定本 日本近代文学の起源 (岩波現代文庫 学術 202)

著者 :
  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (380ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784006002022

作品紹介・あらすじ

明治二十年代文学における「近代」「文学」「作家」「自己」「表現」という近代文学の装置それ自体を再吟味した論考を全面改稿した決定版。文学が成立して思考の枠組みになる過程を精神史として描き、「起源」を考察しつつ「終焉」の地平までを視野に収めた古典的名著。

感想・レビュー・書評

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  • 勉強になった。近・現代の作品は幾何学的遠近法に基づいている。リアリティも重視される。いずれまた読み返す。

  • 文学的に相当訓練を積まないと、本書を了解していくことは困難だ。しかし、その大意を掴むことができれば、本書が扱う問題に関して、現代にも通じている事情が分かるはずである。キーワードの一つが風景の発見であるが、それは今まで人々が見てこなかった風景を発見するということである。ただ、そうした新たな風景を発見するには、同じく新たな方法を会得する必要がある。明治期は、ヨーロッパ文学の新しい潮流に触れたことで、日本文学の新しい動きが起こり、日本人は風景を発見したと本書は論じる。結びに、そんな近代文学も活力を失ってしまったという。近代文学の革新性は俳諧文学の再構成からも来ており、正岡子規の写生文にせよ、夏目漱石にせよ、俳諧のカーニバル気分を受け継ぐものであるという。つまり、江戸時代に多数人が集まり、句に句を付け足していく連歌を楽しみ、人々に開いて祭りのようだった、その気分がカーニバル気分である。翻って、私が行う、和歌の再構成や日記文学の再興、批評の立ち上げなど、それがカーニバルになるか、私も分からない。とはいえ、本書の視点は重要であった。

  • これはとんでもなく素晴らしい構成の本ですね。最初にどどーーーんと「風景の発見」から「内面の発見」をブチ上げて、元来あった日本の文芸批評の読みを批判し、そこから告白・病・児童などの各論で、最初にブチ上げたことを精査しながら補足し、説の正しさを裏付けていく。あまりにクリアだな〜としみじみとした。そして、児童の発見の章がとても面白かった。ここに述べられている成熟について私は考えたいのだなあ。

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784006002022

  • [ 内容 ]
    明治二十年代文学における「近代」「文学」「作家」「自己」「表現」という近代文学の装置それ自体を再吟味した論考を全面改稿した決定版。
    文学が成立して思考の枠組みになる過程を精神史として描き、「起源」を考察しつつ「終焉」の地平までを視野に収めた古典的名著。

    [ 目次 ]
    第1章 風景の発見
    第2章 内面の発見
    第3章 告白という制度
    第4章 病という意味
    第5章 児童の発見
    第6章 構成力について―二つの論争
    第7章 ジャンルの消滅

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • なんとなく20年くらいぶりじゃねえの。という感じで再読。

    近代文学史を相対化するねらいがあったのに、近代文学史として読まれてしまった不幸がこの本にはあったと言われているけど、改めて読み返すと、近代文学に関する記述はかなり手薄で、ディコンストラクション以降の「現代思想」の概説的な記述にかなり割かれているという印象を持った。その意味では、時代の産物ではある。

    「遠近法」というキータームは、柄谷先生の影響で人文系でかなり流行ったわけですが、これってかなりロジックをすっ飛ばした比喩なんじゃねえかな、という気もした。

    とはいえ、ここ3、40年の人文科学の流れの中で、この本の果たした役割の大きさは間違いないでしょう。

  • 言うまでもなく、現代の古典的名著。本書は日本近代文学の起源、を述べているのだけれども、何よりも「物事を根本的に考えるとはどういうことなのか」を学ぶことができるのが最大の長所だとおもいます。思考の結果は、学問という分野の性質上いつか乗り越えられるものかもしれない。間違っているところも見つかるかもしれない。しかしそんなことは決して本書の価値を下げないだろう、とおもいます。そしてそれこそ古典の名に値する証だと。考えるとはなにか。日本が生んだ最高の思想家のひとりが実践を通して教えてくれる。

  • メモ)途中
    第4章 病という意味
    144 徳富蘆花『不如帰』 ヒロイン 結核で死んでいく浪子
    147 実際に社会に蔓延する結核の悲惨さから離れ、ここでは結核はそれを転倒させる「意味」としてある
     病がこのような価値転倒をはらむ「意味」として存在したことは日本にはなかった それはユダヤ・キリスト教的な文脈においてのみある
    ・モード、飾りとしての結核 『不如帰』がまきちらしたもの
     cf.結核を病んだ堀辰雄 軽井沢のモード化
     結核は「文学」によって神話化された
     結核という服装を通して主張されたのは、「自我に対する新しい態度」(ソンタグ)
     ロマン派的な結核のイメージ-西洋的転倒の凝縮
    ・『不如帰』にあらわれた結核の意味付けの倒錯性
       ↑
       ↓
     正岡子規『病牀六尺』(“意味”としての結核とは無縁)

    ・明治20年代における知の制度の確立が隠蔽するものは相互に連関しあっている
     例えば、結核の文学的美化は、結核に関する知(科学)に反するものであるどころか、まさにそれとともに生じた
     不如帰の中では結核が結核菌による伝染病であることが既に前提されている
    ・科学史においてある説を真理たらしめるのはプロパガンダ(ファイヤアーベント「反方法」)
    ・病原菌:病気の特異的原因論 ←→ 患者の環境全体を重視した古代医学
     病原菌の発見によってさまざまな伝染病が治療されるようになったかのような幻想 →しかし、西洋の中性・近世の伝染病は、「病原体」の発見時には事実上消滅していた(都市改造の結果)
    p153
     結核菌は結核の「原因」ではない (ほとんどすべての人間が結核菌その他の感染を受ける)
     16cから19cにかけて結核が蔓延したことは結核菌の「せい」ではないのだし、それが減少したのは必ずしも医学の発達のおかげではない
    ・ひとつの原因を確定しようとする思想こそが神学的・形而上学的
     「人間と微生物の闘争」というイメージは神学的なもの
     そこでは細菌は眼に見えないが偏在している「悪」
     明治20年代に結核についての学説が普及したとき、それがはらむ神学的なイデオロギーもまた普及した
     不如帰にはこの学説のイデオロギー的側面が浸透している(あたかも原罪のような結核)
     この小説は巧妙なプロパガンダであって、強い感染力をもっていた
    p156
    ・病気そのものと隠喩としての病は区別できない
     病気はそれが分類され区別される限りで客観的に存在する
     病気は諸個人にあらわれるのとは別に、ある分類表・記号論的な体型によって存在する
     それは個々の病人の意識を離れた社会的な制度である
    ・個々人の病識から自立し、また医者-患者の関係からも自立し、さらに意味付けからも自立するような「客観的」な病気は、近代医学の知の体系によってつくりだされたもの
    ・問題は病気がメタフォアとして用いられることではなく、逆に病気を純粋に病気として対象化する近代医学の知的制度にある
     科学的な医学は病気にまつわるもろもろの「意味」をとりのぞいたが、それ自体もっと性の悪い「意味」に支配されている(神学的病気観)
    157-158
    ・「病と戦う」とは病気があたかも作用する主体としてみなすことであり、科学もそのような「言語の誘惑」に引きずられている
     ニーチェにとって、そのように病原=主体を物象化してしまうことが病的

  • ◎風景について。風景化することについて。

  • 文体というものにさほど注目してこなかった自分にとって、たとえば言文一致のような仕組みが私たちの文化に影響を与えてきたという指摘には軽い衝撃を受けた。「言葉の書き方など本質には関係ない」というようなナイーヴな主張はもともともっていなかったし、むしろ文体が内容を決定づけるところがあるという程度のことは思っていたが、それでも、である。

    著者があとがきで示しているように、この本は決して文学史の本ではない。文学という素材を使いながら、その時代の思想の特異性を明らかにしようとしているのが本書である。ここで文学が用いられているのは、文章の変化がもっとも速く、バラエティに富むという性質に由来しているに過ぎないのだろう。

    また、あとがきを読んで、僕もあずまんよろしく「批評家」になってみたいなと喚起させられるところがあった。今はこの本が書かれた当初に比べ、ポストモダン的思想もだいぶ落ち着いて(というか浸透して)いるだろうけれども、それでもこの本の持つ魅力はまだまだ衰えてはいないように思う。

    それにしても翻訳が英語、ドイツ語、中国語、韓国語であるのはすごいな。こういう本を書けるようになりたひ。

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著者プロフィール

1941年兵庫県生まれ。東京大学経済学部卒業。同大学大学院英文学修士課程修了。法政大学教授、近畿大学教授、コロンビア大学客員教授を歴任。1991年から2002年まで季刊誌『批評空間』を編集。著書に『ニュー・アソシエーショニスト宣言』(作品社 2021)、『世界史の構造』(岩波現代文庫 2015)、『トランスクリティーク』(岩波現代文庫 2010)他多数。

「2022年 『談 no.123』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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