西田哲学を開く――〈永遠の今〉をめぐって (岩波現代文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784006002930

作品紹介・あらすじ

西田幾多郎の中心概念「永遠の今」を外部の多様な言説に向けて開放することで、西田哲学の新たな可能性を切り開く。プラトン、アウグスティヌス、ハイデッガー、九鬼周造、デリダ、アガンベン、木村敏といった西洋哲学、宗教学、現代思想、精神病理学の代表者たちの議論と西田の言説を突き合わせ、その緻密な解釈と検証を通して、これまで時間論で見逃されてきたカイロスの系譜とその意義を照らし出す。既成の西田研究に問題を投げかける著者十年の集大成。岩波現代文庫オリジナル版。

感想・レビュー・書評

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  • 烏兎の庭 第六部 5..5.19
    http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto06/diary/d1905.html#0505


    「永遠の今の自己限定」というテーゼに即した西田の「現在の哲学」の内容を詳しく検討した拙著
    (『夏目漱石と西田幾多郎』「一生の宿題となった公案の問い」)

  • 〇以下引用

    瞬間は一般に、過去から未来へまたは未来から過去へと流れゆく時間軸上に位置を占め、それ自体幅をもたない零点として表象される。だが、本当をいえば、こうした表象は、「今」をとらえることができない。そうした表象としての瞬間は、むしろ無限につづく今が残した痕跡(過去)とその投影によって構成された時間、(中略)のなかに事後的に想定された時間に過ぎず、それはもはや知覚や行為の現場としての「行ける現在」ではないからである


    わたしたちに指し示される<いま>は、存在したものである。これがそれの真理なのである。それは存在の真理をもっていないのだ。それでも、それが存在したというこのことは真である。だが、存在したものは、事実をいうと、なんら存在するものではない。存在したものは現に存在してはいない。そしてわたしたちが問題にしていたのは存在しているということなのだ

    今はそのつど死んでは新たな今として生まれつづける。今の連続はだから死して生きるという断絶を含んだ連続、すなわち西田のいう「非連続の連続」である。いわばその断絶の合間にそのつど差異化された意味が生み出されるのである。その意味で今は能産的な「間」である。

    永遠の自己限定と言う決定的な「飛躍の瞬間」に目を向けてみよう。おうおうにして見落とされていることだが、この点に関して西田はさらに重要なことを指摘している。

    我々の生命は過去から生まれるのではなく、未来から生れるといふことができる。否、永遠の自己限定として現在が現在自身を限定するといふ意味に於いて生まれるのである。

    予期とは、あらかじめ想定された未来である。しかし、それはすでに想定されてしまった「既知」として、未来の核を成す、「未知性」をあらかじめ排除してしまっている

    未来とは捉えられないもの、われわれにふいに襲いかかり、われわれを捕えるものなのである。未来とは、他者なのだ。未来との関係、それは他者との関係そのものである/レヴィナス

    西田にとって他者は、真の未来と同じように、私によって対象化されることのない「絶対の他」でなければならない。「絶対の他」とは他者を「他なるもの」として排除することではない。むしろまったく反対に、それ独自の自由な意志を備え、私の介入を許すことのない絶対的な自立の中心としての他を認めるという事


    役割に固定された対象としての他者である。われわれはだからそうした他者に対して一定の計算可能な期待や予期をもつこともできる。だが、西田のとらえようとする他者=汝はそういうものではない。われわれの期待や予見を超えた、つまりわれわれにとって絶対的な他であるような他者である。それは私と同じように自由な意志を備えているからといって、これを私からの類推によってとらえることはできない

    「絶対の他」の「絶対」性が消失してしまうからである。類推や投影はすでにそのこと自体において他者に対する暴力であるといわねばならない。多くの上っ面の「ヒューマニズム」にもとづく他者理解の本質的欺瞞もここにある。それは「他者もまたきっとそうであろう、そうであるべきだ」という類推による「私」の強制となるからである。「私」が「絶対の他」を認めるということは、むしろ反対に「私」の側を消すことである。私が私の自己をつきつめ、私という主観が消失したところに初めてそれ独自の中心を備えた「絶対の他」が現れて来る。そのとき私は初めて他者を真に受け入れることになる。

    われわれは互いに役割の集積したペルソナとしての他者を相手にして、いわば惰性的に日常生活を営んでおり、そしてそのかぎりで個々の他者の中心を奪い取り、その犠牲のもとに、しばしば国家、企業、共同体、家族等々といった集団的虚偽意識をねつ造したりしている

    語りたくとも語れないで苦吟する詩人は、その語りえないものを見据えているかぎりにおいて、いや、少なくともそれを見ようとしているかぎりにおいて、また自らの「主体」をかろうして保持している

    自動症のように語りを強いられる病状においては、もはや「主体」は存在しないか、少なくともその存在は危機に瀕している。そこでは主体ならぬ「何ものか」が語っているか、または言葉自身がそのように作動してしまっているからである。あるいは言葉が勝手に主体の地位を占領しているといってもよいかもしれない。

    純粋経験においては、「未だ主もなく客もない知識と其対象とが全く合一して居る」のであった。そしてそれは「意味」さえもってはならないとされた。

    西田の「永遠の今」には未知なる他性による不意打ちというファクターが働いていることを指摘しておいたが、この不意打ちのファクターを度外視して、既知の意味の世界においてのみとらえられる「今」は、まだ「今」の反面でしかない。それはすでに意味へと馴化された「今」、いわば対象化され、なかば死んだ今である。これに対して「今」を生き生きとした今たらしめ、それに生命を吹き込むのは、じつは未知性との遭遇ないし、それへの構えである。

    純粋経験という「質的決定」をはらんだ「驚き」と「飛躍」の瞬間はそのなかに濃密な内容をポテンシャルとして内包されており、たんなる「ゼロ」ではありえない

    語りえないものを前にしたときの言葉の最初の反応はさしあたりためらい足踏みすること、または佇むことである。

    ★「黙」が本来の仏教概念で、「話しながらも言葉を貫いて無限の開示性の絶対的静寂の中へと黙り入ること」を表す


    黙る…何も話さないこと
    沈黙…沈思黙考
    黙…話しているのに静寂であること

    上田にとって「黙」とは、「根源語」ひいては言葉そのものが発せられる、その母胎のような原事実であって、たんなる既成の意味伝達を埋める補完物というようなものではない。

    ★沈黙とは、分裂病者の「非建設的」で「不毛」な沈黙に対して、「治療者自信の内的過程を言語化」などせずに、治療者自身もその「不毛」な沈黙に身をまかせ、「我関せず」と同時に、「我を忘れ」、ただ病者とともに居るという状況。松尾によればこうした治療を始めると、初めは緊張感の伴った沈黙状態が生じてくるが、それをさらにつづけていくと、同じ沈黙でも、やがて「あらゆる周囲世界を端的に実在的に対象化せず、単に自己の表象的非措定的意識に漂う」ような状態が出てくる。

    ★間主観的に共通の言葉を共構成できた瞬間

    西田における「場所」はよく誤解されているような時間とは区別される空間的地理的な意味での場所のことではない。それはむしろ時間と一体となった直接現在という「場」のことである。

    この時空未分の場とは、それ自体が出来事としての事態であり、そこではいまだ実体やものが姿かたちをとって現われ出ていない。

    西田のいう場所とは、そこで不断に差異化すなわち「限定」が生じて来るような動く原点のようなものである。

    直接経験が「瞬間」ないし「刹那」の出来事だからである。「刹那滅」という言葉があるように、瞬間としての今は生ずると同時に消えている。

    ★真の無はかかる有と無とを包むものでなければならぬ、かかる有無の成立する場所でなければならぬ。有を否定し有に対立する無が真の無ではなく、真の無は有の背景を成すものでなければならぬ。(『働くものから、見るものへ』)

    意志は真の無の場所に於て見られるのであるが、意志は尚無の鏡に映された作用の一面に過ぎない。限定せられた有の場所が見られるかぎり、我々は意志を見るのである。真の無の場所に於いては意志其者も否定せられねばならぬ、作用が映されたものとなると共に、意志も移されたものとなるのである。動くもの、働くものはすべて永遠なるものの影でなければならない

    「今」ちう概念は、一定程度過去へも未来へも広がった幅のある今ないし現在のことのようだ。だが、こうした日常的用法から身を引き離して、現時点での「今」とか「現在」というものをもう少し厳密に考えてみると、それは本来幅などもたない瞬間のことではないかという疑問が湧いてくる

    瞬間は自己自身の底深く秘められた自己否定によって、他の瞬間に移り行くのである

    死即生

    連続性とは時間的連続性のことではなくて、むしろ「一体性」のことだが、バタイユはこの瞬間を「宙吊りの未決定の瞬間」と呼んだ

    ★接合は死の瞬間であると同時に生の瞬間でもある

    ★永遠の今と考えられるものは、一面に於ては絶対に時を否定する死の面と考えられると共に、一面に於ては絶対に時を肯定する生の面と考えられねばならない。

    永遠の今は、いうまでもなく過去-現在-未来という時間表象の一部をなす「現在」ではない。

    ★知覚されたものが何であるかとか、われわれがそれを見ているという自己による反省意識もまだ成立していないような瞬間の体験的出来事である。その出来事がしかし、出現と「同時」に分節化を開始し、それにもとづいて主客の対立や対象の意味といったものが成立してくると西田は考えていたのである

    瞬間としての今はその自己限定を通してそのつど時を構成すると西田は考えている。それは各瞬間に応じて「至る所」に生ずる。

    純粋経験としての瞬間には、もはや消滅するものも存在しないし、誕生する何ものもまだ知られていないのである。それらの「何」はこの瞬間が自己限定をした結果として、いわば事後的に反省的に生じてくるものだからである。

    ★何が消滅するのか、何が生まれるのかわからないにもかかわらず死と生の区別だけがあるような純粋な「断絶」ないし「間」というようなものである

    われわれの生も多かれ少なかれ「濁り」のなかにあるということにほかならない。(中略)要するに生は死に、死は生にそれぞれ侵されあって、というよりも死も生もそのラディカルな「永遠」の姿を覆い隠して、われわれの「現実」が出来上がっているということである。

    飛躍の原点たる生は、ある意味では初めから対象化という死によって混濁されているのである。そしてこの混濁が瞬間のもつあの断絶を覆い隠すはたらきをするのである。

    われわれは普段この断絶的瞬間を意識することはない。それは「不意を打たれた」とき初めてわれわれにその存在を知らしめる。不意打ちを食らったときの驚きとは、したがって深淵のような瞬間的断絶をのぞいた驚きである。

    未来の未来たるゆえんは、そういう予測可能性、計算可能性にはなく、「不意打ち」のなかにあるとレヴィナスはいう。

    運命とは、あらゆる恣意性を排した偶然の徹底した姿であると考えられると同時に、そのように定められたと諦観することで、絶対的な必然性をも意味していると考えられる

    偶然は窮極においては「形而用的絶対者」と同じになってしまうのだ

    ★偶然性の邂逅に関して突如として持ち出されてくる「汝」の概念である。これは明かにたんなる人称概念ではない。それは筆者なりに言い換えれば、予期不可能な偶然において遭遇する「他者」、「他性」ひいては「未知性」一般のことにほかならない。つまり、偶然の生起する現在とは、既知性も予期性も、いや対象化された世界総体が失効して、ただむきだしの状態で直接「他なるもの」に遭遇しなければならない瞬間のことである


    不断に未知との遭遇を「内面化」することによって成り立つ動的な何ものか。

    私と汝は「永遠の今の自己限定として、即ち働くものとして、共に永遠の今に於てある」ということになる。

    他人という人格的存在は、いうまでもなく死んだ物質ではない。また、時間との関連でいえば、私の側にある過去の「既知」にもとづいて捕まえてしまえるような存在でもない。それは必ずしも私の意のままになることのない絶対的な独立性、一回性を備えた生きた存在である。その意味で、それは私にとっての「絶対の他」である。これに対して他者を類推や感情移入によってとらえようとするのは、あくまで「既知」にもとづいた他者理解の試みにすぎず、それでは他者の他者性はつかむことができない。

    出会わせる他者は「未知」をはらんだ未来との遭遇と同じになる。それは私の側からすれば、私の「死」あるいは「私」という存在の底を突き破ってしまうことでもある

    私と汝とは絶対に他なるものである。私と汝とを包摂する何らの一般者もない。併し私は汝を認めることによって私であり、汝は私を認めることによって汝である。私の底に汝があり、汝の底に私がある、私は私の底を通じて汝へ、汝は汝の底を通じて私へ結合するのである、絶対に他なるが故に内的に結合するのである

    神には過去も未来もない、時間、空間は宇宙的意識統一に由りて生ずるのである、神に於ては凡てが現在である。アウグスチヌスのいつた様に、時は神に由りて造られ神は時を超越するが故に神は永久の今に於いてある。この故に神には反省なく、記憶なく、希望なく、従って特別なる自己の意識はない。全てが自己であって自己の外に物なきが故に自己の意識はないのである

    我々の世界は過去から未来に向って流れ去るのではない、過去も現在に向って流れ、未来も現在に向って流れるのである、我々の世界は現在より出でて現在に還るのである

  • まさに「開かれて」いた。西田哲学のジャーゴンをそれとして言い切ることは、まるで裸の王様の少年のようだ。
    精神病理学的アプローチも、ティリッヒの神学的アプローチも新鮮で、とてもよく理解できた。

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著者プロフィール

ドイツ・ライプツィヒ大学教授を経て執筆活動に専念

「2020年 『闘う日本学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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