作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書 951)

  • 岩波書店 (2022年4月22日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (226ページ) / ISBN・EAN: 9784005009510

作品紹介・あらすじ

十七歳、誰もまだ「文豪」じゃなかった――太宰治は作家になろうと決意し、宮沢賢治は進路をめぐって父に反発、芥川龍之介は友達と雑誌を作り、谷崎潤一郎は苦学生だった。夏目漱石は下宿で受験勉強し、樋口一葉は父と兄を亡くして一家を背負うことになる。作家たちの十代とその決断を、当時の日記や創作とともに紹介。

みんなの感想まとめ

作家たちの十代を通じて、彼らがどのような決断をし、成長していったのかを知ることができる作品です。特に明治から昭和初期の文豪たちが17歳の頃に直面した様々な経験や葛藤が、当時の日記や創作を通じて描かれて...

感想・レビュー・書評

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  • 中高生に向けた岩波ジュニア新書。人生のひとつの分岐点にさしかかる年代に向け、文学史に名を残す作家たちの17歳頃はどんなだったかを提示したもの。深い研究書を求める人には物足りないだろうが、私にはちょうど良かった。
    特に芥川龍之介、樋口一葉が面白かったです。

    この頃(明治・大正・昭和前半)の17歳の方が、今よりはるかに自立している!大人だ!
    これが最も強く感じたこと。
    今は小学生から職場体験やキャリア学習があり、情報と物があふれる程だけど、17歳、果たして今は?

  • 宮沢賢治は数学苦手

    芥川龍之介が好きだから第3章楽しかった

    谷崎は文系理系得意だったけど、体育は苦手だった

    個人的には第三章の芥川龍之介が一番好きなんだけど、第六章の夏目漱石が日本一の小説家だと思う。第四章の谷崎の話も面白かった。綿矢りささんは、この早稲田大学の千葉俊二さんのゼミに所属してたらしい。

    『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書 951)』 千葉俊二 #ブクログ #読書 #KindleUnlimited
    https://booklog.jp/item/1/4005009514

    千葉 俊二
    (ちば しゅんじ、1947年12月20日 - )は、日本の日本文学研究者。専門は近代文学、特に谷崎潤一郎。早稲田大学名誉教授(教育学部)。お笑い芸人の小島よしお、作家の綿矢りさ[1]、写真家のシトウレイ、漫画家水沢めぐみは千葉ゼミに所属していた[2]。1947年(昭和22年)12月20日、宮城県石巻市に生まれ[3]、1953年(昭和28年)6月に神奈川県横浜市に転居[3][4]。1972年(昭和47年)3月、早稲田大学第一文学部人文専攻卒業[3]、1975年(昭和50年)3月、早稲田大学大学院文学研究科日本文学専攻修士課程修了[3]、1979年(昭和54年)3月、早稲田大学大学院文学研究科日本文学専攻後期課程退学[3][4]。1978年(昭和53年)4月、山梨英和短期大学専任講師[3]、1982年(昭和57年)4月、山梨英和短期大学助教授[3]、1983年(昭和58年)4月、早稲田大学教育学部専任講師[3]、1986年(昭和61年)4月、早稲田大学教育学部助教授[3]、1991年(平成3年)4月、早稲田大学教育学部教授(のち組織変更により教育・総合科学学術院教授)[3][4]。2018年(平成30年)退任。1982年、35歳の時に『鑑賞日本現代文学 谷崎潤一郎』を編纂し、『春琴抄』の「佐助犯人説」を支持したことから、論争が起きた。1997年(平成9年)には『エリスのえくぼ』をめぐって、小泉浩一郎と論争となった[5][6]。2014年(平成26年)、谷崎潤一郎の未公開書簡288通を分析し、「『春琴抄』などの代表作を生み出した円熟期に、実生活でも真剣な恋愛を体験していたことがわかる。谷崎の伝記も細部にわたり書き直される必要があるだろう」とコメントを寄せた[7]。

    「もちろん、そうした思春期の性の目覚めとも関連して、社会に対して自己の願望を可能なかぎり押し通したいという欲望もめばえます。そこに他者との軋轢といったものも生じますが、そうした自己の赤裸々な欲望を他者に知られるということは、とても恥ずかしいことです。他者に知られるばかりか、自分自身でも正面からそうした欲望と向かい合うことは、できることならば避けたいとも思います。  後年の太宰文学は、私たち自身のうちにあるこうした恥ずかしい、可能ならば他者の眼から隠しておきたい欲望を、これでもか、これでもかとばかりに抉りだしてゆきます。それは自己と、自己が身をおく人間社会を見極めるために必要なことですが、それが真に迫ればせまるほど、自己の歪んだ醜さも明らかになってゆきます。そのことを自覚しはじめた太宰少年は、それを直視するのを恐れるかのように、遊戯的な要素もまじえながら、おずおずと自分にしか分からない暗号的な表記で書いたのだと思われます。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「当時の中学校は、現在とは違って五年と年限が長かったのですが、成績優秀な学生は四年から高校を受験することができました。つい最近、青森高校(旧青森中学校)から太宰が在籍していたころの成績表が見つかったことが報道されましたが(二〇二一年二月十一日「朝日新聞」)、太宰は全科目においてとても優秀な成績でした。三年のときの席次は一六五人中で三番で、四年では四番でした。  現在とは違って、当時の中学生や高校生はいろいろな家庭の事情があって、誰しも同じ年齢で進学することができたわけではないので、年齢にばらつきがありました。太宰は中学を五年かけずに、四年で終了し弘前高等学校へ入学していますので、ストレートに進学した同級生たちと並んだわけです。  太宰が青森中学を受験する直前の一九二三年三月四日に、多額納税者として貴族院議員をつとめていた父源右衛門が五十三歳で亡くなっております。その前日に早稲田大学政治経済学部を卒業した長兄の文治が家督を相続し、以後、父に代わってこの長兄が実質的な太宰の保護者の役割を果たします。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「一九二六年の冬休みも終わるころ、青森の下宿へ戻ろうとしている太宰は、長兄の文治から「小説不可読之説」を意見されたといいます。「小説を読むと人間の本当のことがわかる。しかれども人間の基礎を作る為に勉強してるんだから小説不可読而絶対えらくなれ」という長兄の言葉を記し、「涙の出る程嬉しかりき」と書いております。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「後年、太宰は十六歳から十七歳になる、少年期から青年期へ移行する人物を主人公とした「正義と微笑」という作品を書いております。その「あとがき」に、「青年歌舞伎俳優 T君の、少年時代の日記帳を読ませていただき、それに依って得た作者の幻想を、自由に書き綴った小説」とあります。太宰の愛読者で親しく交際した若い友人に堤重久という人がいましたが、その弟の堤康久(当時、前進座という劇団で中村文吾の名で俳優をしていました)の日記をもとに書かれた長篇小説です。  太宰文学には「女学生」「盲人独笑」「パンドラの匣」「斜陽」など、他人の日記によりながら、それを自分の作品に巧みに作りなおしたものが多くあります。「正義と微笑」もそのひとつです。資産家の次男で、十六歳の芹川進という少年の一年八ヶ月余りの日記の体裁をとって書かれます。進は一高(旧制第一高等学校。現在の東京大学教養課程のこと)受験に失敗して、 R大予科に入りますが、学生生活に幻滅を感じて俳優への本格的な修業の準備に着手します。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「一九二七(昭和二)年三月、青森中学校の四年を修了して、四月に弘前高等学校へ入学します。この高校時代に太宰は、作家となるにあたって決定的な感化をこうむったふたつの出来事に出会っております。そのひとつは、一年生のときの七月二十四日の芥川龍之介の自殺です。  太宰は、芥川のアフォリズム(短い文からなる警句・箴言)作品「侏儒の言葉」を真似た「侏儒楽」といった作品を「蜃気楼」に書きつづけました。習作のなかに芥川文学からの影響をうかがわせるいくつかの作品もあり、また肘をついた手の指で顎を支えた、芥川のよく知られた写真と同じポーズで写した写真が何枚か残されています。そんなところから、この時期の太宰が芥川に心酔していたということは明らかです。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「津軽は頻繁に冷害や凶作に見舞われましたが、そのたびに百姓へ金を貸し付け、それが返せないと、土地を召し上げるということになります。したがって、飢饉が起こるたびに、津島家の財産はふくれあがることになりますが、高校生にもなると、そうした社会のカラクリも次第に理解できるようになり、大地主の子弟だった太宰は、自ら搾取階級にあることへある種の負い目を感じざるをえなくなります。  高校二年の一九二八(昭和三)年五月には、同人雑誌「細胞文芸」を発行し、創刊号と第二号に、太宰の父を髣髴させるような、大地主の放埒きわまる好色ぶりを描いた長篇小説「無間奈落」を発表します。これは未完に終わりましたが、一九三〇年には小作争議を地主の内側から描き出そうとした長篇「地主一代」(これも未完)といった、階級意識に基づく作品にも取り組んでいます。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「一九一四(大正三)年三月、宮沢賢治は岩手県立盛岡中学校を卒業しています。賢治は一八九六(明治二十九)年八月二十七日に生まれていますから(戸籍上は八月一日生まれ)、満年齢で十七歳八ヶ月ということになります。  当時の学校制度は小学校は六年、中学校は五年でした。賢治が尋常小学四年生の一九〇七年に小学校令の改正があり、それまで小学校は尋常科四年、高等科四年でしたが(尋常科四年が義務教育で、高等科二年を修了すると中学校の受験が可能でした)、それが尋常小学校六年が義務教育年限となりました。賢治も新制度によって花城尋常高等小学校を六学年で卒業して、盛岡中学校へ進学しました。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「祖父の喜助は手がたい商人で、家は裕福でしたけれど、商人に学問は不要ということで、祖父は賢治の中学校への進学に反対だったようです。が、父の政次郎は、賢治が小学校時代に成績優秀だったこともあり、これからの時代には新しい知識も必要ということで、中学受験を許してくれました。  中学校へ進学した賢治は寄宿舎に入りました。博物と国漢(国語漢文)の科目を得意としましたが、数学を苦手とし、運動神経のにぶさはクラスの筆頭だったといいます。のちに高知大学学長をつとめた同級生の阿部孝は、「いつも試験前になって、数学の勉強でとほうにくれている彼の顔が、今でも私の目にうかんでくる」と語っております。また体操では「軍人あがりの体操教師のかっこうななぶり物」だったともいいます(「中学生の頃」)。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「芥川は江東小学校高等科三年を修了してから、東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高校)へ入学しています。当時は小学校高等科二年を終えると中学校を受験することができましたが、芥川は一年遅れて一九〇五年四月に入学しました。この「義仲論」が発表されたときは最終学年の五年生で、一ヶ月後の三月に十八歳の誕生日を迎えて中学校を卒業しています。卒業成績の一番は西川英次郎で、芥川は二番でしたが、「多年成績優秀者」として表彰されました。  西川と芥川のふたりは、九月に無試験で第一高等学校へ推薦入学しております。西川は東京帝大農学部を卒業して、鳥取大学や東北大学の教授を歴任しています。中学時代に芥川がもっとも親しく交際した友人で、「追憶」という作品で芥川は「僕はその後も秀才と呼ばれる何人かの人々に接して来た。が、僕を驚かせた最初の秀才は西川だった」といっております。  西川とはふたりで一緒に旅行したり、ロシアの作家ツルゲーネフの「猟人日記」、フランスの作家アナトール・フランスの「タイス」などの英訳を一緒に読んだりしました。西川は当時を回想して、次のように述べています。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「西川によれば十七歳の五年生の夏には、クラスの仲間と夕方の五時頃から夜通し歩いて新宿から高尾山のひとつ先の御嶽の山上の宿まで、大声でしゃべったり歌を歌ったりの夜行をしたといっております。またこの夏には別のグループの友人たちと槍ヶ岳に登ってもいます。  中学一年のときに芥川を担任した英語教師だった広瀬雄は、「三中に入ってからの芥川はどちらかと言えば如才のない方でクラスの者達にも憎まれるようなことはありませんでした。〔中略〕体が大変瘠せていましたので当人も非常に健康ということに注意していましたし私も始終気にかけていました」(「三中時代の芥川龍之介」)と証言しています。身体はそれほど丈夫ではなかったと思われますが、クラスの仲間たちときわめて快活な中学時代を過ごしていたようです。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「後年、芥川は「小説を書き出したのは友人の煽動に負う所が多い」という文章で、「中学の五年の時に「義仲論」という論文を校友会雑誌に出した。これが一番始めに書いて出して見た文章であった」といいます。が、このときはまだ「作家」になる考えはなく、将来は「歴史家」になろうと思っていたといっています。  「義仲論」は発表の前年の秋に執筆されたのですが、四百字詰め原稿用紙にして九十枚の長大論文で、堂々とした和漢混淆文で書かれています。論の構成や展開にも乱れがなく、ややペダンティックな知識のひけらかしが目立ちますが、これが十七歳の中学生の書いた文章かと、あきれるばかりの秀才ぶりを示しています。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「中学時代の芥川は英語と漢文を得意としていました。府立三中の国語漢文の教師で、芥川の学級主任であった岩垂憲徳は、中学時代の芥川を「性行の立派な模範生徒で、驚くばかりの秀才であった。/特に英語がよく出来、佶屈な漢文にも興味を有って、四学年の頃には、自分から進んで漢詩を勉強し、折々七言絶句など作って添削を乞われたこともあった」といいます(「芥川龍之介氏の中学生時代」)。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「芥川の実父は新原敏三といいます。現在の山口県の生まれで、鳥羽・伏見の戦いも体験し、幕末から明治維新の動乱期をたくましくくぐり抜け、芥川が生まれたときには東京・築地で耕牧舎という牛乳販売店を営んでおりました。  耕牧舎の創業には渋沢栄一もかかわっていました。やがて敏三は本店を芝区(現在の港区浜松町)に移し、新宿に八千坪もの広大な牧場も手に入れ、経営権も渋沢から譲り受けています。芥川は実父を「小さい成功者の一人」(「点鬼簿」)といっております。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「芥川の文学には、どこか人間的な感情をストレートに表白する表現を抑制する力学がはたらいています。愛情といった、自然で原初的な感情の発露も素直に語られることは少なく、きわめて屈折した表現をとることが多いのです。それにはこうした生い立ちが深く関係していたと思われます。  すると、「義仲論」に描かれた義仲像は、そうした芥川の対極に位置するものといえます。自己の欲望のままにふるまい、世間の習慣や儀礼を無視した野性のままの自由な行動は、芥川が望んでも得られなかったものです。  中学時代の勉学を集大成するものとして書かれた「義仲論」で、これまで意識下に抑圧しつづけてきた欲望が、義仲の像をかりて一気に吐き出されたようです。まるで火山の地下深くたくわえられたマグマが一気に噴出するようにです。「義仲論」に芥川が描いた義仲は、まさに子どものころから芥川が、無意識のうちにそうしたいと願っていた生き方だったでしょう。  しかし、「義仲論」はそんなふうに野性を称えながらも、十七歳の中学生らしい粗削りなところがみられません。あまりにも論が整然とととのい、文章にも乱れがないのです。論文そのものから野性味を感じとることはむずかしく、かえって理知的な秀才ぶりのみが際だつものとなっています。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著



    「芥川文学は、その根底において不思議や神秘に対する恐れや驚きに満ちているといえます。平穏な日常のなかにも、それを揺るがすような超自然や、私たちの生を脅かす不合理で、理屈では割り切れないようなものを好んで描いています。出世作の「鼻」からして、あんなに大きく、異様な鼻の持ち主などこの世に存在しうるはずもありません。  いうまでもなく、不思議な怪異譚や神秘的な超自然の現象、不合理な世界などは無意識的なものと強く結び付いています。が、芥川はきわめて意識的で、生涯を通してつねに近代的な理知を尊重し、合理的な判断を重んじました。  みずからの芸術に対する考えを単刀直入に、ストレートに語り出した文章に一九一九年に書かれた「芸術その他」があります。そこで芥川は「芸術活動はどんな天才でも、意識的なものなのだ」と記します。一見、合理的な解釈を超えた不思議な世界を描くにしても、芥川は必ずあらゆる細部にいたるまで計算し尽くし、意識的に取りあつかっています。  大学時代に執筆された小品「大川の水」では、そのほとりで幼少期を過ごした墨田川へのかぎりない愛着を語っています。本所という江戸的なものを多分に残した地に育ち、七不思議などの怪異的な世界に馴染みながら、近代的で鋭利な意識をもって、そうした世界を巧みに描き切るところに芥川文学の魅力があります。しかし、無意識的なものを意識によって制御することが次第にむずかしくなり、芥川の苦悩はだんだん大きなものとなっていきます。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「子どものときの愛読書は「西遊記」と「水滸伝」で、一時は「水滸伝」中の百八人の豪傑の名前をすべて暗記していたといっています(「愛読書の印象」)。  また「僻見」というエッセイでは、「僕に文芸を教えたものは大学でもなければ図書館でもない。正にあの蕭条たる貸本屋である。僕は其処に並んでいた本から、恐らくは一生受用しても尽きることを知らぬ教訓を学んだ」ともいっております。芥川は幼児期から読書に親しみ、本を読むスピードがとてもはやかったといいます。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「芥川の文壇デビューは、大学一年生の一九一四(大正三)年二月、同人雑誌の第三次「新思潮」の創刊によってです。その創刊号に芥川は、フランスの作家アナトール・フランスの「バルタザアル」の翻訳を掲載しました。その内容は、エチオピア王のバルタザアルはシバの女王バルキスの妖しい魅力に囚われますが、それから脱してユダヤのベツレヘムに生まれる「人間に真理を教えようとする尊い小児」(キリスト)のもとへ向かうというものです。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「芥川は複雑な家族の対人関係のわずらわしさ、およびそこから起こるさまざまな感情の軋轢を断ち切るために、バルタザアルと同じように学問、勉学に励んだのではないでしょうか。幼少時からの読書を通じて空想世界に遊ぶことの楽しみを知り、みずから文章を書くことに強いこだわりを示したことも、それとまったく無縁だったとも思われません。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「庭に大きな向日葵の黄色い花が咲いています。それから毎日、「自分」は向日葵の根もとに水をやって、空の日を眺めます。そのうちに「ある日まっ赤な日が空のただ中へ来ると、暗い影が、その右の端にやどりはじめ」ました。  そうすると、黒い鳥が木の葉のふるように日のめぐりに集まって来て、向日葵は東から西へめぐるのをやめました。黄色い大きな花弁がぽたりと「自分」の胸のうえに落ちました。「一つ」と勘定すると、またしばらくしてぽたりと黄色い花弁が散り、「二つ」と数えます。「空はだんだん暗くなる。──向日葵の真っ黄色な花は、絶えまなく散った。こうして、──自分は死ななければ、ならない」と結ばれます。  太陽は東からのぼって西へしずみます。毎日毎日、その繰り返しです。私たちが生きるということも、それと似ています。朝起きて夜になると寝るという繰り返しが、私たちの毎日の日常です。太陽と一緒に東から西へめぐる向日葵と同じで、黄色い花弁をつけ、生気に満ち輝いているときこそ、私たちは生を実感することができます。  が、それも向日葵が大輪の花を輝かせることができる、ひと夏のはかなく、短い季節です。陽がのぼって陽がしずみ、落下する花弁を「一つ」「二つ」と数えるところは、夏目漱石「夢十夜」の第一夜を思い起こさせるかもしれません。  繰り返す日常の連鎖にどのような意味を見出すことができるのでしょうか。芥川はそのことにも懐疑的とならざるをえませんでした。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「芥川は、『今昔物語集』のなかの人物は「あらゆる伝説の中の人物のように複雑な心理の持ち主ではない。彼等の心理は陰影に乏しい原色ばかり並べている」といいます。しかし、今日の自分たちの心理にも「如何に彼等の心理の中に響き合う色を持っている」か、銀座は京の都の朱雀大路ではないが、「モダアン・ボオイやモダアン・ガアルも彼等の魂を覗いて見れば、退屈にもやはり『今昔物語』の中の青侍や青女房と同じ」であるといいます。  すると、「野性の美しさに充ち満ちている」という『今昔物語集』に触発されて出発した芥川文学は、中学時代に書いた「義仲論」からまっすぐつながっているということになります。が、先にいったように、「義仲論」は義仲の野性を称えながら、論文そのものは野性的な荒々しさを欠いていました。ちょうどそれと同じことが、芥川文学の全体を通してもいえるのではないかと思います。  充分に計算しつくされた短篇小説では、野性的なモチーフを使って見事な成功をおさめました。が、「偸盗」「邪宗門」「素盞嗚尊」など、野性そのものを作品のなかに解き放って描き切らなければならない長篇小説の場合、必ずといっていいほどその試みは失敗しました。野性にあこがれながら、決して野性的に生きることのできなかった芥川が、宿命的に抱え込んだ問題ということができます。  芥川は一九二七(昭和二)年七月二十四日、「将来に対する唯ぼんやりした不安」(「或旧友へ送る手記」)という言葉を残して、三十五歳の若さで自殺しました。遺稿「或阿呆の一生」の最後の章は「敗北」と題され、「彼は唯薄暗い中にその日暮らしの生活をしていた。言わば刃のこぼれてしまった、細い剣を杖にしながら」と結ばれます。芥川はその最期にいたるまで「野性の美しさ」にあこがれながら、みずからは人生の戦いの場において「野蛮に」なることができない生涯を送ったのだといえるでしょう。」


    「谷崎潤一郎は一八八六(明治十九)年七月二十四日に、東京日本橋区蠣殻町(現在の中央区日本橋人形町一丁目)に生まれています。満十七歳の誕生日を迎えたのは一九〇三年のことで、このとき谷崎は東京府立第一中学校の四年生でした。第一高等学校への入学は、さらにそれから二年後のことです。  谷崎は自分の中学時代を題材に「神童」という小説を書いております。そんなところから谷崎には神童というイメージが定着しているようです。が、最短で高等学校に入学した学生から一年遅れていた芥川龍之介と比べても、このとき谷崎は二学年も遅れていたわけです。  しかも谷崎は前年にいわゆる飛び級をしております。中学二年生の一学期を終えて編入試験を受け、九月から三年の二学期のクラスに編入したのです。ですから、谷崎は最短で進学した学生からすれば、中学入学の時点では三年ほど遅れていたことになります。  飛び級して三年生になったとき、同級になった友人に辰野隆がいます。東京駅を設計したことで知られる建築家の辰野金吾の息子で、のちに東京帝国大学教授となったフランス文学研究の大家です。辰野は一八八八年の早生まれですから、学齢的には谷崎よりなお一学年下ということになります。この時代の中学生は同学年でも年齢が一律ではなく、いろいろな年齢の学生が混在していたわけです。  その辰野が中学時代の谷崎についていろいろな証言をしています。「僕は小学から大学を卒えるまで幾多の秀才にも会ったが、凡そ中学時代の谷崎ほど華やかな秀才には未だ嘗てお目にかかった事がない」(『谷崎潤一郎』)といっております。谷崎は府立一中の校内雑誌「学友会雑誌」に、一年生のとき「牧童」という漢詩を発表したのを皮切りに、毎号のように文章を寄せています。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「辰野はそれらの文章を紹介しながら、その華々しかった秀才ぶりに感嘆しているのですが、当時、府立一中には異色ある秀才が三人いたといいます。「五年生市河三喜の語学、四年生竹内端三の数学、二年生谷崎潤一郎の文章」が府立一中の名物として並び立っていたというのです。  辰野は、この三人はすでに中学時代からその将来が約束されていたといっております。たしかに市河は英語学、竹内は代数学の大家となり、それぞれ東京帝国大学教授となっています。谷崎もまた近代文学史上に文豪としての名を残しており、その同級生だった辰野もフランス文学研究者として大成しているのですから、当時の府立一中のレベルの高さがうかがわれます。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「一九六六年十一月、谷崎が亡くなってから最初に開催された「谷崎潤一郎展」に、府立一中時代の成績表が展示されました。それをめぐる記事が週刊誌「サンデー毎日」に掲載されていますが、それによれば飛び級した三年の二学期の成績も、ほとんどの科目が 10点中の 9点か 8点台で、クラスでの順位は四七人中一番、学年全体では一八七人中三番となっています。  三学年の全体平均では、クラス、学年全体でも一番になっておりますが、四年生のときには年間を通してクラスでは一番、学年全体では三番という成績でした。五学年では少し気がゆるんだのか、あるいはこの時期に、学校に通いながら家事や雑用をして働く書生として他家に住み込んでいたので、勉強する時間が足りなかったのか、クラスで二番、学年全体では八番と成績を下げております。  一学年のときの成績表は紛失して残っていないということですが、全体的にみれば国語漢文や外国語はもとより、歴史、地理、数学でも優れた成績を残しています。ただ体操のみ三学年のとき 5点と極端に低い点になっております。運動神経は学生時代からまるでダメだったようです。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「谷崎は幼少期を、祖父が築いた財産で比較的裕福に、わがままいっぱい甘やかされて育ちました。小学校へ入学しても通うのをいやがり、四月からの一学期間は休んで、九月から行きだしたといいます。それも、乳母がついていなければ通学できず、乳母の姿が見えないと泣き出して帰ってしまうという具合でした。翌年は原級にとどめられ、一年生をやり直しました。ここで通常の生徒よりも一年、遅れてしまったわけです。  二年目はようやく学校にも慣れて、首席で進級するようになりました。が、そんな贅沢に甘やかされたのも、小学校一、二年生ころまででした。父の倉五郎が事業に失敗して、南茅場町の裏長屋にひっそり生活しなければならなくなったからです。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「こうした初期作品は、作家の三島由紀夫の言葉を借りれば、自然主義文学の「黒い曇天を背景にして咲き誇る絢爛たる牡丹の美を開顕した」といえます(「谷崎潤一郎」)。奔放な空想力ときらびやかな文体で綴られた、強烈な感覚と色彩にみちた耽美的な作品の数々は、多くの読者に驚きをもって受け入れられました。  一九一一年十一月の雑誌「三田文学」に、永井荷風は「谷崎潤一郎氏の作品」という評論を掲げます。「明治現代の文壇に於て今日まで誰一人手を下す事の出来なかった、或は手を下そうともしなかった芸術の一方面を開拓した成功者は谷崎潤一郎氏である」と書き出され、最大級の賛辞をもって激賞されました。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「一葉が入門したころは萩の舎の全盛時代で、皇族や華族をはじめ、高官の夫人や令嬢など、多くの門人がおりました。元老院議官田辺太一の娘の田辺(のちに三宅)花圃や、日本橋の富裕な商家の娘である伊東夏子、請負師(建築業者)の未亡人田中みの子などが姉弟子におりました。一葉は伊東夏子、田中みの子の「平民組」と仲がよかったといいます。  入塾したばかりの一葉について、三宅花圃はこんなことをいっております。師の中島歌子のところへ江崎牧子(洋学者乙骨太郎乙の娘)とふたりで行ったおり、「お茶や五目鮨の饗応」をうけ、「見知らぬ婦人」が給仕してくれたといいますが、これが入塾したばかりの一葉だったというのです。お鮨を食べてしまうと、皿に宋の蘇軾の有名な漢文「赤壁之賦」が書かれていました。牧子が「清風徐来水波不起(清風徐ろに来たりて、水波起こらず)」と口ずさむと、一葉はちょっとそり身になっ」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「思うように原稿を書くことがなかなかできない一葉は、一八九三年七月に下谷区竜泉寺町(現在の台東区竜泉)に引っ越し、雑貨や子ども相手に駄菓子を売る店をはじめます。「たけくらべ」の舞台となった場所ですが、商売もなかなかうまくいかず、そこも一年足らずで店をたたみ、翌九四年五月には本郷丸山福山町(現在の文京区西片)へ転居しています。  この時期の一葉は経済的に困窮し、生き抜くことに精いっぱいでした。が、それでもこれまで書きつづけてきた小説が、「文学界」同人の若い文学者たちの眼にとまるようになります。「文学界」は明治のロマン主義文学の先駆をなした文芸雑誌です。西洋文学の素養をもつ青年たちとの交流から刺激をうけた一葉は、うちに秘めた文学的才能を一気に開花させることになります。  ことに一八九四年十二月に発表された「大つごもり」から、「にごりえ」「十三夜」「わかれ道」「たけくらべ」の五作品が書かれた九六年一月までの十四ヶ月間は、一葉研究者の和田芳恵によって「奇蹟の十四ヶ月」と呼ばれています。この十四ヶ月間に一葉は文学史に、それこそ「千載」にその名を残すような傑作を集中的に書いたのでした。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著



    「一葉は、机に頰づえをつきながら、本当に自分は女であったのだ、どのような思いがあるとしても、結局それは果たせることではないのだと、明治時代に女戸主として生きた女性の生きづらさを吐露しています。こうした思いを抱きながら、一葉は肺結核によって一八九六年十一月二十三日に、二十四歳七ヶ月の短い生涯を閉じました。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「上を下へと日本国中が大混乱した、この一八六七年に生まれた作家には、漱石のほかに尾崎紅葉、幸田露伴、正岡子規などがおります。漱石が小説の筆を執りはじめたのは遅かったのですが、紅葉、露伴、子規は、いずれも日本の近代文学の生成期に活躍し、日本近代文学史の骨格づくりに大きな役割を果たした大家です。  一般に日本の近代文学は、一八八五(明治十八)年に坪内逍遥が発表した、西洋文学を参考に新しい時代の小説を論じた文学理論書『小説神髄』の刊行にはじまるといわれています。そして、これに影響を受けた二葉亭四迷が、一八八七年に悩める青年の内面を描いた小説『浮雲』を出版することで、その確実な一歩が踏み出されました。  尾崎紅葉は、十八歳の一八八五年に山田美妙らの友人と文学結社の硯友社を結成し、「我楽多文庫」を創刊しています。「我楽多文庫」は、はじめ仲間うちの遊戯的な要素が強い筆写回覧本でしたが、やがて文学性を高め、活字本となり、さらに一般にも販売されるようになりました。一八八九年に紅葉は、出世作『二人比丘尼色懺悔』を刊行します。それ以後、一九〇三年に亡くなるまで、『金色夜叉』などのヒット作を次々に発表し、明治の文学界のトップをつねに走りつづけました。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「それで、変人を自認していた漱石は、変人のままにできる仕事として建築家をめざしたといいます。周囲の友人からは理科に進むものとみられるほど理数にも強く、「世の中になくて叶わぬのみか、同時に立派な美術である」建築ならばやりがいがあると考えたというのです。談話「落第」でも、「僕は其頃ピラミッドでも建てる様な心算で居た」といっております。  が、落第して同級となった米山保三郎という友人から、「君は建築をやると云うが、今の日本の有様では君の思って居る様な美術的の建築をして後代に遺すなどと云うことは、迚も不可能な話だ、それよりも文学をやれ、文学ならば勉強次第で幾百年幾千年の後に伝える可き大作が出来るじゃないか」(「落第」)といわれたといいます。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「まさに作家としての漱石の出発は遅かったのですが、漱石は蓄えつづけた火山のマグマのようなエネルギーを一気に噴出することになります。一九〇五年の「吾輩は猫である」から一九一六年の未完に終わった「明暗」まで、休む間もなく爆発する火山のように書きつづけました。  それらの作品は現代の私たちにも、この「小さな一個の邪魔物」としての自己をこの世界のうちにどう処して、どのように生き抜いたらいいのかと問いつづけております。ある意味、それはいつの時代にも変わらない文学における根源的な問いなのですが、漱石は近代という時代の本質を深く探り、普遍性をもってそれを提示したのだといえます。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著


    「現代風な言い方をすれば、昔からいい伝えられてきた故事成語やことわざは、一種のビッグデータといってもいいでしょう。必ずしもその原因と結果とが科学的な根拠によって正しいと立証されたわけではありませんが、何百年、あるいは何千年の昔からの多くの事例によって、おおむねそうしたことがいえると推定された人生経験上の知識です。いわばこの人生を生き抜くための生きた知恵といってもいいでしょう。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「もちろん、十七歳のときに光り輝いていたものが、その後の人生において輝きを失うこともありますし、その反対に十七歳のときにまったく冴えなかったものが、その後に大きく花を咲かせることもあるでしょう。その後の人生が右に行くか左に行くかは、十七歳をどのように過ごそうと、その後の人生の生き方にかかわっていることです。  それこそ初期値に鋭敏な天気と同じように、毎日のほんのちょっとした行為の積み重ねが初期値となって、その後に展開される人生に大きな影響を及ぼすことになるのです。先人の使い古した言葉を用いれば、塵も積もれば山となるのです。その意味からいえば、私たちはいつも日々の努力を怠ることができません。が、そうであったとしても、その後の人生の生き方を決めるにあたって、十代での選択や出会いがきわめて重要な意味をもつことは疑うことができないようです。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

    「他山の石という言葉があります。よその山から出た粗悪な石でも、自分の玉を磨く役には立つということで、他人のダメな言行も自分を磨くための役に立つということです。どんなに素晴らしい玉のような才能をもっていたとしても、それを磨こうとしなければ意味がありません。本書は、碌々と生きてしまった老学者からの、新たな時代を切り拓く次世代の若い人々へのほんのささやかな贈りものです。皆さんの潜在的な才能を磨くための他山の石として、この小さな本が少しでも役立つならば、それにまさる喜びはありません。」

    —『作家たちの17歳 (岩波ジュニア新書)』千葉 俊二著

  • ・文豪(特に谷崎)に興味があったこと
    ・「17歳」という年齢になぜフォーカスしたのかを知りたかったこと
    ↑これらの点を踏まえ、この新書を読むことにしました。

    最初にいっておきますが、「ジュニア新書」だからといってわかりやすい内容か、と言われると私はNOと答えます。でも、17歳という年齢もあり、高校生〜大学生に読んでもらいたい新書です。

    6人の文豪たち(太宰治、宮沢賢治、芥川龍之介、谷崎潤一郎、樋口一葉、夏目漱石)の彼らの家庭環境や創作物、日記などから紐解いています。それぞれの時代背景を理解するために、学制発布前後であるかどうかも絡んでくるので「17歳」と言っても今の高校生と一緒かと言われると少し違うかもしれないです。しかし、文豪と呼ばれる前の彼らがどんな家庭に生まれ、どんな悩みを抱えながら生活していたのかを知ることができます。読む前は谷崎が主な理由でしたが、読んだ後は樋口の作品をもっと読んでみたいなと思いました(歌が綺麗だなと感じたので)。明治〜大正にかけての学校制度・体制や好きな文豪がいる方におすすめの新書です。

  • かの文豪たちの17歳を当時の記録などをもとに書いたもの。まだ17歳。何物にもなれる。

  • 【請求記号:910.2 チ】

  •  6名の著名な作家たちの17歳の頃、その前後をそれぞれ追った本。岩波ジュニアだけあって、中高生向けに書かれている。
     当時の学校制度など、現在と異なる部分はコラムで補足されていてわかりやすい。学術書ではないので、少し決めつけを感じる部分もあった(作家はああいう境遇にあったから、こういう意図でAという文章を書いたのだろう、など)。
     宮沢賢治の「あのさそりのように」のくだり(『銀河鉄道の夜』での記載)は何度も読み返した。

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著者プロフィール

1947年、宮城県に生まれ、横浜で育つ。早稲田大学大学院文学研究科日本文学専攻博士後期課程退学。山梨英和短期大学専任講師を経て、早稲田大学教育学部専任講師、助教授、教授(のち組織変更により教育・総合科学学術院教授)を歴任。現在、早稲田大学名誉教授。専門は日本近代文学、主に谷崎潤一郎を研究。著書に『物語の法則』『物語のモラル』『文学のなかの科学』『谷崎潤一郎 性慾と文学』などがあり、編著書には『地震雑感/津浪と人間 寺田寅彦随筆選集』『怪異考/化物の進化 寺田寅彦随筆選集』『寺田寅彦セレクションⅠ・Ⅱ』(いずれも細川光洋氏との共編)などがある。

「2020年 『寺田寅彦『物理学序説』を読む』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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