「知」の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫 学術261)

  • 岩波書店 (2012年2月16日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (464ページ) / ISBN・EAN: 9784006002619

作品紹介・あらすじ

科学をめぐるポストモダンの「言説」の一部が「当世流行馬鹿噺(ファッショナブル・ナンセンス)」に過ぎないことを示し、欧米で激論をよんだ告発の書。名立たる知識人の著述に見られる科学用語の明白な濫用の数々。人文系と社会科学にとって本当の敵は誰なのか? 著者らが目指すのはサイエンス・ウォーズではなく、科学と人文の間の真の対話である。

みんなの感想まとめ

科学と人文の対話を目指す本書は、ポストモダン思想の中で見られる科学用語の濫用を鋭く批判しています。著者は、難解な言葉や概念を使うことで本質が曖昧になっている現状を指摘し、科学が持つ客観性や経験に基づく...

感想・レビュー・書評

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  • 【自分のための読書メモ】
     「ポストモダン」・「ポスト構造主義」。
     学部生(今は懐かしい90年代後半)時代、よく教授の先生より英文学の学びが変わってきたとお聞きした。英文科においてシェークスピアを読まずして卒業することはあり得ない時代から、批評理論を知らずに英文科を卒業することはあり得ない時代になったということだった。英文学が印象批評から分析的な批評に変化していく流れ(ということ)だった。
     だから、まずは何も知らない学部生の僕は、テリー・イーグルトンを手に取った。『文学とは何か』(岩波書店)。そしてその途中で、もっとわかりやすい『文学部唯野教授』を経由して、なんとか読み切った。
     その読書の先には、ボードリヤールや、ドゥールーズ、ガダリなんて名前を覚え、ちくま文庫なんかで手に入れては、いつかこれが読めるようになりたいと思っていた。けれど、何回もトライしても、翻訳でさえ原典は難しい。だから、何冊も、入門書と概説書を買って“あこがれ”のポストモダンを外枠から包括的に理解しようと試みた。けどその中心を自信をもって理解することはできず、頓挫し続けた。
     そこで懐かしの『知の欺瞞』が出たのが、2000年。学部3年の頃だった。面白いよという言葉を聞きながら、まだ批評理論を理解したい僕は、読まずに原典を理解したかった。こだわりたかった。
     そしてそれから12年。偶然立ち寄った書店で文庫版になったこの本を見つける。迷わず手に取った。
     ここからは読後感。まずは複雑な気持ち。というのは、ここで著者が批判しているのは、ラカンから始まる有名な著者の科学的な情報の乱用。「あぁ自分がわからなかったのもしょうがないんだ」という安ど感が強い。
     と同時に、筆者が批判しているのは、科学的な情報の乱用であり、筆者のすべての論に対するものではないということをきちんと理解しておくなら、それ以外に筆者が数学的科学的理論からアナロジー的に感じた直感はやはり理解してみたいという気持ち。
     そう、理論の時代に青春を過ごした世代にとっては、複雑な気持ちになる一冊なのです。

  • 線形とか虚数とかカオスとか連続性とか、ポストモダンの人たち数学とか量子力学とかわかってねーの、だっせー。

    とかいうのがこの本の主旨ではなくて。

    ・自分でもよくわかってないような言葉や概念を使って、より難しくして説明したいことって何?何の中身もない、スカスカの当たり前なことしか言ってないじゃないか。専門用語と日常の用法で混乱してるだけでしょ。難しくて曖昧にすればかっこいいとかやめなよ。

    ・科学は批評対象のテクストじゃないよ。科学の理論は世界を解き明かすけど、それが世界を作り上げたわけじゃないし(理論ができる前から世界はあるんだし)、経験を積み上げて生き残ったり修正したりして「正しい」としてきたものなんだよ。何かを客観的に「正しい」としてるからって攻撃するなよ。そういうテクストとしての批評では科学の理論が変わることはないんだから意味ないよ。

    ・自然科学の理論や方法論の現実的、経験的な部分を無視して、枠組みだけ持ってきて社会科学を当てはめて客観的にしようとしても科学的とは言えないよ。それでうまくいかなかったからって自然科学を叩くのやめなよ。

    ・科学に軍事主義とか性差別主義とかあるにしても、科学そのものを批判することはないよ。

    ・「真実」と違うことを信じている人がいるからといって、なんでもかんでも正しいことにしてたら、性差別も人種差別も極端な民族主義や経済学の流派も「正しい」ことになるよ。左派の知識人なら支配的な言説から神秘を剥ぎ取れよ。自分で神秘を付け加えるなよ。

    5点目はまさに、先日の橋下さんの慰安婦発言と東さんの反応のことだと思うし、在特会が言う在日特権の偏見やアフリカの女性器切除への貞操の幻想に対抗するのも、歴史と国際関係や宗教と医学への合理的で科学的なやり方だと思う。

  • 勃起性の器官は、記号表現の欠如の機能、つまり(-1)に対する言表されたものの係数によってそれが修復する、快の享受の、前に述べられた意味作用の√-1と比肩しうるのである。...私が「無理数=不合理」と言うとき、何も私はある種の測り知れない情動の状態を指しているのではなく、正確に虚数といわれているものを指しているのです(無理数と虚数の混同, 高2数学)。ラカン

    主体=患者は彼の単一性をすでに保証されている。意味生成における「点∞」への彼の逃走は止められている。たとえば通常の空間R^3上のある集合C0 -- そこにはR^3上のあらゆる連続関数Fとあらゆる整数n>0に対してF(X)がnをこえる点Xの集合が有界なのだが--のことが考えられる。変数Xが「別のシーン」に引き退くとき、C0の関数は0に近づくのであるから。この圏において、C0のおかれた主体=患者はラカンが言及し、彼が主体として自身を喪失する「言語の外なる中心」に到達しない。すなわち、トポロジーが環として指示する関係の群を表現する状況である。クリステヴァ

    存在しない女は、以下の役割(のみ)を担うことになったにちがいない。まず、体系の全体性--この全体性を彼女は自己の「すべてより大きいもの」により超過している--を保障するための射影面という役割、次に、いまだ不確定な《概念》も含めて、「すべて」の諸《概念》各々の外延により「すべて」を評価するための幾何学的支え台という役割、さらには、《言語》における諸概念定義間の固定され凍結された間隔という役割、最後には、これら《概念》間の特有関係確立の可能性という役割である。イリガライ

    発話者の利益を考えることで、はじめて相対主義と相対性理論の相違のもつ深い意味が明らかになる。...発話者こそが、彼が観測者を派遣するすべての現場からのすべての情報を集積する特権をもっている。ラトゥール

    われわれの複雑で、超静的で、ウイルス的な系はもっぱら指数的次元に、偏心性もしくは離心性に、不定のフラクタルな分裂増殖に捧げられてしまっていて...宿命的なものの可逆性と完全解決から逃れられないのではない...カオス理論において、逆の、しかし同じように驚くべき現象である初期条件への敏感不足性に、つまり原因にとの関係における結果の逆の指数関数性--蝶の羽ばたきに終わる潜在的ハリケーン--に関心の払われたことがあっただろうか。ボードリヤール

    できごととしての特異性は、ひとつのシステムとして組織される異質なセリーに対応している。このシステムは...《メタ安定》であり、セリー間で差異が配分される潜在的エネルギー...パラドックス的要素がセリーをめぐり、共鳴させる限りにおいて動的で転位しており...有機体は、外部の空間で拡がるように内部の空間で結集し、同化し、外化することをやめない...皮膚は、まさに表層的な生命の潜在エネルギーを持っている。ドゥルーズ

    線上に並んだ有意的な鎖の環...多指示的・多次元的な機械状の触媒作用との間...排中律の論理から...創造的オートポイエーシスの閾を踏み越える...フラクタルの対称性を...アレンジメントをエネルギー的・時空的座標の外に逃して...時間の退行的平滑化をも含めて...過程的で、多声的で...仮想的組成を動かす無限の速さ次第で...空間と時間のエネルギーの一視点を集束...ビッグバンについての宇宙論的...クォークの尺度で形成されるような認知可能性...機械圏は、仮想性の場の中に存在する無数の形状... ガタリ

    ************

    ポストモダン思想(フランス現代思想)の論文で自然科学(数学・物理)の概念や用語が濫用されている▼用語の意味をろくに理解せずに自然科学の用語を誤用。無関係な文脈に専門用語を投入して皮相な博学ぶりを誇示し、科学を知らない読者を威圧する▼自然科学の用語を概念的・経験的な正当化を行わずに人文科学や社会科学に持ち込む。厳密な意味をもつ数学の概念を、人文社会科学の曖昧な概念の説明に無理やり応用(曖昧なアナロジー)。心理学者が彼らの分野で「観測者は観測の対象に影響を及ぼす」ことを主張するとき、量子力学を持ち出す必要はない▼実際には全く意味のない言葉や文章をもて遊ぶ。言葉の意味について無関心。専門用語に中毒している。不明瞭なものがすべて深遠なわけではない。わざと分かりにくい書き方をして、中身がないことや凡庸なことを用心深く隠蔽。曖昧な言説で人を幻惑する。言葉遊び▼メタファーを使うのは馴染みのない概念を馴染み深い概念と関連させて説明するためであって、その逆ではない。自然科学は人間科学ですぐに使うことのできるメタファーの倉庫ではない。科学の理論は文学・小説ではない▼難解かつ尊大な文章を並べ立て、深遠な内容を扱っているかのように見せかける。人文社会科学の曖昧な言説に数学的な装いを施して「科学的な」体裁を作り出す。ファッショナブル・ナンセンス(原題)▼ポストモダニズムの認識的相対主義、正しいか誤っているかを問わない主観的な信念への過剰な関心、議論しているはずの事実よりも言説や言語を重んじる傾向。ポストモダニズムの著作から醸し出される知的不誠実は、知の世界の一部を毒し、すでに一般大衆の間に蔓延している軽薄な反主知主義に拍車をかける。Alan David Sokalソーカル『Fashionable Nonsense: Postmodern Intellectuals' Abuse of Science(知の欺瞞)』1998

    ※アラン・ソーカル。数学教授(UCL)。物理学教授(NYU)。
    ※学術雑誌『ソーシャル・テクスト』(フェミニズム、マルクス主義、ポストコロニアリズム、ポストモダニズム、クイア理論)。この雑誌にアラン・ソーカルがポストモダニズムっぽいデタラメ論文(『境界を侵犯すること―量子重力の変形解釈学に向けて』)を投稿。査読に通り掲載された。『ソーシャル・テクスト』の編集者は1996年イグノーベル文学賞を受賞。受賞理由は、著者たちが無意味なことを語り、現実など存在しないということを主張する論文を、理解できないままに真面目な顔で出版した”功績”。

  • 私が『差異と反復』があまりにも読めない(これは哲学の前提知識がない、ポストモダンの文章に慣れていないなど多くの要因がある)ので、いっそもっとも批判的な立場にある書籍をよんでみたらなにかヒントがあるのではないかと思い、読んでみた。

    本書では、ポストモダンと呼ばれるジャンルの作品に(おそらく)メタファーとして用いられている数学的・物理的な単語が、メタファーとして成立するだけの最低限の理解を持って書かれているか文脈から推察する、といった試みがされる。
    結論は誰もが想像するように、メタファーの体裁を保つだけの論理的な整合性はない。

    本書は8人の哲学者に対して議論を展開していて、それぞれの考察に相当な分量の文章を割いている。(この詳しい解析は著者からすると真摯な態度を表しているのだろうが、各哲学者の愛読者にとっては果たして読む価値のあると感じるものなのだろうか。)

    これらの混乱に付随する実害として、政治的左翼の弱体化を挙げていて、おもしろい。

    > 政治的左翼を自認するわれわれすべてに、ポストモダニズムは特定の負の帰結をもっている。... 知識人、特に左翼の知識人が、社会の発展のためにプラスになる貢献をしたければ、そのための最良の道は、世を風靡している考えを明瞭に分析し、支配的な言説から神秘的な匂いを取り払うことだ。自分で神秘を付け加えることではないのである。(なぜ問題なのか?)

    とはいえ、これもポストモダニズムへの根本的な反論にはならないような気がする。本書の活用方法として、本書で批判されている相対主義に陥らないように、両方の立場を考えて、自らの考え方の糧とするのがいいのだろうと思う。

    冒頭付近では、哲学者が数学の教育を受けていないことによって批判をするのは間違いである、という問いかけに対して、われわれが気にしているのは資格ではなくて内容だけである、という主張がある。これの注釈としてチョムスキーの分野の違いによる文化の差についての逸話があり、象徴的な話だと感じた。

    > 数理言語学の仕事をしましたが、数学の本職の資格があるわけじゃない。数学は完全に独学だし、それもちゃんとやったというほどでもありません。それでも、何度も大学の数理のセミナーやコロキウムに呼ばれて数理論理学について話してきました。だれも私がこのテーマについて話す資格があるかとか聞きませんでしたよ。数学者は気にもしてません。... あくまで話の内容が議論になるのであって、私がそれを議論する権利じゃない。
    > ところが、社会問題や、米国の外交政策、たとえばヴェトナムや中東とかに関する議論になると、こういうことが相も変わらず問題にされるんです、それもかなりの毒を含んでですね。話す資格について何回も意義を唱えられ、こういったテーマについて話していいだけの特別な教育を受けたのかと訊かれたものです。(6 誰に批判する資格があるのか?)

  • めちゃくちゃ面白かった。
    ただソーカルの告発だけでポストモダン思想家たちの主張を一方的に断罪することは避けたい。
    ファッショナブルでナンセンスな言説がなぜ生まれ、大衆に広く流布したのか。

    ラカンとその思想を学んだイリガライの章が特に激烈だった。
    言葉を蔑ろにしないための戒めとして、何度も再読したい本だと思います。
    リベラル的思想を基盤に広く人気を得たはずのポストモダン思想家たちの主張や行動が、逆説的にリベラルの首を絞めていくという、後半のポリティカルな分析にはやられた。

  • 第5章で取り上げられる「イリガライ」の章が特に傑作だと思いました。
    なにしろイリガライの著作の引用文が群を抜いて意味不明で、この本のエッセンスが凝縮されていると思いました。

    大学の文系講義で難解なテクスト分析をやらされた経験のある人ならば、特に愉快に読める本だと思います。

  • ポストモダンという人文系の学問領域における一部の思想家によって繰り返し行われていた、著作内での自然科学の概念や用語の濫用を痛烈に批判した本。背伸びして読んだ。ソーカル事件が布石になっている。批判されている思想家の著作の長い引用(の日本語訳)が多くあるが、よくこんな意味の通らない文を書けるなと思った。その思想家たちが何を思いながら論説を展開していたのか想像すると、映画パプリカの博士発狂シーンを思い出してしまい怖かった。逆にちゃんとした哲学や思想史もいつか学びたい。

  • はじめにポストモダン思想の問題点を挙げて、そのなかでも自然科学の専門用語の濫用に着目して、徹底的に批判する。本来なら特定の分野のみで用いられるはずの用語を、定義を明確にしないまま、恣意的に使用される人文系のテキストについて、本書で科学の侮辱だと一貫して主張する。またエピローグで改めてポストモダンの問題点をまとめて、科学のあるべき姿を提示する。そしてポストモダンの後に来る思想を考察して、その可能性の一つに宗教原理主義の揺り戻しかもしれないと予測する。

  • 本書を読みたいが、私には難しそうである。
    「学術誌のソーシャル・テクストに意図的に無意味な論文を投稿し、そしてそれが実際に掲載されてしまった」というから、思わず放屁・脱糞しそうになる。
    日本では、暗谷好人、スキモノキッズのような人たちの本が出版されていることが、それに相当するのだろう。

  • 科学の不確かさについて話してて親にお薦めされた。親は読んで無いらしい。

  • くっそ難しい自然科学の本で、ポストモダンという、蒙昧主義的な分野への激しい突っ込みの告発本的な感じ。
    相対主義はよく分からなかったが、むずか難しい科学用語を並び立てて、あたかも心理学、社会学、言語学に関係のある難しい事を論じているように見せ掛ける上辺の論文及び思想への弾劾の書なので、哲学を学ぶ際には自分も注意しようと思う。
    ポストモダン語を3ヵ月でマスターしたソーカルはなこなかにユニークであると思う。
    この本を読むのには理解しようという意識が働いてしまい、かつてない程にパワーを無駄に浪費しつつ、ポストモダンの所は流し読みでよかったのだと最後の方になって気が付いて、時間を無駄にしたかもしれないとわかり、後悔した。

  • ごりさんより。

  • 内容は専門的で難しいが、要するに「専門用語」を駆使する頭の良さそうな文章に騙されるな、ということ

  • この本を読んでもらいたい人はたくさんいますね周りに。かくいうワタシも競争的資金の獲得目的の申請書にはいろいろと専門用語をabuseしていることは否定できないので申し訳ないことです。まあそのためもあってか公的な資金は獲得できたことはありませんけれどね。大昔に読んだ「星の王子様と野菜人格」に似たテイストの本ですがきちんと参考文献をあげぼかさずにオカシイところを指摘している点が優れていると思います。

  • 哲学

  • 【要約】


    【ノート】
    ・図書館岩波登録

  • ポモは、それが学問として妥当であるかどうかについて専門家の間でも意見が別れるんで、凡人は深入りしちゃいけないしできない、才能のある人向けのものだと思っている。ソーカルの議論は興味深いのだが、引用されているところは読んでもわけがわからないので結局読み飛ばしてしまう。また、ソーカル自身もこの本は包括的ではないと言っているのだが、科学用語の濫用以外の観点から書かれたものもほしいと思う。関心があるのはむしろ人文学の科学性なのだが、ポパーとかみたいな科学哲学は、基本的に自然科学の話しかしていないのだし。

  • 原題:Fashionable Nonsense: Postmodern Intellectuals' Abuse of Science (1998)
    著者:Alan D. Sokal
    著者:Jean Bricmont
    訳者:田崎 晴明
    訳者:大野 克嗣
    訳者:堀 茂樹

    【メモ】
    ・訳者の田崎さんによるページ。
    http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fn/


    【目次】
    日本語版への序文 [iii-xxiii]
    翻訳について [xxv-xxvii]
    目次 [xxix-xxx]

    1 はじめに 001
      この本で何を示すつもりか 006
      それはそうだ、しかし…… 010
      この本の構成について 025

    2 ラカン 027
      「精神分析のトポロジー」 028
      虚数 038
      数理論理学 042
      結論 056

    3 クリステヴァ 059

    4 第一の間奏――科学哲学における認識的相対主義 077
      独我論と極端な懐疑主義 081
      実践としての科学 085
      危機にある認識論 092
      理論の決定不全性のテーゼ 106
      クーンとパラダイムの通約不可能性 109
      ファイヤアーベント――「なんでもかまわない」 119
      科学社会学の「ストロング・プログラム」 130
      ブルーノ・ラトゥールと方法の規則 140
      実際的な影響 149

    5 イリガライ 159
      流体力学 165
      数学と論理 175

    6 ラトゥール 185
      後日談 195

    7 第二の間奏――カオスと「ポストモダン科学」 199
      カオスと「ポストモダン科学」 199

    8 ボードリヤール 218

    9 ドゥルーズとガタリ 229

    10 ヴィリリオ 253

    11 ゲーデルの定理と集合論――濫用のいくつかの例 262

    12 エピローグ 270
      「二つの文化」の本物の対話に向けて 272
      どうしてこんなことになったのか 281
      政治的要素 292
      なぜ問題なのか? 304
      次は何か 310

    参考文献 [81-106]
    付録B パロディーへのいくつかの注記 [70-79]
    付録A 境界を侵犯すること――量子重力の変形解釈学に向けて [9-69]
    索引 [1-7]

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784006002619

  • [ 内容 ]
    科学をめぐるポストモダンの「言説」の一部が「当世流行馬鹿噺」に過ぎないことを示し、欧米で激論をよんだ告発の書。
    名立たる知識人の著述に見られる科学用語の明白な濫用の数々。
    人文系と社会科学にとって本当の敵は誰なのか?
    著者らが目指すのは“サイエンス・ウォーズ”ではなく、科学と人文の間の真の対話である。

    [ 目次 ]
    1 はじめに
    2 ラカン
    3 クリステヴァ
    4 第一の間奏―科学哲学における認識的相対主義
    5 イリガライ
    6 ラトゥール
    7 第二の間奏―カオスと「ポストモダン科学」
    8 ボードリヤール
    9 ドゥルーズとガタリ
    10 ヴィリリオ
    11 ゲーデルの定理と集合論―濫用のいくつかの例
    12 エピローグ

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著者プロフィール

Jean BRICMONT 1952年生まれ。ベルギーの理論物理学者、ルーヴァン大学教授。『「知」の欺瞞』の共著者。ラッセル法廷(ベトナム戦犯国際法廷)メンバー。チョムスキーなどとともにさまざまな社会批判活動を行っている。

「2011年 『人道的帝国主義』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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