を焦点として探究する方向に向かった。
    アリストテレスは探究の中で、国家が何故腐敗し国制の変動に至るのか、どうすれば防げるのかについて比較・分析し、国制を担う人々の配分的正義の誤りが、共通善の追求を阻害し、部分利益を追求する事により、腐敗や国制の変動に繋がると考えた。そのため、国家がその目的である「善く生きること」を実現するため、共通善の追求、徳の涵養、混合政体、中間層の重視等、現状の国制をより善くする各種条件を探究した。

    ■ 現代民主主義との主要な相違点
    【統治方式(直接民主政/代議制)】
     アテナイ民主政では、直接民主政として市民自らが民会において国家の意思決定を担うのに対し、現代民主主義では、代議制として市民は代表者を選挙で選び、市民に代わり、代表者によって国家の意思決定が行われる。
    【参政権】
    アテナイ民主政では、参政権は市民である成人男子のみに付与されており、女性、奴隷、在留外国人には付与されていなかった。
    現代民主主義では、国籍があり、一定年齢を満たしていれば、性別と身分によらず参政権が付与される。
    【政治参加の意味】
    ⚫︎現代民主主義における政治参加は、個人が持つ権利の行使と考えられている。
    ⚫︎アテナイ市民にとって国政は「あずかる(メテケイン)」ものであり、政治参加は、共同体の活動に参与する事そのものであった。市民にとって、政治参加により市民の責任を果たす事は他者からの尊敬を勝ち得る名誉なことであったと考えられる。また、市民は公職参加だけでなく、軍事的義務(重装歩兵、船の漕ぎ手等)を持っていたため、国政を自らの問題として捉えやすい構造にあったと思われる。
    【国家規模】
    アテナイの人口は、参政権を持つ成年市民男子の人口が最盛期で5〜6万人、全人口(女性、子供、メトイコイ、奴隷)は25〜40万人と言われており、当時のポリスの中では群を抜いて巨大であったが、数千万〜数億規模の現代国家と比べると非常に小規模であり、参政権保有者が数万人規模であったことが、民会への参加や公職への抽選による就任制度の運用等、直接民主政の制度運用を可能にした要因の一つであったと思われる。
    【民主政を支える社会的基盤】
    ⚫︎アテナイ民主政は、直接政治に携わる成年市民男子だけで成り立っていたわけではない。女性、奴隷、在留外国人(メトイコイ)といった参政権を持たない人々がそれぞれの役割を果たすことで、アテナイ民主政は成立し、維持されていた。
    ⚫︎女性:女性は、アテナイ民主政の前提となるポリスの構成単位である「家(オイコス)」の管理を担い、家長である成年男子の政治参加を可能にする役割を担うとともに、次世代の市民(政治の担い手)を産み・育て、その再生産を担うことで、アテナイ民主政の存続を支える重要な役割を果たしていた。
    ⚫︎奴隷:家(オイコス)において家事や労働を担うとともに、農業や鉱山労働、工房での作業など、アテナイの経済と生活に不可欠な重労働を担っていた。政治参加に時間がかかる直接民主政において、政治参加の時間確保は、民主政の成立条件であった。奴隷は、成年男子市民がポリスにおいて自由に討議し、政治参加する時間を創出する役割を担った。
    ⚫︎在留外国人(メトイコイ):商業や手工業の中核的担い手としてアテナイの経済と富の維持•発展に不可欠の存在であり、アテナイ民主政の経済的基盤を担っていた。

    ■ この本によって「民主政」について何を考え直させられたか
    ⚫︎想像以上に制度化された政治体制
     民会や評議会等の抽選・任期制や公職者の不正追求のための諸制度、成文法主義の確立や情報の公開等、直接民主政を成立させ維持するための工夫が存在する高度に制度化された政治体制であった事を知り、アテナイ民主政の認識を改めた。
    ⚫︎アテナイ民主政を支える市民の政治参加
     アテナイ民主政には、市民の積極的な政治参加が必須であった。アテナイ市民は国政について我が事と捉えて真剣に参加するとともに、市民としての責任であり名誉であると考えていた。この背景には、市民権の境界設定や市民の兵役義務、教育や共同体意識等が要因として存在することを知った。民主政は制度だけでなく市民意識によって支えられていることを理解した。
    ⚫︎国家共同体を維持するための知恵
     特に印象に残ったのは、三十人政権崩壊後の大赦令である。アテナイ市民は三十人政権での虐殺被害等に対する報復や支援者達の排除を優先するのではなく、共同体の再建(共存)と統合を選択した。この選択は、感情的な復讐心にも、「正義」を徹底的に追求する姿勢にも流されないものであり、共同体を維持するための現実的な政治的判断であったように思われる。
     また、アテナイの市民は全員が民主政を賛美していたわけではなく、貴族や知識人には民主政を嫌悪・批判する者達も多数存在した。これらの人々も、民会での演説や裁判という民主政のルールに則っている限り、民主政批判の発言も許容された。アテナイ民主政は、価値観や政治的立場の異なる人々が一つの共同体として共存するための知恵にも支えられていたのではないかと思う。

  • 古代ギリシアの民主制と言えば我々が現代に続く民主的な政治体制を思い浮かべる時、それが世界史上初めて確立されたものとして、世界史で習った記憶を思い浮かべるだろう。現にこれまでの歴史研究に於いて、古代ギリシア、特にアテナイ(アテネ)では紀元前5世紀頃には、民主政(デモクラシー)が確立された。若干今と違うのは、それが全男性市民が参加する直接民会であり、参加者全員が投票並びに審議する(権利を持つと言うよりはそれが当たり前にされている状態)直接民主制であった。現代でいう議長、進行役などの様々な役割・役職は抽選によって選ばれており、それこそ運のみが左右する、誰にでも平等に支配と被支配の関係が生まれる制度であった。ひとつ特徴的な面では、参政権が成人男性市民のみに限定されていたことで、女性や当時は当たり前に存在していた奴隷、そして外国は除外されていたことだろう。因みに本書タイトルにある「民主政」とは本書で説明される様々な制度を通して確立された民主的な政治そのものを指し、それを支える仕組みや制度が「民主制」である。よって古代ギリシアは民衆が全員参加する民主政であり、投票や議会などの民主制により支えられていた、という事だ。
    本書は民主政について、それが生まれた起源から、制度としてどの様に確立していくかの様を説明する内容となっている。私は世界史先行だったから難しいカタカナに当時は悩まされた記憶があるが、それを成し遂げた今で言う政治家のような優れた人材や制度を一つずつわかりやすくおさらいする内容となっている。特に古代の(人々が集まり徐々に共同生活を営む規模が大きくなっていくような)都市の成り立ちや周辺都市との関係性(争いを含む)の中で、現代に生きる我々にも当然必要となっていく話し合い、そして意見を集約するという当然の流れが分かりやす描かれている。物わかりの良い家族だけの共同体から、農耕技術や海運技術の発展に伴い次第に家族と隣人に共同体が拡大し、それに伴い生まれてくる利害関係。人々がそれらを調整し争いなく平穏な生活を送るためには話し合いが必要だ。我々が単純に民主的と考える際は多数決ばかりに目が行きがちだが、基本的な多数決だけではなく少数意見を無視しない現代風な制度も当初からあったようだ。全員参加、議場となる広場、陶片追放や任期の考え方など様々な工夫が凝らされながら発達してきた民主政。選挙権を持ちながら政治に不審を抱いている事を理由に選挙に行かない現代人。当時(古代ギリシア)の人々に習う部分も多いのではないか。
    今世界は混乱し、世界情勢の影響を強く受けながら強い政党に牽引されながら劇的に変わろうとしている日本の政治。永らく日本の平和の礎となってきた日本国憲法も、改正される可能性もある。働き方も産業構造も様々なものが変化の兆しを見せ始める。良い方向に向かうかその逆に行ってしまうかは、数年後にならないとわからない。だがその推進力を与えているのは我々国民の投票であり考え方にある事は間違いない。民主制を選んでいるのも我々自身だ。投票したのは別の党とか、自分は投票していない事を理由に、この社会変化を受け入れない姿勢は無責任だ。そうならばより深く考え、一層声を上げるべきではないだろうか。自分一人の声では届かないと諦めてはいけない。
    本書を読み改めて自分で考え、意見を表明し、自分たちが社会を作っていく主体である事を学ぶ必要性を感じる。

  • 民主政はどのように生まれ、発展し、消え去ったか。どんなしくみで動いていたのか。2000年以上も前に史上から消えたとされる民主政が、どのような形で近代に復活し、現代に至ったのか。研究成果を織り込みながら論考する。【「TRC MARC」の商品解説】

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  • 【請求記号:231 ハ】

  • 目次
    はじめに
    第1章 民主政の誕生
    第2章 市民参加のメカニズム
    第3章 試練と再生
    第4章 民主政を生きる
    第5章 成熟の時代
    第6章 去りゆく民主政
    おわりに
    あとがき
    図版出典一覧
    関連年表
    主要参考文献


    概要
    橋場先生による、古代ギリシアの民主政治についての通時的概説書。最新の研究に基づき、民主政治が生れたアテナイの歴史の歩みと、アテナイを通じてペロポネソス半島のアルゴスやシチリア島のシラクサなどのポリスに伝播した民主政治の様子を描いている。

    本書のモチーフは、著者が明言するように、ソクラテス裁判などを理由にアテナイの民主政治を「衆愚政治」と呼ぶ、プラトン以来のヨーロッパの知的伝統や、奴隷制を理由にアテナイの民主政治を批判する近現代の左翼思想の反批判にあるが、その試みは半分しか成功していないように感じた。

    というのも、古代ギリシアの民主政治への批判は、19世紀半ばまで欧米でも一般的だった奴隷制のみならず、女性の権利の制限についてもなされており、しかも古代ギリシアの民主政ポリスの女性の権利制限は、市民権という概念に基づいて行われていたからである。奇妙なことに、本書ではこの事実については触れられていない。そのため、以下に引用するような、古代シュメールの都市国家では、古代ギリシアの都市国家よりも女性の社会的地位が高かった(例えば法廷に出る権利があった)ことなどについて、残念ながら著者の考えは示されていない。

    “ 姦通についても、ウルナンム法典第七条に「もし人の妻がほかの人に従い、ともに寝たならば、女は殺される。その人は自由である」とあるように、女性のみが罰され、家を担う男性は罰されない。
     古代ギリシアのポリスでは、市民の権利が明確になったことに反比例して、女性は社会的権利を狭められた。女性は家長に服するという点で奴隷と同じく家内的存在であり、私的な家庭内で主人として振る舞いえても、市民社会に生きる者ではなかったとされる。
     前三千年紀メソポタミアの社会において、ギリシアと同様に女性の社会的地位が低かったかといえば、一概にそうとはいいきれない。ウル第三王朝時代の文書に、女性が財産を保有し、その保全のために出廷し争った記録がある。一つの裁判文書を示す。
     寡婦となった女性が所有する家宅と奴隷について、息子が、それらは父の遺産に含まれるので、父の相続人である私に所有権があるとして、法定に訴えた。裁判のプロセスは概略次のようであった。訴えられた寡婦の家宅は、寡婦からいえば夫、息子からいえば父が関与することなく、彼女が自らの銀で購入しており、家宅購入証書も存在した。そのことを彼女は法定で証言した。奴隷については夫から贈与されたものであり、証拠となる証書も存在した。奴隷贈与を証言する証人も出廷した。提訴した息子は、彼女に有利な証言をした証人の言葉を認めた。逆に、息子の提訴理由について、息子側の証人たちは確認の証言をしなかった。それによって、彼女の家宅と奴隷の所有権は確定した。
     この裁判は、寡婦となった女性が自らの資金でおこなった、家屋を購入するという経済活動を認めている。夫から贈与された財産の内容に関して、この女性は夫から奴隷を贈与されていた。ウル第三王朝時代〈←214頁215頁→〉の文書によれば、夫から妻に、家畜や奴隷、それに貴金属を贈与する例がほかにも知られており、娘に土地を分与する例もある。
     女性が土地を含めた財産をもち、それを維持するために公的な場である裁判に出廷することも辞さなかった。女性の地位が社会的に認知されていたといえるが、ただし、それによって前三千年紀メソポタミアの女性の社会的地位が高かったといえるかどうかは、にわかに判断できない。メソポタミアの女性がある程度の社会的活動を許されていたのは、女性の権利が保護されたというよりも、ギリシアと異なって、厳密な身分規制がゆきわたっていない「市民権なき自由民」が中心となっている社会での、個別的な現象であるとみるのが妥当だろう。”
    (前田徹『古代オリエント史講義――シュメールの王権のあり方と社会の形成』山川出版社、2020年10月30日1版1刷発行、214-215頁より引用)

    また、後世のアテナイ民主政治批判は、決してソクラテスを死刑にした「衆愚政治」ということについてのみ言われている訳ではない。アテナイよりもスパルタの方が女性の地位が高かったことや、軍国スパルタよりもアテナイの方が好戦的なポリスだったことについても言われているのである。

    “ 逆説的なことに、民主政を敷くアテナイよりも閉鎖的な軍事社会であったスパルタにおいて、女性たちは自由で自立していた。スパルタでは、少女たちは短い軍用キトンを着て運動場でスポーツをしたし――“太腿を丸出しにした女たち”と、ほかの町のギリシア人たちは眉をひそめて呼んだものだ――、特別〈←104頁105頁→〉な祝祭のときには全裸で踊った。既婚女性は公の場に自由に出入りできたし、男性と同様に財産を所有・贈与することができた。息子の出陣にさいして名誉ある“盾渡し”の儀式を厳粛に行ない、かの冷徹な教え――≪これを携えて、さもなければこの上に乗って(戻りなさい)≫つまり、戦いを放棄するぐらいなら、死んで祖国に戻りなさい、という意味。戦死した兵士の遺体や負傷兵は取っ手に槍を通して担架のようにした盾に乗せ、戦友たちが祖国に連れ帰る慣わしだった――を授けるのも彼女たちの役目だった。
     スパルタにおいては、父系社会ではきわめて珍しいことに、女性たちの教養が大変高かった。そのことは、プルタルコスのおかげで一部が伝えられている『スパルタの女たちの箴言集』と題した作品から知ることができる。ここでは、スパルタ女性たちのおかれた環境を示唆する、ひじょうに興味深いエピソードを紹介しよう。イオニア地方のギリシア人たちの使節団がスパルタ王クレオメネスに援軍を要請するため、スパルタを訪れたときのことだ。王は四つん這いになり、娘のゴルゴを背に乗せて歩きまわっていた。それを見て驚いた使節たちに、王は言った。「異国の客人をお迎えするのにふさわしくはないことはわかっている。しかし、諸君も人の親ならわかってもらえると思う」このエピソードから、スパルタでは、幼いころに家族のもとを離れ兵舎暮らしを始める男の子よりも、女の子のほうがはるかに両親から愛され、かわいがられていたことが想像できる。オリュンピアの競技大会の四頭立て戦車競走に出た馬たちの所属する厩舎のいくつかは、女性がオーナーだったこともわかっている。アスコットの競馬場で英国の女王や貴婦人の所有する厩舎のサラブレッドが走っているように、当時も女性のオーナーたちの馬が活躍していたわけだ。”
    (ヴァレリオ・マッシモ・マンフレディ/草皆伸子〔訳〕『アクロポリス――友に語るアテナイの歴史』白水社、2002年11月、104-105頁より引用)

    “ 「ひとつ、わからんことがあるんだが。どういうわけで、古代ギリシアでは役割が逆転していたんだろう。アテナイ人のような民主主義者たちのほうが好戦的で、寡頭政治を行なっていたスパルタ人のような守旧派のほうがいつも平和への道を求めていた。どういうことなんだね?」
     「理由はひとつしかないと思う。いかにも、きみの大好きなソフィストたちが言いそうなことなんだけどね。つまり、こういうことなんだ。人間は自分が得をすることをする。イデオロギーなど問題ではない。言い換えれば、アテナイ人たちにとって、戦争は戦艦の漕兵たちがもらう給料、造船所や武器製造工場や軍事物資供給業者が得る利益、奴隷商人が濡れ手に粟で手にする莫大な富、原住民たちを追い出して作った軍事拠点に駐屯する者たちがただでもらえる土地を意味していたんだ。ようするに、支払いをしてくれる“帝国”があるかぎり、戦争はじつに儲かるビジネスだったというわけさ。スパルタ人たちだって、心の優しい平和主義者だったとは考えられない。ただ、彼らにとって、戦争はやっかいなことでしかなかったんだ。“やっかいな”というよりは、“なんとしても避けたい”と言うべきかな」
     「だけど、スパルタ人というのは子どものときから戦闘訓練ばっかりしていたんじゃなかったかね?」
     「そこなんだよ。だからこそ、戦争の怖さを誰よりもよく知っていたのさ。でも、それより重大なのは人口問題だったんだ。軍籍をもつ市民階級は定員制だったし、土地を所有している者にしか共同食堂の給食費や武具などの維持管理費を賄うことができなかったからね。多くの子どものあいだで土地が分割贈与され、数世代で財産がすっかり散逸してしまうのを防ぐために、厳しい出産制限をしていたんだ。戦争は兵士階級の弱体化、ひいては町の衰亡を意味していた。スパルタ人にとって、人口問題は寝ても覚めても頭から離れない大問題だったんだ。……”
    (ヴァレリオ・マッシモ・マンフレディ/草皆伸子〔訳〕『アクロポリス――友に語るアテナイの歴史』白水社、2002年11月、256頁より引用)


    この件についても奇妙なことに著者の考えは示されていない。著者は、ルネサンス以来の西洋の知識階級の大衆蔑視を伴うエリート主義から始まる流れと(本書229-232頁)、奴隷制を理由にアテナイを批判するマルクス主義の流れ(本書233頁)を、思想界の「反民主主義の伝統」の潮流として挙げている。しかし、上記引用部で示したように、アテナイよりもスパルタや古代シュメールの方が女性の地位が高かったことについては、民主政治の主体となる「市民」についてのアテナイ人の理解が投影された結果であるし、現実政治において、アテナイは決してスパルタよりも平和的に振る舞った訳ではない。私は本書を読む前に、これらの点について著者がどのように回答しているのかが気になっていたため、私の読解力の不足かも知れないが、その答えを見出せなかったのは残念な読後感であった。

    なお、最後に、リビアの革命指導者カダフィ大佐は、古代ギリシアの民主政治を20世紀に復活させようとして、「ジャマーヒリーヤ」体制という世界でも類を見ない革命体制をリビアに築き上げたが、この体制について著者がどのような意見を持っているのかも知りたかった。多くの観察者が見ているように、直接民主主義を打ち出しながら、肩書としては一介の大佐に過ぎない革命指導者のカダフィに強大な権力が集中するリビアの政治体制と、「一〇人の将軍の一員にすぎなかった」(本書166頁より引用)ペリクレスが多くの決断を下していた古代アテナイの政治体制はどれほど異なっていたのか。「古代アテナイ人がもし今日の議会政治を目にしたならば、それを民主政ではなく、極端な寡頭政と見なすであろう。彼らにとって統治の主体とは代議士ではなく、市民自身だったからである」(本書237頁より引用)との著者の思いには私も賛同している。上記で古代シュメールやスパルタがアテナイよりも優れていたと思われる点について書いたものの、私自身としてはアテナイ人の直接民主主義を今日に活かすべきだと考えるものとして、議会政治や政党を否定して直接民主主義を打ち出したカダフィ大佐の実験について、著者がどのように考えていたかは興味が尽きない。

  • 現代民主主義のあり方に限界が来ているのは誰もが感じていると思う。今のやり方でいいのか?と。
    そんな時代に引き合いに出されるのが、古代ギリシアの民主政だ。ここでは明らかに持ち上げ過ぎだけど(もちろん狙ってそう書いている)、現状の政治システムを見直す機運のきっかけになる一冊だし、そうなって欲しい。
    ただギリシアの直接民主政って、そもそも参加できる人間が限られていたんだよねぇ。そこはあんまり知られてないけど。

  • 古代ギリシアで民主的な政治が行われていたということについて柄谷行人を読んだときから非常に興味があった。古代イオニアにおけるイソノミア、そこは自由と平等が両立するユートピアのような世界だとイメージしていた。もっと詳しく知りたかった。本書を読んでイメージはがらっと変わった。なんともどろどろしている。暴力は多発していた。繰り返し戦争をしている。民主政から僭主政や寡頭政へと次々と仕組みは変わっている。それでも、2500年前に民主政は確かに存在していたし、存続させようとしていたのだ。不正行為が行われにくくする仕組みが巧みに考えられている。陶片追放などという仕組みがあったことは初めて知った。何よりも少数の人間に権力が偏らないようにと、持ち回りで政治が行われている。そして、本当に多くの人々が政治の場である民会に頻繁に集まっている。もちろん日常のこまごました仕事は奴隷に任すことができたという事情はあっただろう。しかしそれを差し引いても、よくまあ集まって議論をしたものだ。私も、今年度、自治会長をしているが毎月区の協議会に1時間ほど参加するのもおっくうである。他の人たちも、早く終わってほしいから余計な意見を言う人がいようものならみんな舌打ちをしている。そう、他人ごとだから興味もわかないし、楽しくもない。楽しくなければ続かない。だからきっと政治はもっと自分ごとで、議論が楽しい場でなければならないのだろう。大人数なので自分の意見を述べる時間はそれほどなかったかもしれない。きっと、何人か代表の意見を聞いて、近くにいる人といろいろ意見を交わしたことだろう。そうやって盛り上がるのがきっと楽しかったのだろう。祭り気分だったかもしれない。だから、月2回とかでも遠くから歩いてでもやってきたのだろう。さあ、ここで一つ疑問な点がある。それは、やはり最終結論は多数決で決められていたということなのだと思うが、結局少数意見は切り捨てられていたのだろうか。並行して「子どもたちに民主主義を教えよう」(工藤・苫野)を読んでいたので、その点が気になってしまう。それから、歴史的に見て、この古代ギリシアの民主政は否定的にとらえられてきたのだという。いわゆる衆愚政治ということなのだろう。ソクラテスを死刑に追い込み、プラトンが否定した民主政なのだからそれも仕方のないことかもしれない。しかしそれがここ数十年における考古学的研究によって覆されてきている。その事実こそが本書のおもしろさでもあった。著者は軽く見てきたように2500年前の様子を語っているが、おそらく相当多くの碑文と呼ばれるような文章を読み込んできた上での話なのだろう。そう考えると歴史研究というのも本当に大変な作業なのである。頭が下がる。

  • 知らんことが大量に説明されている。

  • 312.395||Ha

  • 東2法経図・6F開架:B1/4-3/1943/K

  •  図書館の新着コーナーで手に取った。
     紀元前5世紀から数世紀にわたるギリシアの民主政について簡潔にまとめられている。
     当時のギリシアでも人口が5万人ほどという、いわゆる当時の国家単位(?)である「ポリス」における政体ということだ。当時としてはギリシアの民主政は異彩を放っていたということだ。僭主政に脅かされながらも何とか維持していた政体も、ローマの共和政により終焉を迎えてしまう。
     そんな民主政を哲学者ソクラテスもプラトンも衆愚政治と言って憚らなかったという、この身の浅学を反省する機会となった。当時でいう「デマゴーグ」であるとか、今の「ポピュリズム」というのは確かに「感情」に流される危うさがある。が、一方で「賢人政治」にしても、いまの国家規模での中央集権的な政体は「腐敗」の温床をつくってしまうし。
     たまたま本著に出会ったことで、今ざわついている政体のあり方について考えるよい機会となった。

  • 女子栄養大学図書館OPAC▼ https://opac.eiyo.ac.jp/detail?bbid=2000059426

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著者プロフィール

1961年、札幌市生まれ。東京大学文学部卒。同大学院人文科学研究科博士課程修了。博士(文学)。現在、東京大学大学院人文社会系研究科教授。主な著書に『アテナイ公職者弾劾制度の研究』『賄賂とアテナイ民主政』『西洋古代史研究入門』(共著)ほかがある。

「2016年 『民主主義の源流 古代アテネの実験』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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