ボタン穴から見た戦争――白ロシアの子供たちの証言 (岩波現代文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (359ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784006032968

作品紹介・あらすじ

一九四一年にナチス・ドイツの侵攻を受けたソ連白ロシア(ベラルーシ)では数百の村々で村人が納屋に閉じ込められ焼き殺された。約四十年後、当時十五歳以下の子供だった一〇一人に、戦争の記憶がどう刻まれているかをインタビューした戦争証言集。従軍女性の声を集めた『戦争は女の顔をしていない』に続く、ノーベル文学賞作家の代表作。

感想・レビュー・書評

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  • 先日レビューした『チェルノブイリの祈り』を読んで感激したあと、『戦争は女の顔をしていない』をながめて呻きをあげ、とうとう本作を読むにあたってにわか体力をつけることに。秋の熊のようにもりもり食べ、睡眠をとって万全のコンディションで臨んだのですが……やはり打ちのめされました、ノックダウンです。

    白ロシアと呼ばれたベラルーシ共和国は、1991年に旧ソ連から独立した人口約1000万の東欧の国。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの侵攻をうけ、村民もろとも焼き払われて628の村が消失し、人口の4分の1を失ったそうです。戦争の、とりわけ東欧の歴史はかくも悲惨なものだと終始吐息がもれます。

    作者アレクシェーヴッチ(1948年~ベラルーシ)は、戦争当時0歳~14歳だった200人以上の人々から声を集め続け、101人の証言をまとめたのが本作(原題は『最後の生き証人』)。しかし発禁処分にあい、1985年にやっと刊行にこぎつけたようです。解説の彼女の言葉は心底恐ろしいもので、さながら2+2=5の世界、ジョージ・オーウェル『1984年』のようです。

    「記録といっても写真でも修整可能だし(スターリン時代の記録写真でも不要な人物の像を消すなど)、その時代時代の解釈にあわせて歴史記述が書き換えられる以上、<事実>の盲信は危険だ」

    だからこそアレクシェービッチは、多声を、ポリフォニーの手法で、なるべく多様な声を忍耐強く集め続け、戦争というものの姿を鮮明に顕現させたのでしょうね。

    『「パルチザンはどこにいるのか? 誰のところにきていたのか言え」と命じられました。みなだまっていました。すると奴らは3人に一人ずつ連れ出しては銃殺したんです。そうして6人が殺されました。男が2人、女が2人、十代の子どもが2人。そして行ってしまいました』(当時11歳)

    「妹は朝連れていかれて、夕方帰ってくるのですが、日に日にやつれていくんです……妹はなにも覚えていませんでした。あとになって、子どもたちは血をとられていたのだと分かりました。きっとたくさんとられたのでしょう。数カ月たって妹は死にました」(当時7歳)

    子どもたちを集めて隊列の前を歩かせ、その後ろを車に乗ったドイツ兵が行くのは、子どもの盾で地雷から身を守るため。人々を切り刻み、かぼちゃのように頭をたたき割り、軍用犬にズタズタにさせ、とりわけナチス・ドイツ軍と激しく戦っていた非正規軍パルチザンやその家族、あるいはそれを密かに手助けしたり、かくまう民衆への見せしめは残虐極まりない。

    思えばアレクシェービッチの本はどれも読了するのに時間がかかっていたのですが、とりわけ本作は壮絶でした。文庫本でわずか300頁ほど、難解な言葉はただのひとつもありません。でも読み終えるのに1月以上もかかってしまいました。胸がつまってしまい、30分以上は連続して読めません。一人ひとりの子どもが体験したその衝撃は相乗的な戦慄となって広がり、心が張り裂けんばかりです。それでもふと見せる子どものあどけなさ、けなげさがその言葉や行間からあふれてきて、どうしても目が離せなくなりました。

    幼いころの体験は深いトラウマとなり、とても思い出したくない、話したくもなかったでしょう。アレクシェービッチはきっと時間をかけて彼や彼女たちの声を聴き、よい質問をし、当時の子どもたちに共鳴し、その言葉を一つ一つ体験しながら、一体どれだけの涙をともに流してきたのだろうと想像してしまいます。

    この本は、たんなる証言の羅列や録音反訳的なものではありません。
    屠殺場のような世界を生きぬいてきた子どもたちや、そこに呑み込まれてしまった一人ひとりを、アレクシェービッチがぎゅっと抱きしめたような温もりといとおしさが、そしてなによりも彼女の中をくぐってきた詩情と言葉があふれています。まさに言葉とは、こういうものを存在あらしめるためにあるのではないだろうか……もはや言葉にならないそれら言葉の前に、静かにひれ伏してしまうような、そんな心持ちでした。とても素晴らしい作品です♪

  • ナチス・ドイツの侵攻を受けたソ連白ロシア(ベラルーシ)当時15歳以下の子供だった101人の戦争証言集。

    あまりにもつらい。自分の一部分を麻痺させるような感覚。ちゃんと読めていないと思うが、そうしなければ読めないものだった。

    訳者あとがきにあった、“具体的な個人個人を知ること、ひとまとめに括られることを拒んで、具体的な個人個人であり続けること”という言葉をずっと忘れずにいたい。

  • 『戦争は女の顔をしていない』では、苛烈を極めた独ソ戦に従軍した女性の声を集めたスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ。ソヴィエト社会の中で、勇ましい戦勝の物語の光の傍らで、視線を外させられていた知られるべきひとつひとつの物語をその影から掘り起こした。その彼女が、独ソ開戦当時に子供であった人びとにフォーカスし、彼ら彼女らの戦争の記憶を聞き取り、同じ手法でまとめたのが本書『ボタン穴から見た戦争』である。

    独ソ戦において、著者の住むベラルーシはポーランドからモスクワに向かう進路に位置し、多くの村々がドイツ軍に占領され、家を焼かれ、無残に殺され、抵抗するパルチザンは強烈に弾圧された。一説では、全人口の1/4を失ったとも言われる。インタビューを受けた人たちは、独ソ開戦時に子供としてそのベラルーシで戦争を体験した。目の前で多くの人が殺されたのを見たし、それ以上多くの死体をその目で見た。その中には知っている人たちも多く交じっていた、そして父も母も。親が殺されるか、連行されたまま戻ってこずに、孤児院や知人や親戚に預けられて育てられた子供も多かった。それが普通だった。

    子供たちの目から見た戦争の記憶は、歴史のコンテキストを持たず、ときにそうであるがゆえに強烈な印象を残す。

    著者は次のように語る。
    「子供時代の記憶はもっとも強烈で悲劇的な瞬間をつかみ出して、大人が描いた模様に割り込んできます」

    母親を目の前で銃殺された記憶を語るのを読み、単に可哀そうだと思われることを拒む冷厳さがそこにはある。語る人たちの言葉から、悲しみではないもっと切実な別の感情を抱いたことが感じ取れる。

    「初めて爆弾が落ちるのを見たとき僕はもう僕ではなくて、別の人になってしまった。少なくとも、僕の中で『子供』は消えてしまった。まだ生きていたとしても、誰か違う人が脇から見ていた」

    こういった証言を受けて、アレクシエーヴィチは次のようにこの本の主旨を説明する。
    「誰がこの本の主人公なのか、という質問にはこう答えましょう。「焼き尽くされ、一斉射撃をあびた子供時代、爆弾や弾丸、飢餓や恐怖、父親を失うことによっても、死に追いやられたあの子供時代です」と。

    この本の原題は、『最後の生き証人』である。自分がたまたまこの本を読み終えたのは2020年5月9日。1945年の対独戦勝記念日から数えてちょうど75年のその日である。つまり、ここに出てきた当時幼かった人たちでさえ、少なくとももう75歳以上になっているのである。

    本書は次の証言で締められる。
    「私たちはあの時期の、あの地方の生き残りの最後だって自覚したんです。今、私たちは語らなければなりません。
    最後の生き証人です・・・・」

    「最後の生き証人」という言葉をどう受け止めるべきなのだろう。彼らにとっての「死」は、今われわれの中にある「死」とは別のものであったのではないのだろうか。現代に生きるのわれわれの多くにとって、その人生のほとんどの時間において「死」は概念だった。当時子供であった彼らにとって、戦争は概念だったが、「死」はまさにそこにあるもので、いつ自らの上に降りかかっても不思議ではなかった具体的な何かだった。おそらく、だからこそ残されたこの命を大事にしましょう、などということは誰も言わない。少なくとも多くの人の話を聞いたアレクシエーヴィチはそういった言葉を選びはしなかった。命は大事なものだとも言わない。少なくとも命が大事ではなかったことがあったのを知っているからだ。そのようにして子供時代を失った人が、どのように世の中を見ているのか、それが今最後の生き証人たちの口を通して語られているのだ。

    私たちは、また彼らが何を語ったのかよりも、何を語らなかったのかを、どのように語ったのかよりも、どのように語らなかったのかを見つめるべきなのかもしれない。


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    『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4006032951

  • アレクシェーヴィチの姿勢は一貫している。「小さな声」を丹念に拾い、彼女のフィルターを通すことで純化する。
    本書では、戦争の時は子供だった人たちに、孫がいる年齢になって思い出を語ってもらっている。この作業は大変だっただろうが、その結果、当時3歳など記憶がおぼつかないのではという年齢だからこそ年月を経ても消えない鮮烈なイメージが蘇ることもある。
    戦争や原発事故の当事者であった人々が、残酷な体験を語ることがいかに大変か、何年経とうとも口を開くのがどれほど勇気がいることか…彼らの痛みに胸をえぐられる。

  • 「戦争は女の顔をしていない」を読んだ時のショックが大きくて、何冊か全く関係のない本を読んでから大学の図書館でこの本を借りた。
    感想を書きたくても、この感情をどう言葉にすればいいのか分からない。ただこの本の子どもたちと同じ経験を今やこれからの子どもたちにさせない義務が私たちにはあると思う。

  • 読みながら気がついたら涙が出ているというのが10ページごと、という読むのもつらい本である。戦争がどういうものか、証言を集めた本はたくさんあるのだろうが、子供の声、それも、大人になった人々のたくさんの記憶をまとめて一つの作品に完成させた本はあまり多くないと思う。記憶の物語であるが、時にそれは現在形で語られる痛みや悲しみ、または喜びであり、まるで過去のこととは思えない鮮やかな描写になって胸に迫ってくる。お母さん、お母さん、という叫び声が何回も聞こえてきて、私も「お母さん」なのでとても辛くなる。同時に、小さな子供が一生懸命大人のように、いやそれ以上に頑張る姿が、ある意味子供のひたむきさなのだなと、自分の子供のころと重なって親近感を覚える。
    バラバラの声を集めて一つにしたときに現れるのは、戦争の真の残酷さと、家族や生活を失ってもまた立ち上がって歩き始める子供の生命力の尊さ、その対比である。破壊と命。子供と、彼らが生きる世界を大事にしたい。大人はそのために生きてるのではないかと思う。

  • これが戦争か、とひしひし感じる
    平和に暮らしていたある日開戦し、わけもわからぬまま
    逃げ出し、場合によっては捕まり、銃殺され
    理不尽な非日常が日常になっていく

    子供の目線でのことなので
    誇張もなにもなく、あったことをそのまま
    ありのままに淡々と書かれているので
    本当にこれが戦争なのだ、と思える一冊
    語り継ぐべき記憶が埋もれず本になってくれたことに感謝

    この作者さんの他の作品も読んでみたいと思いました

  • どの人の言葉も表現も、零してはならないと思いながら読みました。

  • 独ソ戦争について全く知らなかった自分を恥じた。戦争の犠牲になるのはいつだって子供である、と心のどこかで主張してきたが、何も理解できていなかった、読み終わった今でも理解できていないと思う。
    ユダヤ人の少年と行動を共にしていた子の話が印象に残っている。

  • 2016.03.23
    ノーベル賞作家アレクシェーヴィチ『ボタン穴から見た戦争』読了。ナチスに侵攻された白ロシア(ベラルーシ)の当時の子供達101人の証言。あまりの残酷さに何度も中断した。そんな状況下での人間の優しさに何度も涙。読書中の電車でも涙。前も言ったが彼女がノーベル賞で選ばれた意義は大きいと思う

  • 今もシリアの難民たち、そのなかでやはり多くの子供たちが死んでいる状況が続いている。地球から戦火が消えない日は来ないのであろうか。なんの罪もない子供や老人が安心して暮らしていける世の中はおとずれないのであろうか。生き残った子供たちは凄まじいPTSDに苦しめられたに違いない。それを想うと暗澹たる気持ちに陥る。

  • たかがインタビューとは思えない。
    聴くこと、聞き出すことの難しさ。
    語られることだけで大きな感動があります。

  • 子どもの視点からの戦争。絶対戦争を許してはいけない

  • 第二次世界大戦時に子どもだったベラルーシの人々の記録。あの戦争でベラルーシは全人口の四分の一を失った。

    ドイツ軍が金髪碧眼の子どもを誘拐して、血液を採取する話がたくさん出てくる。
    子どもを何かの実験に利用したのかと最初は思ったけど、もしかしたら軍人たちのための献血を強制的にさせていたのかもしれない。その血液採取のために、大勢の子どもたちが亡くなったようだ。

  • ソ連で第二次世界大戦を生きた子供達をインタビューした本。
    戦争は誰が起こしたのか、と一言で言えるものではないが、少なくとも子供達は完全に巻き込まれた被害者であることは間違いない。
    そんな子供達の視点だからこそ、戦争の悲惨さがわかる。
    自分は良い大人だが、勇ましくもなんともないので、祖国のために戦った女達より、ただひたすら運命に流された子供達の方が共感し、戦争の恐怖を感じた。
    ソ連で第二次世界大戦を生きた女達を書いた「戦争は女の顔をしていない」は、戦後の「戦争に参加した女性に対する社会の扱い」「大祖国戦争という祖国を守った誇らしい戦争であり悲惨さより栄光を伝える社会」など問題点にも焦点があたっていたが、こちらは戦争の悲劇が主な焦点だと思える。

  • 文句なし名作
    こういう本好き
    『悪童日記』思い出した

  • 戦争は女の顔していない」に続くスヴェトラーナ・アレクシェーヴィチの2作目。
    独ソ戦で大きな被害を受けた白ロシアの子供たちの証言集。
    そのまま読んでも相当なものだが、大木毅「独ソ戦」などで背景を知っておくと、彼らが置かれた状況がいかに過酷だったかがよくわかる。

  • 誰もが読みなきゃいない本。

  • ★4.0
    ナチス・ドイツの侵攻を受けた当時に少年少女だった、ソ連白ロシア(ベラルーシ)の子どもたちの証言集。個々が覚えていることは断片的で、当然ながら個人的なものばかり。それでも、全ての証言から切実さと深い悲哀、大きな痛みが感じられる。記憶は改竄されるものなので、子どもたちの語りの一部は補正されたものもあるかもしれない。が、例え補正があったとしても、子どもたちに強い衝撃を与えたのは紛れもない事実。そして、本書で語ることが出来た子どもたちだけでなく、命を落とした多くの子どもたちが居たことも忘れてはならない。

  • 2015年ノーベル文学賞受賞 ウクライナ生まれのスヴェトラーナ・アレクサエーヴィチの1941年にナチスドイツの侵攻を受けたソ連白ロシア(ベラルーシ)の当時15歳以下の子どもだった101人の証言集

    子どもの記憶と侮ることなかれ

    お母さんの喉から出る声を両手できいていた

    子どもだったから、覚えてる。子どもの時に戦争に遭ってパルチザンに入って精神的なショックを体験したから

    子ども時代も青春時代もありませんでした。私は、初めから大人だったような気がします。いつも大人の仕事ばかりでした

    子どもは何かを感じ、じっと見ていた
    普通の子どもの普通がこんなことであった時代
    タイトルが秀逸

  • ノンフィクション

  • 「戦争は女の顔をしていない」をとても興味深く読んだので、同じ著者の本が読みたい…と読んだもの。子供の頃にこんなに耐え難く悲惨で怖い時間を過ごし、それでも生き抜いて証言してくれた101人の人達に、話をしてくれてありがとう。
    言葉の意味やニュアンスがわからないまま読み進めているところが多々あるので、そういうものもちゃんと理解しとかないとほんとはイカンのだろうなぁ…
    この著者の本、出てるものは全部読んでみたい

  •  はじめに、の次2行文でやられました。これは刺激的な内容の様です。
     世界は今も戦争している。戦争は歴史上途切れることなく続いている。
     1941年ナチスドイツの侵略をうけたソ連白ロシア(ベラルーシ)で子供たちの証言を一つ一つ拾い上げたこの本。
     何とも言えない。歴史の教科書をもっているがこの事実は一行も書かれていない。それはなぜか。戦争は日常であり、歴史の転換点でしか取り上げられないからだ。日常の中にどれだけの犠牲があるかを考えさせられた一冊。

  • この著者の著作からいつも受け取るのは、とてもパーソナルなメッセージ。「弱者」や「子ども」ってヒトはいない。サーシャの、ミハイルの、ユーリの声に耳を傾けよ。

  • 「ПОСЛЕДНИЕ СВИДЕТЕЛИ」の翻訳(2016/02/16発行、1253E)。

    第2次大戦中の独ソ戦でドイツ軍の侵攻を受けた、当時3歳から15歳の子供だった白ロシア(ベラルーシ)の人たちをインタビューした証言集。

    本書で出てくるドイツ軍、部隊名は明記されていませんが恐らくSSの大量虐殺部隊アインザッツグルッペンと思われ、陰惨な出来事が生々しく書かれています。知りたくない人は読まない方がいいと思いますが、出来れば辛くても読んでおいた方が良いではないかと矛盾も感じる凄まじい内容の書籍でした。

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