-2004.11.13記
<秘すれば花>
秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず
花にも年経るにつれ折々の花あり、と。
「時分の花」
「まことの花」
「老骨にのこりし花」
「巖の花」
「萎れたる花」
「年々去来の花」
「因果の花」
などについて記す。
芸の花の、その風姿は「声」と「身形(みなり)」にあり。
芸能と云うものは、眼をよろこばせ、耳を楽しませ、
心にひびくもの、とや。
花は心、種(たね)は態(わざ)なるべし
<態>=<技>、か
心と技の一体化した芸に、<花>は咲く。
花と、面白きと、珍しきと、
これ三つは同じ心なり。
散る故によりて、咲く頃あれば、珍しきなり。
咲くゆえにこそ花であり、また、散るゆえにこそ花である。
―― 人の目放しがたく思わせる変化そのものこそ、
―― 不変の花の真理であること。
<物狂>-面白尽くの芸能なり -2005.05.10記
風姿花伝にまねぶ-<14>物学(ものまね)条々-物狂(ものぐるひ)
此道の、第一の面白尽くの芸能なり。
物狂の品々多ければ、この一道に得たらん達者は、十方へ渡るべし。繰り返し繰り返し公案の入るべき嗜みなり。
仮令(けりょう)、憑き物の品々、神・仏・生霊・死霊の咎めなどは、その憑き物の体を学べば、易く、便りあるべし。
親に別れ、子を尋ね、夫に捨てられ、妻に後るる、かやうの思ひに狂乱する物狂、一大事なり。
よき程の為手(シテ)も、ここを心に分けずして、たゞ一偏に狂ひ働くほどに、見る人の感もなし。思ひ故の物狂をば、いかにも物思ふ気色を本意に当てゝ、狂ふ所を花に当てゝ、心を入れて狂へば、感も面白き見所も、定めてあるべし。
かやうなる手柄にて、人を泣かする所あらば、無上の上手と知るべし。これを心底によくよく思ひ分くべし。
能において物狂いは、演者にとっても観客にとっても一番面白い芸だ、という。
物狂いにもいろいろなものがある。
野上豊一郎氏の「物狂考」においては、
1. 恩愛の情からの物狂い
2. 恋慕の情からの物狂い
3. 主従の情義からの物狂い
4. 憑き物からの物狂い
5. 境遇等からの物狂い と分類している。
ことほどに物狂いの役柄、風体はまことに多様で、この道に「得たらん達者」はあらゆる風体に通じる者といえるだろう。
また、「繰り返し公案」して物狂いの面白さを極めていくことが大事だろう。
世阿弥が一大事と強調するのは、同じ物狂いでも、親子や夫婦などの人情に発する物狂いの演技についてである。
達者と世間で評判のシテでも、なにゆえの狂気かとその心情をしっかりと分別もしないで、どれもこれもただ一様に面白く狂って見せるのは、技はあっても観る者に感動を与え得ない。思いゆえに心乱れた者を演じるには、その心の内の懊悩をばなによりも大事に捉え、狂いの所作を面白味として加え、しっかりと心を込め工夫して演ずれば、感動も面白味もふたつながら備わった演技となる、というのだ。
主題としての愛別離苦の人としての悲哀と、面白味としての狂いの芸を、いかに調和させるかを世阿弥は一大事とし、それを為しうるシテを「無上の上手」としたのだ。
「面白う狂うて見せ候へ」との求めに応じて、狂乱の演技へと入っていける狂気の自己肯定には、それがいかに悲劇的状況にあってもその悲劇性をあからさまに表立てないで、しかも観る者の人情に訴えうる力を信じた、自然な方法としての自己救済があった、と見える。それゆえに、これら物狂いの人々は、契機さえ得ればおのずから逃れでて常人に回帰することが可能な狂気ともいえよう。