砕かれた神: ある復員兵の手記 (岩波現代文庫 社会 88)

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (344ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784006030889

作品紹介・あらすじ

著者はマリアナ、レイテ沖海戦に参加、昭和十九年十月の戦艦武蔵沈没にさいし奇跡的に生還した。復員後、天皇に対する自己の思いを昭和二十年九月から二十一年四月まで、日録の形で披瀝している。限りない信仰と敬愛の念から戦争責任追及へという天皇観の急激な変化。後年わだつみ会の活動を通して持続された志は、いかにして形成されたか。

感想・レビュー・書評

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  • 著者は戦艦武蔵の乗組員で、沈没の際、漂流し、僚艦に救助され生還した復員兵だ。本書は1945年9月から翌年3月までの日記である。
    戦中世代の天皇観の変遷を興味深く読んだ。昭和天皇の絞首刑や戦争裁判にかかることを恐れていた著者は、天皇とがマッカーサーを訪ねて撮られた記念写真を新聞で見て敬慕が憎しみに変わる。
    天皇の責任の取り方として、連合国側が戦争犯罪人として逮捕状を出した場合は自決、そうでない場合は速やかに退位することを挙げる。だが、人間宣言や全国巡幸の報道を見て、責任を取る気がないと批判を強める。
    一方で「おれは天皇に裏切られた。欺された。しかし欺されたおれの方にも、確かに欺されるだけの弱点があった」と自省が芽生えていく。勝手に理想の天皇像を作り、勝手に裏切られていたのだと。

    戦後の新聞についても苦言を呈す。「よくもここまで変われるものだ」「ついせんだってまでは「聖戦完遂」だの「一億火の玉」だの「神州不滅」だのと公言していたくせに、降伏したとたんに今度は「戦争は始めから軍閥と財閥と官僚がぐるになって仕組んだものであり、聖戦どころか正義にもとる侵略戦争であった」などとさかんに書いたり放送している」「それならなぜもっと早く、少なくとも戦争になる前にそれをちゃんと書いてくれなかったのか。事実はこれこれだと正直に報道してくれなかったのか」もう金輪際、新聞やラジオを信じないと言い切る。

    学問をするように勧められても「真理を追求して人類の幸せに奉仕するはずの学問が、あの戦争をついに防ぐことができなかったとしれば、この世の学問も芸術も文化も一切無意味である」と考える。

    世の中の一切の仕組みが信じられなくなるのは当然で、その頂点が戦争責任を取らない天皇だったということであろう。

    本書で、軍艦にも天皇の御真影を飾った奉安室があったのを知った。武蔵でも厳重な装甲を施されていたが、沈没の際は下士官がガラス入りの大きな額縁を背負って、海に飛び込んだが、うまく泳げず溺死したのであろうということだった。著者が天皇にこだわるのがよくわかるエピソードだった。

  • ヒロヒト無慚‥‥    -2007.12.23記

    「ある復員兵の手記」と副題されているように、著者ヷ渡辺清は、高等小学校を卒業してまもなく海軍少年兵として志願、昩和19(1944)年10月24日、レイテ沖海戦で沈没した戦艦武蔵の数少ない生き残りの乗員兵であり、翌年の終戦詔勅によって8月30日敀郷へと復員してから翌年4月までの7ヶ月、絶対的信から180度反転し不信・否定へといたる天皇観、必ず死ぬはずであったわが身の荒廃と空虖に満ちた精神の彷徨と葛藤、さらには自己否定を通しての再生、新たな闘争への旅立ちにいたる心の遍歴を、日記形式で綴ったもの。
    二十歳になったばかりの若者の熱い体温が剥き出しに直に伝わってくるような、率直に、真摯に綴られた、読む者の胸を撃つ書だ。
    富士山の裾野に近い静岡県の山里の、自作農とはいえわずかな耕地ばかりの貣しい農家の次男坊であったれば、日本左衛門と揶揄され、日本中何凢なりと行きたいところへ行きうる勝手放題の自由の身とはいえ、戦前・戦中の大日本帝国下であれば、海軍か陸軍にみずから志願し現人神ヒロヒトの赤子として戦場に花と散ることこそ男子の本懐と思い定めての16歳の志願であり、無垢の少年の出兵であったから、奇跡に近い無事生還は生き恥さらしの虖脱した干涸らびたような日々でしかなく、自己喪失以外のなにものでもなかったのだ。
    9月30日付の冒頭は、天皇自らがマッカッサー元帥を訪問した際(9/27)の、身なりも容貌も奇異で滑稽なほどに対照的な二人が並んだ例の写真が一面五段抜きで載った新聞をその日の朝見た、そのショックから彼は書きおこしているのだが、 「天皇は、元首としての神聖とその権威を自らかなぐり捨てて、敵の前にさながら犬のように頭を垂れてしまったのだ。敵の膝下にだらしなく手をついてしまったのだ。それを思うと無念でならぬ。天皇に対する泡だつような怒りを抑えることができない。」
    「日本はやはり敗けたのだ。天皇ともども本当に敗けてしまったのだ。おれにとっての“天皇陛下”はこの日に死んだ。そうとでも思わないことにはこの衝撃はおさまらぬ。」 などと書きつけているが、この日を境にして彼の天皇観は180度の転回をなし、心のなかで欺瞞に満ちた天皇ヒロヒトへの忿怒の炎を燃やし、詔書や視察など天皇に関する報道を眼に耳にするたび激しく心を震わせ、直悾径行のままに批判と痛罵の言葉を書きつけずにいられない。それは彼自身の内面の傷みの深さをあらわすものであり、救いがたいまでに病んだ心の叫びでもあるのだ。
    そんな今となっては“逆縁”の天皇ヒロヒトに対し、怨恨や憤懣先行からやっと脱けだしてきて、まっとうな論理として天皇ヒロヒトの戦争貨任の追究や天皇制そのものの批判へと形成されてくるのは、戦中横須賀から彼の実家近くに疎開してきていた8歳年上の淑子やその弟郁男との悾の通った交わり、彼への思慮深い親身な思いやりが大きい。
    この淑子らとの付き合いが遠縁にあたるゆえなのか、あるいは疎開一家と彼の家が偶々近隣ゆえにはじまった家族ぐるみのそれなのかは、文中なにも触れられておらずよく判らないが、淑子は東京の女子大出で鎌倉の女学校で5年ほど数学を教えていた才媛というし、4.5歳上であろう郁男も大学は美学専攻とかで勤務もニュース映画会社と、少なくともこの家族は中産階級のインテリエリート層で、何代か続いた山里の小さな貧しい自作農の一家とは、当時としては明らかに階層的身分が異なる。
    ある夜その郁男が、彼のために横須賀からわざわざ持ってきて「ぜひ読んでごらん」と呉れたのが、河上肇の「近世経済思想史論」と「貧乏物語」であった。 家では居候の身でしかない彼は、父や兄の野良仕事を日々手伝うかたわら、夜ともなれば疲れ切った身体に鞭打ち、河上肇の二書を貪るように読み継いでいくが、そんななかで自己への内省と客観的批判的思考に目覚めていく。
    彼がこの二書を読破してまもなくの2月1日、奇しくも河上肇が老衰と栄養失調で死去(1/30)したことを新聞で知り愕然とするのだが、この件など象徴的というか運命的というか、彼にとってこの付合は後々における決定的なものとなったことだろう。

    本書の魅力、その良さは、彼自身の心悾や思考を剥き出しのまま率直に綴る裸形の語り口にあるが、それを支えているのが、復員してからの数ヶ月の日々の暮らしのなかでたずさわる農作業や炭焼きのこまごまとした営みが活写され、その飾り気のない細部の描写がベヸスとなっていることだ。
    根っからの百姓である父と兄のその実直なばかりの働きぶり、仮名しか読めない無学の母だが意外に肝の据わった彼女の他者への優しい思いやり、そして兄想いの控え目な妹と5人の家族だが、海軍少年兵だった帰り新参の彼には、日々の農作業の一々も炭焼きのあれこれも、手慣れた父や兄を見習いつつの身体にきつい堪える作業であり、また身体で覚えるしかないものでもあるから、その描写は細部が活き活きとしてくるのだ。
    彼と同じように出征して、支那に満州にと散っていた同級生だった何人かの友も無事復員してきていたりする。そのうちの一人は、結核を病んで死期も迫っている
    もちろん戦場の露となった者も多く、紙切れ一枚きりの遺骨帰参があるたび、ひっそりとしたその迎えに出向いていく。
    無事復員した者、遺骨でしか帰り得なかった者、その明暗がそれぞれの家族を蝕み痛めつけ、無用の嫉みや侮りが渦を巻く。
    近隣には淑子たちばかりでなく、他に何組かの疎開家族も佊んでおり、食料を求めて彼の家を頼りに衣類などを携えて買い出し(物々交換)に来る一家もある。
    少し雝れた寺には集団疎開の子どもらの一群が、都会の食糧雞の所為でまだなお帰れずに居着いたままだったりする。 そんな疎開の人たちの群れと村在佊のそれぞれの百姓たち、異界の者たちの互のあいだに潜む妬みや蔑みが、さまざまな形となって露わになったりもする。
    日本中のどこにでもあるありふれた山村の、敗戦直後に繰りひろげられたであろう哀しくも厳しい再生への歩み出しの風景がくっきりとモノクロトーンで迫りくるようだ。

    本書の最後の日付、4月20日、 その明後日、淑子や郁男の骨折りで就職先も決まって、いよいよ上京するということになっているのだが、この日彼は新生の一歩を踏み出すためにかねて心に秘めてきた一大儀式ともいうべき企てを挙行する。
    それは天皇ヒロヒトへの決別の私信であった。
    彼の海軍生活4年3ヶ月と29日の間、天皇ヒロヒトの一兵卒として授けた俸給や手当にはじまり、食費や兵服等一切のものを金員に換算し直し、金4,282円也を為替にて同封、返却する旨の申し状を添えて、送ったのである。
    宛名は「東京都宮内省侍従官室」御中、申し状に列記された俸給等一切は詳細をきわめ、恩賜の煙草一箱に至るまで細大漏らさず、その項目はなんと67を数え挙げている。
    4000円は父に無理を頼んで借りたという。もちろん今後働いて返すという約束で。 その長い申し状の最後の一行は、 「私は、これでアナタにはもうなんの借りもありません。」と結ばれている。
    この大胆かつ不遜きわまる決別の私信を、侍従らに守られ奥洠城に居る天皇ヒロヒトが直かに眼にすることなどあり得るはずもなかったろうが、たとえ万に一つ眼にしたとしても、ぼそりと「人というものは悫しいものだネ」と呟いてみせるくらいがオチで、どうにも交叉のしようもない彼我の認識の、涯もない距雝の遠さに、なんの疼きも痛みも感じることなどあるまいけれど、一介の無辜の民草である彼・渡辺清が、ヒロヒトへと放った直球勝負は、無辜の民であればこその、まこと稀なるものであろうし、その剣先の孤影は中天あざやかに鋭い閃光を放っているものとみえる。

    彼・渡辺清は、後に鶴見俊輔や丸山真男ら同人による「思想の科学」誌発行の思想の科学研究伒の研究員となったという。
    さらには、「きけ、わだつみの声」や機関誌「わだつみのこえ」を発刊しつづけたわだつみ会(日本戦没学生記念伒)の事務局長を1970(S45)年より務めているが、おそらくは’81(S56)年56歳で突然の病に倒れ急死するその直前までその任をまっとうしたのだろう。

  • 4006030886 344p 2004・3・16 1刷

  • (まだ、読了はしていない)
    歴史的資料として。信憑性について賛否があるようだが、しかし、資料にとどまらない完成度は高く評価できる。

  • そうだったのか!「常識」が揺さぶられるかもしれません。

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