チェルノブイリの祈り――未来の物語 (岩波現代文庫)

  • 岩波書店
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感想 : 103
  • Amazon.co.jp ・本 (318ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784006032258

作品紹介・あらすじ

1986年の巨大原発事故に遭遇した人々の悲しみと衝撃とは何か。本書は普通の人々が黙してきたことを、被災地での丹念な取材で聞き取る珠玉のドキュメント。汚染地に留まり続ける老婆。酒の力を借りて事故処理作業に従事する男。戦火の故郷を離れて汚染地で暮らす若者。四半世紀後の福島原発事故の渦中に、チェルノブイリの真実が蘇る。

感想・レビュー・書評

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  • このドキャメンタリー文学を読み終わった後、何も感じるものがなかったという人はいないと思います。いえ、正しくはそんな人が1人でもいてはいけないと思うのです。
    時々、何も知らない方が幸せなのかもしれないと思ってしまいます。知るということは、ともに何かを背負うことになるんじゃないだろうかと。それは国によれば今まで信じてきた大義が覆ることかもしれないし、個人に降りかかる恐ろしい事実に絶望するしかないかもしれない。それでも、人として生きている以上は、知ることに躊躇してはいけないんだと、この本を読んで思い直したのです。
    この本には巨大原発事故に遭遇した人々の悲しみや衝撃の声が詰まっています。事故後チェルノブイリ人とよばれることになってしまった人々。防護服もなにもないまま命令に従い事故処理作業に従事した男たち。汚染地に留まり続ける老婆たち。戦火の故郷を離れて汚染地で暮らす若者たち。子どもを産むことが罪と言われる女たち。笑顔を忘れた病弱な子どもたち……事故が起こるまで幸せに暮らしてきた普通の人々が語る言葉にまさる真実はないと心が震えました。国家が国という面目を守るために、そこに住む人々にどれだけ酷いことをしてしまったのか。それを信じることが当たり前の世の中で生きてきた人々はどれだけ重い十字架を背負うことになったのか。彼らのほとんどが、話すことに躊躇します。それでも、語りはじめる真実に目を背けちゃいけないと思いました。
    25年後に起きてしまった未来の物語「フクシマ」原発事故から、わたしたちは未来のために何を学ぼうとしているのだろう。わたしはちゃんと理解しようとしているのだろうか。

  • 「チェルノブイリは、第三次世界大戦なのです」
    1986年4月に起こった未曽有の大惨事、チェルノブイリ原子力発電所の事故とは一体何だったのか? それによって(当時は旧ソ連だった)ベラルーシやウクライナ、東欧の人々がどうなったのか? 本作は事故処理に挑んだ人たちとその家族を中心にさまざまな声をひろい、丁寧に伝えたドキュメントです。

    ベラルーシ共和国は1991年に旧ソ連から独立した人口約1000万の小さな東欧の国。東にロシア、南にウクライナ、西にポーランドが位置している森の豊かな国です。チェルノブイリ原発はウクライナにあって、ベラルーシには一基もありません。しかし国境近くにそれが存在していたことや、あたりの地形や気象、大きな河川の存在や人口分布などもあったのでしょう、その被害をほぼ一手に担ってしまったなんとも過酷で不条理な事態に胸がつまります。

    チェルノブイリ原発事故によって、485の町と村が喪失。5人に一人が汚染された地域に住むことを余儀なくされ(210万人、そのうち70万人が子ども)、被害がもっとも甚大だったゴメリとモギリョフ州では死亡率が出生率を20%も上回っている状況。大気中に5000万キュリー(1キュリーは370億ベクレル)の放射性核種が放出し、そのうち70%がベラルーシに降り注ぎ、国土の23%はセシウム137で汚染されました(ちなみにウクライナは4.8%、ロシアは0.5%)。大気中に放出された物質は、わずか1週間で北半球のみならず、全地球に広がる大惨事となりました。

    「わたしはチェルノブイリの本を書かずにはいられませんでした。ベラルーシはほかの世界の中に浮かぶチェルノブイリの孤島です。チェルノブイリは第三次世界大戦なのです。……国家というものは自分の問題や政府を守ることだけに専念し、人間は歴史のなかに消えていくのです。革命や第二次世界大戦の中に一人ひとりの人間が消えてしまったように。だからこそ、個々の人間の記憶を残すことが大切なのです」

    当初、ソ連政府はパニックや機密の漏洩を恐れて事故を公表していません。施設周辺住民の避難措置も取らなかったため、住民らはその事実をまったく知らないままごく普通の日常生活を送っていたよう。それによって高線量の放射性物質を浴びて多くの人々が被曝していることに驚愕してしまいます。

    戦争にしても国家的プロジェクトにしても、そこに共通するのは、国家や政府にとって不都合な情報は、国民を無視してひた隠しにされ、あるいはたやすくねつ造されたりコントロールされてしまう、ということなのでしょう。もちろん外国に限ったことではありません。

    チェルノブイリ事故から25年後の2011年、福島第一原子力発電所の事故が起こり、その周辺の人々の生活に多大な影響を及ぼしています。それからわずか7年。いまだ原子炉建屋に近づくことさえできず、事故処理も難航して泥沼化しているというのに、九州をはじめとして原発が稼働しつづけていますし、ほかでもあらたに稼働させようとしています(しかも全国の核ゴミ処理さえできない始末)。
    ここにきて人類が共有するべき記憶は加速度的に薄れ、まるでドミノ倒しのように広がりながら、しまいにはゼロになっていくようで、わたしはひどく薄ら寒い。

    「なにかを理解するためには、人は自分自身の枠から出なくてはなりません」

    本作には作者の抒情的な言葉はありません。それでもアレクシェービッチの放つ言葉の力に多くの人が圧倒されるのは、彼女が伝えようとしていることが人類の想像をはるかに超えたものだから、というだけではありません。その言葉の陰に秘められたアレクシェービッチの詩情に触れ、それが湧き出す魂の磁場に入って共鳴することができるからだと思います。作者のなかをくぐってきた言葉には、ある種の大きな真実があります。彼女の言葉はもはや祈りにも似た静寂な鎮魂歌のようで、ただただその言葉の前にひれ伏してしまいます。

    暑い8月が訪れると、日本には二つの原爆投下の記憶が巡ります。「チェルノブイリは、第三次世界大戦です」、未来の世界戦争と何らかわりのないことを作者に言わしめたベラルーシの人々のはかりしれない苦悩や東欧さらには世界の人々とともに、人類が共有する広島・長崎の記憶にも想いをはせたい。そんな敬虔な温もりを与えてくれる本に出合いました。

  • チェルノブイリの被害者やその家族の話を記録している。日常生活の中に音もなく静かに入ってきて、静かに人間を壊していく放射能。共産主義の同調圧力や、何も問題はないと言い続けた首脳部の罪もさることながら、それよりも普通の人々が普通に愛していた人々や日常を突然壊される身も世もない悲しみが心に残った。言葉にすると陳腐だが、ただその人への愛を語ることが、何より失ったものの大きさやこの事態の非日常さ、恐ろしさを雄弁に語っていると思う。最後の「孤独な人間の声」の、最愛の夫を失った女性の話が切ない。

  • ノンフィクションというと、作者が割と積極的に出てきたり、誰かを主人公にして小説仕立てにしたり、なんにせよ少なくとも作者の主張が入っていたりするものだろう。
    しかし、この作品の場合、異質なほどに作者の痕跡が少ない。
    たまにインタビューされる側から作者に対して話しかけているが、どういう回答をしたかの表記はなく、あくまで相手の発言に終始している。

  • チェルノブイリの原発事故の経緯は語らない。なにがまずかったのか、誰が悪いのかも語らない。語られるのは事故に巻き込まれたひとたち、遺族や、病気になった人や、故郷を失った人たちの、失われたものへ、胸をえぐられるような愛惜だ。告発でも、提言でもない本書は、だから「祈り」としか呼びようがない。

    それで正しいのだろうと思う。何かがまずかったのなら、それをなんとかすればまずくはなくなるだろう。誰かが悪かったのなら、そいつをなんとかすれば問題はなくなるだろう。
    そう思うのは無理はない。
    でも、スリーマイルで起き、チェルノブイリで起き、フクシマで起きた。いずれ4回目が起きるだろう。世界のどこかで。
    チェルノブイリの祈りは、どこに届くのだろう?

    8年前に読んでいたら「でもロシアだからなぁ」とどこかで言い訳めいたことを考えていたかもしれない。それももうできない。

    人々が戦争と比べるのにショックを受けた。危険地域に戻って住んでいる人の中には「戦争よりはまし」と考えているひともいる。どんだけ?

  • 2015年のノーベル文学賞を受賞したスベトラーナ・アレクシェービッチ。彼女の著作『チェルノブイリの祈り』を読んで衝撃を受けた。ノーベル文学賞が、受賞作に選んだ著作をある種の意図をもって世の中に広める役割を担うのであれば、彼女の受賞は正しい選択と言ってもよいものではないかと思う。

    この本は、著者がチェルノブイリに関わった人々、原発の従業員、科学者、党官僚、医学者、兵士、移住者、帰還者(サマショールと呼ばれている)、農民、インテリ、など様々な人の語りを記録したもので、1986年の事故から10年後の1996年に発刊された。そのフォーマットは、ドキュメンタリーという分野に属すると言っていいだろう。しかし、文学の役割が、言葉によって言葉によってでなければ伝えることができないことを伝えるというものだとすると、正にこれこそが文学だと言うべきだろう。映像でもなく、科学的調査報告書でもなく、文字芸術としてしか伝えることができないメッセージがそこにはあり、だからこそ本の形にまとめられて出版されることの意義がある。

    チェルノブイリの事故は、ソビエト連邦体制の中、その崩壊の時とともに起きたことで、おそらくはその悲劇性を増すこととなった。そのことに反対する人はおそらくはいないだろう。 著者は「二つの大惨事が同時に起きてしまった」と言い、社会主義の崩壊という社会的な大惨事とチェルノブイリという物理的な大惨事という「ふたつの爆発が起きた」と指摘する。政治システムの動作不能が相俟ってその悲劇は増幅されることとなった。住民のパニック抑止を優先し、知らしむべからずという方針を取ることとなった連邦政府。「知りながら害をなすな」という倫理に背き、住民を避難させず、配備されているヨウ素剤の配布を怠ったベラルーシ政府。国への忠誠と奉仕の精神を利用して、チェルノブイリに送り込まれた兵士たち。また様々な人の告白の言葉には、ウクライナ・ベラルーシの土地に刻まれたかつての戦争の傷跡を感じ取ることができる。彼の地は、独ソ戦での激戦地であり、その過去の悲劇は深い記憶として人々の中に刻まれている。また、事故対応のために招集された兵士たちの中にはアフガン戦争を経験したものも多数含まれていた。チェチェン紛争やタジキスタンの民族紛争を逃れて、この地にたどり着いたものもいる。そういった様々な人達の語りを綴っていく。そういった中で自ずと、ベラルーシという国の行く末、子供たちの健康への懸念が浮かび上がる。あの日からわれわれは「チェルノブイリ人」になったという人々。彼ら彼女らの眼前に「チェルノブイリ」はまったく新しい現実としてそこにあるのだ。

    本を読み終えて、福島の後でさえ自分はチェルノブイリについて何も情報を確認していなかったことに少なからずショックを受けた。 2011年3月11日の前、もしくはその後に、この本を読んでいたら、自分はあのとき同じような精神状態にあっただろうか。自分は、何かを知ることを心の底では避けていたのだろうか。

    「何度もこんな気がしました。私は未来のことを書き記している…。」と書いて、副題に「未来の物語」と付けたアレクシェービッチの想いは、福島の事故に対してどのように届いたのだろうか。もちろん福島で起きたことと、チェルノブイリで起きたことを短絡的に結び付けることには、少なくない抵抗感がある。広島・長崎とチェルノブイリとを短絡的に結び付けることもそうだ。それでも、放射能というものが与えてしまった影響に向き合うとき、それらを知ってしまった今となってはある種の覚悟を必要とするものになったと言わざるをえない。


    この本を読みながら、かつて見たホロコーストの記憶を膨大な長さのインタビューで綴ったドキュメンタリー映画『ショア』のことを思い出していた。この本を読みながら、かつて読んだ水俣病の患者やその家族の独特の語りを綴った『苦海浄土』のことを思い出していた。村上春樹が地下鉄サリン事件の被害者やその家族にインタビューをした『アンダーグラウンド』のことも思い出していた。多くの悲劇があり、そこに関わった人の語りを中心に据えたドキュメンタリー的手法は、それぞれの著者により採られたものだが、悲劇を表現するにあたり通底する必然性がそこにはあるようにも思う。


    まずは、最初に置かれた消防士の妻が語る物語を読んでほしい。そして、「見落とされた歴史について - 自分自身へのインタビュー」の内容を慎重に読み進めてほしい。そこからはもうどうしてもその先を読まなくてはならないという気持ちになるだろう。


    ---
    『苦海浄土』のレビュー
    http://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4062748150

  • 1986年4月チェルノブイリ原発第四号炉の原子炉と建屋が崩壊
    1996年「チェルノブイリの祈り」初出
    1998年初めて日本で出版
    本書は私にとって、大げさに聞こえるかもしれないが、人生の中で出会ったもっとも大切な書物のひとつである。(解説・広河隆一)
    自分たちが知らないもの、人類が知らないものから身を守ることはむずかしい。チェルノブイリは、私たちをひとつの時代から別の時代へと移してしまったのです。私たちの前にあるのはだれにとっても新しい現実です。(著者本人へのインタビュー)
    出版から15年後、いま新たな「未来の物語」が日本を舞台にして繰り広げられようとしている。(訳者あとがき)

    看護婦にいう。「夫が死にそうなの」彼女は答える。「じゃあ、あなたはどうなってほしいの?ご主人は1600レントゲンもあびているのよ。致死量が400レントゲンだっていうのに。あなたは原子炉のそばにすわっているのよ」ぜんぶ私のもの。私の大好きな人。(消防士の妻)
    最初の数日に感じたことは、ぼくらが失ったのは町じゃない。全人生なんだということ。(父親)
    ーチェルノブイリ、これは戦争にわをかけた戦争ですよ。(村人)
    四年後に初めて、娘の恐ろしい異常と低レベル放射線の関係を裏付ける診断書を発行してくれました。四年間拒否され、同じことをいわれてきました。「あなたのお子さんはふつうの障害児なんです」(略)私は気が狂ってるといわれ、古代ギリシャだってこんな子どもが生まれたんだといってばかにされた。「チェルノブイリの特典めあてだ!チェルノブイリの補償金めあてだ!」とどなったお役人もいます。私は彼の執務室でよくも気を失わなかったものです。(母親)
    お母さんが、私がチェルノブイリから移住してきた家庭の娘であることを知ると驚いたんです。「まああなた、赤ちゃんを生んでも大丈夫なの?」私たちは戸籍登録所に結婚願いを出したのに。彼は「ぼくは家を出る。アパートを借りることにしよう」と懇願します。でも、私の耳にはおかあさんの声。「ねえあなた、生むことが罪になるって人もいるのよ」(娘)
    最初の撮影は村の集会所でした。舞台にテレビが置かれ、住民が集められた。ゴルバチョフが演説するのを聞いていました。「すべて良好、すべて制御できている」(映画カメラマン)
    ぼくらは科学の研究材料なんですよ。国際的な実験室です。ぼくら1000万人のベルラーシ国民のうち、200万人以上が汚染された土地でくらしている。悪魔の巨大実験室です。データの記録も実験も思いのままですよ。各地から訪れては学位論文を書いている。モスクワやペテルブルク、日本、ドイツ、オーストリアから。彼らは将来に備えているんです。(教師)
    あなたの質問にお答えします。なぜ、私たちは知っていながら沈黙していたのか、なぜ広場にでてさけばなかったのか?私たちは報告し、説明書を作成しましたが、命令にはぜったい服従し、沈黙していました。なぜなら、党規があり、私は共産党員でしたから。(科学アカデミー核エネルギー研究所元主任)
    ユーリャ、カーチャ、ワヂム、オクサーナ、オレグ。こんどはアンドレイ。アンドレイはいった。「ぼくらは死んだら科学になるんだ」。カーチャは思った。「私たちは死んだら、忘れられちゃうのよ」。ユーリャは泣いた。「私たち、死ぬのね」。いまでは、空はぼくにとって生きたものです。空を見あげると、そこにみんながいるから。(子ども)

    何度もこんな気がしました。
    私は未来のことを書き記している‥‥。(スベトラーナ・アレクシエービッチ)

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      kuma0504さん
      人って判らないものだと、、、広河隆一。増補版が出て絶版にしたみたいね。
      kuma0504さん
      人って判らないものだと、、、広河隆一。増補版が出て絶版にしたみたいね。
      2021/04/19
  • 祈り、とは何だろうか。
    頭の中で考えに考え抜くことではなく、
    誰かの言葉に耳を傾けることかもしれない。
    その言葉を記していく行為自体かもしれない。


    2016.4.17
    に書いた読書メモ。

    とても哲学的な本。
    人類普遍の問いを投げかけているように思う。
    生きる、とは。
    科学、文明とは。

    1986年チェルノブイリ原発事故に遭遇し被災した人々への取材の記録。
    ドキュメンタリーに抱いていた、事実を羅列し、歴史を俯瞰、鳥瞰する、といった印象は裏切られた。衝撃的に。
    作者は傍観者ではなく、人々に寄り添い新たな世界を共に構築しているかのようで、歴史や世界の認識が一人一人の人間の中で形作られている。
    出てくるのはその後もそこで「生き続けて」いる人たち。
    時間、というものが紡ぐ思考の熟成、そういったものを、名もなき人々から作者が掬い上げ、世界へと投げかけた。

    生きている。生きる為に過去と向き合う。
    人々が語る話は遠い国の話でも、過去の話でも無い。現在だ。
    現に日本でも原発事故があり、被害は続いているのだから。
    内容は衝撃的で悲惨で抗えない恐怖に自分の無力さしか感じないし、時折目を背けたくなってしまうが、、世界中で読まれるべきだと思う。
    その地で生き続けている人がいて、我々が原子力に依存して生きている限り。
    ノーベル文学賞を受賞したのも頷ける。
    残念なのは発表されてから幾許か時が経っていること。しかし賞で話題に上がったから、この本に出会えたことに感謝。
    著者の他の作品も読みたくなった。

    自分の中で、阪神淡路大震災への考え方や向き合い方、興味、が時間と共に変わっていったり膨らんでいったりする事があり、ある種の共感を抱く。
    記憶は目の前の事実だけで成り立つのではなく、一人一人の意識の中で言語化され、編集され、形を与えられる(人に話したり、表現する)。
    変化を続けていくものなのだ。それは記憶の捏造では決してない。
    永遠に創造を繰り返す。
    そんなことをもやもや考え中。。

    川内原発が稼働している九州で地震が起こり、議論と決断は差し迫っている状況になってしまった。
    国民それぞれが考えるべき問題だと思うので、原発や核に関して関心を抱く一助になれば。
    もっと大枠の、現代社会や文明に対して考え直す、立ち止まる、振り返る、そんな事も必要ではないかと。
    逆行は出来ないだろうが、一旦止まってまたそこから進めばいいとも思う。


    「チェルノブイリの祈り 未来の物語」
    スベトラーナ・アレクシエービッチ著
    松本妙子訳
    岩波書店(1998年)刊行
    岩波現代文庫、2011年

  • 2015年ノーベル文学賞受賞作家。
    他人事ではなくなったチェルノブイリ原発事故についての、ドキュメンタリー作品。

    夫が「人」から「モノ」に変わってゆく痛々しさが、何とも言えない。
    ボロボロと崩れ欠けてゆく身体に、どうして触れることが出来るんだろう。
    人が人でなくなってゆく様は、何度読んでも拒否してしまう。

    残された人が一様に「話したくない」と揺れるのは、村上春樹『アンダーグラウンド』を彷彿とさせた。

    自分たちは情報でしかなく、生きてはいない。

    今、日本にいる私にとって、フクシマがなければきっとこの本を読むことはなかった。
    そう考えると、人間は虚しい生き物だと思う。
    犠牲は未来を作らなかったのだから。

  • 英語版からの感想。

    86年のチェルノブイリ原発から10年後に書かれた本である。作者はジャーナリスト。足掛け3年にわたって、ウクライナやベラルーシでチェルノブイリ事故に関する経験を語る人々(チェルノブイリ経験者、というような名前で呼ばれる人びとの声を集めた、オーラルヒストリー・・・口述記録っていうんだろうか。日本語で翻訳も出ているが、今こそ多くの人が読むべき本だと思う。
    86年のこの事故で、原子力発電は終わるべきだったんだろう。実際、そういう見方もあったんだろうけど(そういう口述もあった)、2011年には福島の事故。結局、何もかわらなかった。

    チェルノブイリは、もはや単なる事故ではない。この本で語る人のなかに、「チェルノブイリはドストエフスキーなみのテーマ」みたいな表現をしていた人が居て、まったくその通りと思った。つまり、人間の営みというか、人間性・社会そのものを根本的に見つめなおし、問い詰める問題提起そのものであるということだ。皮肉にも、チェルノブイリについてあまり多くのことが語られてこなかったのは、そういう理由からではないかと思う。あまりに問題が深く広範なのでなので、誰も総括して語ることが出来ない。もちろん文学のような象徴的なものとして表れることもない。現実が文学を凌駕するという表現がぴったりくる。誰しもがうまく語ることが出来ない歴史的事実。

    チェルノブイリもフクシマも、文化も政治体制も事故の様相も違いながら、類似点もなんと多いことか。ソ連政府の事態の隠蔽、沈静化への大量の兵士・ボランティアの投入、除染への取り組み・・・福島の事故で見てきたことと同じ。住民はなにもわからないから、ただただ上の指示に従うだけ。平静を装って不安を隠し、病に倒れたらそれを受け入れる。多くの人は、放射能と結びつけることもしないかもしれない。

    人間は、生物としても、社会的動物としても、自分たちが作り出した放射性物質の前には無力だ。物理の力には悪意もなく、私たちはただ無防備に遺伝子がそのエネルギーに影響されるだけである。
    しかし、人はそれでも生きていかないといけないので、それぞれのやり方でチェルノブイリと折り合いをつけていくのだ。もうどうしようもない。だから、諦めるか、意味を見出すか、ひたすら逃げるか・・・結局はまとまった見解などなくて、人それぞれ、個人個人で向き合っていくしかない。それはとてもとても孤独な戦いだ。チェルノブイリを体験した人たちは、みなそんな風に戦ってきたのだ。

    3.11以降、日本で「福島の事故はチェルノブイリとは違う(その理由は、爆発の様子が違うとか、規模が違うとか、主に「科学的な」知見からのそれらしいコメント)と、どれほど言われたことか。それは、ただ単に、私たちはチェルノブイリを経験することはないだろうという根拠のない楽観的な見方にすぎなかったんだろう。経験したことのないことには、どう対応していいのかわからない。政府や企業も含めて日本中、3.11以降はそういう感じで8ヶ月が過ぎたように思う。そして、多くの人々はいまだ、何も起こらなかったかのように、または福島の影響を過小評価したり、単に諦めたりしている。何らかの危機感を持ちながらも、どうしていいかわからないというのが普通なのかもしれない。

    私たちはどうしたらいいのか?
    著者は最後に、この本で語られることは(過去のことであるにもかかわらず)それは未来のことである、というようなことを書いている。
    私たちはチェルノブイリを経験した、経験している人々の声から何を思うか、何を学ぶのか?チェルノブイリはつまり、フクシマである。私たちはどう生きるのか?そういう根本的な問いを持たずにはいられない。

    この本は、最初と最後の話者の独白は、チェルノブイリ現場に入って消火・除染作業に当たった作業員(英語ではLiquidaterと呼ばれる)の妻たちによるものである。
    愛する夫が作業にあたったあとに死ぬという苦しみ。消防員の妻は面会謝絶になった夫のそばに規則を破ってでも死ぬまでの16日間、通い続ける。除染作業に参加して数年後に亡くなった夫の妻は、一年かけてゆっくり死に向かう夫の看病を続けた。どちらも死の物語でありながら、愛の物語であり、こういう例がそれこそ無数にあったのかと思うととても泣かずには居られない。原発事故は、科学の話だけではない。普通の人々にとっては、チェルノブイリは愛の喪失(故郷の土地に対する愛、大切な人に対する愛、などなど・・・)の物語である。失ったものはもう二度と戻ってこない。それが原発事故による放射能の一番の恐ろしさであると思う。

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