なぜ私だけが苦しむのか: 現代のヨブ記 (岩波現代文庫 社会 164)

  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (286ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784006031640

作品紹介・あらすじ

幼い息子が奇病にかかり、あと十余年の命と宣告される-理不尽と思える不幸に見舞われたラビ(ユダヤ教の教師)が絶望の淵で問う。神とは、人生とは、苦悩とは、祈りとは…。自らの悲痛の体験をもとに、旧約聖書を読み直し学びつかんだのは何であったか。人生の不幸を生き抜くための深い叡智と慰めに満ちた書。

感想・レビュー・書評

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  • 敬虔なユダヤ教のラビ(ユダヤ教の指導者に当たる立場の人)である作者が、自分の息子を不治の病で亡くしたことをきっかけに、自分が信じる神とは一体何なのか、なぜ神は自分の息子を助けてくれなかったのか、なぜそもそも神は「早老症」という病気を他の誰でもなく自分の息子に与えたのか、そんなに自分や自分の息子は神に背く悪いことをしたのか(もちろんしていない)、神に祈るとは何か、祈っても意味はないのか、息子を失っても自分は生きていかなければならないのか、なぜ自分だけがこんなに苦しい思いをしなければならないのか、という次々と沸き起こる疑問(自分が信じてきた神への疑惑)に対していくお話です。
    聖書の立場は、「息子に不治の病を与えることを決定したのは神である、全知全能の神は明確な理由をもってそうすることにしたのだから作者は神がそう決めた理由を考えて行動しなければならないし、その苦難を乗り越えられない者に神は不幸を与えない」というものであり、信者に対して「この決定は、他でもない自分が信じる神によるものなんだ」という部分に救いを見出して慰められて前に進むことを促していますが、この本の作者はユダヤ教のラビという立場でありながら、聖書に書かれたそういうことの一部は間違っていると断言しています。
    善良な市民が圧倒的な不運に見舞われる一方で悪人が幸福になるという不運や不条理は自然の摂理でどうしても起こってしまうことであって、神はそれに対して無能で何もできない、というのがこの作者が導き出した答えです。
    ではなぜ我々は、(信じている宗教は何であれ)神に祈るのか、という疑問に対する作者の答えが感動的でしたので紹介します。

    「祈りは正しく捧げられる時、人を孤独の極みから解放します。一人きりだと思う必要はないし、見捨てられたと思う必要もないことを、人は祈りを通して再確認できるのです。」

    特に神様を信じているわけでもないしかと言って否定しているわけでもない僕にとっても、心に響く本でした。僕が周りの方たちから普段そうしてもらっている様に、僕も不運に苦しんでいる人を見かけたら、あなたは一人きりではないと心から伝えられる人でありたいと、新年にふさわしいまじめな気持ちにさせてくれた良書でした。

  • ああ、なんで?
    なんでオレだけが?
    こんなにも苦しまなきゃいけないの?
    そりゃ、別にオレが聖人君子のような素晴らしい人間だとは思わないけどさ…
    こんな目にあうほど悪いことをしたつもりもないよ…
    つーか、オレより悪いことしてるヤツなら他にもっといっぱいいるじゃん!
    なのに、何でオレがこんな目に?!

    多かれ少なかれありますよね?こういうの…
    何で自分だけ?と…
    ボクもやっぱりこんな風に思う時あります…
    何で自分がこんな目にあうのか?
    自分がいけないのか?
    何か悪いことをしてしまったのか?
    何かの罰なのか?
    という問いに対して…
    すぐにはわからないかもしれないけど、神様のお導きなんだよ…
    この苦難によってあなたは優しくなれる、強くなれる、成長できるんだよ…
    この困難は乗り越えられる人にだけ訪れるんだよ…
    といったような答えがよく返ってくる…
    しかし、この本には…
    それらは違う、と書いてある…
    自分の幼い子供が奇病にかかって、余命十数年と宣告されて、絶望の淵を彷徨ったユダヤ教のラビ(ユダヤ教の教師)…
    神に仕える著者の辿り着いた答えが書いてある…

    ユダヤ教のラビの話だし、副題に現代のヨブ記とか書いてあるからややこしいとか小難しいとか思うかもしれないけど…
    この著者の身の回りで実際に起きた話を基に、著者のその答え、考えが書かれているので…
    そして文章に著者の優しさが滲み出ているのでスッゲーわかりやすい…
    スッと入ってくる…
    マジで優しく語り掛けてくれている感じ…

    ボクはユダヤ教やキリスト教の信徒じゃないし…
    現実と宗教をギリギリのところで折り合わせている感じもして、ちょっと、ん?と思うところもあるけど…
    でも…
    ああ、こういう風に考えるとイイんだな、とか…
    そういう考えもあるんだな、と…
    いくつも響きました…
    まだ潰れそうになるほど深い絶望に陥ったことはないけれども…
    この本を先に読んでおいて良かった…
    もしそんな時が自分に訪れたら…
    この本は例え僅かだとしても、立ち上がるヒントになってくれると思うし…
    もし、周りに深く絶望している人がいたら、ヨブ記のようにはしない…

    私たちにできることは、「なぜ、こんなことが起こったのか?」という問いを超えて立ちあがり、「こうなった今、私はどうすればよいのか?」と問いはじめること…

  • およそ宗教と名のつくものに対して全く浅学非才な自分がこの本について言及してTLをひどく汚すことへ、本書に習ってツイッターの神様的な何かへ向かって赦しや救いを乞うのではなく、選択の決断と意志のみを祈り求めたい。
    ユダヤ教のラビである著者が、早老症によって息子を幼くして失った自分自身や同じように理不尽な不幸に襲われた人たちにとって題名の通り「なぜ私だけが苦しむのか」ということについてヨブ記を引用しながらその後の生き方について提言した、示唆に富んだ本だった。
    理不尽な不幸によって自分が失ったり傷つけられたりした何かを他者と比較して嘆き怒り憎むことは、その何かを自分が悪の方向へ殉教者へと導くものに定義してしまうことである、と。逆にそこから生きる意味や残されたものへ心を留める寛大さを見出し、失ったものを人生に対する証としなければならない。
    前提としてそもそも神様的な何かは全知全能ではなく、常に善の味方でもなく、諸行無常的にどのような人々にも大なり小なりの不幸は降り掛かってしまうものだと言っているのはとてもびっくりしたwじゃぁなぜ一見無力な神を信じ宗教に頼るのかというと、著者曰くその考え方の転換を助くる為だと。
    悲しみから前を向く為に、「君がどうやってこの悲しい状況を耐えているのか分からないが、力になりたい。どうだろう、僕達に君の手助けをさせてくれないか」という、NY市民にとってのスパイダーマンのような親愛なる隣人として、神やあなたの周りの世界は存在するという考えはとても素敵だった。
    幸い自分や家族にまだ大きな不幸は訪れていないけど、いずれ来るかもしれない突然の病気や911,311みたいな悲しみに対する構えをしたい僕を含む人や、もっと言うと正にリアルタイムで苦しみの渦中にいて嘆き怒り憎む人にとっても一助となる本だった。宗教は怖いのだわ…(神秘的、という意味で)

  • 悩める人のための宗教なのか,宗教に人間が合わせられてしまうのか.宗教の名において人間を侮辱,抑圧する物言いに鋭く切り込んでいる.また,悩み,苦しむ人へ寄り添い,尊厳を見出す姿勢はある種の希望だ.

    宗教家はもちろんのこと,カウンセラーや医師など,ある種の極限状態にある人に接する人は益するところが多いだろう.

    ・ヨブは助言より同情を必要としていた.忍耐と敬虔の模範たれと進める友よりも,怒り,泣き,叫ぶことを許してくれる友を必要としていた.
    ・罪意識,あるいは「私の責任だ」という感覚は,きわめて一般的なもの.
    ・不倫:彼は罪の意識をもっと感じるべきなのだ.
    ・ジャック・リーマー「リクラット・シャパット」の詩(誓願の祈り)
    ・祈りは結び合わせる.『宗教生活の原初形態』(デュルケーム)
    ・モーセの石版の喩え.自分のしていることの意味が分かれば,大抵の重荷は耐えられる.
    ・彼らを悪魔の証人にしてはいけない.いのちの証人にするのだ.
    ・答えという言葉には,説明ということと同時に応答という意味もある.

  • 3.93/766
    内容(「BOOK」データベースより)
    『幼い息子が奇病にかかり、あと十余年の命と宣告される―理不尽と思える不幸に見舞われたラビ(ユダヤ教の教師)が絶望の淵で問う。神とは、人生とは、苦悩とは、祈りとは…。自らの悲痛の体験をもとに、旧約聖書を読み直し学びつかんだのは何であったか。人生の不幸を生き抜くための深い叡智と慰めに満ちた書。』

    目次
    1章 なぜ,私に?
    2章 ヨブという名の男の物語
    3章 理由のないこともある
    4章 新しい問いの発見
    5章 人間であることの自由
    6章 怒りをなににぶつけるか
    7章 ほんとうの奇跡
    8章 ほんとうの宗教


    冒頭
    『 1章  なぜ、私に?
     ほんとうに重要なただひとつの問い

    なぜ、善良な人が不幸にみまわれるのか?
    この問いこそが重要なのです。これ以外のすべての神学的な会話は、気晴らしにしかすぎません。たとえば、日曜日の新聞のクロスワード・パズルをしているようなもので、うまくことばをはめこめた場合には、ちょっとした満足感を得ることができますが、しかし結局、ほんとうに悩んでいる人びとの心を満足させることはないのです。実際のところ、私が神や宗教について人びとと有意義な話ができたときというのは、この問いから始まったときか、それとも結局この問いに向かっていったときなのです。』


    原書名:『When Bad Things Happen to Good People』
    著者:H.S. クシュナー (Harold S. Kushner)
    訳者:斎藤 武
    出版社 ‏: ‎岩波書店
    文庫 ‏: ‎257ページ

  •  邦訳タイトルの通り、幼な子が亡くなったり、愛する人を失ったり、難病や障害に冒されたりする、そうしたとき人は、なぜほかの誰かではなく、この自分が苦しむのかと、自問自答し、嘆き、他者や社会、神を恨む。

     善良な人がそうした不幸に見舞われるのははなぜか、そして、そのような不幸に見舞われたとき、人はどうすべきなのかとの重い問いについて、奇病にかかり若くして亡くなった息子を持つ著者が、その悲痛な体験を通して考え抜いた、その考察を記した書である。

     著者はラビであるので、神から実に悲惨な苦難を課されたヨブを巡る物語、ヨブ記についての解釈を始め、神についての考察を様々に行うが、抽象的に神学を論じるのではなく、人間の不幸に関する問題を、具体的に丁寧に考えていくので、一神教の信徒ではなくとも違和感なく同調できる。

     自分が苦しむ立場になったとき、あるいは苦しむ家族や友人、知人に接することになったとき、本書の教えは大きな支えになってくれるであろう。

  • 以前から読みたいと思っていた本だが、なぜか江東区内の図書館になく、そのままになっていた。
    たまたま、日比谷図書館で出会い、運命を感じてそのまま借りてきた本。

    毎日を誠実に思いやりを忘れず、生活を送っていたら、私達に不幸は起こらないだろうか?
    そうであってほしいが、残念ながらそんなことはない。
    誰にもなんの落ち度がなくても、人は病や事故に襲われたりすることがある。

    作者はユダヤ教のラビでそのようなケースをたくさん見てきた上に、自身もお子さんがすごい速さで歳を取ってなくなってしまうという不治の病をもって生まれてきた。

    そんな時、宗教を持つ人々が慰めとして、かける言葉がその家族や本人をとても傷つけてしまうことがある。
    なぜなら、それが神の思し召しだと言うには、そうなるだけの理由を神の側に見つけなくてはならないからだ。

    著者は言う。
    神は人間にだけ選択の自由を与えた。
    そこには、必ずしもいいことを選ぶとは限らない、そしてそこには悪いことを選ぶ自由もあるのだと、それに対して、神は自由を与えた以上、そこから悪いことを選択肢として人間が選んでもそれを軌道修正することはしないのだと。

    では、神を信ずることに、祈りを捧げることにどんな意味が‥というのが、最後の部分。

    いろいろなことを考えさせられる本だった。

  • なぜ私だけがこんな目に遭うのだろう、何の悪いことをしたのだろう…
    そう思ってしまう気持ちに寄り添うことの大切さを書いた、ユダヤ人ラビの著書。
    稀に人の身に降りかかる例外的な不幸な出来事は神が起こすものなのか否かというところから、神の存在意義につながる宗教的な話。

    けれど、強い宗教観を持たない私が全く理解できないわけではない。例えば、不幸な事件で命を落とした現場に花を供える人たちの行動は、まさにこういうことなのだろう。亡くなった方の遺族へ対する「あなたは1人ではありませんよ」という心強いメッセージにもなっているのだと気がついた。
    ともあれば、逆に不幸に見舞われた人にあれこれ口出しをする人が多くもある。これは「不幸な出来事はバチが当たったからだ」という考えが根強く浸透している日本というお国柄もあるだろう。

    人間はもちろんのこと、神さえ不完全であるこの世の中を、あなたは愛せますか、という問いに、未だ答えが出せずにいる。

    宗教的な考えは分からないからと敬遠せず読んでみることをおすすめしたい。

  • 神は全能ではなく、全能ではないが善であるという論理が新鮮だった。
    教会では神は全知全能とされるので。

    神が全知全能であり、等しく私たちを祝福し愛するのであれば、なぜこの世には苦しみが存在するのか、原罪を差し引いても不思議だと思っていたが、前提を崩すことで納得出来た。

    良くも悪くも自業自得というか、この世の全てに意味があるという思想がよくある。障害者の親は選ばれているという話も嫌いだった。苦しみは罰ではなく運が悪かったとして受け止めるほうが、個人的には楽で良い。

    人生が充実している人は自分の行いのため、神の祝福ため、苦しみの中にある人は運が悪い、神の手の届かない事象だと思って割り切るのがいいかも

  • 生死に立ち会う局面もあろう仕事に就くことを機に買った本。そこから4年経って読み直してみた。

    理不尽な苦しみは、神によって成されたものではない。
    大きな苦しみにぶつかったとき、「なぜ神様はこのような苦しみを私に与えたのか」「それほど信仰深くは無かったが、酷いことなどしていないのに、この仕打ちはあんまりだ」と考えてしまいがちだが、それは間違っている。

    神にも力の及ばないことは多くあり、事故や死は私を懲らしめるためのものでは決してないということ。

    そんな神に、誰が祈りを捧げるものか、と。

    大切なのは、苦しんだときに心を寄せてくれた人がいたということ。(他にもあったけどこれが一番印象的で忘れた笑) ここからどう進んでいくかということ。

    何か自分の身に、抱え切れないほどの悲しい出来事が起こってしまったとき、もう一度読み直そうかな。

    悲しみの理由探しはしないようにしようと思った。

  • 「宗教があまり役に立っていないことの理由は、たぶん、ほとんどの宗教が悲嘆にくれている人びとに対し、彼らの痛みを和らげようとするよりも、多くの思いと時を、神を正当化し弁護することに向け、「悲劇も本当は良いことであるし、不幸に思えるこの情況も本当は神の偉大なご計画のなかにあるのだ」と説得しているように」思えるから。「私たちが自分自身の困難な事態に対処したり、あるいは悩んでいる人たちの援助をしたいと思っても、思うようにうまく対処できないのは、私たち自身が心の痛みに伴う現実を受け入れることがなかなかできないからです」。
    本全体としては難しくてよくわからなかったけど、書き出しのこの箇所はとても納得がいった。

  • 「なぜ」苦しむのか、という本ではない。
    私「だけ」が苦しいことに対する、ひとつの答えがこの本にはあった。

    著者はユダヤ教のラビで、人間の苦しみに対して神はどういう存在であるのかを聖書を読みながら、自分の体験をまじえながら、書いている。
    私は無信仰なので神の部分はさておいて、心の持ちようという部分で考えさせられた。

    事故や病気、それ以外にも貧困や偏見などによる挫折などで傷ついたとき、人は自分「だけ」が苦しい思いをしていると思いがちである。
    そんなとき、理屈で納得させようとしたり、もっと頑張れと励ましたり、そんなことを考えるなとたしなめたりすることは、どれも間違いである。
    周りの人にできることは、ただ黙って傍にいること。ひとり「だけ」で孤独になる必要はないことを伝えること。

    “運命の手に一人もてあそばれていると感じるとき、私たちはとかく一人きりで暗い片隅にこそこそと逃げていき、自分を憐れみたくなるものです。そんなとき、私たちは、それでも自分は人々の繋がりのなかの一員なのだということを思い出す必要がありますし、私のことを気遣っていてくれる人が周囲にいるのだ、自分は命の流れに繋がっているのだということを覚えている必要があるのです。”

    “人びとが自分のことを心配してくれていると知ることは、人の健康状態に影響を与えうると、私ははっきりと信じています。”

    時に周囲の人を煩わしいと思うこともあるでしょう。私にはあります。
    けれど、それでも、孤独ではない保証があれば、安心して落ち込んでいられるのです。
    そして、浮上したくなった時、孤独でないことを感じられれば、どれだけ安心できることか。

    著者は神と人の関係についても言及している。

    “祈りというのは、基本的には神に哀願してものごとを変えてもらうということではありません。”

    “わたしたちに災いをもたらすのは神ではなく、巡り合わせです。”

    神は全能ではない。
    神は人を神に似せて創った。
    それは本能だけで行動するのではなく、自分で判断し、選択する能力を人間に与えたということ。
    善を選択するのも、悪を選択するのも、それぞれの個人の判断。それを神は覆すことは出来ない。
    なぜなら、善をしか選択できないなら、それは何をも選択できないことと同じだから。

    では、神はなんのためにいるのか。

    “完全でない世界を赦し、そんな世界を作った神を赦し、人々に手をさしのべ、何がどうあろうと生き続けていく”ための動機づけが、神ということのようだ。

    私はそこに神を持ってくることは出来ないけれど、言わんとすることはわかる気がする。
    立ち直る力は神が与えてくれるのか、自分の心のうちに最初から持っているのかは、人それぞれの宗教解釈によるだろうけれど、人生って公平ではないし、理不尽なものであるとわかったうえで、それでも生きていかなければならない人間ってやつには、傍で支えてくれる存在が必要である。
    そういうことなんだと思った。

  • 因果応報。不幸が訪れる時、人はそこに理由を探そうとする。そして時に、神の試練、あるいは神の反感として認識をしようとする。救いのない神を憎む。しかし、著者は、不幸と神は本来無関係であり、不幸が生じるのは、仕方ない確率論だという。そして、滔々と神に祈るべきでは無い事柄を説く。

    神とは何か。この著書から読み取れるのは、人の幸せや不幸の直接的要因として、無関係な存在であるということだ。従い、誰かを特別に選定し、そのような振る舞いをする事もない。このように定義する時、人間の振る舞いの結果や、自然現象も含めた事象に、神は関わらないという解釈になる。著者は、理屈を述べている。しかし、この理屈でどんどん神の型抜きをしていけば、いずれ、神とは等身大の人間自身になるのではないか。当然、カリスマティックな信仰の対象として、人に勇気を与え(勇気を増長させ)、愛を深めさせる事は出来るのかも知れない。

    信仰とは、盲目である。しかし、だからこそ、身体をゆったりと預け、安らぎを得ることが出来るのかも知れない。

  •  子どもを奇病で若くして亡くしたユダヤ教のラビがなぜ信仰厚く善良な人にもどうしようもない不幸が訪れるのかを説く。

     なぜ神は善人に耐え難い苦しみを与えるのか。作者はヨブ記を皮切りに、神は全ての運命を支配する全能者ではなく、出来事は理由なく起こることを説いていく。では神の奇跡とは何なのか。それは不幸を回避することではなく、不幸をどう受け止めていくかにあると言う。奇跡とは不治の病が治ることではなく、不治の病になる不幸を受けて尚、人間らしく生きることであるのだ。
     ただこの真理も悲しみの真っ只中にある人にすぐ伝わるのは難しい。ヨブの友人達が7日間ただ隣にいた様に、宗教や周囲にできることはまずはその人の悲しみに寄り添うことである。

     文体がとても読みやすく、中学生でもしっかりと内容を理解できるはず。
     道徳の授業に活かしてほしい名著。

  • 善良な人は突然困難な状況に陥った時、そのような状況になぜ自分が陥ったのかという納得できる理由を求める。自分が良くない行いをしたからではないかとか、神が与えた試練とか、自分がある分野において欠けており、それを補う機会を与えられた、など。同様に慰める人もこのような理由あげる。けれども、そのような試練や因果のために犠牲になった人(たとえば幼くして事故でなくなった自分の子ども、自然災害は人間の悪行が原因か)はどうなのか。選ばれた人物であるがために突然の不幸に見舞われる人は幸福なのか。

    著者が言いたいのは、痛みや苦しみの体験は自分の行いから来る意味をもつものなのではなく、意味あるものか無意味なものにしてしまうか決めるのは痛みの原因ではなく、結果だということ。社会は理不尽なこと、不公平なことばかりで成り立っている。竜巻の発生なども、統計を長年続ければ続けるほど、無秩序なパターンになる。宗教では理由を神に求めるが、神は全知全能ではない。地震や事故、そして日々起こる予測不可能な不幸は神の意志とは別個の現実であり、また自分の行いが引き起こすものでもない。自分の不幸を神も共に怒ったり悲しんだりしていると考えれば楽になるのではという内容。

    ↑うまく説明できないけれど、自分や周りの人の不幸への対処に役立つ勉強になる本だと思う。著者はユダヤ教のラビだけれど、宗教色に抵抗なく読める。

  • 世の中に不条理は数多くある。個人だけでなく、集団や国家にもまんべんなく降りかかる。本書では早老病に罹った息子を持つユダヤ教のラビが、彼の味わった苦悩とそれを乗り越えた経験を活かし、信仰のあり方について提起する。なかでもユニークなのは「神は全能ではない」という捉え方だろう。旧約聖書を共にするユダヤ教、キリスト教、イスラム教では、神は「全知全能」とされる。このうち、後者の全能を、著者クシュナーは否定する。世の中に人の能力や本性では決して理解できない不条理が蔓延るが、これは神が「よし」としてそのようにあるのではなく。神はうまく行かないことを含めてこの世を創ったから、というのが彼のスタンスだ。そうでなければ、「人類史におけるさまざまな悲惨や個々人に起こる悲惨を理解することはできない」という。しかし世に存在することに何らかの理由があるという解釈までは棄てていない。神はこの世をうまく制御できていないということを受けとめたとしよう。しかし、未熟児としてすぐに死ぬ赤ん坊、両親の虐待のなかで死ぬ子供など、存在そのものが悲劇としか言いようがない「生」はどのような解釈が成り立つというのだろう。著者の論法をしてもなお、これらに意味づけなどできるわけがないと思える。
    旧約聖書のヨブ記に登場する主人公のヨブは、少なくともその生き様は浄く正しく、危なげには見えないが、サタンが提案した詰まらぬ試みを、単に「試す」だけの理由で神はヨブの家族を殺し、仕事を取り上げ、さまざな病を植えつけることはなぜ必要だったのか? 著者はこれを「ヨブを勇気づけようとした3人の友のアプローチが問題であって、ここは彼の現状をしっかり捉え、愛を持って勇気づけることが大切」と説く。聖書ではヨブは神の試みに応え、再び信頼を勝ち得た結果、富みと新しい家族を与えられたとのことだが、死んでしまった家族はどうなるというのだ? 自分的には理解不能だ。
    本書にはもうひとつ課題がある。全知全能のうちの「全能」を否定するのは画期的だが、なぜ「全知」は否定しないのか? 著者の生き様に直接関わらないからなのか? 本書はそれなりに得るものがあるし良書と言えるが、あくまで生き様に対するひとつのアプローチを提起したに過ぎないという感は否めない。

  • 神は全能ではないとユダヤ教のラビが言い切るのは凄いなと思った。いつか読み返す時が来るだろう。

  • 神は全能ではないが善ではあるという捉え方と、宗教というものの、喪に服する行事の意義というものに、人間に備わった社会性が人を未来に前進させる動機になることを再認識した。

  • ■1010。一読。2021年03月17日。エッセイ集だが、中心となるエッセイではヨブ記の議論をトリレンマとして分析し直し、再解釈をおこなっている。

  • N区図書館

  • 199

  • なぜ私だけが苦しむのか
    現代のヨブ記

    ユダヤ教の指導者である著者が
    ヨブ記のテーマ「人間の苦悩と神の関わり」から
    下記について明快に答えた本
    *神とは何か、祈りとは何か
    *人間であることは何を意味するのか

    悲しみ苦しんでいる人がいたら、おすすめすべき1冊

    神の全知全能性を否定することで、畏れの存在の神から慰めの存在の神へ。遠藤周作「沈黙」の 人間の苦悩に対して なぜ神は沈黙するのか への答えにも感じる

    祈りとは、神に要求する取引でなく、私たちと神を繋ぐ行為とした。慰めの神がそばにいることを発見できる


    神とは何か〜慰めの神
    *神には限界がある〜人生の悲劇は神の意志ではない
    *人間が善を選ぶか、悪を選ぶか、神はコントロールしない
    *その苦しみを乗り越えるために、神に助けを求めればいい
    *すでにこうなってしまった以上、私はどうすればいいか という問いが必要

    宗教のみが嘆き悲しむ人に対して、自分の存在価値を確認させてあげることができる


    人間であることの自由
    *人間は善と悪とが渦巻く世界に生きている
    *人間であることは〜本能をコントロールすること
    *死ぬということは 人生にら与えられた一つの条件


    嫉妬を取り除く考え方
    私たちが嫉妬する人たちも、彼らなりの傷や痛みがある〜誰もが悲しみを知っている

  • 理不尽な苦悩や悪がなぜ存在するのか、について、納得できる説明・・この世界は完全さに多少欠けていて、だからこそ、赦し、愛することを知ることで勇気を持って人生を生きることができると説く感動の書。宗教への関心や、信仰がなくても、この書の価値は理解できるでしょう。

  • 【読中感想】#苦しみに際限はない
    「苦しみ」に終わりはありません。
    人として生まれてきた時点で
    「苦しみ」は付いて回り、
    今か今かと首を長くして
    あなたのそばにいます。
    この苦しみに理由も答えもありません。
    ただ、折り合いを自分がつけるだけです。
    怒ってもいい、嘆いてもいい、悲しんでもいい。
    自分の苦難は相手の苦難でもあることを理解し認め
    誰かと自分が結び合い、繋がり、支え合うことで
    「苦しみ」を越えて次に進むことができるのです。

    …なんて書くと宗教チックですが
    端的に言えば、自分の苦しみは相手の苦しみなのだから
    隣人を慈しみ愛し繋がりなさい、ということでしょうか。

    何かに悩み躓いている人にとって
    役に立つ本でありますように。

  • とにかく読んで置いて良かった。

  • p63 (ヨブ記の)作者は、神が善であることを信じ、ヨブが善であることも〜。〜神は全能であるという信念を放棄しようとしている〜。
    p79 神が第一に重きをおいて考えていたのは、混沌とした宇宙に秩序と規則をつくり出すことでした
    p81 行き当たりばったりとは混沌の別名〜神の創造の光が届いていない〜混沌は悪〜
    p126 神にできることは〜人間のことを、憐れみと同情の念で見つめることだけ〜
    p175 古い中国の物語に〜「悲しみをまったく味わったことのない家庭へ行って、からし種を一つもらってきなさい。→ブッダのキサーゴータミーのエピソードか。
    p187 ジャックリーマーの詩→神はすでにすべてを与えてくれている。我々の使い方が悪いのだといった意味か。神の信じ方として無理が少ない。p189 祈りが私たちにしてくれる第一のことは〜祈りによって繋がることができる〜
    p204 苦しみを乗り越えるための力と勇気を与えてくれるのが神なのです。
    p205 神は実在しており、〜絶えず私に確信させてくれる事実は、祈る前にはもちあわせていなかったそれらのもの(力や希望や勇気)を、ほとんど例外なく得ている〜→祈り=言語化による作用を発生させるシステム?
    p215 私は神の限界を認識しています。
    p218 〜出来事は、その発生時においてなんの意味も持っていないのだと考えたら〜。〜私たちのほうで意味を与えることはできます。私たちのほうで、それら無意味な悲劇に意味を持たせれば良いのです。
    p219 自分の悲しみの責任者を告発することは、孤独な人間をより孤独にすることでしかない

  • 神の存在を抜きにして考えてもいいのでないと思う箇所が節々にある。

  • 神はなにもしない。
    なにかしては神ではない。

  • 神は美と秩序を創り、希望と勇気の源であるが、苦悩や悲痛を取り除くことはできなかった。苦悩や悲痛は広範囲に、平等でない形で分配される。

    一方、人々は神を全能だと考え、それを肯定し、そのために自分の不幸すら肯定してしまう。この食い違いが表題のような疑問を生む。

    このことは、神が全能であると信じ、信仰している人たちにとっては大きな苦痛なのかもしれない。実際、ヨブ記にはその様子が記されているように思える。

  • この本はユダヤ教のラビ(ユダヤ教の教師)が書いた本です。彼は過去に幼い子どもを病気で亡くしています。つまり彼も「なぜ私だけが苦しむのか」と絶望した人でもあります。ですからお仕着せの説教ではなく、「こんなふうに考えましょう」と苦しむ人たちに語りかけてきます。この語りかけを聴いていると「神様」が温かい、血の通ったひとのように思われてきます。
    私の夫の病気を「神様」は治すことなどできません。しかし「神様」は私を愛してくれる人のように、私が悲しむときそばにいて私の嘆きを黙って聞いてくれ、片時も私のそばを離れることなく寄り添っていてくれる。「祈る」ということは「神様」に「なんとかしてほしい」と「お願い」することでなく、神様の隣に「いる」ということ。だから孤独ではないということ。そう、この本は語っているように思います。

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