愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫 学術441)

  • 岩波書店 (2021年12月17日発売)
4.42
  • (7)
  • (3)
  • (2)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 503
感想 : 13
サイトに貼り付ける

本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています

Amazon.co.jp ・本 (430ページ) / ISBN・EAN: 9784006004415

作品紹介・あらすじ

セクシュアリティをはじめとし、近代社会において私的領域の深奥に秘匿されてきた事柄の政治性を鋭く分析する本書は、あらかじめ定められた物語を攪乱し、語りえぬものに声を与える政治と倫理の新たな地平を切り拓いた。精緻な理論でフェミニズム批評の最前線を走りつづけた著者の代表作、待望の文庫化。(解説=新田啓子)

みんなの感想まとめ

性差別や異性愛主義について深く掘り下げた本書は、近代社会の私的領域に秘められた事柄の政治性を鋭く分析しています。著者はフェミニズム批評の最前線を走り、多くの哲学者の思想を織り交ぜながら、これまで語られ...

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 祝文庫化

    竹村和子『愛について――アイデンティティと欲望の政治学』arsvi.com:立命館大学生存学研究所
    http://www.arsvi.com/b2000/0210tk.htm

    愛について - 岩波書店
    https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b595689.html
    https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b260963.html

  • 374P

    ブクログでも登録数が407人もいるのに★4.42ってえげつないぐらい評価高いんだけど。やっぱりAmazon評価の信憑性は終わってるけど、読書メーターかブクログの評価がかなり正確だと思った。

    これ面白すぎて線を引く手が止まらねえ。フェミ本て尽く挫折してきたけど、これは面白い。

    『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫 学術441)』 竹村和子 #ブクログ #読書 #KindleUnlimited
    https://booklog.jp/item/1/4006004419


    竹村 和子
    2011年(平成23年)12月13日、悪性腫瘍で死去。 57歳没。(たけむら かずこ、1954年2月3日[1] - 2011年12月13日)は、日本の英文学者。専門は英米文学、批評理論、映像研究、フェミニズム思想。元・お茶の水女子大学大学院教授。ジュディス・バトラーやトリン・T・ミンハなどの著作を翻訳し[2]、日本におけるフェミニズム理論や思想の発展に大きな影響を与えた[3][4]。お茶の水女子大学教育学部卒業。お茶の水女子大学大学院修士課程修了、筑波大学大学院博士課程退学[5]。1982年に香川大学教育学部に助手として赴任、1985年から助教授[6]。成蹊大学助教授、筑波大学助教授を経て[7]、1996年4月にお茶の水女子大学に赴任[4]。2003年、論文「愛について:アイデンティティと欲望の政治学」にてお茶の水女子大学より博士(人文科学)の学位を取得[8]。2011年(平成23年)12月13日、悪性腫瘍で死去。57歳没[9]。文学研究者、映像研究者、フェミニズム思想家として活動し、生前に『フェミニズム』と『愛について』を刊行したほか、没後に3冊の著作集が刊行されている[10]。「フェミニズムを所与の「女」以外のものにも開いていく」ために、異性愛主義への批判を通して、「女」というカテゴリーを脱構築する研究を行った[11]。1996年より、お茶の水女子大学ジェンダー研究センターの活動に参加し、研究プロジェクトの推進、研究センター運営に努めた[4]。在任中、トリン・T・ミンハやイヴ・セジウィックなどを招聘し、講演会を開催した[4]。竹村和子フェミニズム基金の設立者であり、2012年度から2021年度までの10回にわたり研究助成事業を実施し[12]、2023年6月に解散した[13]。


    「本書はセクシュアリティを中心に、「語りえぬもの」として秘匿されてきた事柄の政治性について、ひとつの纏まった論考になるように、あらかじめ計画して書き進めてきたものである。わたしは性対象による差別、すなわち異性愛を規範とみなす異性愛主義(ヘテロセクシズム)は、男女の性差別(セクシズム)と不可分な関係にある抑圧構造だと捉えて、それを〔ヘテロ〕セクシズムと呼ぶことにした。現代のわたしたちの性に関する言説は、古代から連続的に続いているものではなく、前近代の言説を領有しつつ、近代社会に特有の〔ヘテロ〕セクシストな社会を形成していると考えて、考察の対象は、近代以降に限定した。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著


    「第一章「〔ヘテロ〕セクシズムの系譜──近代社会とセクシュアリティ」では、〔ヘテロ〕セクシズムがいかに近代の資本主義社会のなかで要請され、強化されていったかを考察した。〔ヘテロ〕セクシズムが異性愛主義と性差別を両輪とした「正しいセクシュアリティ」を標榜する制度だとすれば、その双方によって負の意味づけを与えられてきた女の同性愛こそ、この体制によって幾重にも沈黙させられてきたものである。また性の制度は、それのみで成立しているのではない。近代の性の制度が、中産階級の階級的正統性を捏造するための身体解釈や性規範に基づくものならば、性の制度は階級の問題と切り離して考えることはできず、また近代が未曽有の地理的、政治的、文化的な折衝の時代であり、人種や民族等においてさまざまな〈他者〉を生産し、搾取していった時代だとすれば、個人と個人の折衝は、人種や民族の問題を抜きに語ることはできない。その意味で、異性愛主義によっても性差別によっても性的他者とされてきた女の同性愛は、階級、人種、民族等々に関連して、巧妙に抑圧され、また都合よく利用されてきたものである。この章では、女の同性愛に焦点を当て、それにまつわる言説を歴史的に考察した。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著

    「また近代の性言説の推移は、歴史的に要請され、歴史的に条件づけられたものではあるが、それは、ひとつの種類の性言説からべつの種類の性言説に「移行」したという意味ではない。むしろ各時代の性言説は折り重なって存在し、そうして書き足され、修正され、蓄積された性言説の複層的な集合体が、現代のわたしたちのセクシュアリティ解釈を構成していると同時に、セクシュアリティにまつわる抑圧からの単純な解放を阻んでいる。たとえば資本主義社会の黎明期に「あだ花」のように登場して半ば容認されていた女同士の結びつき(「ロマンティックな友情」)は、その後も、一方では、その結びつきの脱性化を強調して女の同性愛の不可視性を強化する異性愛主義の抑圧的な言説に利用され、また他方では、「政治的レズビアン」という名のもとに性差別撤廃を求めるフェミニズムの解放言説に寄与するものともなった。性言説は、通時的に登場すると同時に、共時的に堆積しているものでもある。この章の執筆の目的は、現在の性言説のなかで流通している「本質性」や「普遍性」が、じつはそのように堆積してきた社会的、政治的な慣習──すなわち文化決定、時代決定された虚構──であることを明らかにしたいというものである。したがって本章は現代を考察するための系譜学的な研究であって、過去に対する歴史的な記述ではない。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著

    「もうひとつここで強調しておきたいことは、男女に明確に割り振られたセクシュアリティ──とくに次代再生産を中心におく性器的セクシュアリティ──を基盤に、個人の身体的・心的生活を説明する近代の個の神話は、各人の性的な自己説明を無意識に偏向させると同時に、人間関係に潜在する広範なエロスの拡がりを、あらかじめ切り詰めてしまうことになるということである。たとえば、異性愛を成り立たせている性器的セクシュアリティの連想から、同性愛に対しても、そこには「疑似」性器的な関係があるとみなされる。なぜなら、もしも同性愛が「単に精神的なもの」である場合を認めてしまえば、異性愛者と自認している者同士の「友情」と区別がつかなくなり、その結果、異性愛者は自分たちの「友情」が、同性愛なのか異性愛なのか、つねに検分していなければならなくなるからである。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著

    「フロイトは、自己形成に大きくかかわる自己と対象との関係において、それを促すものをリビドーと呼び、リビドーは解剖学的な「本能」を指し示すものではないと幾度も断った。しかし彼の理論は、結局は「生殖機能への寄与」に導く「性器の優位性」──とくにペニスの優位性──を前提とするものだった。あくまでペニスを中心としたフロイトのこの性自認の定義を、「言語」の問題に移し替えようとしたラカンの功績は大きい。しかしラカンもまた、言語体系は指示対象をもたないと述べつつも、それを象徴的にあらわす「特権的なシニフィアン」として「ファルス(男根)」を持ち出し、その理由は、ファルスが「その勃起性において、世代をわたる生命の流れのイメージ」として適切であるからだと説明した。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著

    「つぎの第三章「あなたを忘れない──性の制度の脱-再生産」では、自己形成と言語の関係の考察をさらに深めるために、とくに母と娘の関係に焦点を当てた。異性愛主義と性差別の積集合によって負の意味づけを与えられている女の同性愛の歴史的変遷のなかに、〔ヘテロ〕セクシズムの抑圧体制が如実に示されるように、これまで語られることが少なく、むしろ隠蔽されてきた母娘の関係のなかに、次代再生産の公的物語の罠が潜んでいると考えたからである。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著


    「にもかかわらず近親姦の禁止と同性愛の禁止という二つのタブーを経験せざるをえない女児は、母との一次的関係の忘却をおこなわなければ、つまり「母を愛したことなどなかった」と思わなければ、言語への参入はありえない。そしてこの忘却は、忘却したものを自分自身の身体に「体内化する」ことによって──「自分の身体は母と同じものだから、母を愛することなどありえない」と思うことによって──かろうじて解決される。だが喪失した対象の忘却に起因するメランコリーのなかで「女」に付与されていく相矛盾する「母」の二つの意味──生殖をおこなう性器的存在でありながら、娘にとっては非性器的存在であること──は、女のセクシュアリティの分裂と不安定化と矮小化、すなわち、「異性」である「男」には性器的存在として、「同性」である「女」には非性器的存在として生きることを、「女」に強いていく。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著


    「他方で、現代の「母」はもはや社会的な性役割を所与のものと信じていないのではないか、そのような「解放された」母は、娘とのあいだに、性役割を強制しない「友人的な関係」を構築して、娘に自立と自由を与えるのではないかという議論もあるだろう。しかしそのときにイメージされている自由はどの程度の自由なのだろうか、娘の自立は何からの自立なのだろうか。もしも母が娘のセクシュアリティのラディカルな多様性までは認めないとしたら、母は娘というもっとも身近な手段をつかって、しかも娘への心配り(非゠性器的な対象関係)という隠れ蓑をつかって、制度が強制した女性蔑視──自分自身による自己の身体の矮小化──を、あたかも制度への抵抗であるかのように反復していることになる。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著

    「あるいは「解放された」娘が、「解放されていない」母や、そのような母との葛藤を、ある種の諦観とともに(しかしときに心配りに溢れて)我が身から引き離したとき、それは母との一次的な愛の物語を葬り去ったことになる。母とのあいだにあったかもしれない性的な愛の含意(女児には、タブーとしてさえも言語化されない愛の物語)は、「解放された」娘によって──過去の身体の可能性としてだけではなく、未来の身体の可能性としても気づかれずに──その存在は跡形もなく消し去られていく。そのあとに残るものは、みずからの多様な愛のかたちを拒否して引かれた異性愛という、ただひとつの軌道だけである。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著

    「母と娘は、娘から母へと移行する二つの通時的なカテゴリーではなく、一人の「女」のなかにつねに存在する共時的な双面のカテゴリーである。むしろ母と娘という二つの別個のカテゴリーをつくり、両者を通時的に切り離して、女を娘から母に不可逆的に移行させることこそ、規範的な次代再生産を求める〔ヘテロ〕セクシズムを稼働させているものである。「あなたを忘れない」娘は母でもあり、「あなたを忘れない」母は娘でもある。それは娘゠母に、「母」や「娘」といった名づけによってもたらされる規範的な異性愛の身体には収斂しないオルタナティブな物語の可能性を、まさに「母」「娘」と別々に位置づけられているその場所を攪乱することによって、生み出しえるものとなるかもしれない。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著

    「この二つの章では、自己同一化が開始される言語獲得の場面から始めて、個人の心的様態に対してどのように〔ヘテロ〕セクシストな解釈がなされてきたかを考察してきたが、つぎの第四章では、社会における自己同一性の問題を論じた。抑圧的な異性愛主義に異議を申し立てるために、とくに九〇年代以降、これまで社会的生を否定されていたレズビアン、ゲイ男性、トランスセクシュアル等がみずからの「アイデンティティ」を主張する「アイデンティティの政治」が徐々に叫ばれている。普遍の名のもとになされる女の抑圧や、女の男性化、また非異性愛者の抹消や、異性愛化に抗して、女や非異性愛者が「差異」を主張することは、他方で、女や非異性愛者の本質化、また〔ヘテロ〕セクシズムに都合がいいゲットー化を生み出す危険性をもたらすものでもある。それは、差異のあいだの平等を構築することが、ともすれば特権的な差異のもとの平等にすりかわってしまうという、差異と平等の政治的ジレンマを物語るものである。けれども、もしも「アイデンティティの政治」が、被抑圧者のアイデンティティの主張の次元だけでなく、特権を得ているように見える人々の問題でもあると理解されはじめれば、「政治」は「倫理」へとシフトしていき、政治的ジレンマの閉塞性は、未来に向けての新しい舞台のなかに位置づけなおされるのではないだろうか。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著

    「たとえば同性愛をもっとも強く嫌う者は、もっとも強く同性愛に反応する。ほとんど強迫観念のようなその反応は、他者を退けようとしているというよりも、自己のなかの他者性を振り捨て、そこから逃れようとしているようである。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著

    「連載の過程で直接、間接にさまざまな読者にめぐりあい、勇気づけられた。彼/女たちの言葉は無意識のうちにわたしのなかに沈殿し、わたしの励みになっていたと思う。そのなかでもとくに連載の当初から終始一貫してわたしを勇気づけ、支えてくれた友人、青野 子さんに、心からの感謝の気持ちをこの場を借りて表したい。また勤務校の図書をすばやく見せてくれた頼もしい友人たちや、大学間の図書借り出しや複写サービスを正確に迅速におこなってくださったお茶の水女子大学附属図書館の司書の方々、そして他大学・他機関の図書館の司書の方々にも、感謝の気持ちを捧げたい。領域を横断するテーマのときには、手持ちの図書だけでは不十分で、必要な本や論文が必要なときに即座に読めたことは、執筆していくうえで本当に心強いことだった。その意味で図書や論文の整理を引き受けてくれ、既出論文を整えるおりには参考文献や註の再編成を丹念におこなってくれた花岡ナホミさんにも、ここで感謝の意を捧げたい。そしてまた勤務校のお茶の水女子大学にジェンダー研究センターが設置されており、活発に活動していること、そしてジェンダー関連の研究や教育が学部、大学院をつうじて大学のなかで支援をえて、ごく普通に進められていることも、有形無形にわたしの研究を支えてくれていると思う。研究は一人の人間の思索だけではなく、それを支持してくれるさまざまなサポートなしには生まれえないものだと、あらためて実感した。その意味でも、新しい分野であるセクシュアリティの研究に文部省(当時)から平成一〇年度より一三年度までの四年間、科学研究費(一般研究( c)一九六一〇四六三号)をいただいたことは、わたしにとっても、これからの研究者にとっても、力強い支援である。記して感謝したい。最後に、そして心からの感謝の気持ちを、岩波書店『思想』編集部の清水愛理さんに捧げたい。わたしがセクシュアリティについてまだそれほど長いものを書いていないときに、この企画を提案してくれ、さまざまな方面でつねに全面的に支援してくださり、的確な助言を与えてくださったことは、大きな励みであり、刺激だった。この作業をつうじて、清水愛理さんという得難い友人をえたことは、わたしには望外の幸せである。」


    「現在のレズビアン/ゲイ研究やクィア理論は、近代の抑圧的な異性愛主義を解体しようとする。つまり「正しい」異性愛/「まちがった」同性愛という階層秩序に対して、異議申し立てをおこなおうとする傾向がある。しかし規範/逸脱の二項対立の基盤をなすものは、はたして異性愛/同性愛であろうか。もしも異性愛主義が性差別と不可分に結びついて近代の〔ヘテロ〕セクシズムを押し進めているならば、規範として近代社会が再生産しつづけているのは、異性愛一般というよりも、ただ一つの「正しいセクシュアリティ」の規範ではないだろうか。それを異性愛一般と捉えて、同性愛をそれと対立させることは、同性愛に対する抑圧構造をかえって見えなくさせることにならないか。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著

    「 「正しいセクシュアリティ」とは、終身的な単婚を前提として、社会でヘゲモニーを得ている階級を再生産する家庭内のセクシュアリティである。「正しいセクシュアリティ」は「次代再生産」を目標とするがゆえに、男の精子と女の卵子・子宮を必須の条件とする性器中心の生殖セクシュアリティを特権化する。したがって「正しい」性行為には、理念的には、かならず膣へのペニスの挿入と射精が伴わなければならず、それ以外の性行為は前戯であり、後戯であり、要するに、付け足しとみなされ、次代再生産をおこなわない・おこなえないカップルは──たとえ合法化された夫婦であっても──不完全な形態だとみなされる。子供のない夫婦、セックスレスの夫婦が、そのことによって「特殊」としるしづけられているのは、その証左である。したがって当然のことながら、ペニスと膣のどちらかを欠く同性同士のセクシュアリティは、異端として排除される。アナルセックス、フェラチオ、クンニリングス、相互マスタベーション等々しかおこなわない性行為は、「正しい」性のあり方ではないということになる。またたとえ異性間のものではあっても、生殖セクシュアリティを否定する余剰としてのセクシュアリティ──家庭外の性行為──も異端とみなされる。しかし逆説的なことに、「正しくない」異性愛の性行為は、まさに「正しくない」という位置ゆえに、性器゠生殖中心のセクシュアリティの拘束から免れることにもなる。男による搾取という形態をとりながら、身体の性感帯の再配分が、家庭外の性行為ではおこなわれた。たとえば昭和初期のポルノグラフィのなかに、家庭内では「想像もされなかった」フェラチオを娼婦相手におこなって快感を得たというプロットは枚挙にいとまがない。つまり、家庭内のセクシュアリティと家庭外のセクシュアリティを分けることによって、性について二重基準をもつ男と、ひとつの基準で判断される女とのあいだに差別を生みだし、加えて家庭内の女の身体と、家庭外の女の身体に分断を生じさせた。したがって一九八〇年代後半以降アメリカにおこってきたフェミニズムが内包する同性愛嫌悪に対する異議申し立てと、それに伴うレズビアン・エロスの再評価は、レズビアンの性愛が否定されたことへの問題提起というだけではなく、女自身のなかに深く隠匿されて内面化されてきた「正しいセクシュアリティ」の桎梏──女自身による女性蔑視──への問題提起とも考えるべきである。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著

    「そして終身的な単婚の言説は、異性愛のみならず、同性愛にも反映し、男の同性愛と女の同性愛の分断に貢献することになる。男の同性愛と女の同性愛の非対称性の基盤に性差別が存在していることは言うまでもない。男の同性愛者の方がより可視的で、より強力に弾圧されるのは、女の場合──異性愛であろうと、同性愛であろうと──「正しいセクシュアリティ」から得られる特権が比較的限られているのに反し、男の同性愛者の場合は、「正しいセクシュアリティ」を拒否することによって、彼らに与えられるはずの多大な特権を捨て去り、それによって、「正しいセクシュアリティ」へ疑義をつきつける価値転覆力をより強力にもつからである。そのため、たとえば異性愛の男にとって特権であった性の二重基準は、同性愛の男に対しては彼らを批判する道具として用いられ、彼らは不道徳な乱交に耽る者というレッテルを貼られることとなる。エイズと男の同性愛を極端に結びつける言説がその一例である。他方、女の同性愛は、そもそも女の性欲望が不可視であるために単婚的と推量され、ときに女の同性愛者自身がそれを無意識に内面化する傾向ももつ。「正しいセクシュアリティ」の陥穽に、女だけでなく、女の同性愛者もおちてしまうことがある。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著

    「それは異性同士との愛と、まったく同じ法則で動いている。ただそれは、純粋に知的で精神的なもの。下劣な本能に汚されないし、世俗の利害を斟酌して煩わされることもない。……わたしは最大の情熱をささげて〔彼女を〕愛し、自分がとても強くなったような気がした。──マーガレット・フラー」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著

    「ジョン・デミリオは「資本主義とゲイ・アイデンティティ」という論文で、「ゲイ男性とレズビアンは……歴史の産物であって、ある特定の歴史的時代に存在しはじめた」( D ʼ Emilio 102)と述べ、その転換期をアメリカ合衆国では一九世紀末から二〇世紀初頭においている。たしかに同性愛者というカテゴリー(ホモセクシュアル、レズビアン等)は、その命名の由来をたどればわかるように( 4)、歴史的なものであって普遍的なものではない。またゲイ・アイデンティティが構築できるようなゲイ・コミュニティが誕生したのも、資本主義下の自由労働システムの推進によって都市部への人口の移動が加速しはじめて以降のことである。だがそれ以前、一九世紀中葉のアメリカ合衆国において、女同士の愛は非常に微妙な位置におかれていた。女同士の愛が脱性化され、「ロマンティックな友情」や「姉妹の絆」と呼びかえられ、社会的に容認されたばかりでなく、推奨される場面すらあった。なぜそのようなセクシュアリティの配置が歴史的に可能だったのか。これははたして歴史的に特殊な配置なのか。〔ヘテロ〕セクシズムと「ロマンティックな友情」はどう結びつくのか。これらの問いに答えるためには、産業資本主義が浸透する二〇世紀初頭ではなく、その黎明期、一九世紀のアメリカから考察していく必要がある。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著

    「 一九世紀前半から中葉にかけての男女の領域の分離は、姉妹や従姉妹やおば、めい、友人などによって構成される女のコミュニティをつくった。それは、当時ジェンダー化しつつあった女の家庭内の仕事(刺繡や編み物)の技術や女の礼儀作法を伝授するという、社会規範にのっとったネットワークであり、構成員も親族が主だった。だが急速に余暇時間と余暇行為が増大するにつれて、女同士のネットワークは友人や近隣人に拡大し、その活動も楽しみだけのための訪問や、お茶の会、買い物旅行などに発展し、期間もときに数週間、数カ月におよぶ場合があった。夫よりも長い時間を女の友人とすごす機会が増えたのである。また「本物の女」を育成する目的の女学校では、教師が疑似母親の役目を果たし、「マザー」と呼ばれる場合もあった( Smith-Rosenberg)。これら私的・公的な女の集まりは、女の規範を再生産する制度として認知されていたために、当時の性倫理に抵触することはなかった。しかも「正しいセクシュアリティ」の言説では、女の「性欲は希薄」( Cott, b)であり、性行為の規範はペニスの挿入とみなされていたので、女同士がどのように熱烈な手紙を交換しようと(その記録は数多く残っている)、そこに性的なものは邪推されず、女同士の絆は社会的に容認され、新婚旅行に女の友人を伴ったり、結婚後に同居することすらあった( 6)。  むろん一九世紀中葉のアメリカ合衆国にはホモセクシュアルという単語も、レズビアンという単語もなく、異性愛と同性愛を区別するセクソロジー自体が存在していなかった。しかしおそらく彼女たちのあいだには、緊密な精神的結びつきだけではなく、身体的な居心地の良さがあったと思われる。だがそのことを根拠に、セクソロジー前夜には女同士の強い愛情が存在しえたと述べるのは、「ロマンティックな友情」の片面だけを見ることになるだろう。むしろどのように強い絆であっても、女同士の関係には性的含意はなく、あくまで「ロマンティックな友情」であり、したがって当時すでに存在しつつあった異性愛制度を侵犯しないとみなされていたという、女同士の愛の不可視性と、それを成り立たせている女のセクシュアリティの無視の方を問題にすべきだろう。」

    「日本の場合は、吉屋信子などの少女小説が読まれ、女学生の「ロマンティックな友情」が流行した昭和初期にはすでにフロイトが紹介され、同性愛差別がはじまっていた。にもかかわらず、一九世紀中葉のアメリカ合衆国と同様に、女同士の愛は結婚制度と抵触せず、むしろそれを補完する制度とみなされた。その理由は、女同士の愛も、結婚制度のなかの異性愛と同様に、女にとっては同じ位相で(性に受動的というファンタジーで)、「正しいセクシュアリティ」の規範に合致していたためである。たしかにジェンダー区分が強力に稼働しはじめる産業資本主義の勃興期は、〔ヘテロ〕セクシズムの形成期として、「ロマンティックな友情」が社会的に受容されやすい状況であった。だがこれは一九世紀のアメリカ合衆国や昭和初期の日本というように、けっして歴史的に局所的なものではない。女/男のセクシュアリティを非対称的に捉え、女を脱性化するセクシュアリティの配置が続くかぎり、つねに浮上してくる女のセクシュアリティおよび女の同性愛の無化と不可視性であり、現在でも依然としてそれは続いている。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著

    「異性への初恋と同じぐらい甘美で、ほとんど情熱的な同性への友情を経験しない女はほとんどいないだろう。長く続かないかもしれない──実際、長く続くことはほとんどない。だがこれは、人の心が経験しうるかぎりもっとも純粋で、もっとも献身的で、もっとも無私な情愛なのである。たいていの人にとって、これは愛と呼ぶ感情にきわめて近い。つまり、もっとも高尚なかたちの愛で、利己心や官能とは無縁なのである。……  だがこれは本物ではない──じつは友情でもなくて、愛の一種の先触れなのだ。これは、少女がいずれ経験する情熱と同じくらいに嫉妬深く、つらく、理性とは無縁で、同じくらいに強烈な幸福感と比類ない惨めさに満ち、第三者には滑稽にみえても、当事者たちにとっては同じような躍動感にあふれ、同じように真面目なものなのだ。しばらくのあいだ、いやそのあとも長く、この愛は女の世界を彩ってくれる。だがやはりこれは夢でしかない。愛が訪れると、それは夢のように消えていく。( Craik 136-37強調クレイク)」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著

    「まさにこの文脈で、白人中産階級の女同士の愛は容認されたのみならず、(消極的にではあるが)推奨もされた。南北戦争直後に男女の人口比が不均衡になったこと、一九世紀後半に女の大学進学がはじまったことなどから、おもに北東部において「ボストン・マリッジ」と呼ばれる女同士の同居が存在した( Faderman, a)。その背景には、資本主義社会の核家族では、未婚の女を扶養できる所得を得られる家庭が限られたために、非婚の女を核家族の外に出しつつ、中産階級の性倫理をまもるという矛盾した社会的要請があった。  また女同士の同居の形態がおもに東部にみられたとはいえ、ピューリタンの厳格な性倫理を連想させる「ボストン」という地名と、「結婚(マリッジ)」を結びつけた「ボストン・マリッジ」は、この撞着語法によって女同士の同居から性的含意を抜きさり、女同士の同居をイデオロギー上、可能にしたと言える。だからこそ、このあとしばらくは、同居する者が女の権利に芽生えた「新しい女」になろうとも、性差別の根幹にあるセクシュアリティが曖昧にされていたために社会的にさほど問題にならず、さらには、そもそも強制された性役割に異議を申し立てているはずであった「新しい女」の「自主独立」や「進歩的姿勢」がアメリカ・イデオロギーに吸収されて、中産階級の白人の女だけの同居が、優生学的にみて「純粋さ」を標榜する国家理念に重ね合わされることすらある。ニューイングランド(ボストン)の自主独立のピューリタン精神、独立戦争の大義、民主主義の国家アイデンティティというイデオロギー的系譜のなかに、ボストン・マリッジが組み込まれていくのである( McCullough)。したがってこの社会制度は、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて、すでに同性愛の抑圧が開始されたのちも、白人中産階級というお墨付きのおかげでしばらく延命することができた。例をあげれば、当時出版界に絶大な影響をもっていたジェイムズ・ T・フィールズ(若き日のナサニエル・ホーソーンの原稿を何度も書き直させた編集者)の妻アニーは、夫が死亡したのち二七年間も、女性作家サラ・オーン・ジュエットと同居していた。ジュエットは「マーサのレイディ」(一八九七年)という女同士の情愛をテーマにした作品を書いているが、レズビアン研究がおこなわれる最近まで、文学史上では単にニューイングランドの「地方色」の作家として扱われるのみだった。ジュエットは、一世代のちのウィラ・キャザー(最近のレズビアン研究ではレズビアンだったと推察されている)が師とあおいだ作家である( 8)。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著


    「このような精神風土のなかで女同士の絆をえがく当時の文学表象は、女の作家と男の作家のあいだに興味深い対照をみせている。たとえばナサニエル・ホーソーンの『ブライズデイル・ロマンス』(一八五二年)やオリヴァー・ウェンデル・ホームズの『エルシー・ヴェナー』(一八六一年)や『道徳的嫌悪』(一八八五年)では、女の絆は、結局、異性愛に回収され、そこにはほとんど何の留保もない。だが女の作家の場合──とくに現代でいうレズビアン的要素を濃厚にもっていたと推察される作家の場合──には、かなり直截に女の絆が描出されたり(メアリー・ウィルキンス・フリーマン「友だち二人」(一八八七年))、またプロットが異性愛に回収される場合も、奇妙な捩じれをみせている。その意味で、ルイーザ・メイ・オルコットの小説『職業──経験の物語』(一八七三年)は、家事/職業、中産階級/労働者階級、女の従属/女の自立、女の友情/女同士の情愛、結婚/ボストン・マリッジをたくみに交差させて、「正しいセクシュアリティ」の表象とその攪乱の両方の機能を有するテクストとなりおおせている。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著

    「しかもクリスティが結婚を選択した直後、南北戦争が勃発し、従軍した夫は戦死する一方で、離れ離れになっていたレイチェルとは都合よくめぐりあい、最終的に二人は同じ家で生活し(ボストン・マリッジ)、近隣の女たちと女同士の集まりを主催して物語は終わる。この小説は、本来、相同形に重ね合わされるはずの女のジェンダーとセクシュアリティを巧みなプロットで時間的に分離し、かつ全体の構造を教養小説のジャンルに統合し、それによって女同士のエロスを個別的な場面では濃厚に描写しながら、プロット全体としては「レズビアン連続体( 9)」を連想させる脱性化された女の連帯にすりかえるという離れ業をみせている。だからこそこの小説はモラルの検閲をまぬがれ、爆発的に売れて、オルコットは連載と本の出版によって合計八〇〇〇ドルの収入を得、それまでの借金をすべて支払うことができた( 10)。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著


    「 『職業』の最後では、「老いも若きも、黒人も白人も、金持ちも貧しい人も、愛し合う姉妹の仲間が一緒になって」( b 343)というユートピア・ヴィジョンが語られる。しかし一九世紀の作法書には、良家の娘を召使と同じ部屋に寝させてはいけないというくだりがある( Wood)。その理由は、労働者階級の女には同性間の性愛という「悪弊」が宿っているからだと仄めかされる。経済的必要にせまられて工場や店舗(家庭の外)で労働する女は、性的に「堕落」した存在であり、たとえ現在は娼婦ではなくて単なる工場の賃金労働者であっても、いつ娼婦に「転落」するかもしれぬ性的な存在とみなされた(そのイデオロギーを再生産したのが、当時流行したメロドラマ小説である)。しかも家庭の外にいる娼婦には、生殖゠性器中心のセクシュアリティの拘束が課せられない。したがって下層階級の女一般に女同士の性愛の慣習があったかどうかは問題ではなく、「正しいセクシュアリティ」の拘束の外にいる者が有する蓋然性としての女の欲望の可能性に、中産階級は敏感に反応したと言える。それは人種においても同様だった。黒人女は生得的に「淫ら」とされ、女同士の性愛の危険性があるとみなされた。あるいは、女同士の絆は、白人の女主人に対する忠実な黒人のメイドという当時の常套句に吸収されてしまった。前者の場合は、一九二〇年代のハーレム・ルネサンスにおいて、さらに人種偏見を伴って商品化されていくと考えられる( 11)。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著

    「他方、実際に労働者階級や白人以外の人種(アフリカ系アメリカ人やネイティヴ・アメリカン)のなかに、男装して、男として通した女たちがいたことも事実である。だがその理由は、かならずしも同性への愛情が第一義ではなく、経済的要因が大きかったと報告されている( Faderman, b; D ʼ Emilio/ Freedman)。当時女が自活できるだけの給料を得ることはむずかしく、教育の道が閉ざされている労働者階級や非白人の女はなおさらだった。そのような経済的・社会的条件が、彼女たちを男装させる大きな理由となった。もちろん男として「通す」ために、女と結婚する手段をえらんだ女(ルーシー・アン・ロブデル)や、売春宿に通った女(ジーン・ボネット──娼婦と寝ているところをポン引きに殺された)もおり、多くの場合は同性との情愛や性愛の経験があったと思われる。そして彼女たちの多くは、女のジェンダー役割に批判的であり、このことは、それからほぼ一〇〇年後の一九七〇年代から八〇年代前半にみられた「政治的レズビアン」の選択にきわめて酷似するものである。換言すれば、労働者階級や非白人の男装者には、同性愛者という明確な同性愛アイデンティティが存在したわけではなく(このことは同性愛を否定するものではない)、階級や人種をまきこんだジェンダー区分への異議申し立てとして、同性との情愛や性愛が構築されていったということだろう。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著




    「資本主義の進展による労働市場の拡大と人口の都市部への移動で、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコといった都市が急成長し、一九二〇年代にはこのような都市のなかに、性の自由を謳歌するコミュニティが誕生し、そのなかで同性愛というセクシュアリティはボヘミア的な性スタイルのひとつとして実体が与えられた。このようなコミュニティは、「ロマンティックな友情」の時代に生きているのではなく、すでにセクソロジーによって「ものごころついたときから自分がレズビアンだと自覚し」(記録映画『ナイトレイト・キス』)、それを世間から隠さなければならなかった人々にとって、まさに解放区であった。右記の映画のなかでインタヴューされているレズビアンが、グリニッジ・ヴィレッジで一人の女に出会い、はじめて女と恋人同士になることができたと語っているのは、同性愛嫌悪の社会のなかでゲイ・コミュニティが果たした役割を示すものであり、その意味でゲイ・コミュニティの機能はけっして軽視すべきではない。だが彼女はそのさいに、「ヴィレッジ〔村〕というのは白い垣根と森と草原のある本当の村だと空想していたのです。そして、この美しくすばらしい小さな村にレズビアンが住んでいるのだと思っていました」と語る。「いつも自分をレズビアンと感じ、先生、友人、近所の人……、とにかくいつも女に夢中だったが、行動には出られなかった」彼女に、グリニッジ・ヴィレッジはレズビアン・シーンを提供した。しかしそれは、「森と草原」のレズビアン・シーンではない。彼女が参入したレズビアン・シーンは、一方に資本主義の余剰価値の蓄積によって性の自由を美化し、他方で頻繁な警察の手入れのせいで同性愛嫌悪を内面化し、さらには男装によって同性愛を具現化するという、歴史的に固有なレズビアン・アイデンティティを構築する場所であった(もちろん「森と草原」型のレズビアン・コミュニティがかりに存在するとして、それが普遍的だということではない)。そして都市のレズビアン・シーンにみられた性の奔放さや、男役/女役の役割演技の強調や、同性愛嫌悪の内面化による二律背反的な性自認は、女の同性愛のある種の形態を生みだした。それは女のホモセクシュアリティという形態である。」

    約一年間かけて竹村和子の『愛について』の序論、第4、5章を読み終えました。『愛について』の残りの章は各自が読むことにして、読書会は次のテキストに進もうと思います。(続

    「他方、女の同性愛の性愛化が、のちの女の同性愛文化に与えた否定的な側面は、その性愛至上主義である。一九二〇年代になって、女がはじめて自分の性自認を実行することができた数少ない場所が、都市のサブカルチャーであり、そこでは消費社会の台頭期特有の性の自由が謳歌されていたことは、近代の性倫理を「性慾」を中心に理論化する精神分析の言説とあいまって、女同士の絆を定義するさいに性愛を特権化することになった。すなわちレズビアンとは、女に対する性的欲望を明確に自覚し、それを実践したいと思っていたり、あるいはすでに実践したことがある者だという定義である( Stimpson)。リリアン・ヘルマンの戯曲『子供の時間』(一九三四年)は、少女の悪意ある作り話のせいで、逆に自分の同性愛を自覚する話だが、戯曲においてもその映画版(一九六一年、邦題『噂の二人』)においても、二人の女教師が同性愛だと断定されて弾劾されるのは、二人の性交渉(これは暗示されているだけである)を少女が「夜、鍵穴から」( Hellman 54)覗いてみたと主張することによってである。反面、二人が一緒に生活し「とても親しく……友達のように愛していて」( 70-71)、仲良く「夜、映画を一緒に見にいったり、ときには夜、一緒に本を読んだり、お茶を飲む」( 53-54)行為は同性愛ではなく、同性愛の前触れですらないとみなされた。表面的にはレズビアニズムと呼びかえられる女の同性愛ではあっても、そこにはかならず性交渉が伴わなければならないという解釈学が、暗黙のうちに流通していたのである。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著

    「このような文脈のなかで欲望を否定されている女の同性愛の性自認は、二重にも三重にも屈折したものとなる。なぜなら、非対称的なジェンダー配置にもとづいて設定される非対称的なセクシュアリティの配置において欲望から疎外されている女は、欲望をもつ主体となることによって、〈個人化〉を体験することになるからだ。資本主義社会において自律的な〈個〉であることは、公的場所で活動する個人(ジェンダー区分では男)を意味するので、女の欲望の獲得と個体化は、男化を含意するものである。この意味で、あくまで歴史的過程においてではあるが、二〇年代の女の同性愛のもっとも可視的な部分が、労働者階級であれ、中産階級であれ、男装のレズビアンであったことはむべなることである。たとえ男装のレズビアンを補完する女装のレズビアンが存在してはいても、アリス・トクラスよりもガートルード・スタインが、メアリーよりもスティーヴンが(『孤独の泉』一九二八年)というように、女装のレズビアンは看過され、男装のレズビアンがより可視的な存在として流通していた。『孤独の泉』については一九八〇年代においてすら、作者ラドクリフ・ホールは「レズビアニズムと「男っぽさ」を結びつけてしまった」ために、「(女っぽい)メアリーに対しては一貫した人物造形ができず、たやすく物語から放逐してしまい、その結果小説の力が弱められて、結末の〔エピソードの〕妥当性がなくなった……メアリーの本当の物語はこれから語られなければならない」( Newton 575強調引用者)と評されるほどである。女役の分析がなされるようになるのは(たとえば Hamer)、わずか一二年前、一九九〇年のことである( 18)。男装のレズビアンは、服装コードや行動コードで規制されている男らしさ/女らしさのジェンダー配置を攪乱する存在であるゆえに、〔ヘテロ〕セクシズムは、異性愛主義ではなく性差別の言語をつかって、女の同性愛を弾劾しようとしてきたのである。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著



    「一九世紀末から二〇世紀初頭にかけてのセクソロジーの隆盛とともに、同性愛差別が大規模に開始されたと言われている。だが女の同性愛の場合は、異性愛主義によって一枚岩的に抑圧・禁止されたわけではない。異性愛主義と性差別という二つの言語をもつ〔ヘテロ〕セクシズムのイデオロギーは、数少ない自己表現の場(酒場であれ、上流階級のサークルであれ、文学表象であれ)を模索しはじめていたレズビアンの試みを巧みに取り込み、欲望と個体化、セクシュアリティ配置とジェンダー配置、レズビアン・エロスの禁止と搾取の両方を都合よく行き来しながら、女の同性愛の表出を二重、三重にも封じ込めていったのである。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著


    「その結果、学歴が高く専門職を身につけた高所得の同性愛者は、一部の異性愛者と同様に個人消費を享受することができ、旧来の家族尊重主義の規範にしばられないセクシュアリティを追求することができるが、そうでない多数の同性愛者は、とくにレズビアンは、異性愛主義と性差別が解消されていない社会構造のなかで、自分たちを代表/表象する声を以前よりも奪われるという事態が発生する。サラ・シュールマンが言うように、「ゲイとレズビアンの世界に階級闘争が起こっている」のである( 24)。もちろんエリートのレズビアンやゲイ男性が、同性愛者差別と無縁に生活しているわけではない。だが人種のなかに分断がおこって人種差別の解決がさらに困難になる七〇年代以降の現象と同じものが、九〇年代以降の同性愛者に起こらないという保証はない。さらにこのようなエリートの同性愛者を生みだす土壌が後期資本主義の経済活動であるために、さきほどの男女のステレオタイプのレトロ的再生産とはまたべつのかたちの、同性愛の取り込みが発生する。それはセックスレスな商品のイコンとして、レズビアンやゲイ男性が使われるということである。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著


    「このような時代では、ジェンダー配置に結びつかない商品が、家庭を離れた個人を対象に生産・消費され、商品のユニセックス化、セックスレス化が進む。そして商品のユニセックス化やセックスレス化に貢献するのが、イメージとしてのゲイである。その典型が、スーパーモデルのジェニー・シミズとデザイナーのカルバン・クラインの関係である。ジェンダー区分によって文化的に区分けされていた男女の身体は、ジェニー・シミズの短髪で起伏の少ない肢体によって横断され、「自然」であるはずの身体の表面は刺青とピアスで「人工的」に造形される。カミングアウトしたレズビアンであるシミズは、カルバン・クラインのセックスレスの商品にきわめて効果的な背景を提示する。だが彼女自身は、カルバン・クラインのセックスレスの商品のモデルとなることによって、自分のレズビアン・エロスを脱色され、セックスレスのイコンとして消費されていく(海をこえて日本では資生堂のモデルとなった)。たしかにカルバン・クラインの商品を購入した若者は、それを身につけることでゲイ的な存在になる。だがそのときのゲイネスは、カルバン・クラインがその頃発売した男女両用の香水の名前が「ワン( One)」であることに象徴されるように、ジェニー・シミズからレズビアンのエロスを無化してしまったゲイネス、男女の区分も同性愛/異性愛の区分もとりはらったゲイネスである。それはある意味で、ウィティッグが主張する男女の二分法のかなたの理想的な地平かもしれない。フーコーの言う、「アイデンティティのない幸福な中間状態」かもしれない。デ・ラウレティスの言う、レズビアン/ゲイの階層秩序を乗りこえたクィアの境地かもしれない。だが性差別と異性愛主義を残したままの社会のなかで商品 =記号として循環するゲイネスは、〔ヘテロ〕セクシズムの抑圧構造をおおいかくす暗幕にすぎない。ジェンダーを横断するレズビアンやゲイ男性は、ゲイとしてのセクシュアリティを声高に主張できるようになりはじめた九〇年代に、皮肉なことに彼女たちのエロスを無化するかたちで、後期資本主義社会のイコンとなっていくおそれが出てきているのである。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著

    「ここに第二の課題が浮上する。それは、同性愛の具体的な表出を現象として、歴史的文脈のなかに位置づけることである。これまで述べてきたように、同性愛、とくに女の同性愛は、異性愛主義によってだけではなく、性差別と異性愛主義という二つの言語によって生産され、分節化され、またその言語を介在させて現実化されるものであった。同性への情愛は、〔ヘテロ〕セクシズムのパラダイムのなかで自他ともに説明され、抑圧あるいは実現されてきた。したがって同性愛をめぐっては、何をもって同性愛と断定するか、同性愛のセクシュアリティとは何か、同性愛は社会のなかでどのように表出されてきたのか、レズビアンの「欲望」は普遍的な実体をもつのか。逆に言えば、異性愛者と自認するフェミニストの性幻想はどのように説明すればよいか。トランスセクシュアルは同性愛者なのか、異性愛者なのか、女なのか、男なのか。つまりは、性にまつわる多様な関係を、異性愛者と同性愛者という二つの固定したカテゴリーのなかに押し込めることこそ、近代がつくりだした幻想の二元論ではないか、といったさまざまな問題が生まれてくる。そういった問題に対する系譜学的な検討なしに、同性愛を普遍的で純粋な実体としてその解放を求めることは、逆に同性愛を、現実から遊離した記号として後期資本主義の経済活動に参与させることになってしまう。男女の身体を横断するドラァグや、ジェンダー区分を無効にするゲイネスは、根無し草のような浮遊概念ではなく、〔ヘテロ〕セクシズムという歴史的文脈のなかに足場をもつ具体的な現象である。異性愛を強制する制度は、異性愛/同性愛という階層秩序のみならず、異性愛を自然化するために男/女の二分法を必須のものとし、それにのっとった規範的な男女のジェンダー配置やセクシュアリティ配置を特権化してきた。したがって次代の再生産を、「特権」の名をかりた強制のもとに、ある特定の異性愛の男女が引き受けている社会で、逆に言えばレズビアン・マザー、シングル・マザー、シングル・ファーザー、ドメスティック・パートナーシップ、ゲイ・カップルの養子縁組などを、社会的、経済的、法的に承認・整備しないままの社会で展開される同性愛の概念は、ますます複層化する〔ヘテロ〕セクシズムの抑圧構造をさらに見えなくすると同時に、それを推進するものにもなる。」

    「欲望が何かを「求める」ものであるかぎり、欲望は欠如の別名である。そして人間にとって、欠如を埋めるものは、欠如したもの自体ではなく、置換によって代理されたものとなる。なぜなら泣き叫ぶ幼児の要求を言語化して聞きとる養育者をつうじて、快感の満足を与えられる人間は、生存の与件において、すでに言語という「欠如」と「置換」を前提としているからだ。言い換えれば、要求はつねに言語によって翻訳され、したがってつねに置換され、始源にあるものは、それ自体を取りだすことはできない。むしろ言語的な存在の人間にとって、言語以前に何かがあると語ること自体が、自家撞着を起こすものとなる。あるいは始源にあるものは、「始源にある」という表現のなか、その認識のなかにのみ存在すると言ってよいかもしれない。いわばそれは、「それ以降」を構造化して説明するための「不在の在」でしかない。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著

    「その矛盾を解消するために、フロイトは発達という概念を導入し、幼児期において全方向に開かれていたリビドーの放出が、成長の過程で「とくに際立った性感帯」( a 233)──男の場合は亀頭、女の場合はクリトリス──におかれるようになると言う。しかも彼によると、クリトリスは直接に生殖に寄与しないために、女は「クリトリスから膣の入口へと、性感帯の感受性をうまく移転させ」なければならず、「男性的なものを排除するこの抑圧」が思春期におこなわれるために、女は神経症やヒステリーにかかりやすく、また女独特の性質が形成される(女の二重の困難)( a 221)。したがってフロイトのいうリビドーとは、亀頭 =射精を念頭においた「能動的に」対象に向かうエネルギーであり、その意味において、リビドーは男性的なものとなる。もちろんフロイトは繰り返し、男性的 =能動的なリビドーを、けっして生物学的な性差に還元して理解すべきではないと断ってはいる。女性的とは「受動的目標を好む」ということではあっても、それは「受動的ということと同義ではなく、受動的目標を達成するには多くの能動性を必要とすることもある」と補足する( n 115)。だがリビドーを性器に統合させる発達論で捉えるかぎり、またたとえ「(女が受ける)社会慣習の影響を軽視すべきではない」──つまり女は作られる──と断っても、この社会慣習が「(性的機能と)同様に、女を受動的な状況へと追いやる」( n 116強調引用者)と言うかぎり(なぜなら性的機能とは、「けっして動かず、受動的に待つだけの卵子という女の性細胞」( n 114)の機能であるから( 4))、フロイトのリビドーの議論には、男の亀頭から女の膣へという一方向の運動──生殖イデオロギー──が深く刻まれ、その結果、「リビドーはただ一種類しかなく……「女性的なリビドー」はありえない」( n 131)という説が正当化されることになる。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著

    「端的に言えば、近代市民社会の「正しい」異性愛──生殖という目的論をもつ家庭内の異性愛──の場合、愛の困難を経験するという快楽が希釈されている。言葉を換えれば、エロスの不可能性を都合よく忘れるための仕掛けが施されている。「愛の経験」の節で述べたように、あなたが欲望しているわたしは、あなたの欲望のなかにのみ存在し、そのような幻想のわたしを差し出すわたしは、つねにわたし自身の愛から疎外される。またすでにあなたの欲望が書き刻まれているわたしの欲望は、その幻想をあなたに重ねているために、わたしの愛はあなたへの愛につねに失望し、その失望がまた愛を生む。だがこの愛の疎外と失望こそ、エロスを構成するものである。逆説的な言い方をすれば、疎外と失望がないまぜになった快楽──おののきと恍惚──がないところにエロスはない。言語は人間に、本能的な交接ではなく、性愛を与えるが、言語はまた人間から、性愛を奪うものでもある。したがって、言語が人間にもたらすものは、予定調和的なエロスではなく、「不可能なエロス」のはずである。」

    —『愛について アイデンティティと欲望の政治学 (岩波現代文庫)』竹村 和子著







  • ふむ

  • 書ききれないが、人生で大切な一冊になることは確か。

  • 第1章はふつうに為になる。
    第2章「愛について」がいちばんおもしろかった。精神分析の〔ヘテロ〕セクシズムを精緻に批判して取り除いていったうえで愛の不可能性の議論に到達するロジックと文章の美しさ。
    第3章「あなたを忘れない」は、自分が「女」ではないため母-娘関係の議論に自分事として深く感情移入しながら読むことはできなかったが、そうして辿り着いた「「不在」の子供への呼びかけ/母に対する娘の呼びかけ」をまさに実践するかたちでの終盤の誌的でありながら論理的な総まとめの文章の連なりには圧倒された。
    たほうアイデンティティが主題となる後半の3, 4章は抽象的で難解過ぎて今の自分にはしっかり付いていくことができなかった。

    この密度の哲学的なフェミニズム批評書を一冊読み通すのは初めての経験だったが、竹村和子がさまざまな意味で稀有な思想家であり書き手であったことだけはまざまざと思い知らされた。

  • 東2法経図・6F開架:B1/8-1/441/K

  • 再読する。三宅夏帆さんが文庫化の知らせに対して「名著」と言っていたことから借りてみた。読み始めるまで知らなかったけど、性差別と異性愛主義についての論文集。フェミニズムの理論を述べるのにここまで多くの哲学者の名前が出てくるんだとビックリ、そして全く知らない分野だったので、理解できないところ(特に4.5章)が多かったけれど、理解できるようになりたい。

  • 【蔵書検索詳細へのリンク】*所在・請求記号はこちらから確認できます
     https://opac.hama-med.ac.jp/opac/volume/461378

全10件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

元お茶の水女子大学大学院人間文化研究科教授。お茶の水女子大学大学院修士課程修了。筑波大学大学院博士課程退学。人文科学博士。琉球大学名誉博士。専門は英語圏文学、批評理論。2011年死去。主な著書に『境界を撹乱する――性・生・暴力』『愛について――アイデンティティと欲望の政治学』、『思考のフロンティア フェミニズム』(以上、岩波書店)、『文学力の挑戦 ――ファミリー・欲望・テロリズム』(研究社)、『彼女は何を視ているのか――映像表象と欲望の深層』(作品社)、『かくも多彩な女たちの軌跡』『女というイデオロギー』(以上、海老根静江との共編著、南雲堂)など。

「2021年 『問題=物質となる身体』 で使われていた紹介文から引用しています。」

竹村和子の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×