日本国憲法の誕生 (岩波現代文庫)

著者 : 古関彰一
  • 岩波書店 (2009年4月16日発売)
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  • Amazon.co.jp ・本 (448ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784006002152

作品紹介

現憲法の制定過程で何が起きたか。第九条制定の背景にいかなる事情が存在していたか。本書はGHQ側、日本側の動向を徹底的に解明し、従来盲点だった論点を新たに分析した新稿を収録して、決定版として刊行される。現憲法に対する賛否の如何を問わず、知的誠実さをもって憲法に向き合おうという読者の必読書である。

日本国憲法の誕生 (岩波現代文庫)の感想・レビュー・書評

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  •  「憲法はどのようにして生まれるか」と問われたとき、一般的にはこう答えることができるだろう。「複雑なプロセスを経て生まれました」と。一般論として、それは間違いない。だとしたら、どう複雑なのか。本書は、日本国憲法誕生から施行に至る"複雑な"プロセスを丁寧に解き明かす。

     巷間では、「押しつけ憲法」、「密室で、わずか9日間で作られた」、「素人がつくった」という理由で日本国憲法を否定する言説が少なくない。しかし本書は、そのような乱暴な言説を(結果的に)排除する。本書では、日本国憲法をめぐる日本政府とGHQのやりとり、日本国内のさまざまな意見、あるいはアメリカ政府とGHQの関係、さらにはGHQと極東委員会との角逐など様々な人間・勢力が出てくる。それらを読んでいると、「押しつけ憲法」論がいかに単純で、いい加減な議論かということがわかるだろう。

    印象的なのは、芦田修正について、当初は芦田自身が「国際紛争以外の場合は戦力を保持できる」という意図を持っていなかったという箇所である。これは金森徳次郎ら少数の官僚が挿入したのだという。

     憲法改正の論議が政治的課題となって久しい。そのような時だからこそ、日本国憲法がいかに誕生し、それをめぐっていかなる“闘争”があったかということを、ということを国民は歴史学の知見に基づいて知るべきだろう、と思う。

  • 北川先生 推薦の人の本です

  • 加納実紀代の『ヒロシマとフクシマのあいだ』→マーク・ゲインの『ニッポン日記』と読んだアタマで、辛淑玉さんの『悪あがきのすすめ』のなかに憲法学者の古関彰一さんがなんとかいうのを、見つけ、その古関さんの『日本国憲法の誕生』を借りてきた。

    昭和が終わる頃に書き上げられ、平成の初め、1989年の5月にこの本の旧版『新憲法の誕生』は出ている。

    占領下日本で、いまの憲法はどうやってできてきたのか、平成になって新たに公開された昭和の資料も多く、新版のこの本にはへえぇと思うことがいろいろとあって、最近読んだなかでは一番か二番くらいにおもしろかった。マーク・ゲインの本に出てきた登場人物もあらためてよく分かった。

    ▼日本国憲法は、GHQ案を十分な論議もなく受け入れた条項、明治憲法型になんとか近づけようと官僚を中心に「日本化」した条項、具体的権利関係が生じないように宣言的もしくは曖昧な表現を用いた条項、戦前の体験にもとづいて新たな人権規定を盛り込んだ条項などを含んだモザイク模様であったはずである。しかもその行間には、削り取られ、消えていった条文もあった。ところが改憲と護憲の谷間を歩んだ憲法からは、このモザイク模様はすっかり消えてしまった。護憲は憲法を総体として護ることに他ならなかった。これはまさに「戦後民主主義」そのものであった。戦後は占領されたことによって、何を与えられ、何を自ら生み出し、あるいは失ってきたのか、その峻別作業を抜きにして語ることはできない。

     日本国憲法を生み出した力、それは決して国家対国家の、勝者対敗者の政治力学からだけではなかった。制定過程への関与の、その大小はあったにせよ、本質的にはその個々人の憲法観、人権思想に他ならなかった。日本国憲法には国家を超え、民族を超えた人々の、憲法観、人権思想が反映されている。それはまさに「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」(日本国憲法第97条)であったといえよう。(pp.380-381)

    こうしたモザイク模様がつくられていった様子を、新たに公開された資料もあたりながら、著者は書いていく。とくに私がおもしろいと思ったのは「予算単年度方式」のことと、高野岩三郎のこと。

    憲法研究会案の第二案に対して、大内兵衛から財政、会計の項についての意見が寄せられ、その提案をほぼとりいれて第三案(最終案)が作成されたというところ。
    ▼「会計及財政」は大内の提案により予算単年度方式と会計検査院の設置が盛り込まれた。予算単年度方式は長い間、多年度にまたがる戦費で苦しんできた経験を反映していた。(p.51)

    予算単年度方式は、年度の端境期に空白ができやすく、それから配分された予算を年度末には「使い切らないとイカン!」みたいになる例(余ったものは返せばいいだろうに、それをやると「来年度の予算を減らされる」という謎の理屈があるらしい)を役所方面で少なからず見たことがあって、私はあまりよろしくないモノのように思っていた。

    そういう使い方になってしまっているのはよろしいとは言えないのだろうけれど、単年度主義の成立の裏に、そんなことがあったとは!!という感じ。

    高野岩三郎の名は、むかしむかし社会調査についてベンキョウした頃に知っていた。有名なのは都市社会調査の先駆といわれる月島調査だ。その高野は「日本共和国憲法私案要綱」を1945年の11~12月にかけて書き、年が明けてから雑誌『新生』2月号(※)誌上で「改正憲法私案要綱」として公表している。

    憲法研究会の一員として研究会の草案要綱に署名もした高野は、私案の公表に際して「何故に私案を発表することになったのか」というかなり長い理由」を付しているという。そのなかでは、高野一家の経歴や、高野自身の思想体験が語られているそうで、ことに、兄が労働組合運動に身を投じたことが「自然発生的」であるのと同様、「私の民主主義感は自然発生的である」(p.57)と述べている箇所や、明治4年(つまりは、1871年)うまれの高野が「私の青少年時代には我国には仏蘭西流の自由民権論旺盛を極め、国会開設要望の声は天下を風靡した」(p.57)と書いている箇所を著者は引く。

    ▼つまり、いまだ天皇制が確立していない時代に育った高野からみれば、民主主義は当然のことであり、明治末期から敗戦にいたる天皇制こそ異常なものであったのである。だからこそいつまでも【天皇制に囚われている民衆】が不思議でならなかったのである。(p.57、【】は本文では傍点)

    憲法研究会案は国民合意を得るには現実的かもしれないが、高野は「戦後」を自由民権運動の延長線上に構想していて、その点で「せいぜい大正デモクラシー時代しか知らず、自由民権運動を知らない」(p.58)森戸辰男や大内兵衛、鈴木とは違っていた、と著者は書いている。

    明治憲法の公布が1889年(明治22年)、施行は1890年(明治23年)で、そこまでは憲法はなく、天皇の規定もなく、その時代に育った人にとって、憲法も天皇制も「まったくないもの」だったことに気づかされた。

    「押しつけ憲法論」が語りつがれてきたことを糺さねばと著者が書いているところも、その押しつけ論でもって改憲だとか自主憲法制定といきまいているじじいが少なからずいるだけに興味をもった。憲法改正の機会はあったのに、その機会を自ら逃した吉田茂の答弁が引かれている。

    憲法施行の1年後2年以内の期間に、新憲法が「日本国民の自由な意思の表明であるかどうかを決定するため」、国民世論を確かめる国民投票ないしその他の適当な措置を講ずるようにというFEC(極東委員会、Far Eastern Commission)の決定はあったが、芦田均内閣は昭和電工事件(贈収賄汚職事件)が発覚して8ヵ月で倒れた。代わって登場したのは再び吉田茂で、1948年の10月。だが、吉田が憲法改正問題には全くふれず、FEC決定の「施行後2年以内」が間近に迫った1949年4月末の衆議院外務委員会での答弁で、このように述べているという。

    ▼「極東委員会の決議は直接には私は存じません。承知しておりませんが、政府においては、憲法改正の意思は目下のところ持っておりません。それから芦田内閣において憲法改正の議があったとすれば、これも私は伺っておりません」。(p.373、これは第五国会衆議院外務委員会議事録、第七号(1949年4月20日))

    著者はこの経緯を述べたうえで、こう書いている。
    ▼それにしても「押しつけ憲法」論が、なぜこれほどまでに戦後半世紀以上にもわたって生き延びてしまったのであろうか。憲法改正の機会はあったのである。与えられていたのである。その機会を自ら逃しておきながら、「押しつけ憲法」論が語りつがれ、主張されつづけてきたのである。とにかく最近の憲法「改正」史や現代史の研究書をみても、この点に全く触れていないのであるから無理からぬ事情があったにせよ、これは糺しておかなければならない。(p.75)

    「日本国民」と「外国人」の差別につながる条文の問題も書かれている。憲法第10条で「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」と定めた際の法律とは、数年後に制定された「国籍法」(昭和25年)で、この法によって「日本国民」とは「日本国籍所有者」を意味することになった。

    ▼たとえば11条の「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」との規定は、日本国籍を有しない外国人は基本的人権の享有を妨げられるとも読み替え可能となる。そんなおかしなことはあるまいと一般的には思われるかも知れないが、国民年金法が被保険者資格を「日本国内に住所を有する二十歳以上六十歳未満の日本国民」(同法第7条)と定めていたため、日本に1910年以降在住し、11年にわたって保険料を納付したにもかかわらず、「日本国民」でなかった在日韓国人が年金の給付を受けられなかった例があるほど、この「国民」規定は重大な意味を持っている。(pp.277-278)

    こんな反人権的な規定をGHQが認めるはずがなないのだが、政府がGHQに出した訳文において、他の条項では「Japanese peope」としていたのに、この第10条に限っては「Japanese national」(日本国籍所有者)という英訳にして、日本語にすれば全く同じ「日本国民」の言葉となるものを周到に使い分けていたというのである。

    他の条項においても、たとえば外国人の人権規定について、「凡テノ自然人ハ其ノ日本国民タルト否トヲ問ハズ法律ノ下ニ平等ニシテ、人種、信条、性別、社会上ノ身分若ハ門閥又ハ国籍に依リ…差別セラレルコトナシ」とあったところから、官僚(法制局第一部長)は「日本国民タルト否トヲ問ハズ」と「国籍」の二箇所を削除することに成功したというのである。

    戦争放棄の条項は他の憲法に類をみないと言われるが、それほど唐突なものではなく、「戦争の放棄」という概念が法律上初めて登場したのは第一次大戦後の不戦条約(1928年)であるし、世界の拳法の中でこの規定が最初に登場したのはフィリピンの1935年憲法だという。そして、当の日本国憲法の「戦争の放棄」も、「案としては日本側の民間草案の中に不十分な規定ではあれ、存在していたのである」(p.79)ということも。

    そうこうして憲法が発布され、半年後の1947年5月3日におこなわれた憲法施行の式典には、昭和天皇、皇后の出席はなく、「君が代」も歌われていないそうだ。歌われたのは新憲法施行記念国民歌「われらの日本」であって、著者によると「すっかり忘れられてしまっているが、日本国憲法の誕生とともに短い時間ではあるが、「君が代」は幕を閉じたのである」(p.335)という。その「われらの日本」の歌詞はこんなだ。

    ▼平和のひかり 天に満ち
     正義のちから 地にわくや
     われら自由の 民として
     新たなる日を 望みつつ 
     世界の前に 今ぞ起つ
    (p.335)

    著者は序において、旧版が出て以降、つまりは昭和が終わり、平成になってから公刊された昭和天皇関連の日記等のなかでも、『側近日誌』(木下道雄侍従次長、1990年)で知りえた事実は衝撃だった、と書く。

    ▼[マッカーサーが残そうとした]「天皇制」の内実は、戦争責任が問われるものであり、その責任を回避する手段が「戦争の放棄」であったことには、戦後なんお根拠も示さずに「憲法一条と九条はバーターだ」などという言動はあっても、学問的検証がなされてこなかっただけに、あらためて象徴天皇制と戦争の放棄という一対をなす現実の重さを教えられたのである。(p.2)

    旧版の頃から、日本国憲法は象徴天皇制となんらかの関連を以て制定されたことを「漠然と」感じていた著者は、『側近日誌』を読み進んでいたときに、思い当たることがあって「勅語」(1946年3月6日の新聞に、憲法の草案要綱、首相謹話とともに掲載された「勅語」)を読みなおして、自分自身が「見れども見えず」の認識を持ち続けてきたことを思い知った、というl。「漠然と」感じていたことは、単に資料がなかっただけではなくて、そこにあった資料を見る目が自分になかったのだと。

    象徴天皇制と九条の「バーター」には、沖縄の基地化が前提としてあることも書かれている。

    ▼マッカーサーから見れば、日本本土の非武装化、憲法九条の実現は、沖縄の基地化なくして不可能であったのだ。米国政府の対日政策の中には、「戦争放棄」に類する政策はまったくなかったことは先に述べた通りであるが、「戦争放棄」を「憲法改正三原則」に盛り込んだマッカーサーは、天皇制の存置と同時に沖縄を犠牲にして、象徴天皇制と戦争の放棄とを同時に可能にする憲法を考えたのであった。
     と同時に、マッカーサーは日本の再軍備が「極東諸国と不和」をもたらすこと、「これらの諸国のすべては依然として再び軍事化された日本をきわめて恐れている」ことを日本の再軍備に反対する理由に挙げているのである。(p.317)

    憲法のことは小中高の社会科でも習うし、私が通った大学では「日本国憲法」という授業は必修だった。ただ、その内容は憲法の条文解説的なものが多く(それも大事なことだけど)、なりたちという点でいえば「マッカーサー三原則」くらいしか記憶がない。

    憲法制定過程に民間からも多数の案が出されたことなど、日本国憲法がモザイク模様でなりたってきたことを、どこかで知る機会があればと思う。制定過程の議論のなかで「権利とはそれを否定され、あるいは差別をされ続けてきたものが、はじめに発見するものであること」をあざやかに証明する例のひとつとして、著者は義務教育についての条文で当初案の「児童」が「子女」となったことをあげている。

    これは、青年学校の教員が政府案発表の後に敏感に反応して「猛運動」をはじめた成果で、ここが「子女」となったからこそ、義務教育は中学校まで延長された。そんな権利獲得の場面を私はよくよく知りたい。

    この本の末尾にはたくさんの注がついて、古いものから新しいものまで文献もいろいろあげられていたから、もう少し関連する本を読んでみたい。この本も、もう一度じっくり読みたい。

    (7/27了)

    *脱字
    p.251 「れわれの業務に払われた教授の関心」という表現はあまりにも漠然としている。
     → 「【わ】れわれの業務に払われた教授の関心」という表現はあまりにも漠然としている。

    ここの前に、脱字の引用箇所にあたる、芦田均によるコールグローブ歓迎の辞がある。
    「私は、本委員会の委員に代わり、われわれの業務(business)に払われた教授の関心にたいし、深甚なる感謝の意を表します。(以下略)」(p.250)

    ※高野岩三郎「囚はれたる民衆」『新生』2巻2号(1946年2月)
     →高野岩三郎の本か何かで読めないかと探してみたら、『大正デモクラシー 草の根と天皇制のはざま』に収録されているらしい(これは図書館にあり)

  • とっても面白かった。憲法改正論議をするなら、こういう、しっかりした文献に根ざした本で制定過程を学んでからにするべきではとさえ思いました。どういう事実経緯をもって「押し付け」と呼んでるかなど。
    商法学者だった松本烝治氏が憲法改正担当になった経緯も。松本氏の自信家のほどとか印象的で、八月革命説を唱えたときの宮沢氏の当時の立ち位置などもきょうみ深かったです。いろんな人のドラマがあって面白いんだなー。

  • 古関彰一『日本国憲法の誕生』(岩波現代文庫、2009年4月)税別1,300円

    獨協大学法学部教授(憲法史)の古関彰一(1943-)による日本国憲法の制定過程論。

    【構成】

    01 さまざまな模索
    02 民権思想の復権
    03 国体護持の法学者たち――憲法問題調査委員会の人々
    04 GHQの手で憲法を
    05 GHQ案の起草
    06 第二の「敗戦」
    07 日本化への苦闘
    08 米国政府対マッカーサー
    09 帝国議会での修正
    10 九条「芦田修正」の深層
    11 憲法の普及者たち
    12 逆コースの始まり
    13 忘れられた「その後」

    戦後史最大のエポックの一つである日本国憲法制定、その内容と過程が戦後政治の争点となり続けてきた。しかし、その実態を正確に把握している人は少ない。改憲派の人間はこの憲法が「押しつけ」であると主張しその正統性に対する疑義を唱える、護憲派はその理念と民主的な制定過程に注目して戦後民主主義の象徴とみなす。

    本書は、そのような左右入り乱れた憲法論争を展開するにあたり、最も明快で重要な研究である。

    佐々木、松本委員会と当時の日本法学界の最高峰の法学者を集めた改憲案はGHQ民政局にことごとく保守的と退けられて、マッカーサーの逆鱗触れる。結果、マッカーサーおよび民政局の方針は、日本の有識者の結論を否定した憲法内容の全面改定という内実と、ハーグ陸戦協定と極東委員会を意識した帝国憲法との形式上の継承を意識したGHQ草案が生まれる。

    GHQ草案は結局のところ高野岩三郎を中心とした左派の憲法研究会の改憲案を参考にしながら、わずか2週間で作成された。筆者は、松本蒸治に仮託してGHQに対する日本政府の保守性を強調する。しかしながら、後の国民の休日についてのアンケートでも明らかになるように、国民は天皇を象徴化することは望んでも、近代日本政府が紡いできた天皇制を中心とした文化継続について否定はしなかった。

    一方で、GHQはアメリカ国務省、ソ連・中国国民党も含む極東委員会からの憲法の民主的制定プレッシャーから常に議論をそらし続けた。マッカーサーの詭弁・強弁である・

    日本国憲法は、日本憲法学のアカデミズムの権威を全否定し、1946年1月の公職追放令で保守派の議員をことごとく追放し、1946年4月の戦後初の衆議院選挙を経て自由主義者・鳩山一郎率いる自由党が第一党をとった後で成立した。ただし、その鳩山一郎は公職追放にあう。
    第一次吉田茂内閣は所詮巡り合わせの中での首班指名に過ぎない。
    そして、その吉田茂は、国際情勢上飲まざるを得ないと知っていたし、天皇制を守るために戦争抛棄を定めた9条を丸呑みにする。

    著者がどのような解釈・主張を繰り広げようと、日本国憲法が一般的な「民定憲法」とは一線を画するということは、本書が提示する制定過程を眺めれば明らかである。

    護憲派・改憲派ともに(主張を受け入れるかどうかはともかく)一度は読んで、じっくり考えるチャンスを与えてくれる名著である。
    そして、そのねじれを理性的に受け入れることこそが、戦後が戦後でなくなる一つのステップになると考える。

  • 学校で学ぶ敗戦から憲法誕生の流れは
    1945年8月15日敗戦→1946年11月3日日本国憲法公布(明治帝誕生日)→1947年5月3日日本国憲法施行というふうに、機械的に憶える(決してこれに限った話ではないのだが)。
    しかし、1889年に施行された明治憲法がその日まで有効であったことを知る人は少ないのではないだろうか。
    また、憲法の講義で必ず出てくる「八月革命説」という概念も、「ポツダム宣言を受諾することによって主権が国民に移り、明治憲法の改正規定に則って日本国憲法が制定された。」とする議論である。しかしながら話はそう簡単ではない。これはあくまでも法的断断絶性をもたせないがための概念であるし、マッカーサーも日本国憲法の正統性を持たせるために法的断絶性を嫌ったのである。
    しかも、国民が主権にあるかどうかと言う事実も議会で喧々諤々の議論がなされた。敗戦で日本の官僚や議員が民主的見識を持ち得なかったというのは、考えてみれば当たり前である。
    「押し付け憲法論」も、大雑把な議論である。もちろん法的正統性は、日本国憲法(改正憲法)の審議の時に民選議会であったと言うことからも言える。それ以外にも、マッカーサーは最初から「我々の考えた憲法草案をそのまま押し付けるのは、民心の離反につながる。」と危惧していた。最初は憲法改正について示唆をしたに留まった。
    しかし最終的に日本の法務官僚や学者の明治憲法との代わり映えのしなさにしびれを切らしたマッカーサーが、「GHQ案」として憲法案を提出する。それを法務官僚や学者、議員が日本流に解釈し直したのが今の日本国憲法である。勿論日本流に直す際はGHQ案の精神が削がれないようにGHQ側も監視していたようである。
    一概に押し付けられたのではない。そこにはドラマがあり、日本の学者・官僚・議員とGHQの間での闘争があったのである。今もなお議論され続けている日本の憲法解釈の原点も、このころから議論されていた。

    高校の政経でもそれなりに時間を割いて、この事実を教えるべきではなかろうか。そうすれば憲法の本質を知らずに議論をすると言う事態も避けられると確信する。

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