なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記 (岩波現代文庫 社会164)
- 岩波書店 (2008年3月14日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (250ページ) / ISBN・EAN: 9784006031640
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深い苦悩と信仰の葛藤を描いた本書は、ユダヤ教のラビが息子の不治の病を通じて直面した問いを探求しています。神がなぜ自分の息子にこのような試練を与えたのか、そして信じている神に対する疑念が生じる中で、祈り...
感想・レビュー・書評
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敬虔なユダヤ教のラビ(ユダヤ教の指導者に当たる立場の人)である作者が、自分の息子を不治の病で亡くしたことをきっかけに、自分が信じる神とは一体何なのか、なぜ神は自分の息子を助けてくれなかったのか、なぜそもそも神は「早老症」という病気を他の誰でもなく自分の息子に与えたのか、そんなに自分や自分の息子は神に背く悪いことをしたのか(もちろんしていない)、神に祈るとは何か、祈っても意味はないのか、息子を失っても自分は生きていかなければならないのか、なぜ自分だけがこんなに苦しい思いをしなければならないのか、という次々と沸き起こる疑問(自分が信じてきた神への疑惑)に対していくお話です。
聖書の立場は、「息子に不治の病を与えることを決定したのは神である、全知全能の神は明確な理由をもってそうすることにしたのだから作者は神がそう決めた理由を考えて行動しなければならないし、その苦難を乗り越えられない者に神は不幸を与えない」というものであり、信者に対して「この決定は、他でもない自分が信じる神によるものなんだ」という部分に救いを見出して慰められて前に進むことを促していますが、この本の作者はユダヤ教のラビという立場でありながら、聖書に書かれたそういうことの一部は間違っていると断言しています。
善良な市民が圧倒的な不運に見舞われる一方で悪人が幸福になるという不運や不条理は自然の摂理でどうしても起こってしまうことであって、神はそれに対して無能で何もできない、というのがこの作者が導き出した答えです。
ではなぜ我々は、(信じている宗教は何であれ)神に祈るのか、という疑問に対する作者の答えが感動的でしたので紹介します。
「祈りは正しく捧げられる時、人を孤独の極みから解放します。一人きりだと思う必要はないし、見捨てられたと思う必要もないことを、人は祈りを通して再確認できるのです。」
特に神様を信じているわけでもないしかと言って否定しているわけでもない僕にとっても、心に響く本でした。僕が周りの方たちから普段そうしてもらっている様に、僕も不運に苦しんでいる人を見かけたら、あなたは一人きりではないと心から伝えられる人でありたいと、新年にふさわしいまじめな気持ちにさせてくれた良書でした。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ああ、なんで?
なんでオレだけが?
こんなにも苦しまなきゃいけないの?
そりゃ、別にオレが聖人君子のような素晴らしい人間だとは思わないけどさ…
こんな目にあうほど悪いことをしたつもりもないよ…
つーか、オレより悪いことしてるヤツなら他にもっといっぱいいるじゃん!
なのに、何でオレがこんな目に?!
多かれ少なかれありますよね?こういうの…
何で自分だけ?と…
ボクもやっぱりこんな風に思う時あります…
何で自分がこんな目にあうのか?
自分がいけないのか?
何か悪いことをしてしまったのか?
何かの罰なのか?
という問いに対して…
すぐにはわからないかもしれないけど、神様のお導きなんだよ…
この苦難によってあなたは優しくなれる、強くなれる、成長できるんだよ…
この困難は乗り越えられる人にだけ訪れるんだよ…
といったような答えがよく返ってくる…
しかし、この本には…
それらは違う、と書いてある…
自分の幼い子供が奇病にかかって、余命十数年と宣告されて、絶望の淵を彷徨ったユダヤ教のラビ(ユダヤ教の教師)…
神に仕える著者の辿り着いた答えが書いてある…
ユダヤ教のラビの話だし、副題に現代のヨブ記とか書いてあるからややこしいとか小難しいとか思うかもしれないけど…
この著者の身の回りで実際に起きた話を基に、著者のその答え、考えが書かれているので…
そして文章に著者の優しさが滲み出ているのでスッゲーわかりやすい…
スッと入ってくる…
マジで優しく語り掛けてくれている感じ…
ボクはユダヤ教やキリスト教の信徒じゃないし…
現実と宗教をギリギリのところで折り合わせている感じもして、ちょっと、ん?と思うところもあるけど…
でも…
ああ、こういう風に考えるとイイんだな、とか…
そういう考えもあるんだな、と…
いくつも響きました…
まだ潰れそうになるほど深い絶望に陥ったことはないけれども…
この本を先に読んでおいて良かった…
もしそんな時が自分に訪れたら…
この本は例え僅かだとしても、立ち上がるヒントになってくれると思うし…
もし、周りに深く絶望している人がいたら、ヨブ記のようにはしない…
私たちにできることは、「なぜ、こんなことが起こったのか?」という問いを超えて立ちあがり、「こうなった今、私はどうすればよいのか?」と問いはじめること… -
およそ宗教と名のつくものに対して全く浅学非才な自分がこの本について言及してTLをひどく汚すことへ、本書に習ってツイッターの神様的な何かへ向かって赦しや救いを乞うのではなく、選択の決断と意志のみを祈り求めたい。
ユダヤ教のラビである著者が、早老症によって息子を幼くして失った自分自身や同じように理不尽な不幸に襲われた人たちにとって題名の通り「なぜ私だけが苦しむのか」ということについてヨブ記を引用しながらその後の生き方について提言した、示唆に富んだ本だった。
理不尽な不幸によって自分が失ったり傷つけられたりした何かを他者と比較して嘆き怒り憎むことは、その何かを自分が悪の方向へ殉教者へと導くものに定義してしまうことである、と。逆にそこから生きる意味や残されたものへ心を留める寛大さを見出し、失ったものを人生に対する証としなければならない。
前提としてそもそも神様的な何かは全知全能ではなく、常に善の味方でもなく、諸行無常的にどのような人々にも大なり小なりの不幸は降り掛かってしまうものだと言っているのはとてもびっくりしたwじゃぁなぜ一見無力な神を信じ宗教に頼るのかというと、著者曰くその考え方の転換を助くる為だと。
悲しみから前を向く為に、「君がどうやってこの悲しい状況を耐えているのか分からないが、力になりたい。どうだろう、僕達に君の手助けをさせてくれないか」という、NY市民にとってのスパイダーマンのような親愛なる隣人として、神やあなたの周りの世界は存在するという考えはとても素敵だった。
幸い自分や家族にまだ大きな不幸は訪れていないけど、いずれ来るかもしれない突然の病気や911,311みたいな悲しみに対する構えをしたい僕を含む人や、もっと言うと正にリアルタイムで苦しみの渦中にいて嘆き怒り憎む人にとっても一助となる本だった。宗教は怖いのだわ…(神秘的、という意味で) -
悩める人のための宗教なのか,宗教に人間が合わせられてしまうのか.宗教の名において人間を侮辱,抑圧する物言いに鋭く切り込んでいる.また,悩み,苦しむ人へ寄り添い,尊厳を見出す姿勢はある種の希望だ.
宗教家はもちろんのこと,カウンセラーや医師など,ある種の極限状態にある人に接する人は益するところが多いだろう.
・ヨブは助言より同情を必要としていた.忍耐と敬虔の模範たれと進める友よりも,怒り,泣き,叫ぶことを許してくれる友を必要としていた.
・罪意識,あるいは「私の責任だ」という感覚は,きわめて一般的なもの.
・不倫:彼は罪の意識をもっと感じるべきなのだ.
・ジャック・リーマー「リクラット・シャパット」の詩(誓願の祈り)
・祈りは結び合わせる.『宗教生活の原初形態』(デュルケーム)
・モーセの石版の喩え.自分のしていることの意味が分かれば,大抵の重荷は耐えられる.
・彼らを悪魔の証人にしてはいけない.いのちの証人にするのだ.
・答えという言葉には,説明ということと同時に応答という意味もある. -
邦訳タイトルの通り、幼な子が亡くなったり、愛する人を失ったり、難病や障害に冒されたりする、そうしたとき人は、なぜほかの誰かではなく、この自分が苦しむのかと、自問自答し、嘆き、他者や社会、神を恨む。
善良な人がそうした不幸に見舞われるのははなぜか、そして、そのような不幸に見舞われたとき、人はどうすべきなのかとの重い問いについて、奇病にかかり若くして亡くなった息子を持つ著者が、その悲痛な体験を通して考え抜いた、その考察を記した書である。
著者はラビであるので、神から実に悲惨な苦難を課されたヨブを巡る物語、ヨブ記についての解釈を始め、神についての考察を様々に行うが、抽象的に神学を論じるのではなく、人間の不幸に関する問題を、具体的に丁寧に考えていくので、一神教の信徒ではなくとも違和感なく同調できる。
自分が苦しむ立場になったとき、あるいは苦しむ家族や友人、知人に接することになったとき、本書の教えは大きな支えになってくれるであろう。
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以前から読みたいと思っていた本だが、なぜか江東区内の図書館になく、そのままになっていた。
たまたま、日比谷図書館で出会い、運命を感じてそのまま借りてきた本。
毎日を誠実に思いやりを忘れず、生活を送っていたら、私達に不幸は起こらないだろうか?
そうであってほしいが、残念ながらそんなことはない。
誰にもなんの落ち度がなくても、人は病や事故に襲われたりすることがある。
作者はユダヤ教のラビでそのようなケースをたくさん見てきた上に、自身もお子さんがすごい速さで歳を取ってなくなってしまうという不治の病をもって生まれてきた。
そんな時、宗教を持つ人々が慰めとして、かける言葉がその家族や本人をとても傷つけてしまうことがある。
なぜなら、それが神の思し召しだと言うには、そうなるだけの理由を神の側に見つけなくてはならないからだ。
著者は言う。
神は人間にだけ選択の自由を与えた。
そこには、必ずしもいいことを選ぶとは限らない、そしてそこには悪いことを選ぶ自由もあるのだと、それに対して、神は自由を与えた以上、そこから悪いことを選択肢として人間が選んでもそれを軌道修正することはしないのだと。
では、神を信ずることに、祈りを捧げることにどんな意味が‥というのが、最後の部分。
いろいろなことを考えさせられる本だった。 -
ユダヤ教の聖職者が書いた本だから、当然神を肯定するための内容になっている。そのため、ユダヤ教やキリスト教の神を信じていない人にとっては同意しにくい主張がある。ただ、納得できる考え方も多く、答えにくい問いに真摯に向き合う著者の姿勢には好感がもてる。
著者は、神は人生に起こる不幸に関与しておらず、不運な出来事は神のせいではなく、ただのめぐり合わせだという。そして、そうであるからこそ、苦難は神の計画の一部であるとか、罰として与えられたもの、乗り越えられるから与えられたものであるといったよくある考え方を一切否定している。
ではなぜ病や死などの不幸があるのかといえば、それはわからないという。それらはただ人生のひとつの条件であるだけに過ぎないと。人間が苦しみ悲しんでいるとき、神もまた、人の味方として苦しみ悲しんでいるのだそうだ。この点は、遠藤周作の『沈黙』で主人公がたどり着くキリスト観にもよく似ていると思った。
また著者は、なぜ苦しまねばならないのかとか、この苦しみの意味はなにかとかと問うな、ではどうすればよいかと問えと言う。この考え方は、フランクルが『夜と霧』で述べている「生きることが自分になにを求めているか」という問いと同じだと思う。
ただ、神が苦難を与えも取り除きもしないなら、神が神である根拠はなにか、神を信じなければならない理由はなにか、人と神の違いはなにかと疑問に思う。寄り添って苦痛を共有することなら、人でもできることではないか。この疑問にも答えられているが、この答えにはいまいち納得感がなかった。曰く、神は災いよりも素晴らしいことのほうがずっと多い世界を創造した。また、人の心に働きかけて奮い立たせ、苦しむ人を助けるよう導いているのだと。
悪いことより良いことのほうが多い世界を創造したというなら、悪いことが全くない世界にすることもできたのではないか。そうなると、人の不運に神が関与していないという主張と矛盾しないだろうか。結局人間に起こる不幸は、神が災いゼロの世界にしなかったからだ、つまり神のせいだということにならないか。災いゼロの世界にすることは神にはできなかったと言うなら、「神は災いよりも素晴らしいことのほうがずっと多い世界を創造した」という言い方は間違っている。
人の心に働きかけて云々というのも、物理的な出来事に関与できないのに、人間の心理を意図的に導くことはできるというのはご都合主義的な解釈に感じる。
全体を通して、聖職者としては最も答えにくいだろう問いに真正面から取り組んでいる著者の姿勢には共感できるし、起きたことを嘆くのではなく、どうするかを考えようという主張にも納得できる。ただ、あくまでも神を肯定したうえで、という制限つきなので、その都合に合わせるために神を恣意的に都合よく解釈しているよう感じる。 -
なぜ私だけがこんな目に遭うのだろう、何の悪いことをしたのだろう…
そう思ってしまう気持ちに寄り添うことの大切さを書いた、ユダヤ人ラビの著書。
稀に人の身に降りかかる例外的な不幸な出来事は神が起こすものなのか否かというところから、神の存在意義につながる宗教的な話。
けれど、強い宗教観を持たない私が全く理解できないわけではない。例えば、不幸な事件で命を落とした現場に花を供える人たちの行動は、まさにこういうことなのだろう。亡くなった方の遺族へ対する「あなたは1人ではありませんよ」という心強いメッセージにもなっているのだと気がついた。
ともあれば、逆に不幸に見舞われた人にあれこれ口出しをする人が多くもある。これは「不幸な出来事はバチが当たったからだ」という考えが根強く浸透している日本というお国柄もあるだろう。
人間はもちろんのこと、神さえ不完全であるこの世の中を、あなたは愛せますか、という問いに、未だ答えが出せずにいる。
宗教的な考えは分からないからと敬遠せず読んでみることをおすすめしたい。 -
神は全能ではなく、全能ではないが善であるという論理が新鮮だった。
教会では神は全知全能とされるので。
神が全知全能であり、等しく私たちを祝福し愛するのであれば、なぜこの世には苦しみが存在するのか、原罪を差し引いても不思議だと思っていたが、前提を崩すことで納得出来た。
良くも悪くも自業自得というか、この世の全てに意味があるという思想がよくある。障害者の親は選ばれているという話も嫌いだった。苦しみは罰ではなく運が悪かったとして受け止めるほうが、個人的には楽で良い。
人生が充実している人は自分の行いのため、神の祝福ため、苦しみの中にある人は運が悪い、神の手の届かない事象だと思って割り切るのがいいかも -
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生死に立ち会う局面もあろう仕事に就くことを機に買った本。そこから4年経って読み直してみた。
理不尽な苦しみは、神によって成されたものではない。
大きな苦しみにぶつかったとき、「なぜ神様はこのような苦しみを私に与えたのか」「それほど信仰深くは無かったが、酷いことなどしていないのに、この仕打ちはあんまりだ」と考えてしまいがちだが、それは間違っている。
神にも力の及ばないことは多くあり、事故や死は私を懲らしめるためのものでは決してないということ。
そんな神に、誰が祈りを捧げるものか、と。
大切なのは、苦しんだときに心を寄せてくれた人がいたということ。(他にもあったけどこれが一番印象的で忘れた笑) ここからどう進んでいくかということ。
何か自分の身に、抱え切れないほどの悲しい出来事が起こってしまったとき、もう一度読み直そうかな。
悲しみの理由探しはしないようにしようと思った。 -
「宗教があまり役に立っていないことの理由は、たぶん、ほとんどの宗教が悲嘆にくれている人びとに対し、彼らの痛みを和らげようとするよりも、多くの思いと時を、神を正当化し弁護することに向け、「悲劇も本当は良いことであるし、不幸に思えるこの情況も本当は神の偉大なご計画のなかにあるのだ」と説得しているように」思えるから。「私たちが自分自身の困難な事態に対処したり、あるいは悩んでいる人たちの援助をしたいと思っても、思うようにうまく対処できないのは、私たち自身が心の痛みに伴う現実を受け入れることがなかなかできないからです」。
本全体としては難しくてよくわからなかったけど、書き出しのこの箇所はとても納得がいった。 -
因果応報。不幸が訪れる時、人はそこに理由を探そうとする。そして時に、神の試練、あるいは神の反感として認識をしようとする。救いのない神を憎む。しかし、著者は、不幸と神は本来無関係であり、不幸が生じるのは、仕方ない確率論だという。そして、滔々と神に祈るべきでは無い事柄を説く。
神とは何か。この著書から読み取れるのは、人の幸せや不幸の直接的要因として、無関係な存在であるということだ。従い、誰かを特別に選定し、そのような振る舞いをする事もない。このように定義する時、人間の振る舞いの結果や、自然現象も含めた事象に、神は関わらないという解釈になる。著者は、理屈を述べている。しかし、この理屈でどんどん神の型抜きをしていけば、いずれ、神とは等身大の人間自身になるのではないか。当然、カリスマティックな信仰の対象として、人に勇気を与え(勇気を増長させ)、愛を深めさせる事は出来るのかも知れない。
信仰とは、盲目である。しかし、だからこそ、身体をゆったりと預け、安らぎを得ることが出来るのかも知れない。 -
子どもを奇病で若くして亡くしたユダヤ教のラビがなぜ信仰厚く善良な人にもどうしようもない不幸が訪れるのかを説く。
なぜ神は善人に耐え難い苦しみを与えるのか。作者はヨブ記を皮切りに、神は全ての運命を支配する全能者ではなく、出来事は理由なく起こることを説いていく。では神の奇跡とは何なのか。それは不幸を回避することではなく、不幸をどう受け止めていくかにあると言う。奇跡とは不治の病が治ることではなく、不治の病になる不幸を受けて尚、人間らしく生きることであるのだ。
ただこの真理も悲しみの真っ只中にある人にすぐ伝わるのは難しい。ヨブの友人達が7日間ただ隣にいた様に、宗教や周囲にできることはまずはその人の悲しみに寄り添うことである。
文体がとても読みやすく、中学生でもしっかりと内容を理解できるはず。
道徳の授業に活かしてほしい名著。 -
善良な人は突然困難な状況に陥った時、そのような状況になぜ自分が陥ったのかという納得できる理由を求める。自分が良くない行いをしたからではないかとか、神が与えた試練とか、自分がある分野において欠けており、それを補う機会を与えられた、など。同様に慰める人もこのような理由あげる。けれども、そのような試練や因果のために犠牲になった人(たとえば幼くして事故でなくなった自分の子ども、自然災害は人間の悪行が原因か)はどうなのか。選ばれた人物であるがために突然の不幸に見舞われる人は幸福なのか。
著者が言いたいのは、痛みや苦しみの体験は自分の行いから来る意味をもつものなのではなく、意味あるものか無意味なものにしてしまうか決めるのは痛みの原因ではなく、結果だということ。社会は理不尽なこと、不公平なことばかりで成り立っている。竜巻の発生なども、統計を長年続ければ続けるほど、無秩序なパターンになる。宗教では理由を神に求めるが、神は全知全能ではない。地震や事故、そして日々起こる予測不可能な不幸は神の意志とは別個の現実であり、また自分の行いが引き起こすものでもない。自分の不幸を神も共に怒ったり悲しんだりしていると考えれば楽になるのではという内容。
↑うまく説明できないけれど、自分や周りの人の不幸への対処に役立つ勉強になる本だと思う。著者はユダヤ教のラビだけれど、宗教色に抵抗なく読める。 -
世の中に不条理は数多くある。個人だけでなく、集団や国家にもまんべんなく降りかかる。本書では早老病に罹った息子を持つユダヤ教のラビが、彼の味わった苦悩とそれを乗り越えた経験を活かし、信仰のあり方について提起する。なかでもユニークなのは「神は全能ではない」という捉え方だろう。旧約聖書を共にするユダヤ教、キリスト教、イスラム教では、神は「全知全能」とされる。このうち、後者の全能を、著者クシュナーは否定する。世の中に人の能力や本性では決して理解できない不条理が蔓延るが、これは神が「よし」としてそのようにあるのではなく。神はうまく行かないことを含めてこの世を創ったから、というのが彼のスタンスだ。そうでなければ、「人類史におけるさまざまな悲惨や個々人に起こる悲惨を理解することはできない」という。しかし世に存在することに何らかの理由があるという解釈までは棄てていない。神はこの世をうまく制御できていないということを受けとめたとしよう。しかし、未熟児としてすぐに死ぬ赤ん坊、両親の虐待のなかで死ぬ子供など、存在そのものが悲劇としか言いようがない「生」はどのような解釈が成り立つというのだろう。著者の論法をしてもなお、これらに意味づけなどできるわけがないと思える。
旧約聖書のヨブ記に登場する主人公のヨブは、少なくともその生き様は浄く正しく、危なげには見えないが、サタンが提案した詰まらぬ試みを、単に「試す」だけの理由で神はヨブの家族を殺し、仕事を取り上げ、さまざな病を植えつけることはなぜ必要だったのか? 著者はこれを「ヨブを勇気づけようとした3人の友のアプローチが問題であって、ここは彼の現状をしっかり捉え、愛を持って勇気づけることが大切」と説く。聖書ではヨブは神の試みに応え、再び信頼を勝ち得た結果、富みと新しい家族を与えられたとのことだが、死んでしまった家族はどうなるというのだ? 自分的には理解不能だ。
本書にはもうひとつ課題がある。全知全能のうちの「全能」を否定するのは画期的だが、なぜ「全知」は否定しないのか? 著者の生き様に直接関わらないからなのか? 本書はそれなりに得るものがあるし良書と言えるが、あくまで生き様に対するひとつのアプローチを提起したに過ぎないという感は否めない。 -
神は全能ではないとユダヤ教のラビが言い切るのは凄いなと思った。いつか読み返す時が来るだろう。
斎藤武の作品
