大津波と原発

  • 朝日新聞出版 (2011年5月30日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (96ページ) / ISBN・EAN: 9784022508744

AIがまとめたこの本の要点

プレミアム

みんなの感想まとめ

複数の視点から東日本大震災と原発に関する深い考察が展開されており、内容は刺激的でありながらもコンパクトにまとまっています。著者たちは、壊れるものの本質や文明の在り方、放射性物質の影響について掘り下げ、...

感想・レビュー・書評

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  • 今更読みました。

    震災の直後、原発はまあ廃止とはいかないとしても縮小、少なくとも推進の声は小さくなるのが理屈ってものだろうと思った。けれども一方で、理屈の通らないことをするのがこの国なのだろうとも思った。2025年の今、原発は縮小どころか増設が既定路線であるかのように進んでいる。THE BLUE HERB "NUCLEAR, DAMN"、BOSSの「これで変わらなかったら、馬鹿だぜ」という叫びもむなしく響く。

    さて、本の話だ。震災の後、わずか3週間後にラジオ収録し、それを文字に起こして緊急出版されたこの本は、装丁もタイトルも最高である。

    かつて社会の教科書には「日本の電力は、水力発電が主力です」と書いてあったそうだ。「急峻な山岳があって雨も多く、それが世界に類を見ない水力資源を作っています」と。しかし、いつのまにか火力発電の時代になり、「水力発電?君は物を知らんね。あれはダムに砂がたまったら使えんよ」と言われて愕然としたと。砂がたまるの、知らなかったの?
    そして今、火力はダメだ、原子力だと。理由は、火力発電はCO2が出るから。え、石油を燃やしたらCO2が出るの知らなかったの?
    この分だと、え、原子力制御できないの、知らなかったの?とか、設備が壊れたり故障したりするって知らなかったの?と、次の世代に驚かれる日はそう遠くないのではないかと思ってしまう。

    中沢先生らしい一節を。
    「薪、石炭、石油とエネルギー源を変えてきましたが、原子力以外はすべて、生態圏の中からエネルギーを得ている。石油も石炭も、もとはと言えば植物だったり動物だったりします。ところが原子力エネルギーというのは、そういうものとはぜんぜんちがうところからつくられてきている。なにしろ原子核に手をつけるわけですから。(略)原子核から放出されるエネルギーは今まで一度たりとも、生態圏を通過することによって媒介されていないのです。核力からエネルギーを取りだす核融合反応というものは、もともと太陽でおこなわれているものです。」

    内田節もひとつ。
    中沢先生の「原子力は一神教的技術だ」という発言を受けて。
    「それでわかったよ。あのさ、日本人というのはさ、一神教的な神のようなものについては、これをどう扱うかについてのノウハウをぜんぜん持ってないんだよ。(略)日本における神様というのは、さっき中沢さんは「習合」とおっしゃったけれどもさ、ステークホルダー(利害関係者)をやたら多くすることによってがんじがらめにするというシステムなんだよね。」

  • 東日本大震災以降、いろいろな文筆家、思想家がいろいろな本をだしているどれ一つとして読むに価しない本はない。
    これも宗教学者の中沢新一とフランス思想研究科の内田樹ともうひとりはよくしらない平川さんの鼎談である。平川さんは聞き役なので中沢新一と内田樹の考え方がよくでていると思った。
    原子力発電は一神教という考え方は面白いが、そこに本質があるというのはちょっと無理があると思った。でもそれはもの毎のとらえ方としては十分ありうるし、参考になる。一神教とだとん喝破しても現実社会の動きに反映されないのだ。政治家が、東電がそれで立居振舞を変えるとは思えない。
     思想家という人たちは それで世の中を変えようとしているのだろうか。中沢新一が緑の党を立ち上げるといっていたが、本当に立ち上げるものは政治活動をしないとなっている。
    そうなのだ。大江健三郎も立候補しないし、中沢新一も立候補しないみな泥沼に足をつっこまないのだ。あくまで高踏派ということなんだろうか。

    理想論を振りかざし財政赤字を招いた美濃部知事もいらないが、産業界からの声に屈する政治家もいらない。やはりビジョンを示しつつ一歩を踏み出すことのなんてむずかしいことか。

    ちょっと脱線したが、まぁ 面白い本です。鼎談をテープおこしにしようという気持ちは大いにわかる。

  • スゴイ本です、このコンパクトなサイズにこれだけ有用なことが詰め込まれているとは・・・内田樹のブログが好きで、手に取ったのですが、中沢新一も平川克美もスゴイです。
    造られたものは壊れる・・・道理です、ナゼそれを忘れてしまっていたのか・・・。いいとか悪いでなく、壊れるんです。そしてそれを修復・改善していく・・・当たり前のことだったはずなのに。
    現状をすばらしく明快に認識できました。

  • 突貫工事で作った本らしく、小振りで「荒さ」が見られるけれども内容は実に納得の本だった。

    今回の事故のゴタゴタは、何が何でも原発はクリーンで安全であるというファンダメンタルな推進派と、何がなんでも原発は危険だというパラノイックな反対派と、そして僕の様な無関心派の三者による共犯であると僕は思っている。東京電力の魔窟とか利権と政治のゴタゴタという彼岸のせいにしてはいけないと思う。「俺は関係ないけど、あいつらが悪いんだ」という口調を用いるのは躊躇される。

    原発のリスクはリアルなものである。ただし、どの位のリスクなのかはイマイチ判然としない。ものがものだけに充分な臨床データが存在しないからだ。それは(たいていのリスクがそうであるように)「程度」の問題となる。

    日本の「大人たち」は程度の問題を議論するのが非常に苦手である。

    泣いている赤ん坊がいるとき、ずっとほったらかしておくと人間不信やトラウマの原因になるかもしれない。かといって3秒以内に必ず応答という極端なことをやっていると、ついにはわがままな了見を生んでしまう可能性がある。故河合隼雄は生後間もなくは泣けばすぐ対応してあげ、信頼感をつかんでから教育をと語っているが、その境界線ははっきりしない(個人差もあろう)。この「塩梅」を探るのが大人の営為である。なのに、多くの人は「すぐだっこvsほおっておく」みたいな対立構造を作りたがる。

    「ゆとり」と「つめこみ」の教育論でも、多くは「ゆとりか、つめこみか」という二元論で語ってしまったために、ついに「どのくらいの塩梅でゆとりを、そしてつめこむのが妥当か」という妥当な境界線探し、大人の議論は胡散霧散してしまった。

    原発も放射能も、善か悪かという二元論ではなく、どの程度まで許容可能かという塩梅探しになる。手持ちのデータでは、その境界線は非常にマーキーだ。

    その不確定性の瑕疵を素直に認めることから始めるべきなのに、ここでも同じ様に放射線大丈夫派とパラノイックな放射線危険派の不毛なケンカが続いている。これじゃ、さっきの原発議論と同じじゃないか。どうしてなんどやっても同じ構造で議論を繰り返すのだろう。

    データが不確定なのだから、「自分の哲学」を強要せず、ステークホルダーである福島の現地の人たちに決めてもらえば良いではないか。みんなでその意思を尊重し、どちらの判断をとった場合も経緯を持って、お手伝いをすれば良い。残るも選択、去るも選択である。女川にも石巻にも、ふるさとを離れる決断をした人も入れば、リスクを承知で自宅にとどまる人もいた。どちらも「間違ってはいない」。なぜ全員一律に留まれとか逃げろという話になるのだろう。

    福島の状態が危険だという人は、その信念に基づいて福島の人たちに向かって、「ミンナニゲロ」と主張すれば良い。なぜそう言わずに現政権の悪口をメールやネットでつぶやくことにエネルギーを費やすのだろう。本気で原発周囲が危ないと考えているのなら、言葉を発する対象は異なっているのではないだろうか。本当に福島の人たちのことを考えているのだろうか。話は東京も同じである。疎開したければすればよいし、したくなければしなくてもよい。選択肢がないのは、今家が燃えているから逃げろ、、みたいなエクストリームなケースだけである。

    これは個人レベルの話である。東京の経済活動がうんぬん言う人もいるが、東京全体の経済のために個人の自由意志が損なわれるのであれば、東京という街の価値そのものがそれがゆえに減じてしまう。

    文科省や政治家や御用学者は信用できないといっておきながら、その20mSvの妥当性を云々かんぬん議論し続けるのは、奇妙な依存精神である。どうせ20mSvも「言い値」なのだが、「文科省の出す数字はおかしい、あいつらは信用できない」というのなら、彼らに毒づかずに自らの判断でもって行動を示せばよいのである。文科省は無能だと言っておきながら、文科省どうしてよいか教えてくれ、というのは矛盾である。インフルエンザのときに起きた全く同じ現象(あんときは厚労省が対象だったが)と同じである。

    本書で天皇陛下の話が出てきたのは興味深かった。僕も同じことを考えていたのだが、(お恥ずかしいことに)その話をするとまたヒステリックなファンダメンタリストたちが騒ぐのが面倒なので黙っていた。

    天皇皇后両陛下は本当に素晴らしいと思う。もちろんいつも公務でお忙しいのだろうが、普段はあまり表に出ず、こういうときこそ走り回るというのが理想的なロイヤルファミリーのあり方だと思う。昔、故ダイアナ妃がエイズの子を抱きしめただけでその差別が大きく減じた事がある。どんな言葉よりも強いメッセージがそこから伝わる。ロイヤルファミリーとはこうあるべきだとその時思ったのだった。

  • 自分は生態学のトレーニングを受けているので、
    放射性物質が、自然界の物質循環系や代謝系になりのをよく知っている。

    だから、その文明史的な意義も。
    他方、必ずしもそうでない方もおられるのだね。
    (だから、「こういうことを誰も言わない」というフレーズになる)

    確かに、世の中問題だなぁ。

  • 本質をついてる。でも学者の限界も感じる。

  •  東日本大震災から3週間後の4月5日に、ユーストリーム配信の番組「ラジオデイズ」のために行われた鼎談をまとめたもの。
     120ページ足らずの薄い本で、小冊子に近い。ボリューム面での物足りなさはあるのだが、内容は刺激的である。

     顔ぶれを見ればわかるとおり、本書の眼目は大震災をめぐる時事的解説にはない。むしろ、その深層にある思想的意味について考えてみよう、という試みなのだ。

     3人のうち、最も示唆に富む発言をくり返しているのが中沢氏で、本書の主役という感じ。
     言いかえれば、東日本大震災の思想的意味とは、人類史的スケールで、しかも宗教的側面からも測られるべきものだということだろう。ゆえに、宗教学者・人類学者・思想家である中沢氏の言葉が、いまこそ生彩を放つのだ。

     本書の圧巻は、「原子力と『神』」というチャプター。
     そこで中沢氏は、原子力という人類にとっての「第七次エネルギー革命」が、「生態圏の完全に外にあるエネルギー源を取りだそうとした」ものであり、「地球生態圏の中に生きていた生き物の体の変成したもの」である石油・石炭などとは次元の異なる意味をもっていたと指摘する。
     「原子力は一神教的技術」であり、日本の多神教文化にはもともとそぐわないものだったのだ、と……(そんなふうに断片的に紹介しても、未読の人には意味不明だろうが)。

     この鼎談をベースに、中沢氏に東日本大震災の思想的意味を深く掘り下げた大著をものしてもらいたい。

  • 70年しか経っていない。
    私達が最初に手に入れたテクノロジーである「火」でさえ未だに完璧にはコントロール出来ずにいる。
    にもかかわらず、70年の歴史しかないテクノロジーを完全にコントロール出来る筈など決してない。

  • 花泉図書館。

    科学の進歩を否定しているわけではない。ただ、人間がコントロールできる限界を知れ、と。人知の及ばないものをしっかりと恐れる気持ちを忘れるな、「驕るな、日本人」ってこと。

    生態圏エネルギー
    生態圏以外からのエネルギー⇒原子核


    「原子力」=「神」説。
    誰一人責任を取れない技術。ずっともやもやしていたものが、ハッキリとしてきた感じ。

    一神教的思考と神仏習合。
    聖域を崇める、畏れる。

    「原発を止めると経済が滞る、それでもいいのか?」というフォーマット的原発推進者の意見。
    【人の命の話をしているのに、そこに金を持ち出すな】
    まさにコレ。イデオロギーの硬直化は教育(というかある意味での洗脳)の果たしてきた役割も大きいよね。

    結局4年前の反省も何もなく、原発再稼働しちゃいましたね。外交・経済・内政などなど様々なファクターが複雑に絡まった「原子力ムラ」はなかなか解すことはできないのかもしれないけれど「誰かがやらなきゃ」なんだよね。

  • 根本から、わからないと、難しい・・・

  • 原発問題を語る。

  • 二年経つて、この本の中身のように、首都機能を移しても良いのでは無いかと思うのです。

  • 原発を通して見えた国の問題を、思想論から捉えるというもの。
    思想を簡単に考えれば、日本人のモノの考え方、発想の仕方というところだろうか。
    具体的にどう展開するかの実践を、どの方向に持っていくか。

  • 東電の対応とか、マスコミの報道とか、私の中にもやもやとわだかまっていた疑問が氷解していく思いでした。原発の賛否を論ずる前に読むべし!
    「一刻も早く出版することを優先しました」的な祖父江慎さんの思い切った装丁がまたステキ。手を抜いているってことじゃあ、ありません。そこまで計算されているのかな?ってことです。

  • (以下引用)
    わかったのはさ、新しいテクノロジーを持ち込むとき、そのたんびに「これは完全無欠の素晴らしいエネルギー源だ」って話をするということ。そしてぼくらはそのつどころっと騙されてきたってこと。火力にシフトするときは水力はハイコストで、無駄の多い発電方法かということがうるさく言われた。原子力にシフトするときは火力発電はいかにハイコストであハイリスクな発電方法かということが言われた。だから次になにが来ても、太陽光でも地熱でもバイオマスでも、絶対それは「完全無欠なエネルギー源だ」って鳴り物入りで喧伝されるとぼくは思うよ。新しいテクノロジーを導入するときはさ、そのテクノロジーのマイナス面というか、それに随伴してくるさまざまなコストとかリスク・ファクターについては考えたくないんだよ。(中略)テクノロジーの未来予測については、人間は必ず安全性を過大評価し、コストを過小評価する。人間とは「そういうもの」なんだよ。いつも言ってるようにさ、それって属人的な資質の問題じゃないんだよ。構造的に必ずそうなるの。(P.27)

    電力会社が「『万が一』ということに備えまして」って言ったら、「あ、じゃあ、『万が一』が来ると思ってるんだな」って反対派は言うでしょう。そう言われちゃうと推進派としては「『万が一』もありません」というふうに言わざるを得ない。(中略)リスクに対して「備えをなにもしていない」ということによって、安全性を世界に向かってアナウンスしていくという、なんだかめちゃくちゃな構図になっている。(P.43)

    それで一方の原発反対派のほうにも心理的に危ない部分があって、「原発は危険だ!危険だ!」って言ってるわけだから、内心ではね、いつか重大な事故が起きてさ、「ホラ見たことか」っていう日が来るのを待っているわけだよね。これって「狼少年のパラドクス」なんだけど、「狼が来るぞ」って言う少年は最初は村の安全を願ってそう叫んでいるんだけど、誰も信じてくれないでいると、こうなったら村に狼が来てみんなを食い殺してくれれば自分が正しかったことをみんなもわかってくれるだろう…というふうに、無意識的に最悪な事態の到来を願いようになっちゃうんだよ。(中略)左翼的な危機論って、ぜんぶそういう構造じゃない。(P.44)

  • 暮れの図書館で、面陳されていたのを見かけて借りてきた。3月11日から3週間ほどだった4月5日に、Ustreamで配信される「ラジオデイズ」という番組で三人が大震災と原発事故について語り合う機会をもった。それを本にしたというもの。

    いくつか印象に残ったうちのひとつは、内田が子どもの頃の社会の教科書に「日本の電力は水力発電が主体です」って書いてあったでしょ、という話。

    ▼内田…「日本は急峻な山岳があって、雨量も多く、それが世界に類を見ない水力資源を作り出しています」って、ダムの絵が描いてあるの。それがいい絵でさ。山があって、そこに雨雲からじゃんじゃん雨が降っててさ。ダムでタービン回して発電して、そこから送電線がずーっと続いて、都会まで通じてるの。そこでみんなが電灯の下でにこにこ笑っている。ぼくはその説明を読んでさ、ああ日本に生まれて本当によかったと思ってたんだよ。だっていいじゃない。山から流れてくる水でクルクルと発電機を回すだけで電気ができて、もうまったく環境に対する負荷がないって。山が急で雨の多い国って、なんて素晴らしいんだろうと、幸せな気分だったのね。(p.25)

    1950年生まれの内田が子どもの頃のカリキュラムがどんなものかわからないが、それが小学校5~6年か中学生の頃だったとして、1960年代の前半になる。この内田の話は、それがあるとき「これからは火力だ」という話になり、次は「原子力だ」と変わっていったのだと続く。そのことを振り返って内田はこう言う。

    ▼…わかったのはさ、新しいテクノロジーを持ち込むとき、そのたんびに「これは完全無欠の素晴らしいエネルギー源だ」っていうこと。そして、ぼくらはそのつどそれにころりと騙されてきたってこと。火力にシフトするときは、水力発電がいかにハイコストで、無駄の多い発電方法かということがうるさく言われた。原子力にシフトするときは、火力発電がいかにハイコストで、入りすくな発電方法かということがうるさく言われた。
     だから、つぎに何が来ても、太陽光でも地熱でもバイオマスでも、ぜったいそれは「完全無欠のエネルギー源だ」っていう鳴り物入りで喧伝されるとぼくは思うよ。…(pp.26-27)

    そのことをふまえて内田は、テクノロジーの未来予測や新しいテクノロジーの導入に際しては「人間というのは、つねに安全性を過大評価し、コストを過小評価する生き物」であるという人間学的事実を勘定に入れて制度設計すべきだと言う。

    私は、中学1年のときの地理の教科書が「進出」「侵略」問題で騒がれたものだった、という体験のせいか、社会科の教科書や資料集、ノート、ファイルの一部はこれまでなんとなくとってある(妹の分もいくつか)。それ以外には、男女別修時代の家庭科の教科書とか。長いことしまい込んだままだが、自分はどんなことが書いてある教科書でベンキョウしたのか、というのは今更みてみたい。

    国のいうことは時に大きく変わるし、国そのものが滅ぶこともある、ということを主には社会科で習ってきたんよなあと思うが、目の前にみえるのは、なんだか違う光景に思える。

    巻末では「鼎談までの経緯とその後」として、平川がこう書いている。
    ▼…今回の問題で、原発を損得の問題、つまりは経済効率という観点からのみ見ることの背後にどれほど重大な見落としがあったのかが露わになりました。この問題を考えるということは、私たちの世界には、私たちが想像もできないような出来事があり得るという科学技術の限界の問題について考えることであり、同時に人間はよかれと思ってしていても、必ず過ちを犯すものだという人間の行動の限界について理解を深めることだろうと思います。私たちは、なにが解っていて、なにができるのかということを考えると同時に、なにが解らなくて、なにができないのかということを考える謙虚さを欠いていたのです。…(p.114)

    「想像もできないような出来事」に思いを飛ばすことができるには、なにが要るんやろと思う。

    (12/30了)

  •  3月以降、原発震災のことが頭から離れない一年でした。

     原子力以前のエネルギーはすべて生態圏の中から得ていた。しかし、原子力エネルギー(核分裂)は生態圏の外にある。
     ところで、一神教の神は生態圏(人間世界)の外部にいる。だから原子力というのは一神教の神に類するものである。
     本性がアニミズムである日本人は、全く別種の一神教の荒ぶる神をどう扱うかについて、ノウハウを持っていないから、原子力エネルギーの扱いもうまくできない。

     と、中沢新一と内田樹の両氏。

  •  内田樹、中沢新一、平川克美による鼎談。例えば中沢新一は原発を「一神教」的だと語るなど、3人とも非常にユニークな視点をポンポンと提示してくる。
     その視点と語り口が面白いなぁ。それにつられてつい膝打って共感してしまうが、なんか騙されてる感がつきまとうのもまた面白い。そのあたりが内田樹と中沢新一の魅力ですね。
     最後に内田氏が「霊的な力に対する畏怖の念の欠如」と締めるのも、氏のファンにとっては御愛嬌であります。

  • 専門でない人にとって、原発をどうとらえたら良いのかよくわかった。一神教としての原発、それに対する日本人の取り組み。責任のない原発という生態圏外の技術は、やはり使うべきではないという思いが強くなった。

  • なんかどっか胡散臭く思えてしまう中沢新一だけど、緑の党の件もあって、この本できっとその感じはなくなるだろうという予感というか予断の中で読んだのに、やっぱ胡散臭い。でも、緑の党には期待。というか期待せざるを得ないわなあ。

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著者プロフィール

1950年東京都生まれ。神戸女学院大学名誉教授、神戸市で武道と哲学研究のための学塾凱風館を主催、合気道凱風館師範(合気道七段)。東京大学文学部仏文科卒、東京都立大学人文科学研究科博士課程中退。専門は20世紀フランス文学・哲学、武道論、教育論。 主著に『ためらいの倫理学』、『レヴィナスと愛の現象学』、『寝ながら学べる構造主義』、『先生はえらい』など。第六回小林秀雄賞(『私家版・ユダヤ文化論』)、2010年度新書大賞(『日本辺境論』)、第三回伊丹十三賞を受賞。近著に『日本型コミューン主義の擁護と顕彰──権藤成卿の人と思想』、『沈む祖国を救うには』、『知性について』など。

「2025年 『新版 映画の構造分析』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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