苦しいけれど、離れられない 共依存・からめとる愛

著者 :
  • 朝日新聞出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (187ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784022505859

作品紹介・あらすじ

依存は悪ではない。鍵を握るのは依存させる人なのだ。「愛だったはずなのに、なぜ苦しいのか」への明快な答えがここにある。長年、家族援助をしてきたベテランカウンセラーである著者が、愛という名のもとに隠れた支配・共依存を解明する。

感想・レビュー・書評

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  •  ベテラン臨床心理士の著者が、カウンセリングの現場で出合った実例をふまえ、夫婦や親子の「共依存」関係を読み解いた一冊である。 

     この著者の本を読むのは、『依存症』『アダルト・チルドレンという物語』『母が重くてたまらない』に次いでこれで4冊目。前3冊同様、すこぶる示唆に富む内容であった。誤解を恐れず言えば、彼女の本はヘタな小説よりも面白く、文学的感動に満ちているのだ。

     本書もしかり。共依存の事例を通して、著者は夫婦愛や親子愛の裏側にある支配・被支配関係を容赦なくえぐり出していく。そのさまが、一級の文学者が「人間を描く」手際の鮮やかさを思わせる。

     たとえば著者は、アルコール依存症の夫をもつ妻が、夫をケア(さまざまな形で面倒をみること)する過程で、じつは深い満足感とある種の快楽を得ていると指摘する。

    《ケアすることでもたらされる満足は、彼女たちにとって希少な容認された満足である。何しろケアは、すればするほど評価が高まり、誰もが批判できない行為なのだ。(中略)女性というジェンダーゆえに強制された行為を逆手にとって、男性を巧妙に支配し、満足感を得るのである。
    (中略)
     忍耐と苦労ばかりの生活にあって、これらの満足感だけが砂漠のオアシスのように感じられるとしたらどうだろう。結果としてもたらされた感覚を享受するだけでなく、能動的にケアの快感を獲得するようになるかもしれない。彼女たちは夫からふりまわされる存在から反転し、むしろケアを求めるように夫を操作するようになるだろう。絶えずアルコール依存症の夫が自分のケアを求めていなければ、ケアの与え手としての快楽を味わうことはできないのだから。夫が酒をやめようとすれば、それはケアの与え手としての自分が必要なくなることを意味するので、それとなく挑発して夫を再飲酒に追い込むこともあるだろう。私は何例かこのような妻の態度を目の当たりにした経験がある。》 

     まさに「共依存」。弱者と弱者が依存し合い、がんじがらめになった無惨な愛情関係。
     だが著者は、共依存をただ否定的にとらえるのみではない。もう一重立ち入って、弱者が「生き延びていくための有効なスキルの集積でもある」ととらえるのだ。「生き残っていくためには、時としてそんなスキルを用いるしかないときもあるだろう」と……。

     文芸誌『小説トリッパー』に連載されたものであるため、本書は信田氏のほかの著作よりもいっそう文学的香気が強い。
     また、映画や小説、テレビドラマを例に共依存関係を読み解いた章もある。そのうち、『冬のソナタ』に描かれた恋愛を共依存関係として解釈した回はこじつけ臭かったが、映画『ジョゼと虎と魚たち』や山田詠美の小説「間食」(『風味絶佳』の一編)を例にした回はたいへん面白かった。
     私は山田あかねの『まじめなわたしの不まじめな愛情』こそ共依存を描いた最高の小説だと思っているが、信田氏はあの小説を読んだだろうか? ぜひ感想を聞いてみたい。

     そのほか、印象に残った一節をメモ。

    《アルコール依存症はアルコールへの依存なのではないか、と思われるかもしれない。確かに彼らは「酒さえあれば妻なんかいらない」と日常的に放言している。しかし大草原のパオの中でひとりで酒を飲めれば天国かといえばそうでもないのだ。自分の飲酒によって影響を受けてくれる人がいること、自己破壊の淵まで追い詰められそうになったときそこから引き戻してくれる人がいることで、彼らは「安心」してアルコールに依存するのだ。》

    《息子のために尽くす母親は社会から立派な母としての称号を与えられている。それは彼女にとって、誰からも責められることのない防御壁として機能する。ましてその息子が引きこもりであれば、Bさんは誰よりも不幸な母として同情されこそすれ、ねたんだり批判されたりすることはない。こうして不幸な母という符丁と引き換えにBさんは世間を味方につけたのである。》

    《共依存の特徴は、このよりかかる他者が必ず自分より弱者であることだ。強者であれば単なる依存に過ぎない。(中略)
     共依存は、弱者を救う、弱者を助けるという人間としての正しさを隠れ蓑にした支配である。多くは愛情と混同され(支配される弱者も愛情と思わされ)、だからこそ共依存の対象はその関係から逃れられなくなる。》

    《かわいそうな他者をわざわざ選ぶ人、なんらかの障害をもった他者に近づく人は珍しくない。これらは、ヒューマニズムあふれる自己犠牲的選択に見えるが、「かけがえのなさ」が非対称的であれば、そこから容易に共依存という対象支配が生まれる。ところが相手に尽くしているとしか考えないひとたちは、支配していることに無自覚である。》

    《不幸な事態はひとを意気消沈させるだけではない。いっぽうで何かを発散させるのではないかと思う。それがしばしば興奮した語りとなり、Cさんのような満面の笑みだったりするのだろう。私にはその笑みの意味がよくわかる気がする。あきれるほど悲惨な現実に直面しているひとほど(特に子どものことで)、奇妙な笑顔とともにそれを語るのだ。
    (中略)
     極度の飢餓状態に陥ると、時には異様な多幸感に襲われることもあるという。摂食障害の自助グループでは「やせぼけ」という隠語が用いられるほど、やせが進行すると精神状態が変容するのだ。このように過酷な状況を生きるために、さまざまな生体維持の反応が生み出されている。とすれば、夫婦の愛、夫への信頼という結婚生活の柱がぽっきり折れてしまった女性が、それでも結婚生活を維持していくためにどのような反応が生み出されるのだろうか。
     Cさんの異様なパワーは、なんの望みもない現実に対する生体維持の反応なのかもしれない。》

  • 知人から借りて。
    共依存とは、2人の人間が相互に縋っている(水平な関係)状態ではなく、立場を利用した支配・被支配(垂直な関係)であることを明確にしている。

    「共依存」という、アメリカから輸入されたこの言葉の歴史――例えば「アルコール依存症の夫」の妻が、暴力などに悩まされても「夫は私無しでは生きていけない」と言って離れない傾向を指した事が始まりとされる。

    しかしその傾向――共依存が性別を問わず起こる。
    そこに手段の男女差はあれど、共通する意識がある(アルコール依存症の夫は妻への暴力・DV、アルコール依存症の妻は無力化し夫に世話をしてもらう)。
    それは社会的に『献身的な愛』とみなされるが、一方が力で支配したり、無力化することで支配されたりしている力関係があることを指摘。
    それを2000年代(ゼロ年代)のドラマや映画における人間関係を例に挙げて解説。『嫌われ松子の一生』『冬のソナタ』『男はつらいよ』など。

    そして場合によっては、親子、母子間に負の連鎖として受け継がれてしまうことも取り上げる。
    それがAC(アダルトチルドレン)であり、ひいてはヤンキーやキレる子供たちなどのルーツではなかろうか……

    この本には、この支配からの具体的な脱出方法については記されていない。
    その足掛りになりそうなものは、キャリル・マクブライド『毒になる母親』(http://booklog.jp/item/1/4864101191)を参照。
    『毒になる母親』には、後半にあったアダルトチルドレンのかなりタチの悪いケース…母親が親の任を放棄し、子供にそれをリアルに押し付けたものに似た事例をも垣間見る。

    アルコールや諸々の依存症に関してはデイミアン・トンプソン『依存症ビジネス――「廃人」製造社会の真実』(http://booklog.jp/item/1/4478022925)を参照。
    依存症は病気ではなく習慣であり、依存症が生まれる要因として、入手しやすさ(手っ取り早く多幸感が得られる、身近にある、安価である)があることと共依存はどうしても関連がある。
    そのロジックから考えると、「共依存」の発生原因――家族という身近さ、親近感=入手しやすさ故という事か?
    ギー・コルノー『愛することに「臆病な人」の教科書』(http://booklog.jp/item/1/4062641038)では、性的な児童虐待が起こりうる原因に、力関係だけでなく遺伝的な親近性が高いゆえに「理解してもらえる」という勝手な解釈から起こりうるとも指摘していた。

    「依存症」も「共依存」医学的な用語ではない。
    だが、個人に留まらず社会的な負の連鎖を垣間見る言葉として、興味深いとも思う。

  • 両親の関係、親子の関係。
    どちらも共依存だと、はっきりよくわかりました。
    最後に「偽装された関係」・・・母と娘の関係の逆転。という部分、まったくその通りです。

  •  この本の内容は、いろいろ書いてあるが、つまり「共依存は非対称な権力関係から生まれる支配である」ということについて書かれている。時にそれは身の毛もよだつ、恐ろしく、狡猾で、なおかつ無意識である支配であり、また時にそれは、涙が出そうになるくらいささやかな、唯一の復讐であったりする。
     共依存になるには2つの方法があるという。片方が強くなるか、片方が弱くなるか、である。これは別に、強いほうが弱いほうを支配する、という意味ではない。例えばある母親は、娘のことを「ママ」と呼ぶ。「ママがいないと、何もできない」と。母親と父親の間に愛はなく、娘は弱っている母親の愚痴を聞いたり、母親の身辺整理を行う。そうやって母親にとって娘は「代替不可能な存在」として仕立て上げられていく。娘は当時(2009年)50歳を過ぎ、結婚もしているが、今でも母親の身辺整理をする生活を送っているという。結婚相手は母親が決め、彼女の子供3人は彼女のことを「ママ」とは呼ばないという。その呼称はおばあちゃんがお母さんのことを呼ぶときの特権だということを、理解しているという。
     また逆に片方が強くなっていくことによって、弱い相手を支配するパターンも、もちろん存在する。ある男性と女性が結婚した。最初は仲良く暮らしていたが、だんだんと男性が女性の意思決定を全て行うようになっていく。宮台真司的に言うパターナリズムである。「お前は俺がいなきゃダメなんだから」、「大丈夫大丈夫、俺がやるから」と。そういう中で彼女はだんだんと自分に対する尊厳が無くなっていき、相手に依存していくようになる。本文の中の女性は、それによってアルコール依存症になる。アルコール依存症になっている間は、夫の支配から逃れられるからだという。しかし夫は妻を見捨てず、気をかけ続ける。そしてその様子を周りの人や、アルコール依存症の夫で困っている奥様方の集まりで話す。それによって周りから賞賛を得る。"いい旦那さんだ"と。"自分は弱い相手を支える存在"として偉くなったような気分になる。
     ただ一番強く描かれていたと感じたのは、経済的な基盤が無い女性と、アルコール依存症の旦那の共依存関係である。旦那さんはアルコール依存症で、奥さんにDVを加える。女性はそれに耐える。時に子供のため、時に旦那さんのために。"私がいなきゃあの人は死んでしまう"という意思の元、奥さんは耐え続ける。旦那さんは、自分がアルコール依存症になっていることを奥さんのせいにする。旦那は"もう自分なんか死んだほうがいい"と言ったり、家具を壊したりする中で、奥さんから「やめて!」、「死なないで!」という言葉(ケア)を引き出そうとする。奥さんがこのケアを旦那さんに与え続ける限り、旦那さんはアルコール依存症をやめない。最後の一線に奥さんからの救いの言葉があるというセーフティーネットがあることを知っているからだ。つまりこれは、一見旦那さんが奥さんを支配しているように見えて、実は奥さんが旦那さんを支配している共依存になるという。しかし、この状態は奥さんが悪いわけではなく、悪いのは夫であり、奥さんはそういう方法しか、道がなかったのだ。こういう状態であるとき、誰も奥さんを責めることはできない、と著者は言う。
     このような、非対象性な関係から権力関係が生まれ、それが支配関係に発展していく。この対処方について、著者はあまり言及していないように見えた。きっと、ケースごとにそれぞれ全く状況が違うからだと思う。このほかにも壮絶なケースが、実話、小説を通して多く紹介されていた。こういった状況な人が実際にいるということ、また、自分自身も自分と周りの人たちとの関係性に敏感になっていないと、簡単にこういう関係を作り出してしまうということを、過去にこういう関係作り出してしまったことを思い出しながら、再確認し、言語化した。また最後に著者はこう言っている。"依存は悪ではない。鍵を握るのは依存させる人だ"と。周りの人に依存できる部分は依存し、また同じく相手も自分に依存すること事態は悪くない。そうではなく、ダメなのは、自身が代替不可能なかけがえの無い存在となり、その権力を使って相手を支配することだ。
     こういった関係性が実際に存在することを認知し、こういう状態になったときに早めに気づくこと、もしくは周りに相談できる人がいることが大事だと感じた。

  • 現在の自分の生きづらさが親との関係に起因すると認めた人というのが私のアダルトチルドレンの定義である。この定義に従えば、1自己申告、2親の加害性の容認、3免責性の3点がACの概念の特徴である。
    アルコール依存症者の妻からいつも聞かされるもの。「あの人は私がいないと生きて行けないんです」「私と別れたらあのひとは生きていけません」

    彼女たちは夫からふりまわされる存在から反転し、むしろケアを求めるように夫を操作するようになるだろう。絶えずアルコール依存症の夫が自分のケアを求めていなければ、ケアの与え手としての自分が必要なくなることを意味するので、それとなく挑発hして夫を再飲酒に追い込むこともあるだろう。私は何例可このような妻の態度を目の当たりにした経験がある。彼女たちはおそらくそんなことには無自覚だったのだろう。しかし、悪意など微塵も感じさせない献身ぶりを見ながら、少しだけ怖くなったことを記憶している。

    「ケアと撤去する」「世話を焼かない」「夫の問題は夫に任せる」といったカウンセラーからのアドバイスは、彼女たちのこれまでの結婚生活に染み付いた習慣を大きく変えることを強いる。彼女たちはよくよくきいてみれば、なぜここまでケアしてきたのか、当然のようにケアの与え手を引き受けてきたかについての答えはない。「そういうものだと思っていました。」「世の中ってそういうもんでしょ」「みんみんながそういうもんだと思っていました。」という判で押した答えしかない。時には「それが愛情だとおもっていました」
     再度問いを繰り返す。あなたはそれほどまでに夫のケアをすることを望んでいたのでしょうかと。彼女たちの答えはこれまた明確である。「本心はそんなことやりたくありませんよ」「正直言うと、夫の多額の保険金がかかっていれが今すぐにでもしんでもらってもかまわないんですけど」などど、驚くほど率直な発言が帰ってくる。グループカウンセリングの場は一瞬の戸惑いの後、共感と同意の笑いの渦に包まれる。
     少し大げさかもしれないが、共依存という言葉は、日本の妻や母たちが当然のようにケアを与え手役割を強制されてきた忍耐の歴史に風穴を開けたのである。多くのアルコール依存症に関わってきた援助者たちが試行錯誤の末に獲得した「これ以上ケアをしてはいけません」というシンプルなメッセージは、共依存という言葉に結晶して、多くの強制されたケアの与え手たちを開放したのである
     その一方で、共依存という言葉はケアの与え手役割という規範的行為を遂行する裏側で獲得される満足感や万能感をあからさまにした。女性にとってそれくらいしか許されなかったジェンダー役割を逆手にとった巧妙な支配のからくりも、アルコール依存症者の妻を仔細に観察することで明瞭に見えてきたのである。

    パターナリズム 正しいと思うことを言って聞かせ、娘のためを思って説教することが毎日の習慣となっており、身動きできなくなっている。このどうしようもなく苦しい関係性に対して私は共依存という言葉を与えることにしている。何一つ間違ったことはしていないはずという親の信念にこうしてきれずを入れるのだ。

    児童虐待防止法の第2条4によれば、子供がDVを目撃することは、「自動に著しい心理的外傷を与える言動」であり、虐待だと定義される。これまでは父が母に暴力を行使しても、直接こどもに向けられなければ虐待ではないと考えられていた。
    共依存とは、弱者を救う、弱者を助けるという人間としての正しさを隠れ蓑にした支配である。多くは愛情と混同され(支配される弱者も愛情と思わされ)、だからこそ共依存の対象はその関係から逃れなくなる。
    「嫌われ松子の一生」「ジョゼと虎と魚たち」
    DV加害者のプログラムにおいて最も重要なポイントは彼らの暴力は彼ら自身に責任があることを学ぶことである。なぜなら、彼らは妻のせいで暴力を振るった、妻が冷たくなければ暴力なんかふるわない、妻の責任であると考えているからだ。いってみれば彼らは被害者意識に満ちているのであり、逆に妻は自分のせいで夫をなぐらせてしまったという罪悪感を根深く持っている
    ぱたーなりずむとは、「相手が喜んでいようがいまいが、それがあなたのためになると言って受け入れさせていくコミュニケーションだ」と宮台真司は述べている。これをコミュニケーションとみるか支配とみるか
    DVという言葉のない時代に、夫の暴力と浮気の日常に対処する一つの方法は、夫を大きな息子として子供あつかいすることだった。現在でもカウンセリングにやってくる女性たちの多くが、夫の行状を耐えてやりすごすために、「夫を3番目の息子と思うことにしました。」「男の人って、なんて幼稚なんでしょうね」と夫を子供の位置に、自分を母親の位置に立たせる
    共依存は依存でなく支配なのだ。なぜなら、依存することは負の関係ではないからだ。巧みに他者に依存し、他者からの依存を受け入れることで、私たちは家族関係や友人関係をより豊かに生きていくことができるだろう。

  • 共依存とは⇒アルコール依存症などの夫に対して「夫は私のケアがないと生きていけない」「夫を生かしているのはこの私」とケアする相手を支配する行為。そのケアが却って相手の依存度を悪化させる。

    映画「ジョゼと虎と魚たち」の解釈が非常に面白い。切ないはずの結末がなぜか独特の爽快感を感じさせるのは、主人公の二人が依存しあって息苦しくなる未来よりも、別れることによって自立した生き方を選んだからだろう。

  • 共依存とは、弱さを隠れ蓑にした支配だったのだと知って納得。

  • 共依存の視点から見る映画やDVは非常に興味深い

  • dispower=パワーの収奪
    enabler=酒を飲むことを助長する人
    という概念を初めて知った。
    共依存がアルコール依存症男性を支える妻という文脈から発生し現在の共依存という概念に落ち着いた流れがよく分かった。従来女性に唯一許された支配の方法がケアだったという出発点は悲しい。
    何より具体例が凄まじい

  •  著者が読んだ様々なフィクションの作品と、今までカウンセリングを介して出会った人たちとの記憶が混ざり合い、ずーっともの語りを聞いているような不思議な読書体験だった。
     かなり陰鬱な話もあるのだが、それでもあたたかな暖炉のある部屋で聞いているような感じ。
     あと、やはり物語には力がある。フィクションであれ当事者の言葉であれ。

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著者プロフィール

公認心理師・臨床心理士、原宿カウンセリングセンター顧問、公益社団法人日本公認心理師協会会長。1946年生まれ。お茶の水女子大学大学院修士課程修了。駒木野病院勤務、嗜癖問題臨床研究所付属原宿相談室室長を経て、1995年原宿カウンセリングセンターを設立。アルコール依存症、摂食障害、ひきこもりに悩む人やその家族、ドメスティック・バイオレンス、児童虐待、性暴力、各種ハラスメントの加害者・被害者へのカウンセリングを行ってきた。著書に、『母が重くてたまらない』『さよなら、お母さん』『家族のゆくえは金しだい』(いずれも春秋社)、『カウンセラーは何を見ているか』(医学書院)、『アダルト・チルドレン』(学芸みらい社)、『家族と国家は共謀する』(角川新書)、『タフラブ 絆を手放す生き方』(dZERO)、『共依存』(朝日文庫)などがある。

「2023年 『家族と厄災』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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