トランスクリティーク――カントとマルクス (岩波現代文庫) (岩波現代文庫 学術 233)
- 岩波書店 (2010年1月16日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (528ページ)
- / ISBN・EAN: 9784006002336
作品紹介・あらすじ
カントからマルクスを読み、マルクスからカントを読む。移動と視差による批評(トランスクリティーク)によって、社会主義の倫理的=経済的基礎を解明し、資本=ネーション=ステートを超えた社会への実践を構想する。英語版に基づいて改訂した著者の主著の決定版。
感想・レビュー・書評
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カントとマルクスの思想的基盤に独立小規模事業者の協同組合(アソシエーション)を見出し、資本主義を超えた世界としてアソシエーション論を提言する。これは自由のない旧ソ連的な計画経済も、格差と貧困を拡大する資本主義も否定する私達に新たな可能性を提示する。
本書は第一部でカント、第二部でマルクスを論じている。本書はカントの道徳律の基礎に自由を見出す。「道徳法則は、自由であれということ、同時に、他者をも自由として扱えということにつきる」。これはオーソドックスなカント理解ではないかと考える。ところが、本書によると世のカント理解は「共同体や国家の課す義務に従うことと混同されてしまいがち」とする。そのような世のカント理解(誤解)があるならば、本書の指摘は重要である。
日本の左翼左派には新自由主義への嫌悪感が強いが、本来の新自由主義は国家権力の横暴を否定する思想であった。一方で所謂ネオリベラルには自由に対して他者を踏みにじる自由、他者を搾取する自由と勘違いする風潮がある。現実にブラック企業・ブラック士業、貧困ビジネス、半グレ・ヤンキーなどが社会問題になっている。市民運動の世界でも自己への攻撃はヘイトスピーチ、「安倍死ね」は表現の自由という勘違いがある。
そのようなものが自由であるならば、良識派が自由より規制強化という考えに至ることも理解できないものではない。一方で「自由より規制」の行き着く先がソ連のような社会であり、その失敗を目の当たりにしている立場としては「自由より規制」を無批判に賛美できない。故に自由に基礎を置くカントの道徳律という本書の主張に価値がある。
本書のマルクス論も教条的なマルクス主義とは一線を画している。国家集権的な社会ではなく、アナーキズム的な協同組合を志向していたとする。私的所有と個人的所有は区別される。私有財産の廃止を目指すが、それは国有化ではない。私的所有権は「それに対して租税を払うということを代償に、絶対主義的国家によって与えられたもの」と位置付けたとする。
この説明は国家が何故、企業寄りとなり、個々人を抑圧する側に回るかが理解できる。たとえば住環境を破壊するマンション建設も、固定資産税が納税されれば国家は保護する側に回る。貢納と保護という封建社会と変わらない構造である。さらに本書は消費者運動にも言及する。
「資本への対抗運動は、トランスナショナルな消費者=労働者の運動としてなされるほかはない。たとえば、環境問題やマイノリティ問題をふくめて、消費者の運動は「道徳的」である。だが、それが一定の成功を収めてきたのは、資本にとって不買運動が恐ろしいからだ。いいかえれば、道徳的な運動が成功するのは、たんに道徳性の力によってではなく、商品と貨幣という非対称的な関係そのものに裏づけられていることによってである。資本の運動に対抗するためには、労働運動と消費者運動との結合が模索されなければならない」
日本の生産者中心、労働運動中心の傾向に反省を迫るものである。たとえば三菱自動車不正などの企業不祥事が起きると、従業員や下請け企業の苦境を伝える報道が出てくるが、一番の被害者は消費者である。消費者から見れば従業員や下請け企業も加害者側の人間である。消費者に対して従業員や下請け企業の苦しみへの理解を求めることは産業の存続最優先で我慢しろというに等しい。
一方で消費者運動に対しても道徳性を基盤としながら、不買運動という力が効果を持つと主張する。東急リバブル東急不動産不買運動やFJネクスト不買運動を唱える立場として納得できる。
最後にマルクスの再評価について述べる。マルクス再評価の意義は認める。マルクスの思想はソ連型社会主義とは異なるという主張に肯定できる点は多い。戦後日本の所謂マルクス主義が本当のマルクスの主張と異なるという点ももっと知られてよい。
しかし、マルクスは良いことを言っているということと自分の思想のバックボーンをマルクス主義にすることには大きな差がある。もともとマルクス主義にどっぷりと漬かっていたが、ソ連崩壊で元気がなくなっていた世代にとっては、マルクス再評価はしっくりくるだろう。
これに対して、元々マルクスを評価しておらず、むしろ反面教師としていた世代にとってはマルクスも良いことを言っているというだけでは積極的にマルクスを選択する理由にはならない。良いことを言っている、学ぶことがあるという点では新自由主義思想にも大いにある。マルクスを特別視する理由はない。何故マルクスかという理由がもう一つ必要になるだろう。 -
100606朝日新聞書評
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クリティカルシンキングと一概に言っても、スタンスの型がいくつかあるのだと、思考を深めるきっかけになりそうな一冊でした。
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著者:柄谷行人(1941-、尼崎市、哲学)
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2016年度、H大学にいたときに受けた授業のテキストだった。先生は柄谷行人の弟子だったらしく、ゴシップ満載だった。もっとも哲学科の専門科目ではなく、私含めて学生は哲学の知識がなかったから、中身を読み進めるのではなく序文の最初の30ページくらいをいったりきたりしつつ哲学史を総ざらいしていた。通年で30回の講義で、シラバスは全部読み切る予定で書いてあったのだが… のちに一応なんとか通読して、『世界史の構造』も読んだのだが、さっぱりだった。しかし、哲学とか思想の世界にグワーッと惹き込まれた、講義とともに思い出深い1冊。
まあ、各々の議論が学問的にOKなのかどうかは全然わからないのだが、知識をつけつつ折に触れて見返したい。 -
図書館本 134.2-Ka63 (10012010799)
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[ 内容 ]
カントからマルクスを読み、マルクスからカントを読む。
移動と視差による批評(トランスクリティーク)によって、社会主義の倫理的=経済的基礎を解明し、資本=ネーション=ステートを超えた社会への実践を構想する。
英語版に基づいて改訂した著者の主著の決定版。
[ 目次 ]
イントロダクション―トランスクリティークとは何か
第1部 カント(カント的転回;綜合的判断の問題;Transcritique)
第2部 マルクス(移動と批判;綜合の危機;価値形態と剰余価値;トランスクリティカルな対抗運動)
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ] -
柄谷行人による、カントの超越論的な方法からマルクスを解釈し、マルクスの思考の実践性をカントに依拠しつつ明らかにしようとする試み、と言える。彼らのテキストに即しつつ、教条的解釈では見出し得ないような、ある意味でカントもマルクスも意図していなかったような思想をそこから引き出し、それを説得的に展開している。
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特にカントに関するところの考察が面白かった(というよりも繰り返し読んでとらえようとした)。マルクスのところはまた読んで整理したい。デカルトやフッサールとかを逆に読みたくなった。