私はどうして私なのか―分析哲学による自我論入門 (岩波現代文庫)

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レビュー : 7
  • Amazon.co.jp ・本 (248ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784006002084

作品紹介・あらすじ

自分がいる、というのはいったいどういうことなのか?気鋭の哲学者・倫理学者である著者は、自己意識の生まれる過程、「私」という言葉の使われ方などから、分析哲学の手法によって丁寧にこの問題を解いていく。「私」とは、他から独立したピュアな存在ではなく、他者の呼びかけに答えられる「呼応可能性(=責任)」の主体としての存在なのだ!「あなた」がいて「私」がいる意味を鮮やかに検証する。

感想・レビュー・書評

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  • 分析哲学の本は、読んでいるうちに何でこんな議論をしているのかわからなくなることが多いので、自我論にテーマを絞ったものならそういうこともないだろうと思って読んでみた。それでも途中、集中力を失い同じ議論を繰り返しているようにしか見えないところもあったが、前半の「指示対象」と「意義(センス)」後半の「私」と「内なる自分」の議論はおもしろくて、何とか最後まで読めた。もう何冊か分析哲学の入門書とかを読んだ上でもう一度読むといいかなと思った。

  • 2016.12.23
    「私がいる」という自己意識は、生まれた当初から持っているものではない。それは、他者の意識を内面化する、つまり他者から見た世界には一個人としての私が存在している、という意識、他者の視点という意識、「あなたのあなた」としての私である。そのような私を意識できる段階は、鏡に映る自分を「私」と認識できる時であり、また重なって、言葉が発達するタイミングとも同じである。
    人間の言語は、動物のように、ただ記号と指示対象が一致しているだけではない。まずそれは文法という法則に則っており、それはあるルールに基づいてパーツをつなげれば意味が通るというものである。これにより人間は、パーツを様々に変えることで(例えば主語を、述語をかえる)不在についても考えることができる(過去や未来)。しかし何よりの特質は、今ここにないものを考えることよりも、この世界において経験できないものを考えること、つまり「非在の現前」としての言語の特質である。経験できないとは、経験を構成する対象と私のうち、どちらかがないことであり、特に私があり得ないという意味での非在の極地は、「他人の経験」と「死」である。
    さらに言語には、記号と、指示対象だけでなく、フレーゲによるとその一致の仕方の違い、つまり与えられ方の違いもある。これを彼は「意義(センス)」といった。例えば「夏目漱石」と、「『坊ちゃん』の著者」では、対象は同じだが意義が異なる。だとすれば「私」という言葉の意義はなんだろうか。
    私とは、私という現れの原点としての私、つまり「見る私」と、「見られる私」とがある。この二つがある故に、私という内なる自己は、何もこの太郎(仮)という個体に内在する必要はなく、「私」という意識とこの太郎は別々でありうる、という風に考えることができる。しかしこれは、私という言葉と、太郎という言葉の意義(与えられ方)の違いを、指示対象の違いにすり替えただけに過ぎない。
    「私」という意識は、他者の意識の跳ね返りとして、「あなたのあなた」として存在し、加えてそれは常に現在という時間を離れ過去になるという「脱ー現在」という時間的構造をもち、そして自分を問う時とは他者のとの内での行動における理由を問う時、「選択の根拠」を自らに問い、他者に説明するためである。私という存在の根拠を自らにのみ置くことで、私の私有化が進むと、私は保つことができない。私とはその成立根拠からして、互いに呼びかければ応えるという「呼応可能性=責任の間柄」を基盤にしている。

    以上、大まかにまとめた。特にフレーゲの意義の議論が、ついていくことができなかったのと、私は「あなたのあなたである」ということをもっと砕いて知ることができればと思った。経験することができない「他人の経験」を可能にするのは「非在の現前」としての言語の成せるものだとするならば、「私」の成立は、そのような言語の特質と他者の存在、そして呼応可能性としての間柄が前提条件になる。ここあたりの事情をもう少し、知りたい。いかにして私は他者の視点を獲得していくのか。
    元々は、私は他者といかに関わっていけるか、いかに関わるべきか、私とあなたという異質な存在同士がより良い関係を作っていくことの意義と方法とは、ということを考えたくて読んだ。この本から汲み取れる結論は、私あってのあなたではなく、あなたがあることで私が生まれたということではないだろうか。呼べば応えるという責任関係から生まれる、あなたのあなたとしての私、この考え方は、なかなか面白かった。実存における関わりの意義の根拠になるのではないだろうか。

  • 分析哲学と倫理学の架け橋をする本。もう「私」から逃れられない。

  • 図書館1階の学士力支援図書コーナーでは、大学の建学の精神に基づいた図書を3つのテーマに分けて配架しています。
    ・アイデンティティを求めて
    ・いかに生きるか
    ・視野を広げる、世界を知る力

    この本は→「いかに生きるか」

    配架場所はこちら→http://libopac.josai.ac.jp/opac/opac_details.cgi?lang=0&amode=11&place=&bibid=2000043070&key=B129965680413020&start=1&srmode=0

  • かつてデカルトは、自己意識を考察するにあたって他者の視点を考慮する必要はないと考えた。こうした発想を著者は批判する。

    幼児が鏡像を前にしてそれが自己の姿だと認識するとき、いったい何が起こっているのだろうか。そこでは、自分には直接見ることのできない自分の姿が他者によって見られうるということが理解されているはずだ。そうだとすると、自己意識は、他者によって意識されるということと切り離せないことになる。また、幼児が自分を指す名前があるということを理解し、それを用いて自分の状態・意図を語るとき、彼は自分の発言によって一定のコミットメントを負うことになる。つまり、「自分がいる」ということは、「人の間にいる」ということを含意しているのである。

    こうした議論を踏まえた上で、著者は指標語「私」の分析を開始する。「私」という語を用いる人は、だれもが「私」を中心にしたパースペクティヴを持っており、私にとっての「ここ」が相手にとっての「そこ」であることを理解できなければならない。そして、このことが「私はいま、ここにいる」という命題の理解の内実なのであって、そこでは一人称的な特別な事実などは存在していないと考えられることになる。それでも依然として、さまざまな客観的な事実に加えて、「私が大庭健である」という偶然的な事実が存在するように思われることは否定できないが、著者によれば、大庭健という人物とは独立に「内なる自己」が存在するというのは、語の意義と指示対象の取り違えにすぎない。

    最後に著者は、「私は……と思っている」というときに何が生じているのかと問いかける。ここには、自分の思考についての思考、メタ・レヴェルの思考が生じており、それぞれ異なった主体による思考が考えられているように思える。だが、「いったい私は……のことをどう思っているのだろう?」と自問するときなど、私が自己の心理状態に注意を向けるときに生じているのは、「どう考えるべきか、どういう態度をとるべきか?」という実践的な配慮である。それは、私が自己の行為について責任を持つ存在であり、「人の間」で一定のコミットメントを負っているということを意味しているのであり、自己の行為について思考するメタ・レヴェルの自己が独立して存在するということにはならないのである。

    「私」についての分析哲学的な観点からの議論が展開されているが、テクニカル・タームはほとんど使用されず、また著者の饒舌も本書ではかなり抑えられていることもあって、比較的読みやすいと思う。

  • 私がいる、私は他人にどう観られているのか。
    自分では見えないけれども、自分は見えるものとしてある。存在する。

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プロフィール

大庭 健(おおば たけし)
専修大学教授. 著書に『善と悪――倫理学への招待』(岩波新書, 2006年), 『民を殺す国・日本――足尾鉱毒事件からフクシマヘ』(筑摩書房, 2015年)ほか多数. 訳書にアマルティア・セン『合理的な愚か者』[共訳](勁草書房, 1989年)ほか.

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