『銀河鉄道の夜』は宮沢賢治の代表作として有名ですが、この作品
が実は未完であったことはあまり知られていないかもしれません。
第一次稿が書かれたの1924年頃。それから7年余の歳月をかけて第
四次稿まで推敲が重ねられるものの、ついに決定稿には至らなかっ
た作品なのです。
本書は、その第一次稿から第四次稿までの変遷を辿りながら、宮沢
賢治がこの小説で何を言おうしたのかを読み解いていきます。この
時、著者の鎌田氏が注目するのが、稿を重ねるごとに深まっていく
主人公ジョバンニの「孤独」です。本書は、この孤独の意味を探る
ことに主眼が置かれています。
ジョバンニは、「みんなのほんたうのさいはひ(=本当の幸)をさ
がしに行く」という願いと志を持っています。宇宙のどこまででも
行ける銀河鉄道ならば「ほんたうのさいはひ」を見つけることがで
きるかもしれない。そうジョバンニは期待します。
しかし、その旅の道行き自体が孤独なものであることにジョバンニ
は気づかされるのです。「どこまでも行こう」と誓い合った親友の
カムパネルラですら、自分とは違うものを見ているし、永遠の存在
ではない。その現実を前にジョバンニの心は揺れます。
ジョバンニの孤独は、道を求めるものが必然的に抱える孤独なので
しょう。それはまた、「世界のぜんたい幸福」という道を求めてい
た宮沢賢治自身が抱えていた孤独でもあったはずです。孤独にうち
震えながら、どこまでも道を求め続ける賢治の弱さと強さ。
本書には『銀河鉄道の夜』の第一次稿から第四次稿の全文が掲載さ
れています。学生時代以来、本当に久しぶりに『銀河鉄道の夜』を
読んだのですが、そこに描かれたイメージの美しさと豊穣さには思
わず息をのみました。こんなにも美しい作品だということをすっか
り忘れていました。そして、悩み続け、挫折し続けながらも、なお
「遠く」を求め続けた賢治の孤独。その孤独の深さと清冽さが賢治
の作品の魅力なのだということを本書は教えてくれます。孤独を受
け入れることから、人の成熟は始まるのだ、ということも。
孤独の意味について考えさせてくれる一冊です。是非、読んでみて
下さい。
=====================================================
▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)
=====================================================
なぜジョバンニはこれほど孤独なのか。この孤独がなければジョバ
ンニの物語は始まらないし、銀河鉄道の旅も「ほんたうのさいはひ」
の探求も生まれない。ほんとうの旅は独りになることから始まるの
だ。
『銀河鉄道の夜』の第一次稿から第四次稿までを読んで思うのは、
このジョバンニの孤独の深まりと、そこから響きわたる「ほんたう
のさいはひ」を探しに行くことの不可能性の探求にも似た、祈りと
も叫びとも悲願ともいえる深さと重さである。
これほど強く「みんなの幸」を求めている人が、どうしようもなく
「みんな」から外れていて深い孤独の中に沈んでいるという逆説的
な事態。ジョバンニのこの孤独感を癒す人はどこにもいない。ジョ
バンニは癒されることがない。それがこの『銀河鉄道の夜』のもっ
とも深い魅力の源泉ではないだろうか。
「どこでも」、そして「どこまでも」行ける切符をどこかから与え
られたということは、逆にいうと、「どこでも」「どこまでも」行
かなければならないという使命・ミッションを受けたということで
ある。ほとんど永遠という遠さへの旅への促しに押し出されてしま
っているということだ。それをジョバンニが望んでいようが、望ん
でいまいが、ジョバンニに「どこでも」「どこまでも」行けという
ミッションが与えられたということである。それがこの緑色の切符
の意味だろう。
これは、別の言い方をすれば、永遠に休まるところはないというこ
とである。この切符を手にしてしまったジョバンニにはもはや休息
というものはない。生涯を越えて駆けずり回らなければならないの
だ。ジョバンニの居場所はこの世のどこにもない。(中略)
それは、断念と悲と願を抱えて生きる道行きである。
誰もジョバンニを助けることはできない。その道を一緒に行くこと
はできない。教導者も助言者もいない。「師父」も「聖者」もいな
い。そこからジョバンニはこの現実世界に帰還していくのだ。解決
できるかどうかわからない大きな問題を「ひとり」抱え込んで。そ
れに耐えて。
だが、ジョバンニは最後にその孤独を引き受けたがゆえに孤独では
ない。運命を受け入れたものの自覚や覚悟がジョバンニに備わり始
めている。普通の意味での夢も希望もないが、もはや孤独でも絶望
的でもない。「みんなのほんたうのさいはひをさがしに行く」とい
う誓いが厳しく現実として立ちはだかっているばかりである。ジョ
バンニは自分独りでこの現実の中に入ってゆく。ジョバンニの帰還
とはそのような現実との直接・直面なのだ。媒介なしの、保護なし
の、防衛線なしの現実との直接。
『銀河鉄道の夜』がわたしたちをかくまで魅惑するのは、このジョ
バンニのどうしようもない孤独であり、それを推敲に推敲を重ねて
描きぬこうとした作者宮沢賢治の深く清冽な孤独である。夜空に輝
く青白い星のようなその孤独、である。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
●[2]編集後記
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
昨日は満三歳になる娘の七五三のお参りに行ってきました。
七五三の意味など、この歳になるまでまともに考えたことがありま
せんでしたが、「数え七つまでは神の内」という俗信に由来するも
のなのですね。子どもの生存率が低かった昔は、七歳までを無事に
のりきれるかどうかが、一つの分水嶺だったのでしょう。
「神の内」ということは、その年齢までは、人間界ではなく、神域
に属した存在だと思われていたということでもあります。確かに、
娘を見ていると、神の世界に遊んでいるのだな、と思わされること
が多いのです。
例えば、歌と踊りと共にある彼女の生活を見ている時、そういう思
いを強くします。「雨だね」と言えば「雨雨降れ降れ」と歌い出し、
「太陽が気持ちいいねえ」と言えば「手の平を太陽に・・・」と踊
り出す。それはまるでミュージカルのようで、遊びと暮しの境のな
い、歌と踊りに満ちた彼女達の毎日には、神話の世界で遊ぶ太古の
神々のありようを彷彿とさせられるのです。
小さい頃はこんなにも歌や踊りと共にあったのに、大人になると、
歌も踊りも特別な時のものになってしまい、遊びと生活が別々のも
のになってしまう。その節目に七五三があるのだと思うと、わが子
の成長を喜ぶと同時に少し哀しい思いもするのでした。