アリストテレスの哲学 (岩波新書 新赤版 1966)

  • 岩波書店 (2023年3月22日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (284ページ) / ISBN・EAN: 9784004319665

作品紹介・あらすじ

思想界では近年一段と脚光を浴びる一方で、一般には時代遅れのイメージが付きまとうアリストテレス。本書はこの懸隔に架橋すべく、彼が創出した<探究と知の方法>を示したうえで、人間、社会、自然を貫く議論の全体像と核心を明らかにする。現代人の疑問や違和感に向き合いながら、「いまを生きる哲学者」としての姿を描き出す入門書。

みんなの感想まとめ

人間や社会、自然についての深い洞察を提供する本書は、アリストテレスの哲学を現代に生かすための道筋を示しています。著者は、アリストテレスの探究と知の方法を通じて、読者に新たな視座を与え、彼の思想がいかに...

感想・レビュー・書評

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  • アリストテレス哲学について透徹した見通し、あるいは視座を与えてくれる、すごく良い本です。この本を読んだあと、せっかくだからと、ニコマコス倫理学を再読してみましたが・・・なかなか進みません。【2024年7月14日読了】

  • 趣味のなかで『アリストテレス全集』を読む機会があったが、あまりにも読みづらく、まずは全体像から知ろう、ということでこの本を手に取りました。
    哲学の話なので簡単ではありませんでしたが、前半部の「徳」の話や「経験的習熟」の話は大変面白いと思いました。

    すべての学問が日常体験を出発点にしているおかげで、何千年もの時を超えても、身近に感じることができるのだろうと感じました。

  • 「で、あるべきだ」という信念(思い込み?)からコミュニケーションを始めようとうとする、つきあうのがメンドクサイ人には、しっかり調べて分析して自分のモノの見方を吟味してからしゃべってほしい、と切に願う。世界を、澄明に、フラットかつ緻密な目で見るということでありたい。

  • アリストテレス=哲学者といっていいほど、著名な哲学者である。

    2000年前の哲学者であるが、哲学を学ぶ者は、アリストテレスを避けて通れない。

    アリストテレスは論理学の創造した哲学者であるが、その研究分野は多岐にわたる。

    アリストテレスがつくりだしたり定着させた、概念や考え方を、現代人も使っている。

    アリストテレスの概念が、人間の思考の基礎的な部分を的確にとらえていることから、現代でも使われているといえる。



  • アリストテレスの本を読む準備に読んでみたけど、ある程度の知識は前提になってる感じがして一番目にはあまり向かない本だったかもしれない。
    アリストテレスに向けられる批判に対するアンサーという形で彼の思想を紹介していく内容で、思ったより難しくて二回読んだ。思想を系統立てて紹介するというよりは、魂や原因などのアリストテレスの使用する用語の現代のイメージ・解釈とのズレを指摘したり、彼独自の考え方を丁寧に説明するのが主になっている。
    アリストテレスの知的探求は、人間の知を求める本性と知的能力を信頼し、多くの情報を集めて観察や実践を重ねたうえで「なぜそうなっているのか」を把握することを目指す(単に答えを知ることではない。そこはプラトンと似てるかも)。得られる知は論証の形で表現される、というのが彼の知の枠組みで、これを基礎に様々な学問をなしていったらしい。特に自然学の探求においては「なぜそうなっているのか(原因)」は素材・形相・始動・目的の四種類の原因を探究するとか。
    また、アリストテレスの倫理は行為の正当性ではなく「徳のある人」がする行為であることによって正当性が得られるらしいのだが、この部分がよくわからなかった。徳のある行為とは徳のある人のする行為である、とするとなんだかトートロジーに陥るような気がして…。最後のウーシアに関する話も分かったような分からないような感じで、もうちょっと勉強する必要がありそう。

  •  人間には尽きることのない、知りたい、という好奇心がある。その好奇心によって、まずありのままにあることを受け入れたうえで、そのあらゆることの本質を自分の殻に閉じこもらずに探求することが哲学である。これがアリストテレスの言いたいことだ、ということかなあと思う。アリストテレスもすごいけど、彼の思想を批評・発展させてきた哲人たちもすごい。
     個人的には、著者によるアリストテレスの考え方のまとめ、4つの「し」、信頼、収集、習熟、知るが印象に残った。ただ本書は、決してタイパ重視のアリストテレス哲学のお手軽入門書ではないことを記しておく。

  • 同じ著者による『はじめてのプラトン 批判と変革の哲学』と同様に、大変な良書である。筆致は論理的な飛躍が見られない堅実なものでありながら、文章自体は平易であり、親しみやすい雰囲気すら漂う。それでいて内容は硬派なまでに学術的である。
    著者は『アリストテレスの仕事は、時間と空間の隔たりを超えて継承され、洋の東西を問わず、いまを生きる人びとの知識や考え方にまで浸透している』と主張するが、それが誇張ではないことが読み進めるうちに理解できる。我々が日常的に使用する個別/普遍、可能/現実、理論/実践、主語/述語、実体/属性、本質、カテゴリーなどの概念群は、アリストテレスに由来する。思考のOSともいえる『論理学』を用いずに考えることなど想像もつかない。『理論的知』と『実践知』を峻別したうえで、学問を『〜学』といった部門に体系化したのも、彼が初めてである。アリストテレスの探究の方法も、我々には馴染み深い。彼は、『広く受け入れられた通念や有力と思われている見解』=『エンドクサ』という確実な土台から出発し、『探究を通じて得られる知』=『ある事物や事象、ないし現象について、その原因や原理、あるいは根拠を知ること』に至ろうとする。我々にとっては当然のように思える思考方法が画期的であったということは、それ以前はそれらが自明視されていなかったということである。そんなアリストテレスへの異論として、『それは思考の自由を奪っているかもしれない』、『人間の考え方と実践がいわば体系的に歪んでいることの証左としてとらえ直されることになるだろう』という批判も紹介される。少なくとも現代において、『理論的知』による事実の探究と『実践知』が求める人間的価値のつながりが希薄であり、それは辛うじて個人の内面にか細く確保されているにすぎないことも事実であろう。しかし早計にその元凶をアリストテレスに求めるのも筋違いであることが、本書を最後まで読めば理解できる。というのも、まさしくアリストテレスの哲学の頂きにおいて、事実の探究と人間的価値の統合が称揚されるからである。
    著者はアリストテレスの核心について、それは『探究を通じてわれわれは世界を知的に理解することへと至ることができる』という信念であり、古代ギリシアの伝統である『人間の知的傲慢』を戒める傾向に抗したという点にかぎれば『異端児であり挑戦者だった』と評する。
    『すべての人間は、自然本性によって知ることを求める。(『形而上学』)』
    『われわれにとって知られることから事柄の本性に即して知られることへ。(『分析論後書』、『自然学』、『魂について』、『形而上学』、『ニコマコス倫理学』など)』

    私は以前、……後世の哲学の展開をあらかじめ知ってしまっている身からすると、『ソクラテスの弁明』には形而上学的な情熱が欠けているように感じられる……と書いたことがある。本書の見解によると、それは当たり前である。
    また、同じ著者の『はじめてのプラトン 批判と変革の哲学』を読んだ際には、『善のイデア』について次のように書いた。……しかし私には、存在論的な議論が倫理的な『変革』への要請へと接続される必然性が、どうしても見いだせない。確かなのは、そこに倫理的な意味が込められていることであり、そこまでは理解しているにもかかわらず実感がもてないのだ。もしかすると私は、哲学の部門として『形而上学』と『倫理学』を区別するという習慣に無意識のうちに囚われているのかもしれない。……本書の説明によると、アリストテレス以前の『多くのギリシアの思想家たちは、自然的世界の認識と実践的な知識との間にこのようなはっきりとした区別を想定』していなかった。例えばプラトンは『存在と認識の最終的な原理として〈善のイデア〉を構想し、最終的にすべての知が何らかの包括的な価値的原理にかかわることを示唆して』いた。つまり、私の困惑には十分な理由があるのだ。

    アリストテレスの『倫理学』において、目指されるのは、『何かをおこなう主体にとって善いこと、つまり有益であること』である。だからアリストテレスは『人間が人間としてもっているはたらき(機能)、そしてそのすぐれたあり方としての徳を発揮できる生き方が人間にとっての善であり幸福である』と主張する。快活な『幸福』の定義であろう。己の力を十分に発揮することが重要なのだ。興味深いのは、アリストテレスがプラトンの『善のイデア』に対して『人間がおこないうる善でもなければ、獲得できる善でもない』と批判することだ。私はそれをもっともな指摘だと思う。一方でアリストテレスは『魂』の考察において、それを『思考にかかわる徳』を司る『ロゴスをもつ部分』と、『人柄にかかわる徳』を司る『ロゴスに聞き従う部分』に分割する。その発想はプラトンが『国家』で説いた『魂』の三区分説に類似しており、アリストテレスはプラトン『国家』の形而上学的側面を否定し、心理学的側面を批判的に継承したのかもしれない。プラトンと対照的なのは、『魂』の『ロゴスに聞き従う部分』が担う『人柄にかかわる徳』が重視されることである。アリストテレスは『外的な善が幸福のための前提条件である』と断言し、『習慣づけ』による『性格や人柄と呼ばれる人のあり方』の陶冶を重視する。『ロゴス』=『理性的判断』に先行して、『習慣づけ』によって『徳ある人』になっていなければならないということである。つまり、何が良いかを頭で理解するより先に、良い行動への欲求を身につける必要がある。アリストテレスの『倫理学』が『政治学』と不可分なのも、そのような行為を『習慣』として身につけるための前提は、周囲の社会集団の振る舞いであるからであろう。アリストテレスの根本的な洞察は、『個人の行為や生と共同体のあり方とを切り離すことはできない』として、人間を『ポリス的動物』と捉えることである。そのような主張から生じる論理的困難は、(1)それが『徳ある行為』であると判断する客観的な基準に欠けること、(2)『習慣づけ』を促す社会集団への無条件な受容を含意する(ように思える)こと、これらの点である。著者もその部分の説明には苦慮しているようであり、『徳ある行為は、交通規則に従うのとは異なり、特定の振る舞い方として外形的に特定できない』、『徳ある人がどのように状況を把握し意味づけ、それに対してどのように反応するのかを習慣づけを通じて学ぶこと』が必要とされる……と、歯切れが悪い。アリストテレス本人の言葉からして『じっさい、すぐれた人がそれぞれの物事をただしく判定する』などと、ほとんどトートロジーだ。とにかく、『適切な行為』を欲することを前提に、『魂』の『ロゴスをもつ部分』が担う『思考にかかわる徳』がやっとのことで登場し、その行為を適切に実践できる、という構図である。
    『思慮を欠いては本来的な意味での善き人にはなりえないし、人柄の徳を欠いては、思慮ある人にはなりえない。(『ニコマコス倫理学』)』
    考えてみると、確かに論理的には困難であるが、現実としてはそのように語るより他はない、という気もする。アリストテレスの方針では、『徳』や『善』の意味内容が個人の置かれた時代と地域に相対的なものになることは避けられない。そしてそれこそが、プラトンやカントのような普遍主義者には受け入れがたいところだろう。しかし私としては、社会的なものから独立したものとして、普遍的・絶対的な『徳』や『善』を考えてみても、それは空疎でしかないと思う。その一方で、そんなアリストテレスへの批判には、私もすぐに思いついたような『個人に対して共同体を優先する思想』とか、『現状追認的だとか革新性に欠ける』というものが多いらしい。著者はアリストテレスの立場から『受容された見解から考察を始めることは、それに裏書きを与えることではない』、『現状のたしかな認識のうえに、手持ちの信念や考えにより明確なかたちを与え、問いただし、見直すことによって、そこに潜在する深い内実を掘り起こしたり、それらを超えて新たな知へと至ることは可能である』と反論する。アリストテレスが『倫理学』と一体の『政治学』において掲げたのは『中間の国制』=『極端に富裕な層でも極端に貧しい層でもない中間層の人びとを中心とする制度』であり、現代の民主政治との類似性も指摘されるようだ。アリストテレスの『倫理学』の代名詞の感もある『中庸の徳』についても、著者は『徳に応じて、避けるべき超過や不足が異なる』のであり、『プラトンの対話篇でソクラテスが語っている、すべての徳が一つである(徳の一性)という主張とは明確に対立する考え方』であると指摘する。確かに著者のいうように『この教えのほうがより実践的である』のかもしれない。プラトンやカントが理想とする、普遍的な『倫理学』は空疎である。その一方で、アリストテレスのように時代と地域に相対的な『倫理学』は、ある程度は妥当である、とまでしか言えない。そうであれば、その妥協をもって『実践的である』と言い切ったほうが、有意義だと考えることもできる。なお、そのようなアリストテレスの『倫理学』は、個々が資質として『もっているはたらき(機能)』に応じた多様な『幸福』を許容するはずである。しかしながら、著者はアリストテレスの本音を推測し、それは『人間の最もすぐれた活動を観想ないし考究することのうちに過ごす生』が『究極的な善であり幸福である』というものだと述べる。その『幸福』の序列は興味深く、その内実は『形而上学』の解説の終盤で示される。

    パルメニデスの『ある』の一義性を批判し、自然の基本的な在り方を『生成変化』と規定するアリストテレスにとって、有名な『四原因説』はそれを説明するための道具立てである。本書を読んだところ、『四原因説』とはいいつつも、四つの『原因』のなかで『形相因』が明らかに第一の概念である。『形相因』とは、ソクラテスの『何であるか』という問いを、プラトンが概念として純化させた『イデア』を継承したものと考えてよさそうだ。宙に浮いた『イデア』への批判を含意しつつ、『何であるか』を端的に示す『形相』、『形相』に至る『生成変化』の起点と終点である『始動因』と『目的因』、『形相』を実現する物質的要素である『素材因』を加えて、それら四つを『原因』といっているわけである。著者によると、我々とアリストテレスの考え方の違いは、世界を『一連の出来事が因果的ないしは(因果性が実在的ではないと考えるなら)継起的に進行する』ものとして捉えるのか、『生物をはじめとしたそれぞれのものに原因となる力の存在と可知性を認める』のかということに帰着する。現代の我々にとってリアリティを感じられるのは、『素材因』と『始動因』くらいであろう。しかしながら、例えば「あなたという人間の在り方は、水・タンパク質・脂質・ミネラル等々で構成されており、エネルギー代謝によって作動している、それが全てです」と言い切られたと想像してみよう。もし『素材因』と『始動因』に尽きるとしたら100%正しいその主張に対して、そのまま納得できる人はいるだろうか?アリストテレスの『四原因説』も、一つの思考の枠組みと考えるのが妥当であろう。確かに我々とアリストテレスとでは思考方法は異なるが、『四原因説』の枠組みはかなりのところで適切に機能するのではないか。忘れがちであるが、現代の科学も説明の体系であり、真実そのものの開示ではない。その説明が機能すれば、さらにいえば、その説明に我々が納得できれば、その説明は十分に妥当であるということになる。著者も説明の際に職人の例を挙げているが、アリストテレスの『四原因説』の背景には、人間の制作行為をモデルとした思考の枠組みが強く反映しているように感じられる。そうであれば、『形相』において制作し続けている力能という世界像が、そこにあることが想像される。

    アリストテレス自身の『魂』の規定は『自然的な物体(身体)の形相』、『自然的物体の第一次の終極実現状態(エンテレケイア)』、『栄養摂取、運動、感覚知覚、思考というそれぞれの能力』といった難解なものであるが、著者はそこに、デカルト以後の『心身二元論』における『精神』とは全く異なる、『生の原理』という意味があったことを指摘する。そもそも『魂』の議論は『自然学』の一部である。その解説だけを独立させて一つの章とするところに、いかにそれが現代人にとって馴染みのないものかが表れている。著者は、アリストテレスのように考えることが可能かどうかは『心という仕切りによってその外と内に分けられた栄養摂取と感覚知覚を、同じ概念の傘の下に入れて同じように考えることができるかどうか』であると説明する。前者を身体的側面として『物体』に、後者を『精神』に分類したくなる思考の癖をもって、著者は我々について『いぜんとしてデカルトの末裔である』と表現する。デカルトがそうであったように、『心身二元論』を是とする者は、『内的な状態』と『外的世界』の架橋をどのように説明するかに苦慮することになる。彼らは夢や幻覚を根拠に、『感覚知覚』を疑わしいものとみなす。著者はアリストテレスの立場だと『感覚知覚』は『器官が正常であれば、基本的にただしい』のであり、『感覚知覚での現われと幻覚や夢での現われが同等の身分にあると考える』のは倒錯した試みであると評する。水に思えた液体が酒だったとしても、『その液体が「無色透明」だという視覚的認知自身はただしい』のである。そのような立場からは、『精神』と『外的世界』との接続あるいは一致という近代哲学の一大問題は、実は問題ですらなかったということになる。そうだとしたらこれは痛快であろう。思い返せば幼いころ、私は母親の「心配ばかりしてるとお腹が痛くなるよ」という言葉を、かたくなに受け入れなかった。私は逆に「気持ちと体、別物なのに、どうしてつながってるみたいに言うの?」と質問し続けたが、満足のいく返答はなかった。頭の中に小人がいるのか?などと夢想したようにも思うが、子どもの浅知恵が対処するには、『心身二元論』は大きすぎる問題だったのだ。子どもながらにそのような問いを抱いていたわけだが、その形成が人間の『自然本性』によるものなのか、あるいは、『デカルトの末裔』たちによる文化的な刷り込みの産物なのか、それは分からない。あのとき身近にアリストテレス先生がいれば、私の疑問は解消したのかもしれない。

    哲学といえば形而上学に代表されるが、その語源はアリストテレスの著作『形而上学』である。一般に、そこでは『存在論』が論じられると紹介されることが多い。アリストテレス自身が、探究するべきなのは『あるというかぎりでのあるものについて、その「何であるか」と、それがあるというかぎりでそれに成立する属性』、『諸々のあるものの始原と原因であるが、しかるに、それはあるというかぎりでのあるものの始原と原因』と述べるので、当然であろう。しかし著者も明記するように、『~がある』という意味での『存在』は、『形而上学』ではまるで探究されない。そこに、日本語の言葉として『存在論』と聞いたときに生じる期待との、かなり大きなギャップがある。著者の厳密な言葉遣いによる説明に対して申し訳ないが、単純化すれば、アリストテレスが論じるのは『ウーシアー』=『基礎的な存在』≒主語となるもの、『カテゴリー』≒述語、『デュナミス』と『エネルゲイア』という『ウーシアー』の諸様態(力能を保有した状態と発現させた状態)、これらである。それらの概念群は『~である』という事態を説明するためのものという側面が強い。
    『そしてたしかに、昔もいまも、つねに探究され、またつねに困難に行き当たってきた問い、すなわち、「ある」とは何であるかという問いは、「ウーシアーとは何であるか」という問いにほかならない。(『形而上学』)』
    本書の表現のなかから『〜がある』に近しいものを探すと、『基に措定されているもの』から全ての『形相的規定』を除去した『無規定な素材』、あるいは『第一質料』あたりが相当しそうである。しかしアリストテレスは、それらを『まったく無規定なものはウーシアーではありえない』として退け、それらが『形相』と相関的であるかぎりで『ウーシアー』≒『存在』だと認める。『形相』という設計図のような概念は、日本語の言語感覚においては、『存在』というよりも定義に近い。ハイデガーの執拗な探究の端緒も、『~がある』への問いの不在に促されたものだったのだろう。
    さらにアリストテレスによれば、感覚されうる『ウーシアー』の理解は、感覚されえない、超越的な『ウーシアー』の理解に貢献する。有名な『不動の第一動者』という神のような存在がそれである。著者の説明によるとそれは、『生成変化』という運動を引き起こすものを遡っていったとき、それが無限遡及に陥らないために理論的に要請される存在である。だからそれは、自らは動かないままそれ以外を動かすという『エネルゲイア』の状態にあり、その状態のまま永遠不変の『ウーシアー』である、ということになる。アリストテレスはその『不動の第一動者』に対して『知解活動の知解活動(ノエーシス・ノエーセオース)』という規定を与える。その最高の『知性(ヌース)』の対象は、その主体と同じく最高の『知性(ヌース)』でしかありえない、それは自分自身である、ということらしい。納得しがたい理屈であるが、おそらく、完全な存在は自足しているはずであり、それがゆえに自分以外の存在に『知性(ヌース)』を向けて探究する余地がない、ということではないかと思う。その理屈よりも重要なのは、その神的存在が自足していること、つまり人間たちに干渉しないものとして規定されていることであり、著者はアリストテレスの神について『世界のあり方に自らは介入しない』と断言する。そしてもう一つ特徴的だと思われるのは、アリストテレスの神は定義上、ほとんど虚無のような一点でしかありえないことである。プラトンの著作でもそうであるように、古代ギリシアでは「神々」は常に複数形で語られており、それとは明らかに異なる。アリストテレスがヘラクレイトスのエピソードを引用していることから推測するに、彼にとって真に神的なものは、『形相』を内包する世界そのものであり、それと完全に並行関係にある人間の『知性を行使した考究するという活動』としての『テオーリアー』であって、オリュンポスから人間たちに干渉してくる存在ではなかったのだろう。そうだとすれば、彼が『形相』≒『〜である』の探究に終始したのも、それが神性の探究そのものだったから、ということになる。著者も『神的なものの在処もまた、この世界の探究をつうじて示される』という視点は『アリストテレスの哲学全体の根底にある』と述べる。
    『…それゆえ、あまり高貴とは言えない動物についての探究を、子どものように嫌がってはならない。自然的な事物のすべてに、何か驚くことが含まれているからである。 ヘラクレイトスは、彼に会いたいと思ってやってきた客人たちが、彼が炉のそばで暖を取っているのを見て立ち止まったのに対して、その人びとに遠慮せず入ってくるように促したうえで、次のように言ったと伝えられる──ここにも神々がまします。(『動物の諸部分について』)』
    例えばプラトンの思想においては、特に『パイドン』に極まるように肉体や現実世界への蔑視が濃厚である。そのような思想は、『イデア論』のように別の世界を夢想しがちだ。キリスト教にいたっては説明するまでもないだろう。著者は『形而上学』の考察を総括して『それによって見出される世界のあり方を、強く肯定していると読むことは許されるだろう』と表明する。アリストテレスは、『最善のもの』と『テオーリアー』と『完全な幸福』を等値するのであり、ここに『形而上学』と『倫理学』の交点が見いだせる。ところで、人間は『ポリス的動物』と規定されていたはずだ。その人間の規定と、世界の『形相』や『不動の第一動者』を『テオーリアー』において希求する姿とは、質的に異なるようにも思われる。アリストテレスの人間像には矛盾があるのだろうか。しかし、思想において矛盾とは跳躍台でもある。プラトンが国家レベルで夢想した理想像を、目の前の現実の認識から出発し、探究の果てに究極の域に達した個人の内面に確保したというようにも理解できる。そう考えるとき、はるか後の時代、まさしくそのような志向を自覚的に壮大なスケールで展開させたヘーゲルが、『精神哲学』の末尾に、『アリストテレス『形而上学』第一二(Λ)巻』の引用を掲げた理由にも深い感銘を覚える。実際、そのような夢想は甘美なものである。『デュナミス』と『エネルゲイア』の対概念はいわゆる弁証法の、『不動の第一動者』における『知解活動の知解活動』という規定は、『絶対精神』の『自己意識』の、それぞれ萌芽であるようにも思われる。著者が有名なホワイトヘッドの言葉を改変して『哲学の歴史的事実にもとづいて語るなら、「西洋哲学の歴史はアリストテレスに対する一連の脚註からなる」と記述する方が安全である』と述べるのも、十分に理解できる。

  • 人は何のために生きるのか。古代ギリシャのアリストテレスは富でも快楽でもなく「善く生きること」こそ幸福だと説いた。中畑正志『アリストテレスの哲学』はその思想を誤解や批判に応答しつつ現代に読み直す。混迷の時代、私たちは理性と情念、必然と偶然のはざまで揺れる。速さや効率に追われる日常の中で調和を探る彼の声はいまも生きている。

  • おおーわかったようなわかんないような

  • 「第一原理思考」について、原著の「形而上学」を読むのは、しんどいので。

  • 現代にいたる哲学の様々な思想とアリストテレスの思想との関係を明らかにするなかで、アリストテレスの思想がどのようなものだったかを浮かび上がらせている。今までアリストテレスについての解説本を読んでも今一つモヤモヤしていたことが、ひとつひとつスッキリしていく。「デュナミス」や「不動の動者」などの概念、あるいはスコラ学やルネサンス期におけるアリストテレスの受容のされ方、などなど。ある程度アリストテレスや哲学史全般について学び考えたことのある人なら絶対おもしろい。

  • アリストテレス哲学を分野別にまとめた本で,アリストテレス哲学に入門したい人にとってはちょうど良いと思う。

  •  西洋の知の源泉の一つとして多大な影響を及ぼしながら、一般には「否定すべき対象」としか捉えられていないアリストテレス。本書は、そのような一般に流布する「誤解」のいくつかに反論しつつ、今なお現在進行形で有効さを保つアリストテレスの哲学を検証することで、「人間の『知』が成立する条件」を改めて問おうというもの。僕は「魂について」でしかその著作に触れたことがないのだが、これまでにアリストテレスを扱った読み物はいくつか読んでいる。

     例えば、「アリストテレスに由来する古い「概念」に縛られることで、学問に枷が嵌められているのでは?」という疑問に対しては、次のように反論を試みる。アリストテレスの知的探究についての一般的枠組みとは、著者の「信頼せよ」「収集せよ」「習熟せよ」「なぜかを知れ」という4X4(4つの「し」)が要約するように、先行研究を信頼しつつ自他を通じて情報を収集し、経験を通じて事象(ことの知)に習熟した上で、妥当な推論形式に従って原因や根拠(なぜの知)を導く、というのがその本質。その理路である「論証」からなる学問的知識は、それぞれの分野の基礎となる固有の原理(基礎措定)に依拠しておりそれぞれ自律してはいるが、相互に関係しながら学問全体を俯瞰するネットワークを形成している。アリストテレスは多岐にわたる諸学問に共通する探究の枠組みを提示したのであって、学問の細分化を志向したのではない、というのが著者の主張のようだ。

     また、「アリストテレスの倫理学は理論を欠いた凡庸なもので、かつ全体主義的だ」という批判に対しても、それはアリストテレスの倫理学が自然科学とは逆に「理論より実践」を重視しており、日常的な実践と生活に根拠を置いているためにそう見えるのだ、と反論する。実践を通じて人間は最高の「善」を志向するのだが、それは個々人の最も優れたあり方である「徳」が発揮できるようなはたらき(機能)を通じてである。個人に機能の発揮を要請するとともに、その発揮が最大限できるようアリストテレスは国家に対し積極的な関与を要請するため、それがやや全体主義的に捉えられることがあるようだ。著者はアリストテレスを擁護して、彼が「徳」の実践だけでなく考究こそが最高善と主張していることや、徳以外にも健康、富や名声などの「外的な善」も重要だと主張していることを反論根拠として挙げているが、ここはやや主張としては弱い気がした。やはり機能面で人間性を推し量るような一種の強引さがアリストテレスにはあるように思えるし、アンスコムの主張するように「徳の倫理」が功利主義や定言命法的な義務と一線を画しているといっても、やはり倫理的な習慣づけにおける法や制度の役割や既存の先行体制を重視するアリストテレスの理路には、定言命法以上に規範的な匂いがどうしてもしてしまうのだ。

     「アリストテレスの自然科学、特に目的や原因を論ずる部分は擬人的すぎて現代科学とは相容れない」との批判に対し、アリストテレスの有名な「四原因説」における「原因」や「目的」は現在我々が使用する際の意味以上のものを含んでおり、むしろ「それぞれの事物がその事物であるまさにその理由」という意味合いが強いことを指摘しているが、これはアリストテレスの哲学全般に通底する重要な指摘だと思う。しかも著者は、現代自然科学とアリストテレスの対立点はそれのみではなく、事象を因果・継起的に捉えるか自然に内在する力によるものと捉えるかの違いにあるという。

     またアリストテレスは魂:身体の関係を形相:素材(質料)の関係に準えたため、デカルト的ニ元論に対する一元論、特に機能主義(物理主義)的なそれの擁護者として扱われてきた。しかし著者によれば、アリストテレスの「魂」と今日我々が「心」と呼ぶものは全く異なるものである。「魂」は生物が生きるために必要な対象を適切に受容し内側に取り込むはたらきのことを指しており、そしてその対象がもつ能動的な「力(デュミナス)」が魂の受動的な「力」と相互作用することで生命活動(エネルゲイア)が営まれる、というのだ。この魂の機能から、近代以降デカルト的懐疑の対象とされた運動能力や感覚能力、栄養摂取能力が分離され、「思考(考える私)」だけが「心」として扱われるようになったというのだ。デカルトが「意識」という外的対象との遮断性を「確かなるもの」の根拠に据えたのに対し、アリストテレスは感覚能力等も含めた「魂」という外的対象との相互作用ををリアルなものと認めていたということだろう。無論、知的探究を前提としての受容でなければならないのだが。

     最後に扱われるのは「存在論(オントロジー)」である。なぜアリストテレスは「なぜ『ある』が『ある』のか」などということを問題にするのか。四原説は生成変化する自然界を解き明かすために着目すべき点を表したものだった。しかしパルメニデスが拘ったように、世界には生成変化を免れ持続する「ある」というあり方が確実に存在する。では万物に共通する普遍的で原初的な「ある」とは何か?それを解き明かすには自然科学と異なるどのようなメソッドが必要なのか?
     ここで出てくるのが例の「カテゴリー」である。アリストテレスはさまざまな「ある」のうち、主語に関連づけられる述語としての「〜である」に着目したが、カテゴリーはその述語やその表示する対象や事態を表す概念とされる(その後、分類するときの領域や部門を表す言葉として使用されるようになり、カントへと受け継がれてゆく)。主語に位置するSについて問う場合、Sが「何で『ある』か(どのような「ウーシアー」か)?」「どのようで『ある』か?」「どれだけで『ある』か?」という疑問文における「ある」だ。これらの疑問文に対する答えが同じカテゴリーを形成する。ここで出てくる「ウーシアー」は優れて形而上学的で難解な代物ではあるが、著者によれば「ある対象がなぜその対象であるのか」を論じる際、その対象の素材や構成要素をその対象となさしめる原因として規定するもの、換言すれば対象の形相であり本質が「ウーシアー」だという。
     そしてその素材に該当するのが先述の「デュミナス(可能態)」であり、形相に該当するのが「エネルゲイア(現実態)」だという。アリストテレスは、この2つの「あり方」がウーシアーの何たるかを規定しているとしているが、これらの2相は互いに排他的に存在しながら多種多様な事象について当てはまるという包括性を有しており、前者は単に可能性にとどまらない「力」を備えることで、後者は実際にその力を発現することで、それぞれ基本的な「あり方」を規定している。
     そしてついに議論は「不動のウーシアー=神」に到達する。この世界の因果的な生成変化を駆動する「不動の第一動者」は、デュミナス的な可能性に止まってはならず、常にエネルゲイア的な実現力でもって他を動かす。ここで「不動にも関わらず動く」という矛盾を突き破るのは、「他から愛されることにより愛するものを動かす」というあり方だ。自らは不動なのに他から愛される結果、他が動いてしまうというのだ。この特権的なエネルゲイアの発現こそが、「知性(ヌース)」の活動としての「智解活動(ノエーシス)」であり、さらにその対象も最高知性である自分に向かい「智解活動の智解活動」に至るという。このマスターベーション的に自家発電する「神」はひたすら自愛に専心し、結局のところデュミナス的なあり方にとどまっているような気もするのだが、著者はここにアリストテレスが豊かな「可能性」を世界に見出し、それゆえ無限の知的探究の対象とすべしとした根拠を見出しているようだ──「ここにも神がおられるのだから」というあの有名な一節は、このように読むと確かに新たな色彩を伴って立ち上がってくる。

  • 近代になって批判されてきたアリストテレスだが、昨今は「近代批判」によってアリストテレスが復権しつつあるという。本書は数あるアリストテレスへの批判に対し、テーマ毎に反論していくというスタイルとなっており、教科書的ではない新しさや興味深い点はあるものの、内容的には著者が意図した「入門書」とは言い難く、初学者向けではないように思える。

  • 【請求記号:131 ア】

  • アリストテレスの哲学を詳細にわかりやすく説明した本である。最後の章でアリストテレス復権についていろいろと説明されていた。実際の復権者の哲学の書籍を読んでいないので、簡略化された説明はあるものの、よくわかった、ということではなかった。

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/787279

  • この本はアリストテレスの哲学の入門書のようなもののようです。
    形而上学のような難しいことは難しいことは、わかりませんでした。
    心に残ったのは「われわれにとって知られることから事柄の本性に即して知られることヘ」というアリストテレス自身の言葉と、
    「世界の現実の中にこそ豊かな可能性が存在しているのだ」という筆者の言葉です。

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著者プロフィール

一九五七年、長野県生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。東京都立大学人文学部助手、九州大学文学部助教授を経て、現在、京都大学大学院文学研究科教授。著書に『魂の変容 心的基礎概念の歴史的構成』(岩波書店、和辻哲郎文化賞受賞)など。また『新版アリストテレス全集』(岩波書店)の編集委員を務める。

「2021年 『はじめてのプラトン 批判と変革の哲学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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