- 本 ・本 (240ページ)
- / ISBN・EAN: 9784006000523
感想・レビュー・書評
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一読して本書を咀嚼しきったとはとうてい言えないが、それでもすこぶる刺激的な本だった。
中井久夫氏の著作を読むといつも、こんこんと水の湧き出す汲み尽くせぬ水源を覗き込んでいるような気持ちになる。
気品ある文章はこちらの心を洗う。
治療経験に基づいた本書の記述を簡単に要約してしまうのはおこがましい。用いられている比喩ひとつひとつまでが、じっさいの経験とその後の熟考ののちに咲いた花のようなものだ。中井氏の経験おそらく本書をじっさいに読むことでしか伝わらないたぐいのものだろう。
それでも、本書で用いられている三項が明確にある。
個人症候群、
文化依存症候群、
普遍症候群、
だ。
いわば、個人レベル、あるいは国や風土、文化、習俗、あるいは近代精神医学という3つのどの観点から見るかによって、病者/非病者の境界もかわってくるし、治療法も、なにをもって治ったとみなすかもそれぞれである。
こうした3つの文脈を、中井氏の生い立ちや人生、インドネシアでの経験などをもとに、"人生を賭けて"分析したのが本書。
精神医学の書のみならず、これは人類学の書でもある。
(あとがきがまた、惚れ惚れするような文章だ)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
映画「どうすればよかったか?」を観て、本書のことを思い出した。
正確に言うと、本書のことを紹介していたNHKの番組を思い出した。
その後、奈良の天理に旅行に行くことがあって、本書を直接読むという決定打になった。
私は、天理教の教祖である中山ミキの「発症」について書いている、第三章だけを読んだ。
奈良の天理の地理について書かれているが、先日行ったばかりだったので、よく理解できた。
天理という地域が、歴史的に、霊的な場所というわけではない。奈良にはもっと霊的な場所がある。東南に三輪山がある。大和三山も南に。天理という場所は、どちらかというと、霊的には「空隙」である。
そういう場所「だからこそ」、中山ミキが出現した、というのは、おもしろい指摘であった。そこを「故郷」にしようとした、というのはおもしろい。
おもしろいとは簡単にいうようであるが、霊性がない場所だからこそ、そこに霊性が必要だったのだ。そのような理解を私はしている。渇いたのどに水が必要だった。
統合失調症について、普遍症候群としてしか理解していないのであったが、文化依存症候群というものがあるというのは、これは常識であるたぐいだけれど、勉強になった。
そして筆者は、個人症候群というものを提示しており、これがおもしろいのであった。
「創造の病い」ということ。病とは個性的だということ。
ミキが発症して、「我は天理のみのみことなるぞ」と宣言した時に、家族が最初は困惑したという描写が好きだ。「この家を縄で引っ張って壊せ」と命じ出し、「なんでうちなんですか?どうか他の家に移ってくれませんか?」という願いをしたが聞き入れられなかった、というやりとりも好きだ。
とうとう「優しい」夫が、ミキを拝みだす。そうして家族全員が彼女の言うことを聞くようになる。
この話が好きである。なんでだろうか。
柳田國男の「遠野物語」を思い出す。息子が母親を斧で斬り殺そうとする話や、津波で妻を亡くした話。
「関係」でしか描けない心というものを描いてくれているからであろうか。
創造の病ということでいうと、私個人のことでいうと、高校生のときにバスケ部で行き詰まり、勉強でも落ちこぼれたので、社会で居場所がなくなった。
そこで見つけたのがバンドであった。クラスの隅でバンドをやっている奴らを見つけて、楽器もできないのにそのバンドに入り、歌ったのであるが、それは私にとって、新しい「場所」だった。
ステージの上で、憑依される人格は、そこが私にとって、「本来の場所」となった。
そこは、無時間的な時間が流れる場所である。そこは、中井久夫のいうところの「パラレル」な時間である。あらゆるものが並置する。なんでもコラージュ可能である。
エリオットではないが、感性の論理によって整合性を保つことができる、その場所で、私は治癒される。
そのことは、けれども、本書を読んで、はじめて自覚されたのであった。そして、私が旅に出かけることも、詩において「地名」を用いることも、納得がいきそうである。
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岩波現代文庫
中井久夫 「治療文化論」
精神医療の異文化間の違いをテーマとした専門家向けの本だが、著者の自虐や皮肉は面白い
精神科医を、傭兵や売春婦と似ているとしたり、マージナルな存在で社会改革の挫折者と言ったり、精神科医は、蛸壺のような狭い世界で働いているとしたり、かなり自虐的
理解できたテーマは少ないが、文化精神医学者の7タイプ、同性愛ショック、中山ミキ論、イエスの治療論は、社会学や民俗学のようで面白い
「夜な夜な妖精が訪れて対話する〜空想虚言症か〜最終的には分らないことだが、分からないままでよいことにした」
「私がしたことは、患者に半歩遅れてついてゆき、きずなを張りつめも、緩むこともしないと心がけただけであった」
は、著者の精神科医としてのスタンスをよく現していると思う
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精神科医、中井久夫の著書。精神疾患を独自の見方で論評している一冊。統合失調症の第一人者と謂れている。この著書は精神科医からの視点で書かれていることが多く、治療の一貫として書かれているわけではないので、わかりづらさは感じるかもしれない。どちらかというと、病気の理解というよりは、難解なものを今までにないアプローチで解読するという所に意味があるのかもしれない。
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奈良盆地を神に見捨てられたエリオットの「荒地」に例えたり、妖精の病の治療で患者の「夜の世界」の冷えにくるぶしまで浸されてみたり、妙に印象的な箇所多数。この本の全体像は見渡せている気はしないが、漏れ出してくる部分々々だけで酔ってしまうのが、この著者の不思議。
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治療とは
それぞれのために心をこめて、
その人だけの一品料理を
作ろうとすること -
本書は、精神医学の分野において、何を病と位置づけるのか、そして治療するという行為や病が治るとはどういうことなのかといった精神医学のディシプリンの土台を問い直し、より広い視野から人の心と社会の関係性のあるべき姿を再構築しようとした試みである。
精神医学に関する原論であると同時に、医療とは何か、医者と患者の関係性と何かといったことにも広がる論点を含んでいると感じた。
この本の中で筆者は、精神病を普遍症候群、文化依存症候群、そして筆者が新たに提唱する個人症候群の3つの視点から捉える。普遍症候群とは西欧精神医学において観察・記録され、標準化されたさまざまな精神病である。そして文化依存症候群とは、主に非西洋のある特定の文化にしか存在しない、その文化に深く結びついた精神病を指している。
この類型化についても、「西欧-非西欧」という「中心-周縁」概念に捉われた見方ではないかという問題は指摘できるし、「普遍-文化依存」という視点ではなく「都市型-田舎型」といった視点で捉える方が良いという考え方もある(実際筆者もそれらの議論を紹介している)。
しかし、筆者はこのような二元論の中で議論するのではなく、ここから新たに、「個人症候群」という考え方を展開する。筆者の考えるこの個人症候群とは、精神病のプロセスをパースナルな病の経過として捉えるという見方である。
個人症候群という視点を導入するにあたり、筆者はエランベルジュ(エレンベルガー)のいう「創造の病」を足掛かりにしている。これは、抑うつや心気症状から「病い」を通過して、何か新しいものを摑んだと感じ、それを世に告知したいという心の動きへと至る、一連の過程である。
そのような事例として、科学や芸術の分野における天才の創造の過程、天理教の創始者となった中山ミキの物語、そして(恐らく筆者自身であろうが)困難な課題に圧倒された状態から超覚醒の状態を経て軽い抑うつ気分へと至り回復する知己のことなどを挙げて説明をしている。
個人症候群と筆者が呼んでいるものに見られるこれらの症状には、普遍症候群や文化依存症候群の症状と共通するものもある。それは、個人症候群という概念が、この精神的な「病い」を「パースナルな病い」という角度から眺めたときに、異なった捉え方ができるようになるのではないかという、「見方の違い」を表したものだからである。
そして、このような見方を取ることは、精神病の治療に対しても、新しい可能性を開くことになる。
筆者は個人症候群は直接(自らが)熟知しているか、(患者を)熟知している治療者によって認知され、治療される、と述べている。しかし一方で、現代の精神医学においては、熟知者を治療することは禁忌とされている。それは、客観性や患者との距離を保つことが必要とされているからである。しかし、個人症候群の治療はそうではない世界において成り立っているという。
そのような個人症候群の治療の例として(これも筆者を含む集団なのであろうが)、敗戦直後の青年期から中年後期に至るまで続いた10人前後の男性の集団が「治療集団」としてその構成メンバーの精神的な危機をどのように救っていったかという事例を紹介している。また、近代以前の社会や先に上げた中山ミキの事例においても、個別性はありながらも家族や友人など熟知者が大きな役割を果たしている。
このような「患者」と「治療者」の関係性は、これまでの精神医学では捉えてこなかった領域であり、いわゆる「医学的な」処置以外にも、人間の心の問題を考える上で重要になってくる要素があるということを、教えてくれる。
精神病とその治療に対する視点を(広義の)患者と(広義の)治療者をはじめとする関与者に拡げ、さらにそれらを包含する世界をひとつの文化と捉えることで、筆者はこの本のタイトルでもある「治療文化論」という概念を提唱する。
この「文化」というのは、何を病気と捉え、誰を病人とし、何を以って治療、治癒とするかという体系であり、さらに「患者」と「治療者」だけではなくその周りの社会がそれらをどう位置付けるかという点にまで及ぶ、包括的なものである。
そしてこのような関係性の持つ多様性に応じて、「一人治療文化」、「家庭治療文化」、「小コミュニティ治療文化」、「シャーマニズム」、「アルコーリック・アノニマス(匿名アルコール症者の会)」、「修道院」、「メスリズム・催眠術」など、”正統”精神医学以外のさまざまな治療文化のあり方(本書ではこれらを「力動精神医学」と呼んでいる)を位置づけることができる。
多様な治療文化の存在ということを考えると、精神医学は何か1つの方向に収斂していくべきなのかという問いが必然的に生まれてくる。筆者は、体系化された”正統“精神医学は必要ではあるが十分ではなく、力動精神医学という多様性を持った「こころ」のモデルの存在も、精神医学における治療のコスモロジーの中で、当然に位置を与えられるべきであるという結論を述べている。
そしてまた、治療文化という概念を用いることで、社会の変化、新たな治療文化との遭遇(異文化との接触や科学の変化などによる)において、どのような文化変容が起こり、病いや治療のあり方がどのように影響を受けるかといったことを考えることができるようになる。
本書は、治療文化という概念を打ち出すことで、精神医学のこれからの方向性を考える視点を確立した本であると思う。そして、このような視点は、精神医学が症例の分類に偏り、また「治療者-患者」の関係性が固定化した医学へと一元化されることを抑制し、こころの問題により多くの人たち、そして社会の関与を促していく、大切なものであると感じた。
精神医学の領域から、このような社会性のあるメッセージを発信した著者の貢献は、非常に大きなものがあると思う。 -
普遍的な病と文化と個人の病
痩せ=美とする文化が拒食症に
対人恐怖症は日本特有の病
まわりにはわからない病もある
治療はこころのこもった一品料理
どんな病にもまず個人に向き合うことから
当事者研究にも通じるはなし
100分で名著。録画しておいてよかった
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中井の主著の一つということで手に取った。
少なくない患者は、その住まう文化に依存する形で病む。文化圏に依存しない普遍的な病み方、文化特有の病み方(例: 狐憑き)があり、さらに個人的な病み方(個人症候群)があると中井は言う。
精神医学の理論だけでなく文化人類学の豊かな知識と臨床経験をもつ中井ならではの視野の広さで様々な検討が行われる。
とはいえ精神医学の実際のところを知らないため、素人にはなかなか議論の深みがわからない部分も多い。冒頭の方の、明治以降に現れる新興宗教の教祖たちについての洞察がもっとも面白かった。 -
専門的内容なのに不思議と読み進めることができました。古今東西の人文知を引用し、その文体がとてもエレガントだったからでしょうか。
最近ではこのような領域を大きくまたがる論考を書く人が少なくなっているような気がしました。
著者プロフィール
中井久夫の作品





