豆腐の文化史 (岩波新書 1999)

  • 岩波書店 (2023年12月22日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (268ページ) / ISBN・EAN: 9784004319993

作品紹介・あらすじ

昔から広く日本人に愛され、今では健康食として世界を席巻しつつある豆腐。それはいつ、どこで誕生し、日本でどう受容されてきたのか。料理法や派生食品も含めて考察、さらに風土に根ざした様々な豆腐を日本各地にたずね、不思議な白い食べ物の魅力をトータルに描き出す。食文化研究の第一人者による渾身の書下ろし。

みんなの感想まとめ

豆腐の歴史や文化、製法について多角的に探求した本書は、豆腐がどのように日本に根付いてきたのかを詳細に描き出しています。中国からの起源や、江戸時代の「豆腐百珍」を通じての広がり、明治以降の製法の変遷など...

感想・レビュー・書評

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  • 豆腐百珍 | コレクション | 印刷博物館 Printing Museum, Tokyo
    https://www.printing-museum.org/collection/looking/26966.php

    原田 信男 (Nobuo Harada) - マイポータル - researchmap
    https://researchmap.jp/read0135223/

    豆腐の文化史 - 岩波書店
    https://www.iwanami.co.jp/book/b636777.html
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    yamanedoさん(本の やまね洞)から

  • 大豆タンパク質の摂取方法として優れているという豆腐につい様々な面から語られている。豆腐の起源は中国にあることは間違い無いが、その時期、場所は文献からは確かめられないらしい。日本への伝来も詳しく分かっていない。日本での豆腐の受容と拡散の歴史が江戸時代の豆腐料理書「豆腐百珍」の詳しい紹介を交えて語られている。江戸時代は豆腐料理のピークだったようだ。明治以降の豆腐の歴史も製法の変遷も含めて詳しく語られている。著者の正確な豆腐製造に関する知識により記述が安定している。江戸時代の労働集約的な製造から明治以降に製法の機械化、動力化が進んだというのは興味深い。少し前までに標準であった家族経営が可能で有ったのが理解できた。豆腐の海外での展開が著しいようなので、次は豆腐の文化史が世界史として語られるかもしれない。

  • 沖縄の豆腐文化興味深い

    豆腐とサザエのつぼ焼きが一番好きな食べ物だから、247ページも豆腐の事を知れて幸せだった。日本料理は水が命で素材を活かすって言うけど、豆腐も日本が綺麗な軟水の国だからこそ生まれた食べ物なんだなと思った。

    『豆腐の文化史 (岩波新書 1999)』 原田信男 #ブクログ #読書 #KindleUnlimited
    https://booklog.jp/item/1/4004319994

    好きな食べ物はサザエのつぼ焼きと豆腐です。

    原田 信男
    (はらだ のぶお、1949年10月- )は、日本の生活文化史学者、国士舘大学教授。専攻は中世史、食文化史。栃木県宇都宮市生まれ。1974年明治大学文学部卒業。83年同大学院博士後期課程単位取得満期退学。札幌大学女子短期大学部助教授、89年『江戸の料理史』でサントリー学芸賞受賞、95年『歴史のなかの米と肉』で小泉八雲賞受賞。ウィーン大学客員教授、国際日本文化研究センター客員教授、放送大学客員教授、2002年国士舘大学21世紀アジア学部教授。1998年 明治大学より史学博士。論文の題は「中世村落の景観と生活 -関東平野東部を中心として」[1]。


    「とくに近年の日本考古学では、土器に残された穀類や豆類のレプリカ法を用いる圧痕研究が著しく進んだ。これによって、一万年以上も前の縄文草創期の宮崎県王子山遺跡をはじめ、縄文早期の遺跡などからも、大豆の祖先にあたるツルマメの圧痕が確認されるようになった[中山:二〇一五]。そして中部地方や西関東地方の遺跡などでは、縄文時代前期から後期にかけて、大型化したツルマメが検出されるようになり、日本でも大豆としての栽培化が進んだとされている。さらに中国や朝鮮の大豆の形態分析から、大豆の栽培地は複数にわたり、多発的に発生した可能性も指摘されている[小畑:二〇一五]。」

    —『豆腐の文化史 (岩波新書)』原田 信男著

    「前述したように大豆が東アジア起源であることに疑いはなく、そのためかヨーロッパやアメリカに広まるまでにはかなりの時間を要した。大航海時代の一七世紀初頭に刊行された『日葡辞書』の大豆の項には、「日本の大豆、豆」とのみ記されていることから、ヨーロッパには大豆が存在していなかったことが窺われる。むしろ大豆は日本を通して後年、ヨーロッパに広まった。大豆を原料とする醬油がソイソース( soy sauce)として、西洋人に好まれて輸出されたため、大豆は soybeanと呼ばれるようになり、国によっては sojaあるいは soiaなどと表記されている。  ヨーロッパへの大豆種子の導入は一八世紀に行われたが、土壌が適しなかったためか、この段階では栽培化には至らなかった。むしろ日本経由で大豆がアメリカに入り、栽培が本格化され、ヨーロッパには一九世紀以降になって広まった。そして二〇世紀に入ると、製油や飼料に盛んに大豆が利用されるようになって、世界的にも需要が急増した。現在では、アメリカをはじめブラジル・アルゼンチンが主な産出国となっており、この三国で世界の八〇パーセント以上を生産している。とくにアメリカは、現在世界の生産量の三分の一を占める生産国となり、そのほとんどを輸出に回している。」

    —『豆腐の文化史 (岩波新書)』原田 信男著

    「一八世紀初頭の貝原益軒の『大和本草』に「凡五穀の内、稲につぎて大豆最民用の利多し(中略)農夫土地の宜しきに随てつくる」とあり、稲に次ぐ作物とされている点が注目される。しかも単に食用とするのみならず、味噌・醬油のような発酵食品や豆腐・黄粉などの原料となるところからも、米とともに日本の食文化を形作ってきた。たとえば周防大島における近年の聞き書きでも、田圃の畦で大豆をつくると、だいたい四斗ほど穫れ、このうち三斗くらいを煮豆や黄粉、味噌や醬油に使い、残り一斗は豆腐屋に持って行って豆腐と交換したりするという[中山他編:一九八九]。  とくに味噌は、最も重要な調味料であると同時に、日本の食事には味噌汁が不可欠なものとされてきた。一七七五年に日本を訪れたスウェーデンの植物学者カール・ツンベルグは、『日本紀行』第二〇章に、「味噌即ち大豆の汁は日本人の食料品の主をなすものである。あらゆる階級の人、高きも低きも、富めるも貧しきも、年中日に数回これを食べる」として、その製法までも書き留めている。そもそも米のご飯に味噌汁と漬物、これに醬油がけの奴豆腐と、主菜の焼き魚でも付けば、典型的な和食であり、その重要な要素だったのである。」

    —『豆腐の文化史 (岩波新書)』原田 信男著

    「いかに大豆が日本人の生活と密接な関係にあったかは、現在の一人あたりの年間大豆消費量からも窺われる。そもそも大豆発祥地の一つと考えられる中国でも三・九六キログラム、最大の生産国アメリカに至っては〇・〇四キログラムにすぎないのに対し、日本は八・一九キログラムとなっており、中国の二倍以上消費していることからも、日本人がいかに大豆に親しんできたかが窺われる(「日本の食卓に欠かせない大豆の自給率はどのくらい?」)。そして、その最大の加工食品が豆腐であった。」

    —『豆腐の文化史 (岩波新書)』原田 信男著

    「とくに豆腐作りにおいては、大豆から作った豆乳を固めるという作業が不可欠で、そのためには大豆に含まれるタンパク質を加熱した上で凝固剤を投入する必要がある。この作業を煮取り法では、生呉からの豆乳抽出の前に行う。これに対して生搾り法では、生呉から豆乳を抽出した後に、これを加熱して凝固剤を投入するという製法が採られる。後にみるように(第 2章「中国からアジアへ」参照)、もともとは生搾り法が基本で、中国や朝鮮半島などでは今も主流であるが、現在の日本では、沖縄を除けば、煮取り法が一般的に行われている。煮取り法の方が、オカラとの分離がよいので、濃い豆乳が得られ、コクと風味のある豆腐ができる。しかし生搾り法の方が、雑味がなく大豆本来の旨味が活かされるなど一長一短がある。  なお木綿豆腐製造途中の豆乳を凝固させたままの状態で、水にさらさず容器に盛り付けたものを、おぼろ豆腐あるいは寄せ豆腐と称しており、とくに形をザルで整えたものをザル豆腐と呼んでいる。これには圧搾や晒しという工程がないために、寄せ始めたおぼろげな状態で、ふわふわした柔らかな食感が楽しめる。とくに沖縄でユシ豆腐として好まれているのがこれにあたる。」

    —『豆腐の文化史 (岩波新書)』原田 信男著

    「ところで豆腐作りでは水がもっとも大切で、良い水を使うと豆腐が美味しくなるとされている。昔から名水が出るところが、良い豆腐の産地とされてきた。これは豆腐作りの工程に水が深く関わり、大豆の洗浄と浸漬、生呉の煮沸、凝固後の水晒しや冷却、さらに保存などの際に大量の水が使用されるためである。そして何よりも豆腐そのもののうち八〇〜九〇パーセントが水だからである。柔らかな絹ごし豆腐で八九パーセント、堅い木綿豆腐でも八六パーセントが水だとされている。それゆえ原料の大豆や作業工程の良し悪しも重要であるが、大量に使用される水が豆腐の味に大きく関与することになる。このため「水は豆腐の命」ともいわれている。」

    —『豆腐の文化史 (岩波新書)』原田 信男著

    原田信男「豆腐の文化史」(岩波新書)読了。食文化に関する研究者としてリスペクトする著者が、私も大好きな豆腐について歴史と文化を紐解いてくださった、ありがたい著作。プラントベース食品の王様としての大豆の偉大さを再確認できました。

    原田信男『豆腐の文化史』岩波書店,2023 #読了
    日本は大豆大国であるが、その最大の加工食品は豆腐であるという。豆腐がいかに生まれ、渡来し、広まったのか。豆腐百珍が天明の飢饉の最中に出たとか松下竜一は豆腐屋だったとか沖縄独自の豆腐はしめつけられたとか文化は世情と密接に関わっている。

    「 島国で岩塩が少ない日本では、基本的に塩の生産には海水を利用してきた。藻塩という言葉からも知られるように、海水をたっぷり染みこませた海藻を焼いて水に溶かし、その上澄みを煮詰めて塩を採っていたから、その生産地は海岸部に限られていた。しかし塩は身体保持のためにも、また調味や保存などのためにも、食生活上の不可欠の必需品である。ごく一部の地域では、岩塩や鹹水などを利用する場合もあったが、物々交換や売買などにより海水塩の流通網が発達し、かなり古くから山間部などへも供給されていた。その移動・保存には笊や俵・叺などの容器が用いられた。  塩は精製度が低いものほどニガリが多く含まれているから、粗塩の入った笊や俵・叺を、桶や樽の上に放置しておけば簡単にニガリを採ることができた。ニガリはもちろん豆腐の製造に使われたが、ほかにも肥料としたり、田の除虫や防腐保存にも用いられた。またニガリには土を固める効果があり、土間の地固めや土竈の製造にも利用されてきた[渋沢編:一九六九]。かつて豆腐の製造は、日本各地それぞれの家々で行われていたが、これに必要なニガリの入手・確保は、生活必需品として海水塩が日常的に供給されていたから、難しい問題ではなかった。」

    —『豆腐の文化史 (岩波新書)』原田 信男著

    「つぎに日本で作られている豆腐からの派生食品についてみていきたい。  まず豆腐製造時に作られる呉と豆乳とオカラは、さまざまな料理にも用いられている。呉は、これをそのまま味噌汁に入れ呉汁として、日本各地で親しまれている。独特の深く濃い味わいがあり、たくさんの野菜・根菜を入れる地域も多く、豊富なタンパク質と滋養豊かな温かい汁ものとして広く食されている。  その呉を搾った豆乳も、そのまま飲用とされるほか、鍋物や汁さらにはスープ・グラタンなど、健康的な食品として料理に多用される。最近では、これに乳酸菌を入れて、低カロリー・低糖質のヨーグルトも作られている。また豆乳を加熱して表面にできる薄皮を集めた湯葉(豆腐皮)も古くから利用されてきた。これを乾燥させて干し湯葉として保存し、戻して煮物料理などに多用するほか、汲み上げた直後の生湯葉は刺身としても食されている。もちろん搾り粕であるオカラも栄養価が高く、煮物・炒め物とするほか、団子やコロッケなどの具材ともする。」

    —『豆腐の文化史 (岩波新書)』原田 信男著

    「この地に封ぜられた劉安は、学問や音楽を好む知識人として知られ、文章も巧みで、武帝からも信頼されるほどであった。このため劉安の下には、多くの文人・学者や方術士らが集まってきた。方術士とは、さまざまな錬金術的技術を身に付けた専門家のことで、道士や陰陽師たちがこれにあたっていた。劉安は、こうした専門家を用いて、紀元前一三九年、百科全書的な書物(内書二一編・外書三三編・中編八巻)の編纂を果たした。これが『淮南子』であるが、このうち残るのは内書二一編のみで、他はほとんど散失に帰した。また、こうした逸文の一つに『淮南王万畢術』があるが、ともに豆腐の記述は存在しない。しかし大豆という堅い種子を柔らかな豆腐という食品に生まれ変わらせたのは、人々には信じ難い変化であった。まさに驚きの技術と思われたからこそ、方術好きの淮南王劉安が発明したと信じ込まれたのだろう。」

    —『豆腐の文化史 (岩波新書)』原田 信男著

    「ただし豆腐は、平安末期に移入されていたにもかかわらず、鎌倉期の『厨事類記』や『世俗立要集』といった体系的な料理書や、室町期の『四条流庖丁書』あるいは『武家調味故実』などといった各庖丁流派の奥儀を記した料理書には登場しない。ただ『大草家料理書』にだけは、「うどん料理・あん豆腐」などの料理法が登場するが、同書については、その記載内容から近世の成立と考えられている[川上:一九七八]。従って中世の料理書には豆腐の記載がなかったことになる。さらに寛永三(一六二六)年九月六日に徳川家光による近世最大の饗宴内容を記した「後水尾天皇二条城行幸式御献立次第」にも豆腐は見当たらない。  どうやら中世の正式な料理の世界において、まだ豆腐は食材としての市民権を得てはいなかったと判断される。それまでの本膳料理は、儀式料理としての性格が強く、食膳を飾り立てることに主眼がおかれていたことから、豆腐にはその役割が与えられなかったものと思われる。次にみる精進料理を除けば、戦国期の懐石料理や元禄期以降の大名茶会の料理において(第 5章「雪花菜」・「油揚」参照)、やっと豆腐はもてなし料理の食材として扱われ始めるのである。」

    —『豆腐の文化史 (岩波新書)』原田 信男著

    「ただ木臼であっても、ケヤキ材であれば耐水性が高く、豆腐作りは可能であったことになる。おそらく戦国期以前の豆腐屋は、木製の摺臼が中心であったが、徐々に石製の磨臼が用いられるようになってくる。やがて一七世紀後半の『百姓伝記』に「石うすは土民所帯道具のうち、第一重宝なるものなり」と記されたように、近世に入ると石臼の普及は著しいものとなる[原田:二〇〇六]。おそらく木臼から石臼への変化が、次章以下でみるような豆腐の庶民化を促したと考えられる。」

    —『豆腐の文化史 (岩波新書)』原田 信男著

    「さらに「酢豆腐」は、半可通の若旦那を若い衆がからかって、腐った豆腐を「舶来物の珍味」と称して差し出すと、これは「酢豆腐」という料理だと知ったかぶりした若旦那は引くに引けず口にし「酢豆腐は一口に限る」と言い訳して逃げる噺となっている。なお「豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえ」という文句は、稼ぎがなく女房にそう馬鹿にされた男が泥棒に入って穴に落ちる「穴どろ」という噺のなかで使われている。このほか田楽豆腐を素材とした「田楽食い」や「味噌蔵」、豆腐屋となった力士の話が挿話となる「千早振る」など、豆腐はしばしば落語の素材として演じられてきた。「徂徠豆腐」  そして講談の「徂徠豆腐」は、後に落語のネタともなるが、大学者・荻生徂徠を主人公としながらも、当時の豆腐に対する庶民感覚を反映した噺となっている。  荻生徂徠は、若い頃には弟子もおらず禄もなく、芝の貧乏長屋で暮らしていた。ついに売るべき家財道具もなくなり、食に事欠き空腹に耐えていた。そんなある日、豆腐屋の上総屋七兵衛が通りかかったので、豆腐一丁を買い求め、その場でガツガツと食べた。しかし徂徠に金はなく支払いを延ばして貰った。次の日以降も同じように豆腐を買い求めたが、やはり支払う金はない。徂徠の窮乏と学問への志を知った七兵衛が、それなら毎日にぎり飯を運ぶと申し出ると、それは施しになるから受けるわけにはいかないと断られた。そこで商売用の安いオカラならあくまでも借金になるということで合意し、以後、七兵衛はオカラを運び続けた。  そのうち七兵衛は病にかかり、数日寝込んでオカラを届けることができなかった。病が治り、再びオカラを持って行くと徂徠は引っ越していた。そのうち火事が起こり、貰い火で七兵衛の家は全焼となった。一切を失った七兵衛は、夫婦で友人宅に仮寓していたが、そこにある大工の棟梁が「さるお方」の使いとして現れた。大工の棟梁は、一〇両の金を七兵衛に渡したほか、焼け跡に店を普請してくれるという。とうとう七兵衛は渡された金に手をつけ返済のあてがないと心配しているところに、大工の棟梁が「さるお方」を案内して現れ、店の新築が成ったと告げた上で、さらに金一〇両を与えてくれた。  この「さるお方」こそが徂徠であり、幕府側用人・柳沢吉保に抱えられ八〇〇石取りの身分となっていた。徂徠は、七兵衛から受けた恩に深く感謝し、豆腐とオカラの借りを、二〇両と店普請とで返したのである。そして徂徠の口利きで七兵衛は芝・増上寺への出入りが許され、商売は繁盛して幸せに暮らしたというのが、「徂徠豆腐」の筋書きである。これは元禄の話で、徂徠の挨拶が遅れたのは赤穂浪士の処分に手間取ったためだとしている。徂徠が彼らの切腹を主張したことから、落語では落ちを「先生は自腹を切りなさった」とする場合もある。荻生徂徠が安い豆腐を食べて飢えを凌ぎ出世したので、この噺は「出世豆腐」とも呼ばれている(補注 2)。豆腐が安くて栄養のある食べ物として庶民に親しまれていたことを如実に物語るものといえよう。」

    「こうした庶民の味方であった豆腐の値段には、初めはその食を禁止した幕府も大いに関心を寄せていた。すでに宝永三(一七〇六)年五月に、豆腐をはじめとする商品値段に関する御触書を出している(『御触書寛保集成』二〇七六号)。これによれば、近年、穀物相場が高騰し、とくに大豆が高値だったために豆腐の値段が上昇している。ただ今年になって米値段も下がったのに、豆腐は高いままなので、南小伝馬町ほか五町から七人の豆腐屋が呼び出された。吟味が行われ、これは不届きな行為と認定され、彼らには逼塞の刑(日中の出入禁止)が言い渡された。さらに他の豆腐屋数十人も取り調べられた結果、非を認めて値下げするということで落着したという。幕府は、しばしば物価の調整を行っていたが、もともと安価で需要の高い豆腐に対しては、とくにその値段に注目していたのである。」

    —『豆腐の文化史 (岩波新書)』原田 信男著

    「また正徳三(一七一三)年序の『和漢三才図会』造醸類の豆腐六条の項には、夏の土用に作るといい、これを削って羹や汁にかけると、その味は花ガツオに劣らず、僧家では佳肴として好まれている旨を記している。夏という気候も発酵を促す時期にあたっており、花ガツオのような旨味が醸しだされたのであろう。さらに堅豆腐の皮で作った偽六条が出回っているが、これはニガリが多くて有毒なので食べるべきではない、としている。夏季に乾燥という方法を用い、独自な旨みをもった保存食としている点が興味深い。」

    —『豆腐の文化史 (岩波新書)』原田 信男著

    「そして末尾では、明の許鐘岳斉重が著したという『素君伝』(素君は豆腐の異名)については、陳良の『広諧史』第八巻に引かれているはずだが、著者の閲覧した『広諧史』は悉くこれを欠いているので、後日、完本を得て追補したいとしている。ともかく巻末には、あらゆる角度から豆腐に関する知識が並べられており、いわば豆腐スノッブを標榜している。つまり『豆腐百珍』を読めば、二百三十数種の豆腐料理のみならず、豆腐に関する知識を手にすることが可能となる。これは『豆腐百珍』が、豆腐料理を舌で味わうというよりも、知識を駆使して頭つまり観念の上で料理を楽しむという性格の料理本であったことを意味している。」

    —『豆腐の文化史 (岩波新書)』原田 信男著

    「豆腐屋仕事は、実に大変な労働であった。火を用いるので夏などは汗だくとなり、若い妻が手伝っても〈未だ明けねば胸乳曝らけてよきかと問う豆腐作業に汗噴く妻は〉というほどであった。しかもいつもうまくできるとは限らなかった。〈泥のごとできそこないし豆腐投げ怒れる夜のまだ明けざらむ〉〈出来ざりし豆腐捨てんと父眠る未明ひそかに河口まで来つ〉──温度や時間など大豆の浸漬状況や、その日の気温などによってニガリの量は異なり、混ぜ方やタイミングで、豆腐が固まりきれない時もある。豆腐屋の朝は早く、二時か三時には起きて仕事を始める。また失敗した豆腐を捨てても、豆腐を店に並べないことには商売にはならない。〈豆腐いたく出来そこないておろおろと迎うる夜明けを雪ふりしきる〉──少し遅くなっても泣く泣く、その日分の豆腐は作らなければならない。」

    —『豆腐の文化史 (岩波新書)』原田 信男著

    「何度も繰り返すが、豆腐は人々にとって、自らも作り得る栄養豊かで美味しい食材だった。自ら作るといっても、その工程は単純ではなく手間がかかる。その上、どうしても欲しい時期は、盆や正月、年中行事や人生儀礼の物日などに集中する。しかも大量に必要となるため、数軒が集まって組となったりして豆腐作りが行われる。あるいは一軒の場合でも、作る時はそれなりの量を作るが、余った豆腐はなるべく保存させたいと考える。また作った豆腐は、冷や奴などのようなその場限りの食べ方ではなく、しっかりと味の付いたご馳走でなければならず、食料の乏しい地域では増量も一つの課題となる。こうした豆腐だけに、全国的にみれば、地域ごとにさまざまな種類があり、そこには風土に応じた生活の知恵が働いている。」

    —『豆腐の文化史 (岩波新書)』原田 信男著

    「堅豆腐(石豆腐)は保存性がよく、石川県白山市白峰の山下ミツ商店の話では、昔は小川などに浸けておけば一ヶ月くらいは保ったが、今は食品衛生法の問題から保存期間は四日間ちょっととしている。また、同じく白山市桑島の上野とうふ店では、これを味噌漬とすれば二ヶ月は保つとして販売している。さらに富山県五箇山上梨の喜平商店では、堅豆腐を丸一日燻製し「いぶりとっぺ」として販売している。また岐阜県郡上市の母袋工房でも堅豆腐を用いて、この地域の伝統食である「いぶり豆腐」を製造販売し、ほかに燻製豆腐やコモ豆腐(ツト豆腐:本章「ツト豆腐と菜豆腐──山の豆腐」以下参照)も作っている。これらの地域では古くから、水田の畦で大豆を育て各家庭で堅豆腐を作っており、かつては家々の囲炉裏で燻製させていた。いずれにしてもせっかく作った豆腐を、いかに長持ちさせるかということに、人々は昔から腐心してきたのである。  九州山地南部もまた堅豆腐作りが盛んなところで、これを用いて味噌漬や燻製豆腐などが作られている。熊本県球磨郡五木村乙の五木とうふ店の味噌漬豆腐は三ヶ月くらい保つが、これも昔は、豆腐を囲炉裏の上で竹に吊して乾燥させ、味噌に漬け込んでいたという。また五木村丙の五木屋本舗では、充分に水分を抜いた堅豆腐を秘伝のもろみ味噌に漬け込み半年間寝かせて、トロトロになった「山うに豆腐」を目玉として販売している。同じ球磨郡水上村岩野のたけうち食品製造でも、焙って水を飛ばした堅豆腐を五日間くらい味噌に漬け込んだ豆腐の味噌漬を製造販売している。熊本県八代市泉町の泉屋本舗でも、豆腐を焼いて水分をとばした後に、五〜六ヶ月間味噌漬にして売っている。さらに同じく坂本町荒瀬の生活改善グループ鮎帰会でも、かずら豆腐という堅豆腐のほか、これを二ヶ月ほど漬け込んだ味噌漬豆腐を販売している。」

    —『豆腐の文化史 (岩波新書)』原田 信男著

    「青ばた豆腐は、かつては畦豆として、枝豆用などに小規模に栽培されていた青大豆を、家々で豆腐に仕立てあげたものと考えられる。枝豆は近世から広く食されており、枝豆売りという商売があったほどで、一部は都市部にも出回っていた。ただし『豆腐百珍』には、三三「青豆豆腐」が見えるが、これは枝豆を茹でて磨り潰し豆腐と合わせて蒸し上げるか、これを葛粉で固めるとある。青ばた豆腐は、青大豆にタンパク質が少なく、固めにくいことから、そう古い製法とは思われず、普及したのは近年のことだと思われる。基本的に青ばた豆腐にニガリを入れる加減など、技術的にも難しい点が多いという。  例えば、宮城県蔵王すずしろのはらから福祉会によれば、秘伝豆はタンパク質含有量が三分の一程度で固まりにくい上に、七七度で殺菌する。八〇度以上だとタンパク質が分解してしまい鬆が立つという。また福島県岩瀬郡天栄村の亀屋食品の青ばた豆腐は、岩手みどりという青豆を使うが、これだけでは青臭くえぐ味が出るので、黄大豆をブレンドしている。これは青ばた豆腐としての旨味を出すために普通は一一〜一二度である糖度(濃度゠豆の濃さ)を一三〜一四度まで上げる必要があるからである。青ばた豆腐を作る店は、それぞれに工夫して製造しているという。例えば千葉県君津市の山田食品で使用する小糸在来は、豆乳としての歩留まりは悪く、タンパク質が少ないのでニガリを多めに入れる。」

    —『豆腐の文化史 (岩波新書)』原田 信男著

    「しかも日本のような煮取り法ではなく、生呉から搾りとった豆乳を加熱してニガリを投入する生搾り法が採られている。こうして固まった豆腐を、豆腐箱や笊に入れ重石をかけて何度も脱水・成形を繰り返して堅い豆腐を作る。また固まった豆腐をそのまますくって食べれば、柔らかいユシ豆腐となる。沖縄の人々は、これらを長いこと食生活の中心におき、独自の豆腐文化を形成してきたのである。  さらに柳田は、街道筋などでは「どこの家でも豆腐を造って売っている」とし、その販売法は、箱に入れて並べておくだけの無人販売で、これは家族で食べ残った豆腐を売り切り、また新しい豆腐を造ろうとする「家刀自の才覚」だろうとしている。かつて日本各地で行われていたように、だいたい戦後まで豆腐は家々で作っており、家々には豆腐を押し固める豆腐箱があった。一般にはこれを用いたが、代わりに笊を用いて脱水・成形を行うウシジャー豆腐もかなり造られていた。柳田のエッセイに「われわれの雪花菜のごとく、大きな桃の形をした豆腐」とあるのがそれだろう。」

    —『豆腐の文化史 (岩波新書)』原田 信男著

    「史料的には、先にも触れた道光一二(一八三二)年の『御膳本草』に、「とうふようは、豆腐乳也。香しく美にして胃気を開き、食を甘美ならしむ。諸病によし」とある。これよりやや早く、一八一六年九月二三日に琉球を訪れ王府高官に招待されたイギリスの海軍将校ベイジル・ホールは『朝鮮・琉球航海記』に、その饗宴の料理の一つについて「何かチーズによく似たものが出されたが、それが何であるのか皆目、見当もつかなかった」と記したが、これが豆腐餻だったと考えられている[源:一九六五]。」

    —『豆腐の文化史 (岩波新書)』原田 信男著

    「おそらく複雑な製法の豆腐発酵食品である乳腐が、冊封使か閩人三十六姓関係者から宮廷料理人に伝えられ、泡盛を利用するなど、彼らの創意工夫によって沖縄独自の豆腐餻へと進化したものと思われる。このため中国の腐乳が、塩辛く濃厚で独自の臭気を伴うのに対して、沖縄の豆腐餻にはよりマイルドな旨味があるとされている。おもろそうし・紅型・豆腐餻を沖縄の三大文化と評した東恩納寛惇と、豆腐餻とルクジューを二大珍味に数えた琉球王家の末裔・尚順は、ともに中国の乳腐と豆腐餻を比較している。」

    —『豆腐の文化史 (岩波新書)』原田 信男著

    「現在、豆腐は何よりも栄養価の高い健康食として、世界を席巻しつつある。一九七七(昭和五二)年、肥満人口の増加による膨大な医療費支出に苦しんでいたアメリカは、その主な原因が肉食を中心とした食習慣にあることに気づき、アメリカ合衆国議会上院が、マクガバンレポートと呼ばれる『米国の食事目標』を公表して、ヘルシーな食事内容を目指す食育政策へと舵を切った。このレポートでは、全粒穀物や野菜など植物性食品の消費量を増やすとともに、獣肉類の消費量を押さえ魚鳥類の消費量を増やし、牛乳やバター類に多く含まれる飽和脂肪酸の摂取量を減らすことを目標として、米と魚・野菜を中心とした日本の伝統的な食生活に近い形が理想とされた。このためヘルシーな健康食志向が世界的に広まり、なかでも植物性タンパク質を大量に含む大豆を用いた豆腐が注目を集めるようになったのである。」

    —『豆腐の文化史 (岩波新書)』原田 信男著

  • 豆腐について歴史や製法、料理等多方面から詳しく書かれており、内容がぎっしりと詰まっている本でした。

    寺社や貴族の階層から庶民に豆腐が広がるのに時間が結構かかっていることが意外でした。田の畔でも作られている大豆が原料なので早くから庶民も食べていると思っていました。
    一章を使ってしっかりと解説されている『豆腐百珍』は読んでみたくなります。

  • 2024/12/15
    豆腐の起源から製造方法の違いや派生食品を含めた変遷などが詳細に記されている。
    油揚げや飛竜頭、がんもどきの名称の由来などなかなか楽しめた。
    「豆腐百珍」が単なる料理本ではなく、庶民から殿様までみんなに好まれた豆腐を軸にして関連する歴史や文化を網羅した書物であることにも納得。
    国産大豆から輸入大豆に移行する背景には満州があり、満州国の経済も大豆が担っていたというのも初めて知った。
    おからが産業廃棄物とされている現状に疑問を感じつつも、冷ややっこだけでなくもっといろんな食べ方にチャレンジしてみたいと思わせてくれた。

  • 歴史が厚い。准南子はやっぱり。豆腐屋の四季が出てきてうれしくなった。好きなのよね。あっちこーこーのはなしとか。日本史は広い。

  •  冒頭に中国での豆腐の登場及び東アジアへの伝播の記述があるが、後は琉球王国を含む日本の文化史。章ごとに内容があちこち飛ぶものの、題材が題材だけに柔らかく読める。
     著者の推定では、中国での出現は漢代、宋代には一般に広まっていた。日本には12世紀末に伝来、中世には食されるが、一般庶民まで広まるのは近世の江戸期。黄表紙はじめ庶民文化に現れる豆腐の記述は読んで楽しい。『豆腐百珍』には著者は丸々一章割いている。また、生呉豆腐をはじめ日本各地の特徴的な豆腐は知らないものが大半で、バリエーション豊富だ。
     近代では、戦時体制下で軍用機用ジュラルミン製造のあおりでニガリ入手が困難に。こんなところにも影響があったとは。
     琉球には中国から伝来するが、六条豆腐がルクジューと呼ばれるように日本からの影響も。戦後、本土の食品衛生法次いで国際基準の適用に伴い「アチコーコ」の伝統が危機に。

  • 軽い本かと思ったら、すこぶるしっかりした内容で面白かったよ。

    戦時中、にがりの塩化マグネシウムが戦闘機のジュラルミンの原料になるので使えなくなったというくだりがあつい。豆腐と戦闘機の原料が競合するとは。
    豆腐百珍も読んでみたいね。

  • 情報量が多いが淡々とした文章が続き、知識は確かに増えたが何かグッとくる洞察を得ることはできなかったです。「へー、そうなんだ」以上の感想が出てこず、どうせならもっと写真や図などをたくさん載せてくれたら楽しく読めたかなぁと思います。
    ただやはり身近な豆腐というテーマなので、これからスーパーで豆腐を手に取ったり、旅先で豆腐を食べるときなどはこの本の内容を思い出しそうです。
    気合を入れて読む本というよりは、時間のある時にサラッと目を通す本として捉えた方がいいかもしれないです。

  • 木綿豆腐の方がビタミンやミネラルが少ない
    最近は充填豆腐が多い

  • 女子栄養大学図書館OPAC▼https://opac.eiyo.ac.jp/detail?bbid=2000070181

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/803350

  • 豆腐は、スーパーに行くと安く手に入る。




    それでいて栄養があるので、財布にも身体にもやさしい食品。




    そんな豆腐は大豆からできている。




    大豆は、中国北部から朝鮮半島さらに日本に自生するツルマメ原種で、東アジア原産であることは、ほぼ疑いないが、起源地については諸説あるそうだ。




    近年の日本考古学において、土器に残された痕跡から分かることがある。




    土器に残された穀類や豆類のレプリカ法を用いる圧痕研究が進んだことにより、1万年以上も前の縄文創成期の遺跡からツルマメの圧痕を発見できるようになった。




    豆腐が日本の史料に登場するのは、1183年のの「中臣祐重記」だった。




    この資料は、春日大社の祀官の長で、初代若宮神主を務めた中臣祐房の三男の日記だった。





    豆腐は平安時代から鎌倉初期には、僧侶や貴族のような人々の食べ物だったが鎌倉後期になると、日蓮信者の在地武士にまで普及したそうだ。




    しかし、庶民にまで普及するには時間がかかった。




    江戸時代になると庶民も買って食べるようになった。




    江戸時代には、娯楽にも豆腐が登場する。




    「豆腐小僧」という妖怪が創案された。




    今でいうところのゆるキャラだな。




    こんな妖怪を作り出すとは、豆腐が身近な存在なんだなと実感できる。




    今ではヘルシーだとして海外でも人気が出ている。





    これから豆腐がどうなっていくか気になる。

  • 配架場所・貸出状況はこちらからご確認ください。
    https://www.cku.ac.jp/CARIN/CARINOPACLINK.HTM?AL=01425933

  • 東2法経図・6F開架:B1/4-3/1999/K

  • 【請求記号:383 ハ】

  • 第1章 大豆から豆腐へ

    第2章 豆腐の登場

    第3章 日本への伝来と普及

    第4章 豆腐と庶民

    第5章 さまざまな豆腐

    第6章 『豆腐百珍』のこと

    第7章 豆腐の近代

    第8章 豆腐と生活の知恵

    第9章 沖縄の豆腐

     おわりにーー健康食志向と海外展開

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著者プロフィール

原田 信男(はらだ・のぶを):1949年生まれ。食文化史研究家。国士舘大学名誉教授、京都府立大学客員教授。著書に『江戸の料理史――料理本と料理文化』(中公新書、サントリー学芸賞受賞)、『歴史のなかの米と肉――食物と天皇・差別』(平凡社選書、小泉八雲賞受賞)などがある。

「2025年 『料理山海郷/料理珍味集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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