共通感覚論 (岩波現代文庫 学術 1)

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (398ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784006000011

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  • 「コモン・センス」という言葉を習ったのは、確か世界史の授業だった。
    それは〈常識〉のことだと覚えていたのだが、今になって〈共通感覚〉と結び付いてくるとは思わなかった。

    きっかけは、梶井基次郎の「檸檬」に始まる。
    現実と透かし合わせるように、感覚を重ねた世界に身を浸してゆく主人公を、改めて見つめた時、この『共通感覚論』の一節が想起されたのだった。

    私たちは視覚優位の世界にいながらも、一つの物事に対して一つの感覚を用いているわけではない。
    空間感覚や時間感覚もまた、感覚である。
    こう考えていくと、自分と他者という存在の認識にも、こうした感覚が働いているのだろうなということは分かる。
    筆者は敢えて深く触れずにいる「共感覚」も、人と人の間に起こる重要な感覚だと言える。

    言葉が、それがあることによって物事を認知できるように、感覚もまた、それがあることで生きていることを認知させる。
    それが、「共同体の判断基準」たる常識に結び付いてくるところが面白い。
    稚拙な読み取りしか出来なかった点が悔しい。

  • 人間の生が立脚する地点、すなわち<わたしはいま確かにここに在る>といった感触を実際的に掴むにあたっては、身体と環境との関係性、さらに言えば<名づけ>というものが大きな役割を果たすらしい。その関係性は、身体の感覚器によりとらえら図らずも沈潜したものが、想像力により捉えられ、<語られ>た時、人はその事物を血肉化する。その作業の原初にあるのは、それをそれをとらえる<身体>であり、本著にそれば、<共通感覚>ということになる。

    本著の優れた点をひとつ引き上げるとすれば、上記の共通感覚と<時間>との関連をとらえている点であろう。共通感覚が一個人のうちに働く条件というものは、おそらく彼が彼の感官が外へと開いている状態、すなわち生態系のひとつとして在り、各々の土地の持つ<時間>の中に組み込まれていることにあると考えられる。

    その時間とは、歴史を通して、人為と地が相互交渉する中で、<立ち上がってきた>ものであったと考えられる。

    ○以下引用

    共通感覚とは、他のすべての人々のことを顧慮し、他者の立場に自己を置く能力である

    もともとコモンセンスとは、諸感覚に相わたって共通で、しかもそれらを統合する感覚、私たち人間のいわゆる五感に相わたりつつそれらを統合すして働く全体的な感得力、つまち共通感覚

    アリストテレスが、<共通感覚>と名付けたこの基本的な感受性は、人間と世界とを根源的に通路づけ、われわれ人間にとって、そもそも<世界>といわれうるものを現前させる働きを持っている。そしてこの感受性が欠けるとき、世界はカオスにすぎなくなる

    離人症患者が<自分というものがない>と訴える場合も、その<自分>とは、<もの>あるいは主語としての<自分>ではない。(中略)これは単なる<現実感の喪失>ではなくて、むしろあらゆるものが<ある>という述語性を失って、主語だけが空中に浮遊している、とでもいうべき状態

    思ひ出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ。記憶するだけではいけないのだらう。思ひ出さなくてはいけないのだらう。多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思い出すことができないからではあるまいか。

    上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが過去から未来に向かって飴のように伸びた時間という蒼ざめた(僕にはそれが現代に於ける最大の妄想と思はれる)から逃げる唯一の本当に有効なやり方の様に思へる

    精神は、身体の基礎の上にはじめて成り立っている

    ★自然界に見られるリズム現象がすでに記憶の本質を具えている

    アリストテレスによれば、記憶は、たとえそれが、思考の記憶であっても、心像(表象像)なしには成り立つものではない。そして心像は共通感覚の受動態である

    想起的記憶は、すぐれて社会的な行為であり、言語と密接な関係を持っている。したがって、想起的記憶は<語り>としてとらえることができる。それは過去の行動について構成された新しい行為であって

    ★語りが喚起するのは、過去の行為そのものではなくて、行為が生み出された状況である

    この語りによって、行為に直接関わらずその場に居なかった他人でも、まるでそこにいたかのように反応できる。語りで重視されるのは行為そのものではなくて、状況と行為との結合の個々の特徴である。

    語りとしての記憶は、出来事の歴史、あるいはむしろ真の歴史ともいうべきものを用意しているのである

    ★記憶(想起)を特徴づける語りは、習慣を特徴づけている繰り返しと対立する。よく物語をただ暗記して機械的に繰り返している子どもがいるが、そういう行為はまだ記憶とはいえない。暗記されたものを、彼がそれを物語として話すとき、つまり語りを行う時にはじめて記憶となるのである

    想起的記憶は、過去の言語化であり、ことばによる過去の意識化である。そしてこのように記憶がすぐれてことばによる過去の内面化であり、社会的なものであって

    ★彼(アリストテレス)によれば、五感によってもたらされた知覚は、はじめに想像力によって働きかけられる。そして知的能力の題材となるのは、はっきり形をなしたイメージである。この場合想像力は、知覚と思考の仲立ちをする。したがって、すべての認識はつまるところ感覚印象に由来するとはいえ、思考は生の感覚印象の上に働くのではない。想像力によって働きかけられ、あるいは想像力に同化されたのちの感覚印象の上に働くのである。

    『記憶と想起について』では、記憶と想像力とは魂の中の同じ部分に属している。記憶の働きというのは、いわば感覚印象からの心像の蒐集である。もっとも、ただの蒐集ではなくて、そこには時間というものが加わっている.記憶の心像は、現存する事物の知覚にではなくて、過去の事物の知覚に由来しているからである。

    イメージ、時間、場所の三つの結びついたとことに記憶の問題があった

    アリストテレスにおいて、共通感覚が想像力とも、記憶とも結びついている

    ★個別感覚の感覚器官あるいは感覚能力の受け取った印象が共通感官にまで働きかけ、その働きかけの結果生じた変化、つまり共通感覚の受動態が、はじめの感覚の終わったのちまで残る時、それが心像である。そしてこのような心像を生み出すこと、共通感覚の受動態を再現することが想像なのである。

    生死や思考は、心臓や腹にある

    キケロは、プラトンに倣って魂が前世を想起する記憶を有しているものと考えた

    話を聴いてやることで相手に心を開かせるというのは、そういう場をつくることのできる、みずからが心の開かれた人、つまりすぐれて共通感覚の持ち主であるような人

    ★文化的な時間とは、人々の間の交感や同課によって循環とリズムが強化されると共に、非実用的な価値と形式によって秩序立てられた時間なのである。この方は、生きられる重層的な時間のなかにあって、無意識で祭祀的な制度によって媒介されているために、直線的な時間、水平の時間とは反対の方の極に、もう一つの極限の時間に近づく。それは円環的、あるいは永遠の時間ともいうべき神話的時間、いわば、垂直の時間である。
    ⇔社会的時間/有用性

    わたしたちにとって生きられるのは、このような自然的な時間にとどまらず、それを超えた社会的・文化的な時間である。自然的時間は私たちの生み出したさまざまな意識的および無意識的な制度の仲立ちを経て初めて、社会的・文化的な時間になるのである。

    時代により、時期によって素冷えの方向に機能的で実用的な時間が強く支配する時と、垂直の方向に交感的で祝祭的な時間がつよく支配するときがある。

    ★自然のリズム(時間)の上に、歴史のなかで形成された一つの国や地方での社会的・文化的リズム(時間)こそが、なによりも、人々の間での共通の知覚や判断としてのコモンセンスの基礎となっていると考えられる。

    ★自然な自明性とコモン・センスとの結びつきは、ここに社会的・文化的なリズムや時間の共有という観点を導入することによっていっそう明らかになる。このリズムや時間の共有というのは、知識や情報の共有と違って、まことに対象化されにくい。(中略)このように見てくると、リズムをもった生きられる重層的時間は共通感覚の対象であるだけではなくて、それと同時に、コモンセンスを成り立たせているものであることがわかる。

    ★リズムを持った生きられる時間の喪失は、ただ単に時間の喪失ということだけにとどまらず、私たち人間を共通感覚からもコモンセンスからも遠ざけるわけで、時間の問題はここまで私たちに深くかかわっている

    抽象的なものから具体的なものになるほど、また単一のものからいっそう重層的にとらえられるにしたがって、空間それも特定の空間と切り離しては考えられなくなる。そして、生きられる重層的な時間と結びついた特定の、あるいは限定された空間こそ、古来<場所>と呼ばれてきたものにほかならない。

    人間が自分の変様をとらえ変様を自覚する時、それが精神なのである

    ●私たちは身体を持つのではなく、身体そのものを生きている

    象徴的なものとしての場所をもっともよく示すものはなにか。いうまでもなくそれは、世俗的な空間と区別された意味での聖なる空間、つまり宗教的、神話的な空間である。(中略)山頂や森の中をはじめ、いろいろな場所が聖なるものとして選び取られ…

    ★⇒都市においての聖性というか、触れられぬ領域はあったと言える

    日本の都市空間にそのような都市の原像があてはまらないのは、そこに象徴的なものとしての場所が必ずしもかけているからではなく、むしそ象徴的なものとしての場所が入り組んだ形で微妙に曖昧に存在しているからであろう。もといえば、日本の都市空間が象徴的なものといての場所そのものだからであろう。

    ★意識的自我の根拠喪失の進行は、実は、場所における中心の喪失と対応している。

    生きられる場所とは、重層的な時間のもとに出来事がそこに生起するところであり、世界を地平にして私たちの一人ひとりが他者や物事と関係性のもとに結びついているところである。それは、私たち一人ひとりを何重の意味でも含みこむものであり、したがってそれに対処するには、共通感覚によらざるをえないのである

    或る時代や或る社会に知的な地平に取り入れられる経験の定式化は、事実や欲望によってではなく、自分たちの思いがけない経験を納得のいくように分析し記述する上に役立つ基本概念によって決定されている

    歴史の拘束・重圧からのがれ共同体から個人が独立するためには、過去とのつながりを断ち切る必要があった。
    記憶や習慣によらずに、人々をなにかの目的へ、とくに真理へと導くもの

    自然のリズムや時間の上に歴史的に形成された一つの国や地方での社会的・文化的なリズムや時間こそが、人々の間での共通の知覚や判断としてのコモンセンスの基礎となっている

  • 雄二郎のことはけっこう気にかかってはいた。彼は「臨床の知」なる概念を提唱していたからである。つまり、病気と呼ばれるものに対して、科学的客観的に判断して投薬治療などを加える精神医療に対して、いわゆる患者が抱えている問題に対して、その患者の視点で捉えていくという、カウンセラーや心理療法の礎のような考えを広く提唱した人物なのであるが、それと本著の内容はまるで関係なかったりもする。

    本著で分析されるのは「共通感覚」である。似た名前に共感覚というものがあるがこれとは違う。後者は、感覚器官が在る意味ばくっているといった感じで、文字を読んで色のイメージがわくといった形である。個人的にはたまーにそういう経験があるのだけど、共感覚者はそれがいつもらしい。だが、共通感覚は少し違う。この共通感覚ってやつは、コモンセンスとかセンスコムーニスとか呼ばれているが、現代的な意味で訳すときには、「常識」となる。要するに、コモンセンスには二つ意味があり、一つ目が「常識」で二つ目が「共通感覚」なのである。常識は、まあ、いいだろう。これは非常に実践的な概念で、キケロがその親の存在であるという。キケロとは、ストア派の時代にいた人物であるが、彼は非常に「実践性」を推すのである。堅苦しい理論よりは実践性を尊んだ人物である。で、もう一つが「共通感覚」である。共通感覚っていうのは、つまり、個人に対してかつ、集団に関しての共通という二重の共通性があるように個人的には感じられる。個人に対しての共通というのは、「すべての感覚の基礎にある」感覚といった意味合いである。これは現代的には「視覚」として考えられがちだが、しかし、著者はここで「触覚」の重要性を提唱する。確かに一見視覚が優位に見えるが、視覚ではものを真には感じられないのではないか?つまり、視覚によってわれわれの感覚は順序付けられるのだが、それは表面的なものであり、その前に裏方的な礎として働いているのは、触覚などの「体性感覚」であるというのが著者の主張である。で、これは個人的な共通性なのだけれども、実はこれが個人を超えて集団においても共通しているのである。これはフッサールの言うところの相互主観性とでも呼ぶべきものなのだろう。


    ちなみに、精神病理学者の、木村が解説を書いているのだが、この論点が木村にかなりの影響を与えている。つまり、分裂病者はこの共通感覚が崩れてしまったのではないか?だから、個人内における感覚が共通性を失い調和がとれない上に、それが相互主観的に一定の合致を示すということへも実感がもてなくなる。だからこそ、世界から分離してしまったような違和を感じることになる。それは、つまり、世界の中において、自分という「場所」=「トポス」を失ってしまったということである。その場所というのは、つまり、主語であるところの自分にあれこれ納まってくるはずのが述語の収納所である。その場所がわからなくなるせいで、うまく述語が収まらず自分がいまいち自分であるという感覚がつかめなくなる、わけである。と木村にシフトしてしまったが、中村⇔木村がリンクするこの部分が本著の最大の魅力だと思われる。

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784006000011

  • 第1章 共通感覚の再発見
    第2章 視覚の神話をこえて
    第3章 共通感覚と言語
    第4章 記憶・時間・場所
    終章

    現代選書版あとがき
    現代文庫版によせて
    [解説]私事と共通感覚 木村敏
    索引
    (目次より)

  • 「常識」とは何ぞ?と長年思っていたので、やや難しい内容ではあったけど納得できるところが多かった。哲学的切り口で論じるとこうなるのかぁ、と思った。難しいテーマなのに、わかりやすい文章だったのには感謝。

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著者プロフィール

1925年、東京都出身。哲学者。明治大学名誉教授。東京大学文学部卒業後、文化放送に入社。その後、明治大学法学部教授を長く務めた。西洋哲学をはじめ日本文化・言語・科学・芸術などに目を向けた現代思想に関する著書が多数あり、主要著作は『中村雄二郎著作集』(岩波書店、第1期全10巻・第2期全10巻)に収められている。山口昌男と共に1970年代初めから雑誌『現代思想』などで活躍、1984年から1994年まで「へるめす」で磯崎新、大江健三郎、大岡信、武満徹、山口昌男とともに編集同人として活躍した。

「2017年 『新 新装版 トポスの知 箱庭療法の世界』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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