ラディカル・オーラル・ヒストリー オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践 (岩波現代文庫 学術380)

  • 岩波書店 (2018年4月19日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (432ページ) / ISBN・EAN: 9784006003807

みんなの感想まとめ

歴史とは、単なる過去の記録ではなく、日々の実践を通じて形成される多様な体験であるという新たな視点を提供する本書は、アボリジニの歴史経験を深く掘り下げています。著者は、参与観察を通じて彼らの視点を尊重し...

感想・レビュー・書評

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  • 学問そのものや、グリンジのアボリジニに対する保苅氏の真摯さが滲み出るような、素晴らしい研究だと思います。先行研究やフィールドから本気で学び、本気で対話を試み、本気で書いた... 熱く野心的な青年が紡ぎ出した言葉たちに、心を打たれっぱなしでした。

    歴史学者である保苅氏は、歴史を、記録やインタビューの調査を通してではなく、参与観察でがっつりアボリジニの世界に浸って、自分も「歴史する(doing history)」中で彼らの歴史経験を丁寧に記述・分析します。
    この試みの何が「ラディカル」なのか? そもそも歴史とは何で、歴史家とは誰なのか? 彼は、歴史とは本来、歴史学者だけでなく、人間誰しもが日々メンテナンスするものだと主張します。本来は「インフォーマント」として扱われるアボリジニを一人の「歴史家」としてみなした時、彼らは日々どんな歴史のメンテナンスをしているのか? そして、「人だけでない、大地やモノ、場所がエージェントとして歴史を語ってくる」といったアボリジニの歴史経験を、歴史学はいかに「排除」することなく、「ギャップ越しのコミュニケーション」の可能性を模索することができるのか? こうした歴史学への根源的な問いかけを、第1章ではユーモアたっぷりの優しい口調で、しかし鋭く展開しています。

    本書は、研究者として歩もうとしている私に、小さな灯火をくれました。彼の議論からはもちろん、彼の研究者・フィールドワーカーとしての心意気からも、とても大きなものを学んだ気がします。私の人生を変える一冊になりそうです。

  • 英語の博士論文を基に書き下ろした著作。とはいえ、著者の生身の言葉で語られる箇所が多分にあり、肩肘を張ることなく読み進めることができる。もちろん歴史の専門家であればより深くこの内容を吟味することができるのだろう。

    著者の主張はクリアで、読んでいる時はそこに引っかかりがないものの、読後にまとめてみると少し違ってしまう気がする。これは要約することによって著者の執筆の力とか勢いのようなものが削がれてしまうからなのかもしれない。それだけ、要約ではなく書籍としてこの文章を読むことの価値を感じる。
    ・特に、とある一個人の語りを歴史ではなく神話に分類することで(学問的に)何が起きるのかという何度か出てくる著者の説明はなるほどと思った。「アカデミックな歴史学者は(一個人の)物語を「歴史」というよりも「神話」として分類し、歴史は歴史学者によって分析され、神話は人類学者の関心であると主張することになるだろう。まさにこの瞬間に「尊重」という美辞麗句に装われた「排除」の装置が、ときには無意識に作動する。」185頁
    ・この本の出版に関するとある書店K氏からのメールの内容はとても面白かった。ヨーロッパ(ともすればいわば西洋)の作り出した考え方をわれわれがどう捉えていくのか/いけばいいのかということに関して、ここでのWINDOWS画面の例以上の良い例えを今の私は知らない。「大事なことは、ヨーロッパ製の「歴史」を小さくすることではありません。つまりヨーロッパ製の「歴史」の外部―ヨーロッパ製の「歴史」に取り込まれない領域―を急いで確保することではありません。(略)そうではなくて、ヨーロッパ製の「歴史」の大きさはそのままにして、その位格(status)を変えてしまうような理論的戦略を作り出すことなのです。ドラッグできない唯一の画面から、ドラッグ可能な画面の一つへと、意味を変えてしまうことです。」302頁

    この本は、著者が病気により亡くなる直前に書き上げたもので、その後様々なご友人をはじめとする関係者の協力のもと日の目を見たことがわかる。こうして一般向けに日本語でも刊行され、より広く手に届くようになった恩恵に自分も預かることができて本当に幸運だと思う。同時に、著者(ここでは保苅さん個人を指す)だけでなく、この本の刊行に伴い筆を取っている関係者のほとんどが彼が死去したことに触れている。そのことなしにこの本を語ることが難しいことも、著者のそういった身体的・個人的なことがこの本での主張にまた関わってくることも内容を読んだ身からはよくわかるのだが、この本が学術的な歴史学への批判と愛情に基づいているからこそ、その中身だけを(具体的に言えば、博士論文として提出した状態で)最初に読んでみたかったという気持ちになった。この視点が、著者の主張とは逆の方向を向いていることも、既存の学問の枠組みや権威に絡め取られすぎていることも理解しているつもりで述べている。

  • 2025.12.20
    吉江さんのツイートを見て購入。
    大学の頃、都市計画の授業で知った「オーラルヒストリー」。住民へのインタビューを通して、その街の歴史をまとめる手法。研究においては、大事な一次資料となり、オーラルヒストリーが研究の意義を支えることもある。そんな認識でいた。
    「ヒストリー」という名前でありながら、社会学や人類学的な手法であると思っていたが、この本では歴史学として語られる。
    わたし自身研究でインタビューをするときは、そのインタビューが全て正しくないかもしれないという意識を持って、他の資料との整合も必ず確認し、インタビュー内容自体は注意深く扱っていた。何か間違いがあってはいけないと。
    しかし、この本を読んで、そんな「歴史」(本書では、「いい歴史」や普遍的な歴史と呼ばれる)認識が大きく覆る。歴史とは、古い時代のことをまとめた資料なのではなく、日々実践されるものである。すなわち、歴史とは、個別の体験であり、複数の歴史が多元的に存在し、そのどれかが普遍的であるのではなく、協奏しうる。歴史するときに重要なことは、正しさではなく、真摯さである。

    読後に世界の見え方が少し変わる。
    なによりも、歴史するとは楽しいものなのだ。

    印象的な言葉

    p257
    ガッサン・ハージは、マイノリティを包摂しようとする多文化主義的ナショナリズムは、マイノリティを排除しようとする排除的ナショナリズムと同様に、マジョリティによって譜理される客体としてマイノリティを位置づける営みにかわりはないことを鋭く指摘していか。
    マイノリティに関するアカデミックな歴史叙述が「よい歴史」の範囲内で行われる限り、マイノリティの語る「危険な歴史」は、「間違った歴史」として排除されるか、そうでなければ記憶や神話という名のもとで「管理される客体」として無毒化されるだけである。サバルタンは、あいかわらず語れないのだ。

  • 読み出してまだ十数ページだがすぐカルチャーショック。歴史てなんだっけ?と変なゲシュタルト崩壊
    なんとなく歴史とはどれだけ正しく史実を再現できるか、そしてそこから人や自然の営みを通してロマンを感じたり学びを得たり、自分や周りを物語化する事だと思っていた。色々解釈は人にもよるが少なくとも歴史とは正しく事実を捉える事から始まるのだと。史実とは異なる歴史を持つ、主張する人を分析対象や「そう捉える人達がいる」と排斥するのではなく引き受ける歴史観を構築する。全く自分にない感覚なので読み進めるのが楽しみです。

    六章まで読んだところで一旦チラホラ感想。

    アボリジニの人の歴史観
    ドリーミングやジャッキーマンガラヤの話しから思うことは紙を不道徳としている彼らは口伝を使い目に映る風景、空間に歴史や道徳を紐付けながら紡いできた(もしくはその逆)のかなと思う。ドリーミングもジャッキーの話も事実を彼らのルーツに紐づけて解釈した逸話や寓話だと思う。(アカデミックベースで解釈した場合)ただ保苅さんも書いているが彼らの歴史は事実なのだ別の次元で起きていることだと。結局我々の歴史も現代とは別次元で起きたことであり、史実すら研究により覆る。この捉え方を相対化すると我々もアボリジニの人も同じなのかもしれない。

    ミノのオーラルヒストリーを読んで
    著者の保苅実さんもアボリジニのカントリーの中で生活すると数ヶ月で霊的な物やドリーミングの存在を信じるようになっていた。これは認知の話なのかもしれない。何を共通基盤に生きているのかでこの事象の捉え方も考え方も異なる。いきなり友達がドリーミングが!とか言い出すと大丈夫か?と思うがアボリジニの人や共に生きた保苅さんがそう語るのは真実だと感じる。我々は我々なりの歴史の中で科学ベースの世界の中で生きており、アボリジニの人たちとは共通基盤がちがうだけなのかもしれない。そして、これはたまたま極端な例でありグラデーションにしてみれば地域、組織、国とみなそれぞれ生きている歴史に差異はある。アカデミックがマジョリティすぎるだけなのかも。

    最後まで読んで
    歴史とはなんなのか?という疑問は人それぞれじゃんという漠然としたものに変わりつつある。アカデミックなものを正しいと考えるのもいいけど、人の数だけ物語も捉え方もあるしそれも結局は歴史なんだよなと。査読されていない、精査されていない日々の生活の積み重ねもローカルな範囲で見れば歴史なんだよなと。とある意味当たり前の場所に帰ってきた。冒頭の自分の感想を読んでもなんか固いこと言ってんなぁとこの本を読むことで意識が変容していることに気づく。
    ただこの考え方は今流行りのインクルーシブと同じくいい側面と怖い側面はあると思う。人と自分が違う歴史を生きることは良いと思うが過去の戦争や虐殺など暴力を伴った事案を捉える時はインクルーシブであってはならないと思う。と思ったがパラパラ読み返すとこれに関しても本書では触れられていた。理想論としては政治闘争や裁判の場ではきちんと史実をよりわけるべきだと。保苅さんとしては歴史はあくまで多元的に実践されるもので、普遍化しようとするのが学術的な歴史家に足りてない部分だと。なのでドリーミングの歴史をアボリジニ以外の人に押し付けることもしない。なるほど。結局お互いがお互いを尊重し合うというこれもある意味当たり前の考え方だ。(現実はなかなかそれができない)
    歴史学や歴史のあり方、捉え方への主張や考えが記されたこの本だが、歴史は個人の人生と考えると人や世界、人生の捉え方に通じると感じる。これは今後もたまに読みたい本だ。ただそれなりに長くわかりにくいところもあったので最後の後書きを先に読んだ方がわかりやすくなるように思った。

    あと、なんか本読むだけじゃなくて人と関わらなきゃなと思った。

  • P29「...『尊重』という名の包摂は、結局のところ巧妙な排除なんじゃないでしょうか。」

    文化相対主義というものは、エスノセントリズムの克服というように どこか「良いもの」として扱われがちだが、いやそうであるからこそ余計に危険である。

    「あなたはそう言う考えなのね、私はそうは思わないので、貴方と私は分かり合えない。話しかけてこないでくれ」

    という意味だから。

  • オーストラリアのアボリジニに対するフィールドワークから、その歴史を描く内容のように見えて、その実「歴史とは何か」「歴史は何のためにあるのか」という根源的な問題に一石を投じようとする意欲作(この本の場合は一石ではなく一片の花びらと言う方がいいのかもしれないが)。その後研究を重ねることで著者の意見がどのように変化していくか非常に興味深かったのだが、この本(文庫の元になった単行本。2004年発行)の出版直前に病で夭逝されたとのこと。残念である。

  • この本はすごい。

    徹底的に「歴史とは何か」を自分の頭で考え抜いている。

    ポストモダンで「真実は複数」と言われるけど、それを「頭」ではなく「心」で引き受けようとしている。

    「尊重」の裏にある、隠された権力に敏感にならなければならないことを教えてくれる。

    すごい本だ。早逝されたのが悔やまれる。

  • インタビューされる側を尊重する作者の姿勢が印象的。インタビュー調査ってする側とされる側の権力関係がつくられがちだけど、学術的な都合から調査を進めるのではなく、インタビューされる側の声に全神経を傾ける。実証主義を重視し、研究者が歴史を作る構造が維持されつつあるが、スピリチュアルな、研究者が知らなかった歴史の多元性も大事にしようという考えには感銘を受けた。私もいずれ大学院進学を目指しているのでとても勉強になった

  • 第一章「ケネディ大統領はアボリジニに…」のみ読了。/今、この時代に要請されている歴史学は、本当に裁判に役立つような歴史学だけなんだろうか(p.27)/だからといって、過去におこったできごとが、好き勝手に捏造されているわけじゃない。グリンジの人々は、過去のできごとや経験を現在に語りなおし、再現しなおし、それを倫理的、政治的、霊的、思想的にさまざまな分析をくわえ、歴史から何を学び、何かを伝えようとしている、という意味で歴史家なんです。(p.27)/僕は、ジミーじいさんをはじめとするグリンジの歴史化たちの歴史分析を、どうしたらリアルに引き受けることができるのかについて、さまざまな検討をしたい(p.41)

  • とても刺激を受けた。ポストモダンとも歴史修正主義とも違う歴史への誠実な接近がそこにある。

  • 徹底的にオーストラリアのグリンジというコミュニティの個別文脈性にこだわり、普遍性と実証主義を学問的良心とする歴史学との間に対話の空間(著者の言葉で言えば、協奏の可能性)を生みだそうとした労作。多様な歴史経験に真摯に向き合うことの重要性が一貫して主張されている。筆者がもし存命だったら、次作は(著者が批判の目を向ける)メインストリームの歴史学の手法に則って、どこまで本作の問いが深められるかを追求して欲しかったと思わせる。筆者が理想とする歴史教育のあり方——客観的な〈史実〉と主観的な〈経験〉のバランスの取り方——について、一緒に議論してみたかった。
    人類学の側からはグリンジの社会の描出が粗いことや、ジミーおじさんの意見の代表性(ジミーおじさん以外の人々の声があまり聞かれない、女性が登場しない等)に関する批判が出てくるかもしれない。それは個別学問のディシプリンに(忠実に)従うならば、おそらくそうなのだろう。そうした批判に著者なら、こう答えたかもしれない。「確かにそうかもしれませんが、それは私が提示している問いの本質性を揺らがせるものではありません」と。残された時間と体力との格闘の中で、歴史学における個別と普遍の間(境界)を必死にこじ開けようと奮闘する筆者の姿には、大いに励まされるものがあった。著者の残した問いは大きいが、「難しい問いですよね」と言って巧妙に“排除”するような人間にだけはなりたくないものである。本書を等身大で受け止める度量が私たちに問われている。

  • 刺激的な本だった。博士論文をもとにした本で、博論の書評とか「幻のブック・ラウンチ」とか色々載っているが、博論の中身は二章分くらい。単行本は2004年だが、後続の研究状況はどうなのだろう。

  • 東2法経図・6F開架 B1/8-1/380/K

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著者プロフィール

保苅実(ほかり・みのる) 1971年、新潟市に生まれる。1996年、一橋大学大学院経済学研究科・経済学修士取得。1996年より、ニューサウスウェールズ大学在籍。歴史学Ph.D専攻。1999年よりオーストラリア国立大学に在籍、2001年にオーストラリア国立大学歴史学博士号取得。1999年から2003年まで、オーストラリア国立大学太平洋・アジア研究所(人類学科、歴史学科)、人文学研究所に客員研究員として、2002年からは日本学術振興会特別研究員として慶應義塾大学に所属。
2003年7月、フィールドワークに向かう途中にて発病(悪性リンパ腫)。2004年5月、豪・メルボルンにて永眠。同年7月、オーストラリア国立大学にて豪州の先住民族研究者対象の保苅実記念奨学金が設立された。著書に、『ラディカル・オーラル・ヒストリー オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』(お茶の水書房、2004年、岩波現代文庫、2018年)、『GURINDJI JOURNEY』(University of New South Wales Press、2011)がある。

「2024年 『BEFORE・ラディカル・オーラル・ヒストリー 保苅実著作集BOOK2 アンチ・マイノリティ・ヒストリー』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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