言葉 (岩波現代文庫 学術 181 哲学コレクション 3)

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  • Amazon.co.jp ・本 (349ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784006001810

感想・レビュー・書評

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  • すごい本を読んでしまった。そんな感じで呆然としています。
    みっちりと、濃厚でトロトロしたものが凝縮されていたように思います。
    読み進むのは決して楽ではなかったけど、その価値は間違いなくあった。
    こんなに面白く、興味深く、ワクワクさせてくれた本は久しぶりかもしれない。

    禅、という世界と、哲学、という世界。
    この両極端とも言えるそれぞれの世界から、「言葉」を捉え直す。
    これが、「第三の道」の入り口なのかもしれない。
    そんな感想を抱きました。それくらい、衝撃がすごかった。

    まず、始めに出てきたこの部分で、ガツンとやられました。<blockquote>禅の伝統において<ruby><rb>青原</rb><rp>(</rp><rt>せいげん</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>惟信</rb><rp>(</rp><rt>いしん</rt><rp>)</rp></ruby>禅師の上堂説法の言葉が伝えられている。「老僧三十年前、未だ禅に参ぜざりし時、山を見れば是れ山、水を見れば是れ水。後来、親しく知識に<ruby><rb>見</rb><rp>(</rp><rt>まみえ</rt><rp>)</rp></ruby>て(優れた老師に親しんで)、箇の入処有るに至るに及んで、山を見れば是れ山に非ず、水を見れば是れ水に非ず。<ruby><rb>而今</rb><rp>(</rp><rt>にこん</rt><rp>)</rp></ruby>、箇の<ruby><rb>休歇</rb><rp>(</rp><rt>きゅうけつ</rt><rp>)</rp></ruby>の処を得て、前に依りて、山を見れば<ruby><rb>祗</rb><rp>(</rp><rt>た</rt><rp>)</rp></ruby>だ是れ山、水を見れば<ruby><rb>祗</rb><rp>(</rp><rt>た</rt><rp>)</rp></ruby>だ是れ水なり。」</blockquote>この、圧倒的な大転換による定着。
    表を見て、引っ繰り返して、馴染ませる。
    この一連の動作、目の前に改めて突きつけられると、絶句します、
    なんだ。これはいったい何なんだ。
    そんな、ある種の恐慌にも似た、焦燥感が湧き起こりました。

    そして、後半で出てきたこの部分。圧倒される以外に有りませんでした。<blockquote>ただ、<ruby><rb>カチン</rb><rp>(</rp><rt>′′′</rt><rp>)</rp></ruby></body>によって一切が<ruby><rb>カチン</rb><rp>(</rp><rt>′′′</rt><rp>)</rp></ruby></body>、かつ<ruby><rb>カチン</rb><rp>(</rp><rt>′′′</rt><rp>)</rp></ruby></body>としてわかったのである。</blockquote>ここだけ読んでも、何が何だかサッパリでしょうね。
    でも、ここで語られていることと言うのは、すごいんです。圧巻。

    論理だけでは語れない。
    けれど、論理がなければ語れない。
    論理を肯定し、同時に論理を否定する。
    言葉を発することを禁じ、同時に沈黙を禁じる。
    これが即ち、<blockquote>有言無言を離れて、<ruby><rb>速</rb><rp>(</rp><rt>すみやか</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>道</rb><rp>(</rp><rt>い</rt><rp>)</rp></ruby>え、<ruby><rb>速</rb><rp>(</rp><rt>すみやか</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>道</rb><rp>(</rp><rt>い</rt><rp>)</rp></ruby>え</blockquote>ということ。

    何かを識り、それを言葉に変え、さらにはその「形」を消してしまう。
    これは、すごい考え方だと思うのです。
    森羅万象を吸収し、同時に、その全てを表現するということ。
    それが、「大悟」というものなのかな、とボンヤリと思いました。

    禅、というものは、日本語との出会いで「完成」されたのかもしれない。
    もちろん、「禅」には完成形という物は存在しない。
    それは手段でしかない。それも、扱う人によって形を変えるような。
    けれど、日本語という「ことば」の存在は、非常に大きいような気がします。
    それは、西洋哲学や東洋哲学とも違う、「日本哲学」のあるべき姿なのかもしれない。

    ちょっと、「禅」に興味が湧いてきました。
    知っているようでいて、実は知らないのが「禅」だと思います。
    <a href=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%A4%A7%E6%8B%99>鈴木大拙</a>や<a href=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E5%B9%BE%E5%A4%9A%E9%83%8E>西田幾多郎</a>の著書、そして、<a href=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%B3%95%E7%9C%BC%E8%94%B5>正法眼蔵</a>、だな。
    あとは、只管打坐、か。

    いや、本当にすごい本でした。すごかった。うん。

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