新自由主義と教育改革 大阪から問う (岩波新書 新赤版 2029)
- 岩波書店 (2024年8月22日発売)


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本 ・本 (222ページ) / ISBN・EAN: 9784004320296
作品紹介・あらすじ
欧米を中心に一九八〇年代以降、台頭した新自由主義の教育改革。競争原理や成果主義を主軸とする改革は、公教育の衰退など様々な弊害を生んだ。国内外で見直しも進むなか、大阪の改革は勢いを増す。学力による子ども・学校の選別、教員への管理強化などの政策がもたらした問題を丹念に検証し、いま改めて教育の意味を問う。
感想・レビュー・書評
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「新書」というのは、著者の知見に関して、専門的な事柄も含めて判り易く説き、一般読者が様々な考える材料を得られるというモノなのだと勝手に思っている。
そうした意味で、自身にとっては「関心は在るが、詳しいのでもない」という分野である「教育」に関して、専門の研究者が工夫をして纏めたと見受けられる本書は、実に興味深かった。
「専門の研究者が」とでも言えば、酷く難解な内容が在るような気がしないでもないかもしれない。が、扱っている内容は小中高の教育活動等を巡る事柄で、難解という訳ではない。また、「大学の先生が、新入生に向けて論点を丁寧に整理して行う講義」という感じ、或いは一般の人が聴講する、参加するという講演会やフォーラムで、「丁寧に纏めるという準備を重ねた上で専門家が行う報告」という調子の章が折り重ねられていて、概ね各章毎という程度の纏まりでどんどん読み進めることが出来る。そして読み進めながら色々と考えさせられた。要約的な部分を冒頭に持って来て、中身に踏み込んで行くというような形式を基礎としているので判り易いのだ。
「教育」ということに「全く関りが無い人生」というのも考え悪いと思う。自身は“親父殿”の薫陶を受けるかのように、時々“母上”に御叱りを受けるかのように育ったと振り返るが、そういうのも「教育」だ。そういう次元ではなく、自身も小中高の御厄介になっていて、序に大学の御厄介に迄なっているので、一般的に「教育」と言う時に思い浮かべる様子に関りは在った。他方、現在時点迄の人生で親になったというような経過は無いので、「子どもの保護者」というような立場では「教育」に関った経過は無い。
そんな状態なので、小中高と大学に御厄介になっていた時期の後、何かで児童や生徒や学生と接したという経過は在ったかもしれないが、「教育」とは無縁に近い状態だ。それでも「社会の未来を担う世代の事柄」である「教育」には、「市井に数多在るその他大勢の1人」として関心が無い訳でもない。が、関心は多少在っても、近年の様子や論点は承知していない。そういう状態で本書に出くわした。
著者は大阪で活動している研究者だ。大阪の様子に通暁していると見受けられる。と言って、本書は「大阪でこういう様子になっている」に終始しているとも思えない。2000年代以降に示され、強く主張され、実際の動きも在った「新自由主義的」と呼ばれる「教育」を巡って、大阪を「事象の典型的かもしれない例」として、或る程度一貫的に紹介しているというように見える。「全国を覆う?」というような傾向に関して、方々の例を引いて来るよりも、焦点を当てる地域を設定し「一貫した一連の動きを観ながら考える」というようなやり方をする方が、情報や内容、その用紙が伝わり易いというように思う。本書はそれを実践していると見受けられた。
大阪は、既存政党と似ている部分も、一線を画するまたは画そうとしている部分も含む、独自の“地域政党”が大変に大きな力を持っていて、何時の間にか少し長い間に亘って地域の行政や地方議会活動をリードしている。そうした中で「教育」を巡っても、断固たる意志で強い主張が為され、色々な取組が行われて来た。それらの中には、結果的に全国の各地で見受けられた動きを先導するかのような内容も在ったようだ。
こうした中、著者は「大阪で起こったこと」と「それらがもたらしたこと」に関して、色々と疑問も持っているということが本書の随所に滲み出ていると思った。そしてその多くは、「そういうことも在るかもしれない…」と納得し得る感でもあった。
例えば「学校選択制」という事柄が在る。小中学校の通学区域が決まっていて、住所によって「A小学校へ入学」、「B中学校へ入学」というのが決まることになっている。これに対して「学校選択制」となれば、「A小学校へ入学」の区域に在りながら「B小学校へ入学」ということや、「B中学校へ入学」という区域に在りながら「A中学校へ入学」ということも可能になる。「A」や「B」に限らずに「C」や「D」というのさえ在り得ることにもなる訳だ。
自身が小中学生の頃、住んでいた家が在った場所を振り返ると、「A小学校」の通学区域と「B小学校」の通学区域、更に「A中学校」の通学区域と「B中学校」の通学区域の「境界」のような辺りに在った。実際には「A小学校」、「A中学校」に通って卒業した。それらは家の横の路を右へ進むと辿り着いた。左を進むと「B小学校」や「B中学校」だ。小学校に関しては「A」と「B」を結んだ線の中間のような場所に住んでいたのだが、中学校に関しては、縁が無かった「B」の方が近かったと思う。と言って、申出て「B」に通うというような話しは全く無かったと思う。「学校選択制」であれば、こういう場合に「より近い中学校へ行きたい」というのも「在り」だったことになる。「だから?」という程度の話しかもしれないが。
極々卑近なことを何となく思い出したが、「学校選択制」というモノに関しては「希望的観測」により「期待される効果」が挙げられるのだが、始まって暫く経って「検証された効果」という何かが語られているのでもないのだという。こういうのが少し刺さった。これは「教育」ということで為された事柄に「限らない?」というような気がしたのだ。様々な事柄に関して、「希望的観測」による「期待される効果」が語られる。全くやっていない中なら、「希望的観測」という以外に何も無いかもしれないが、それを実際に試行して暫く経ったら「やってみて如何だった」が纏まって、そういう中で「こういうような効果」が語られなければならないのかもしれない。が、世の中でそういうことが普通に行われているであろうか?何か気になった。
他にも「刺さった」という感じの場所は幾つも在った。殊に刺さったのは「普通」と「特殊」という件だ。
色々と課題が在る児童や生徒の学ぶ場所として「特殊」なコースを謳う場所を設ける。そういうことを積極的にやるとなれば、一見すると事情が在る人達のためになるようにも感じられる。が、「普通」とされる場所で様々な問題が在って、その故に「特殊」という状態になってしまったというような場合、「普通」の中の問題が解決される、多少でも改善される、少なくとも問題を見詰められるのだろうか?そんなことをして、様々な多様な要素を含む「普通」は「どんどん狭くなる?」ということなのだろうか、という話題の提起が在った。
本書は大阪の事例を取り上げているが、事例報告に終始しているのでもない。全国的に程度のさこそ在れ、見受けられている問題が示唆されている。「教育」に関して「改革!」が連呼され、「単に教育現場(学校や教職員)が疲弊している」、「強力な上意下達で児童生徒や保護者に報じられた事柄や関連事項を説明することが出来なくなる」という件が在る。そして「選択」や「競争」の強化の中で、何か釈然としない様子も生じているかもしれないという訳だ。
「気になる話題」、「刺さる話題」が多い本書であるが、多くの人が読んでみるべき内容が含まれていると思った。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
欧米を中心に一九八〇年代以降、台頭した新自由主義の教育改革。競争原理や成果主義を主軸とする改革は、公教育の衰退など様々な弊害を生んだ。国内外で見直しも進むなか、大阪の改革は勢いを増す。学力による子ども・学校の選別、教員への管理強化などの政策がもたらした問題を丹念に検証し、いま改めて教育の意味を問う。
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同じ研究室にいた先輩・高田さんの本。私は研究室を離れてもう20年以上経つし、学校へ通う子どもがいるわけでもないので、この間に大阪の教育に関しておこなわれてきた"改革"のこまかいところはよく分からずにいた。とくに大阪維新の会が率いてきた"教育改革"のことは、新聞報道などで読むのと、子どもがいる同僚さんにチラと聞くくらいだった。
詳しい話は、本文の各章に書かれているが、高田さんがここ十数年の(=大阪維新の会がのしてきた時期の)大阪の"教育改革"をどう捉えているか、どう考えているかは、「序」におおよそまとめられている。
▼今まで述べてきた改革には次のような問題があったと私は考えている。第一に、教育界(教職員、教育行政関係者、教育研究者)の意見が尊重されず、政治主導で改革が進んだこと、第二に、選択や競争で教育はよくなるはずだという考え方が広まっていったことである。(p.5)
▼政治主導の教育政策は「新自由主義」の考え方に強い影響を受けている。 …(中略)… 教育における新自由主義とは、教育に市場原理を取り入れ、子どもや保護者(=消費者)による教育(=商品)の選択を促し、教師や学校(=サービス提供者)同士の競争を促すことによって、できるだけ安上がりに教育の質を向上させようという考え方である。(p.6)
この本を読んでみて、15年余りの間に、大阪の教育の場でこんなことが起こっていたのかと、断片的に知っていたことがつながった気分。少子化という背景があるにしても、府立高校の募集停止や廃校がどんどん進んでいるのは、学区の廃止や私立高校無償化といった施策があったからか…。大阪市の小中学校の学校選択制も、格差を広げ、地域を切り分けてしまっているようだ。
▼…新自由主義的改革は、政権が交代しても後戻りせず、軌道修正しつつ受け継がれている。いったん転がりだした改革は、なかなか止められないのである。(p.7)
▼改革の必要性を訴える人たちは、「改革を試みたが、うまくいかなかった」とは決して言わない。その人たちに言わせれば、改革は常に進めなければならず、改革は必ず成果をもたらすものである。何か不具合や問題が起きているとすれば、それは改革が足りないからである。時には教育関係者が「抵抗勢力」として悪者扱いされることもある。(p.10)
さいごの第7章「新自由主義的教育改革に対抗するために」は、高田さんが言いたいことを最低限まとめた感じ。もう少し詳しく読みたい場合には、参考文献を参照せよということのようだ。(残念ながら、参考文献にあがっている、やや専門的な本は、地元の市立図書館にはほとんど所蔵がない。)
この7章での高田さんの主張は、「応答性を土台にした教育が「育つ権利」を保障する」(p.182)こと、「子どもの権利保障とよりよい社会づくりを有機的に結びつけるために「子どもの参加」を大切にする教育が求められている」(p.182)こと、「子どもの参加は社会を変える」(p.200)こと、大きくはこの3点だろう。
▼新自由主義的な教育改革の中では、教師と子どもの関係は、サービスの提供者と顧客の関係としてとらえられてしまう。それは選ぶ・選ばれる(市場になぞらえれば、買う・買われる)という顧客優位の関係である。サービス提供者(教師)は顧客(子どもや保護者)の満足度を高めるために努力するが、提供者が顧客の期待に応えられなかった時、顧客は去っていく。そのような関係の中では応答的な教育は成り立たないし、教師と保護者が助け合う関係もつくれない。(p.186)
先日の衆院選で、全国的には議席を減らしたものの、大阪では維新の会が圧勝だった。教育を"サービスの提供"と捉え、子どもや保護者を"お客様"とする関係では、あまりいいことになると思えない。ここまで維新の会がゴリゴリやってきた教育改革のなかで、既に義務教育を終え、高校や大学へ進む子どもがいる。それくらいの時間が過ぎた。
ここから、新自由主義的な教育改革に対抗していけるのか。できることなら、叶うことならと思うが、維新の会がこれだけ勝ててしまう中では難しいだろうとも思う。たとえば、この高田さんの本を、維新の会の首長や議員が読むだろうか?と思うと、望み薄な気がする。それでも、現状認識をすりあわせ、よりよい未来を展望する議論をできる場のための賢明な資料として、読まれてほしいと思う。
(2024年11月11日了) -
全体的に内容は同意ではあるのだが、日本維新の会のやったことを否定ありきで評価しているように見受けられる。
ただ、本当にまるでダメだったのか、それとも批判ありきで書いてあるのか判断が難しい。
結果主義に行き過ぎる、いわゆる新自由主義に傾倒しすぎるのはよくないと自分も思う(データ上、思ったより格差は拡大していないが)
ウェルビーイングというより、経済成長のための手段のようには確かに思える。
個人的には格差の是正、つまり下の層の底上げが重要だと思う。 -
本書の読後の感想は3つ。
・検証が参考になる。(著者の手ではない)アンケートの不備で、検証ができない点もある。やはり統計も調査も足りない。
・〈新自由主義〉って? 一応6頁には教育における新自由主義が定義されている。ただし、あとがきだと「「新自由主義」と言われる教育改革が」(214頁)という書き方になっている。
・維新の会は、むしろ予算を教育に振り分けて人気を得ているのでは? いわゆる「財政ポピュリズム」。 -
372.163||Ta
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3.0 大阪の教育改革の破綻しているところを指摘する専門書。何のために学び、どんな力をつけたいかの教育の原点を明らかにしようとしている。
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女子栄養大学図書館OPAC▼https://opac.eiyo.ac.jp/detail?bbid=2000071872
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