- 本 ・本 (270ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004319917
作品紹介・あらすじ
フレーゲからラッセル、そしてウィトゲンシュタインへ――二十世紀初頭、言葉についての問いと答えが重なりあい、つながりあっていった。天才たちの挑戦は言語哲学の源流を形作っていく。その問いを引き受け、著者も根本に向かって一歩一歩考え続ける。読めばきっとあなたも一緒に考えたくなる。とびきり楽しい言葉の哲学。
感想・レビュー・書評
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言語哲学の基礎を築いたフレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタインの思想をわかりやすく紹介する一冊。これらの哲学者たちの複雑な論理展開を一般読者にも楽しめるように工夫された内容。言葉の意味やその生成過程について。特に、言葉がどのようにして新たな意味を無限に生み出すのかという問題に焦点を当てる。
例えば、フレーゲのいう「認識価値」の違い。
― 「伊藤博文と伊藤博文は同一人物だ」にはなんの情報量もありません。伊藤博文のことを何も知らない人でも「伊藤博文と伊藤博文は同一人物だ」と言えます。それに対して「初代内閣総理大臣と伊藤博文は同一人物だ」には情報量があります。このことを初めて知った人は知識が増えたと言えるでしょう。このように私たちの知識を増やしてくれることをフレーゲは「認識価値」という言葉で表現します。「初代内閣総理大臣と伊藤博文は同一人物だ」には認識価値があるけれども、「伊藤博文と伊藤博文は同一人物だ」には認識価値はない。その違いを捉えるには、固有名の意味を指示対象だけで考えていたらだめだ。固有名にも意義という内包的意味の側面がある。そうフレーゲは議論するのです。
同質の指示語、固有名詞を、違う属性で置換して表現する。コリー犬は犬だ。
あの大きな動物は犬だ。あの毛玉の塊は、犬だ。「犬」という語句から我々の認識が遠ざかるほど、情報価値がある、という考えだ。一方で、「遠い昔、アメリカで事件があった」というより、「一時間前、私の住む地域で事件があった」という方が、情報価値が高い。肉体としての自分自身の射程に近い情報の価値が高く、更に、その意外性が高いほど、価値が上がると言える。
― ある主体がそう判断することによって構成され、その命題を指示することによって「ミケは猫だ」という文は意味をもつ。信念や判断という心の働きから出発して、命題の構成を経て、それが言葉に意味を与える。この順番ですから、いわば思考が言語に生命を吹き込んでいるわけです。確かに、声に出す言葉はそれ自体では音の連なりにすぎませんし、書きつける言葉はただの文字模様であり、手話はただの身体運動です。そうした音列や模様や身振りに言語としての意味を与えるのが思考なのだという考えは、むしろ常識的とも言えるでしょう。
― しかし、「論考」はこれをひっくり返します。つまり、言語が思考を成立させるのであって、言語以前の思考という考えには意味がない、と。
言語以前の思考には意味がないというのは、どうなのか。言語が思考を成立させるとしても、「三辺で囲まれた四角形」とか「午後の早朝」とか、矛盾した言葉であれば、それは思考とは言えないという。本当にそうだろうか。矛盾にも思考はある。そもそも、三辺に囲まれた内部に四角形が作図される状態はあり得るだろうし、午後の早朝という言葉も、東京とロンドンでの遠距離電話では成立する言葉だ。思考が自在である事と、言葉が自在であることは同義である。言葉はデフォルメ化した記号の組み合わせであり、絵文字もピクトグラムも記号であり言葉である。ゆえに、正しくは、記号が思考を可能にするのではなく、思考が記号を生んでいるのだ。感情表現を絵文字に置き換え、それが言語化されていく。言葉や文字が生まれる前に思考があった事、ヘレンケラーのような存在を考えれば、このことは自明かもしれない。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタインという3人の天才哲学者の考えを、わかりやすい例えを使って記されている。
とにかく面白い。
著者と一緒に3人の哲学者の考えを、体感できたような気になる。きっと隅々までわかったわけではないと思う。
でも哲学が言葉を使ってなされる時に、どうしてもぶつかる様々な事柄を乗り越えていくことを、まるで自分自信でしている錯覚に陥るような気にさせられる。
最後のウィトゲンシュタインの言葉、
「言葉はただ生の流れの中でのみ意味をもつ。」
は、読後の興奮した心に染み入るようだった。 -
野矢さんの哲学書はわかりやすい文体で書かれており好きなのだが、この本も同様。言語のあり方をとことんまで突き詰めれば哲学にいくのだろう。
登場するのはフレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタインという3人の哲学者(フレーゲは初めて知りました…)。問いと答え、自らの疑問にツッコミを繰り返しながらウィトゲンシュタインに至る過程はスムーズで読みやすい。一方でかつウィトゲンシュタイン推しのための展開なのかなあと思わなくもない。あと、最初に否定されてしまった一般観念説がどうも引っかかる。わたしはありだとは思うが。
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今年読んだ中で一番面白い本かもしれない。そんなこと考えて何か良いことあるの?てな感じの重箱の隅をつつきまくる議論なのだが、素人目線に立った解りやすい解説でどんどんページが進む。ジョンロックの一般観念論の行き詰まり、フレーゲの文脈原理と合成原理によるその打開、指示と意義による言葉の定義、ラッセルによる意義の否定と確定記述の概念導入。ここまでくると何が正解なのかわからなくなる。そして極めつけはウィトゲンシュタインの『論考』。なぜそうなのか?に答えることを放棄し、実世界のありようをそのまま認めるというコペルニクス的転回で、それまでのモヤモヤがすっきり腹落ちするというオチ。『論考』の議論から何故外国語の理解が難しいのかわかった気がする。要はそれぞれの単語の論理形式、つまりその語がどんな文に結合しうるかの可能性を理解していないから、文の分節化ができないという訳だ。哲学も役に立つではないか!
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「ミケは猫だ」という言葉の意味は何か、といったところからスタートして、フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタインという3人の哲学者の思考をたどりつつ、言語哲学の根幹に関わる考え方に迫る。
本書は、著者いわく、言語哲学の入門書ではなく、言語哲学の「門前の小僧」と自称する著者が、自分が面白かった話を他に人に話したい、という動機で書かれた本だという。著者のノリツッコミで本書は進んでいき、著者が言語哲学の議論をすごく面白がっていることはとてもよく伝わってきた。
しかし、読んだ自分も面白く感じたかというと別問題で、何かずっと言葉遊びに言葉遊びを重ねている感じで、正直あまり面白さを感じられなかった。個人的には、最初のほうで否定された「一般観念説」が一番しっくりくるので、それを改良することでなんとかならないのだろうかと思う。 -
いわばウィトゲンシュタインのファンブック。
著者はフレーゲやラッセルは批判するのにウィトゲンシュタインは批判しない。
しかし、読者を言語哲学へ誘う役割は十分に果たしていると思う。読んでいてもどかしさが半端ないからだ。巻末には読書案内があるので参考になる。 -
『言語学の教室』が面白かったので、わくわくしながら本を手に取りました。
言語哲学に興味はあるものの、分厚くていかにも難しそうな入門書と戦う勇気はない……でも気になる!という私の好奇心を満たしてくれる1冊でした。
難しいところもありましたが、野矢先生の優しい語り口調のおかげで、ついていきやすかったです。
あとがきで、おすすめの本を挙げてくださっているのもありがたいです。読んでいこうと思います! -
題名通り、入門書。
最終的にウィトゲンシュタインの『論考』の紹介になっている。
言語が思考を成立させるのであって、言語以前の思考という考えには意味がない。(177ページ)が肝。 -
やさしい語り口ですごく難しい話をしてくれる。「うんうん、そうだな」なんて思いながら読んでいても、読み終えて何が書かれていたかあまり思い出せない
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科学してるなと感じました。面白かったです。
著者プロフィール
野矢茂樹の作品





