ベンヤミン歴史哲学テーゼ精読 (岩波現代文庫 学術 31)

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  • Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784006000318

作品紹介・あらすじ

ベンヤミンの生涯の思考を結晶させた絶筆「歴史哲学テーゼ」は、歴史の連続性に依拠する進歩史観や勝者の歴史観に対峙する。敗者のありうべき過去の可能性を探求した彼の「歴史」とは何か。「救済の理念」による歴史把握の方法を哲学的に跡づけ、一八のテーゼの一つ一つに即して難解な歴史的時間論を初めて解読する。ベンヤミン思想の核心を初めて哲学的・思想史的に明らかにした鮮やかな読解。

感想・レビュー・書評

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  •  2年ほど前に一回読んだのですが、内容を忘れてしまったので再読しました。昔はこの本の言っていることを素直に受け入れられたような気がするのですが、今回はそうではありませんでした。むしろ、ベンヤミンというのはワカラナイ思想なのかもしれないとすら思ってしまった。

     「歴史哲学テーゼ」の訳文が筑摩から出ているコレクションのものよりベンヤミンっぽくてわかり易いので、歴史哲学テーゼに関してはこちらを読むほうがいいのではないかと思います。
     お勧めの読み方は第2部が「歴史哲学テーゼ」の各章に順に対応する構成になっているので、「歴史哲学テーゼ」を一章読んだらそれに対応する第2部を読むことです。その方が絶対わかりやすかったなあと読み終わってから後悔してしまいました。

     今回難しく感じたのは最近ヘーゲルも含め歴史哲学系の本を沢山読んでるからだと思います。著者がサラッと語る思想の背景に私には想像の及ばない程の深い含蓄を感じてしまいました。自分が理解した考え方に確信が持てないというか…。
     前回読んだ時はベンヤミンの文体に翻弄されて思想的なことにちゃんと踏み込めなかったように思いますが、今回は「ヒポクラテスの顔」とかアドルノのポスト・アウシュヴィッツを予感させる部分であるとか、マルクス・アウレリウスの「臨終のように生きよ」など、考えさせられる部分が沢山あって面白かったです。

  • 「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」というが、著者の読解に触れて、Benjaminの思想に興味を持つことができた。(”少しのこと”ではないが)

    様々な解読がなされているテクストだけに、自分自身なりに解読を試みることが大切。その方法を学ぶための手引きにもなった。

    本書では、「近代性」「時間」「労働」と言った著者の主要な課題と結びつけられて読み解かれている。

  • 読了。ベンヤミンのテーゼ全編と、分量的にはそれより多い解説付きのもの。解説は、解説の解説が必要なほど難解、もしくは基礎的な知識を持たないことには読むのも辛く感じられる。むしろ、本当に解説しようとしているのか甚だ疑問にも思われた。テーゼ全編は比喩に富んで極めて美しく、かつて幾度か暗記を試みた経緯もあり、今更の購入を正直どうかと思った。いくつかのテーゼは非常に分かりやすく、簡単な文章で綴られるが、他方難しいものも含まれるため、半分も理解できていない。特にマルクスを知らないは致命的だったと思われる。

  • ベンヤミンの絶筆「歴史の概念について」を正面から論じている。ベンヤミンの認識論、歴史哲学を読解することによって、ベンヤミンの思想の核心に迫っている。

  • 最初ちくま学芸文庫の『ベンヤミン・コレクション1』に入っている「歴史の概念について」を読んでみたのだけど、全然意味がわからなかったので、この「精読」を読んでみた。そしたら、ほんのちょっとだけわかったような気になった。

    「したがって、ベンヤミンがいうところの「真実において概念的に把握された」過去全体の回帰は、つねに暫定的であり、真実からみれば近似的なものにとどまる。ネガから生まれる「新しいポジ」のそのつどの回帰があるだけである。その意味でベンヤミンは歴史哲学的認識(概念)による「過去に潜在する可能態」の解放は、進行途上の形で考えているとみるべきであろう。ネガティブな「くず」から分割的・分析的にとりだされた、そのつどの個性的なポジたちの集合は、そのつど星座として構成される。星座の完璧な構成は、人間の認識にとっては完成されることはないであろう。それは、あたかもカントがいう「終わりなき課題」(unentliche Aufgabe)であるだろう。」(p23~24)

    僕としては、このあたりは「歴史」は完成することはない不断の営みである、として読んだ。そういう考え方の源流は、もしかしたらベンヤミンにあるのかもしれない(よくしらないけど)。

    もうひとつ。

    「以上のような観点から、過去への「感情移入」とか、「あるがままの事実」を主張する実証主義は、断固として排撃されることになる。なぜなら、それらは過去の支配者への感情移入であるからだ。より正確にいえば、事実の実証主義は過去の支配者へ感情移入する(「英雄史観」)ことを通じて、現在の支配者へ感情移入し、それをもって現在の社会を正当化するのである。」(p115)

    ベンヤミンの「歴史の概念について」が書かれたのは1940年だそうだが、この時点で「実証主義」がもつ問題点を指摘しているのは驚くばかりだ。ただ、よくわからないこともある(というか、わからないことだらけだが)。

    というのも、ベンヤミンは、「事実の実証主義」を排し、「廃墟」「ぼろ、くず」の「救済」によって「根源史」(世界の完全な概念的把握、という意味だと思う)が見い出せる、としている。もう少し詳しく言うと、ベンヤミンは現象を二分法でネガティブとポジティブに分け、分けられたそのネガティブなものからさらにポジティブとネガティブを分け、またそのネガティブをポジティブとネガティブに分け、どんどんどんどんポジティブを救い出していき、暫定的な「真実」へと近づく、と述べているのだ。

    しかしそれは原理的にはわかるような気がするが、実際ポジティブなものを過去からどんどん「救済」していったとして、最後に残ったと考えられる「ぼろ、くず」が、本当に最後に残された「ぼろ、くず」であるという根拠は何なのだろうか。やはり、それが「ぼろ、くず」であると言い切るためには、主観的な「決断」が必要なんじゃないだろうかと思う。そうしないと、いつまでも「暫定的」な認識にすら到達できないんじゃないだろうか。「今これが暫定的な認識です」という決断じたいは暫定的ではない、という矛盾は、いかにして乗り越えられるのだろうか。

    とはいえ、史料批判や複数の目による検証、というツールでは解消しえない難問が「実証主義」に孕まれていることには注意しなければならないのだろう。「史料批判」「複数の眼」といっても、それにかかわる人間が全員同じ「感情移入」をしていては、「複数の眼による検証」が意味をなさないからだ。こういう「実証主義」への信頼に対する危険性は、頭に置いておいていいんじゃないかと思う。

  • 現代思想の泰斗による、ベンヤミンの遺稿読解の試み。はっきり言って何度読んでも私にはさっぱりの「歴史哲学テーゼ」だが、この本を読んで少しわかったような気がする。だが、「単純化しすぎ」との謗りもあるし、あくまで「歴史哲学テーゼの今村流解釈」として読むべきなのだろう。
    とはいえ、内容はとても魅力的だ。ベンヤミンはプラトン流のイデア論、つまり歴史的〈真実〉の中からさらに真実性の高い歴史的〈真実〉を選び取ることを否定する。そして、むしろそうやって排除されていく〈闇〉の中から歴史的〈真実〉を拾い上げることを訴える。それは、ほんの一瞬のチャンスであり、それを逃したら後はない・・・〈闇〉の中に永遠に葬られてしまう。
    その優しい眼差しに共感を覚えつつも、あまりに強い覚悟、ストイックな態度にちょっと腰が引けてしまう。本当にそんなことでしか、われわれは〈死者〉に答えられないのだろうか。

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著者プロフィール

今村 仁司(いまむら・ひとし):1942-2007年。岐阜県生まれ。京都大学大学院経済学研究科博士課程修了。元東京経済大学教授。専攻は社会思想史、社会哲学。

「2024年 『資本論 第一巻 下』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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