- Amazon.co.jp ・本 (345ページ)
- / ISBN・EAN: 9784006020538
作品紹介・あらすじ
二〇〇一年三月三十一日、満開の桜と春の雪に送られ、戦後歌舞伎の中心であり続けた六世中村歌右衛門が逝った。本書は彼を中核に据え、歌舞伎の本質的な構造と歴史的な意味を問い、それに対して女形を運命として生きた歌右衛門が何をしたか、彼自身の歴史を考察し、歌右衛門の芸が照らしだす近代人の生の意味を明らかにしようとする。
感想・レビュー・書評
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女形を運命として生きた六代目中村歌右衛のすがたをえがくことで、近代以降の歌舞伎のありかたについて論じた本です。
著者はまず、歌舞伎の構造について一般的な考察をおこなうところから、議論を開始します。著者は、ある「忠臣蔵」の舞台を手掛かりに、観客が鑑賞するのは個々の役者ではなく役者相互の身体の動きによってつくられる関係の「中心」であると主張します。
この「中心」は、吉本隆明の『言語にとって美とは何か』で語られる、「構成の力点」とみなすことができると語られます。そして、二代目市川團十郎は、歌舞伎界における「中心」を体現する「物心的人物」でありえたのに対し、その後は「物心的人物」のもっていた宗教性が世俗化され、歌舞伎界における「中心」のありかを人びとに示すような存在として「族長的人物」が登場することになったと著者は論じています。
つづいて著者は、歌右衛門が歌舞伎界における「族長的人物」の占める位置を継承しながらも、とりわけ戦後になって歌舞伎をとり巻く状況が大きくかわり、既存の「中心」が消失するなかで、近代的な個人として孤独な自己の美を追求した人物として、歌右衛門を理解しようとしています。さらにこうした著者の解釈は、「籠釣瓶花街酔醒」のなかで歌右衛門が見せた「笑い」に、その究極の表現が認められると論じられています。
中村歌右衛門の生涯における重要な出来事についても語られており、とりわけ父である五代目中村歌右衛門や、初代中村吉右衛門との関係などは、著者自身の解釈をまじえつつ、ある程度くわしく解説がなされています。ただし、本書は歌右衛門の評伝ではなく、あくまで著者の歌舞伎の見かたを背景に置いて、歌右衛門の演技を解釈した本というべきでしょう。詳細をみるコメント0件をすべて表示