ボタン穴から見た戦争――白ロシアの子供たちの証言 (岩波現代文庫)
- 岩波書店 (2016年2月17日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (359ページ)
- / ISBN・EAN: 9784006032968
作品紹介・あらすじ
一九四一年にナチス・ドイツの侵攻を受けたソ連白ロシア(ベラルーシ)では数百の村々で村人が納屋に閉じ込められ焼き殺された。約四十年後、当時十五歳以下の子供だった一〇一人に、戦争の記憶がどう刻まれているかをインタビューした戦争証言集。従軍女性の声を集めた『戦争は女の顔をしていない』に続く、ノーベル文学賞作家の代表作。
感想・レビュー・書評
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子どもの視点からの戦争。絶対戦争を許してはいけない
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第二次世界大戦時に子どもだったベラルーシの人々の記録。あの戦争でベラルーシは全人口の四分の一を失った。
ドイツ軍が金髪碧眼の子どもを誘拐して、血液を採取する話がたくさん出てくる。
子どもを何かの実験に利用したのかと最初は思ったけど、もしかしたら軍人たちのための献血を強制的にさせていたのかもしれない。その血液採取のために、大勢の子どもたちが亡くなったようだ。 -
ソ連で第二次世界大戦を生きた子供達をインタビューした本。
戦争は誰が起こしたのか、と一言で言えるものではないが、少なくとも子供達は完全に巻き込まれた被害者であることは間違いない。
そんな子供達の視点だからこそ、戦争の悲惨さがわかる。
自分は良い大人だが、勇ましくもなんともないので、祖国のために戦った女達より、ただひたすら運命に流された子供達の方が共感し、戦争の恐怖を感じた。
ソ連で第二次世界大戦を生きた女達を書いた「戦争は女の顔をしていない」は、戦後の「戦争に参加した女性に対する社会の扱い」「大祖国戦争という祖国を守った誇らしい戦争であり悲惨さより栄光を伝える社会」など問題点にも焦点があたっていたが、こちらは戦争の悲劇が主な焦点だと思える。 -
ナチス・ドイツの侵攻を受けたソ連白ロシア(ベラルーシ)当時15歳以下の子供だった101人の戦争証言集。
あまりにもつらい。自分の一部分を麻痺させるような感覚。ちゃんと読めていないと思うが、そうしなければ読めないものだった。
訳者あとがきにあった、“具体的な個人個人を知ること、ひとまとめに括られることを拒んで、具体的な個人個人であり続けること”という言葉をずっと忘れずにいたい。
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どの人の言葉も表現も、零してはならないと思いながら読みました。
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「戦争は女の顔をしていない」を読んだ時のショックが大きくて、何冊か全く関係のない本を読んでから大学の図書館でこの本を借りた。
感想を書きたくても、この感情をどう言葉にすればいいのか分からない。ただこの本の子どもたちと同じ経験を今やこれからの子どもたちにさせない義務が私たちにはあると思う。 -
文句なし名作
こういう本好き
『悪童日記』思い出した -
戦争は女の顔していない」に続くスヴェトラーナ・アレクシェーヴィチの2作目。
独ソ戦で大きな被害を受けた白ロシアの子供たちの証言集。
そのまま読んでも相当なものだが、大木毅「独ソ戦」などで背景を知っておくと、彼らが置かれた状況がいかに過酷だったかがよくわかる。 -
『戦争は女の顔をしていない』では、苛烈を極めた独ソ戦に従軍した女性の声を集めたスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ。ソヴィエト社会の中で、勇ましい戦勝の物語の光の傍らで、視線を外させられていた知られるべきひとつひとつの物語をその影から掘り起こした。その彼女が、独ソ開戦当時に子供であった人びとにフォーカスし、彼ら彼女らの戦争の記憶を聞き取り、同じ手法でまとめたのが本書『ボタン穴から見た戦争』である。
独ソ戦において、著者の住むベラルーシはポーランドからモスクワに向かう進路に位置し、多くの村々がドイツ軍に占領され、家を焼かれ、無残に殺され、抵抗するパルチザンは強烈に弾圧された。一説では、全人口の1/4を失ったとも言われる。インタビューを受けた人たちは、独ソ開戦時に子供としてそのベラルーシで戦争を体験した。目の前で多くの人が殺されたのを見たし、それ以上多くの死体をその目で見た。その中には知っている人たちも多く交じっていた、そして父も母も。親が殺されるか、連行されたまま戻ってこずに、孤児院や知人や親戚に預けられて育てられた子供も多かった。それが普通だった。
子供たちの目から見た戦争の記憶は、歴史のコンテキストを持たず、ときにそうであるがゆえに強烈な印象を残す。
著者は次のように語る。
「子供時代の記憶はもっとも強烈で悲劇的な瞬間をつかみ出して、大人が描いた模様に割り込んできます」
母親を目の前で銃殺された記憶を語るのを読み、単に可哀そうだと思われることを拒む冷厳さがそこにはある。語る人たちの言葉から、悲しみではないもっと切実な別の感情を抱いたことが感じ取れる。
「初めて爆弾が落ちるのを見たとき僕はもう僕ではなくて、別の人になってしまった。少なくとも、僕の中で『子供』は消えてしまった。まだ生きていたとしても、誰か違う人が脇から見ていた」
こういった証言を受けて、アレクシエーヴィチは次のようにこの本の主旨を説明する。
「誰がこの本の主人公なのか、という質問にはこう答えましょう。「焼き尽くされ、一斉射撃をあびた子供時代、爆弾や弾丸、飢餓や恐怖、父親を失うことによっても、死に追いやられたあの子供時代です」と。
この本の原題は、『最後の生き証人』である。自分がたまたまこの本を読み終えたのは2020年5月9日。1945年の対独戦勝記念日から数えてちょうど75年のその日である。つまり、ここに出てきた当時幼かった人たちでさえ、少なくとももう75歳以上になっているのである。
本書は次の証言で締められる。
「私たちはあの時期の、あの地方の生き残りの最後だって自覚したんです。今、私たちは語らなければなりません。
最後の生き証人です・・・・」
「最後の生き証人」という言葉をどう受け止めるべきなのだろう。彼らにとっての「死」は、今われわれの中にある「死」とは別のものであったのではないのだろうか。現代に生きるのわれわれの多くにとって、その人生のほとんどの時間において「死」は概念だった。当時子供であった彼らにとって、戦争は概念だったが、「死」はまさにそこにあるもので、いつ自らの上に降りかかっても不思議ではなかった具体的な何かだった。おそらく、だからこそ残されたこの命を大事にしましょう、などということは誰も言わない。少なくとも多くの人の話を聞いたアレクシエーヴィチはそういった言葉を選びはしなかった。命は大事なものだとも言わない。少なくとも命が大事ではなかったことがあったのを知っているからだ。そのようにして子供時代を失った人が、どのように世の中を見ているのか、それが今最後の生き証人たちの口を通して語られているのだ。
私たちは、また彼らが何を語ったのかよりも、何を語らなかったのかを、どのように語ったのかよりも、どのように語らなかったのかを見つめるべきなのかもしれない。
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『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4006032951